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心の哲学:心の哲学的説明と科学的説明の違い
心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。 それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。 哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。 そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。 これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。
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けっこう固まってきました。「内部観測」に関して、自分の理解にまだまだ修正の余地があることを自覚していますが、自分が知る領域に引き付けてある程度把握できた気がします。 ここでも回答されているmotsuanさんの質問「人間にとって物語とは何なのでしょう?」(下記URL参照)への私の回答No.8で書いたのですが、「ガダマーの解釈学」。これで途中までは行けそうです。それをここに再掲(コピペ)するのはいくら何でも暴虐ですので、そちらはそちらで軽く目を通していただくとして、ここでは簡単にかいつまんで書きます。 ガダマーは、ある文章(特に古典)が内包している「意味」を客観的に読み取ることは不可能だと断じています。というのは、文中のある単語の意味はそれが置かれた文脈に規定され、その文脈もまた文章全体の中で位置付けられて意味を持ち、さらにはその文章そのものが、それが書かれた社会や時代背景という大きな「文脈」の中で意味を持つものだからです。「客観的に」読み取ろうというのであれば、それらすべてが「客観的に」把握されていなければなりません。ところが、逆に見ると、文脈は単語から形成され、文章全体は文脈から形成され、社会や時代背景はその文章を含む雑多な文物から形成されています。つまりここには「どうどう巡り」が生じてしまう。単語と文脈、文脈と文章、文章と社会は、互いに他方に依拠して支えあっている。…どちらか一方が「客観的に」固定されていれば、他方も客観的に固定できる見込みも立つのですが、それは事実上不可能です。したがって、ガダマーは「文章の客観的読解は不可能だ」とするのです。 このあたりの問題の枠組みは、内部観測論の「内部観察者」と「観察対象」との関係にきわめて近いものがあると感じました。完結した系を外部から観察する「外部観察者」とちがって、内部観察者は完結していない(開放系の)系の中で、対象を同定する「文脈」、その文脈を規定する文脈、その文脈を…という無限遡行を強いられるのです。ここでも「客観性」というものは、素朴な自然科学が前提する「カルテジアン・カット」のように簡単には得られません。 さてしかし、ここでガダマー先生には「脱臼」していただかなくてはなりません。百歳を越える御高齢なのですが…。 というのは、やはり問題が「人の心」となりますと、ガダマーがテクストを相手に構想した解釈学とはまた別の問題が生じるからです。 ガダマーが相手にしたのは、あくまでも「古典」でした。現代のわれわれと、過去との間の「文脈」の差異、これがあるがゆえに「問いと答えの弁証法」が生じ、テクストと読者の双方を巻き込んだ運動となり、その中で「地平」が融合していきます。その運動全体こそが「真理」であると彼は述べています。そこでの「真理」は、それが掴まれてしまえば運動が終結するというような「客観的な」ゴールではありません。無限の、開放系の弁証法です。 前の書き込みでも述べましたように、人間および社会を相手とした知は「開放系の知」であらざるをえません。ガダマー解釈学も開放系の知にはちがいないのですが、それでも既に完結した「テクスト」、および既に完結した「過去」を相手にしています。これに対し、私たちが考えようとしている「心」は、現在のものを当然含みます。したがってなおのこと「完結していないもの」と言えましょう。テクスト以上に。 この点に注目しますと、例えば「人間とは何か」という設問は次のように分解できます。すなわち、 「人間は何であったか」(過去への視線) 「人間は何でありうるか」(未来への視線) です。 前者については、一定の時間の区切りさえつければ、何とか答えが得られる可能性があります。ところが後者に関しては、やはり未来というものの本質的原理的予測不可能性ゆえに決して解答は得られません。また、過去は常に「現在」が積み重なっていくことで膨大に膨れ上がっていきます。そのことを考えると「過去」を片付けるのも容易ではありません。 同様のことが「心とは何か」という問いに関しても言えるでしょう。この問いもまた、 「心とは何であったか」 「心とは何でありうるか」 という二つの問いに分けられます。以前予告申し上げていた「文学っぽいアプローチ」というのは、実はこの前者の問いに関わるものでした。「心の真実の姿を覆い隠しているかもしれない《近代の神話》」を剥ぎ落とすために、過去のさまざまな時代、さまざまな地域との間に「問いと答えの弁証法」を経験することを通じて「心」というものを見ていく…そういうようなことでした。 でもやはり、それだけでは話は済まない。…と、こう来ますと、satonohukurouさんの問題意識である「幻影肢」からはガンガン話が飛びまくるわけですが、本質的に予測不可能が未来が絡む以上は、少なくとも「心の可能態」に関して説明するところまでは行っていないと「心の哲学」として充分なものにはならないのではないかと考えます。これ、ものすごいことですので、もちろんsatonohukurouさん独りでやれってことじゃないです。関連学界全体でそっちもやんなきゃいけないのではないかと。 「心の可能的なあり方」だと、まずは「脳」。心を担う物質的基盤として。心的内容を納める器として。 そして「心理学」。…以前の書き込みをお読みいただいてお分かりと思いますが、私は過去、および現行の心理学にはあまり厚い信頼は寄せていません。一定の有効性はあるでしょうが、いつでも「エセ科学」に堕しうる。少なくとも思索の素材を提供する学、そしてできれば、素朴実在論的実証主義を乗り越えた学となってくれれば…と願います。 でもって「哲学」。人間および世界を捉えようと試みる知としての。 要するに物質的基盤から観念に至るまでの多層的なレベルのどこかに還元するのではない、その全体が絡み合った複雑系として「心」を眺めてみる必要があるのではないかと思うのです。それができるのは「科」に分化した「学」たる「科学」ではなく、哲学でしょう。 幸いなことに、前の書き込みでも紹介しましたように、カオス論などへの注目あたりから、科学の側から人文諸学への歩み寄りが始まっております。「カオス」というのは、解釈の対象たる「自然」の側から人間に突きつけられた「否」であろうと思うのです。「問いと答えの弁証法」を稼動させるところの「否」。それに科学はようやく耳を傾け始めた。ですが哲学を初めとする人文諸科学は、太古の昔から一意に還元できない人間的諸現象を宿命的に、当たり前に相手にしてまいりました。この点からして、「歩み寄り」は「科学の側からの」歩み寄りです。人文諸学の側からではなく。 ここから、「哲学の見方」と「科学の見方」という両者の区別には神経質になりすぎることもないかな、とも思えたりするわけです(哲学と科学を截然と区別すると、哲学もまた仕切りの中に囲われた「科-学」の一つに成り下がることにもなりますし)。ただ、「科学」が示すことどもを盲目的・無批判に受け容れるのではなく、その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む…そういうことでよいのではないかと考えます。 何やら話が拡散して、ご研究には直接役立つ範囲を逸脱しているのではないかと恐れますが…いかがでしょう。
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- halka
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邪悪なふくろう叔父様に従い私目の立場も叔父様のフィルターに肖りたいと思いま した。里のふくろう様にとって私のものも邪悪様の示したその他大勢中のひとつと なるやもとはおもいますがそれも致し方ありません。 私の言っていることは ◆心・命題同一説というのが適切かと思います。 感覚・知覚・思考・感情・意志などの心的事象は意識の命題関数そのものだとする 立場です。難点として、現段階では唯心論的独我論に陥る可能性があると思われます。 心・命題同一説ではまず意識が前提となってそのうえに命題が三区分されます。 すなわち事実世界、可能世界、価値世界です。ふくろう叔父様の述べた各学派は おおよそ事実世界を基礎として真偽判定の命題関数が展開されますが、ここでは関 数の展開される議論領域がはじめから三つに分かれていると言うわけです。 事実世界とは意識が時空という議論領域を背景として物質の存在の「Aがある」を 真偽判定する一つの体系であると定義されます。 主に感覚が「Aがある」の判定の基準となりますが、時間という現象の展開の前後 に無矛盾性を介在させることが必要です。 瞬間の感覚が「見た!」と告げても時間の前後にあるはずのないものをいっても それは幻覚とか錯覚として処理されます。 ここで主観客観という事を命題Fの真偽判定に拘わり定義してみたいと思います。 事実世界を時空連続体として任意の時間(tm,tn)を取り出しその時点のFが 客観的に真は(1、1)とします。すなわち普遍とはいつでも、どこでも誰にで も一致する真偽判定ですが客観と普遍を同義に考えるわけです。 一方主観性については(1、0)を認める判定ということにします。 次の可能世界ですが、ここではラプラスのものを採用し、確率という概念に限定し て考えることにします。 「ある事象の確率とは(1)其の事象を構成する基本事象に遡り、互いに背反で総ての 可能性を尽くす同等に可能な一群の基本事象に同定し、次に(2)其の事象を基本事 象が何個あるかを決定し、最後に(3)其の数と基本事象の総数との比によって定義 される。」 さて価値とはどのように定義されるでしょうか?それは主観の要求を満たすものと 言うのが一般的です。いま少し厳密にやってみましょう。対象命題Fがあるとしま す。Fは意識上の命題ですから事実であるとは限りません。さきに主観の要求を満 たす、ということを「私はよい」が真であるという風に言い換えます。 すなわち「Fに価値がある」とは「Fが事実であるとき、私はよいは真」と同値と します。ところでFの資格を考えると単にFが事実であるか否かというほかに、F になるかもしれない、という可能性のうちに語ることが出来ます。よって命題を 事実を可能にまで敷衍して「Fが事実であるかもしれない時、私はよいは真」を導 出する対象命題Fについて「Fに価値がある」ということにします。 これを記号化すると「価値を表すF」をVF、「可能性を表すF」をPF、「私は よい」VSとして(VF∧PF)⊃VSが価値の一般式として設定されます。 もともとこの公式は「価値とは主観の要求を満たすもの」ということを命題三区分 の立場から言い換えたにすぎません。 さて以上の区分の世界に対して主観的判断と客観的判断とはどの様に適合されるで しょうか。すこしまとめて見ますと・・・。 ・客観的判断 任意の(tm,tn)においてF(1、1)またはF(0、0)である判断。 ・主観的判断 任意の(tm,tn)においてF(1、0)またはF(0、1)である判断。 主観的判断とは意識がその時限りにおいて真偽いずれを判断したかということです から客観的判断を含むといえるかもしれません。 錯覚の事例で具体的に見てみましょう。 月が水平線上にある時と中空にあるときでは大きさが違って見えます。 tmにおいて、F{水平線上の月}>{中空の月}は真と判断した。 tnにおいて、F{水平線上の月}>{中空の月}は偽、すなわち両者は同じ と判断した。このとき主観的判断は、主観がそのときFに対してした真偽判定 ですから{1、0}と記述。 対して客観的判断とは、tnにおいて改めて角度を測定機により計測した、ある いは前後の論理的矛盾を確認してtmに変更を迫るのです。あれは錯覚だった。 結果{0、0}と記述。さてこの二つの判断を可能命題に対して適応してみます。 tmにおいて意識はサイコロを振って1の目の出る確率を1/2と判断した。 tnにおいて意識はラプラスの定義に基づき、1の目の出る確率を1/6と判断した。 ここでFを「サイコロで1の目の出る確率は1/2である」としたとき主観的判断に おいて{1、0}、客観的判断では{0、0}となります。 さて確率の法則のような可能性に対して普遍的な判断はそうざらにあるわけでは ありません。実際、互いに背反で総ての可能性を尽くす同等に可能な一群の事象 がまったく見当たらないものもあります。しかしながらあらゆる場面で行う可能 性に対する主観的判断はまったく意味のないものでしょうか? というのは、先ほどの価値の自己満足の公式を思い出すと、目的的活動において 次のようなことが言えるのではないかと考えられるのです。 いま出したサイコロの例をでいえばVF{1の目が出ることは良いことである} PF{1の目の出る可能性は高い}ならば、そう判断する意識のFの目的的行為 の実行頻度はPF{1の目の出る可能性は低い}に対して高くなる。 この場合、主観的判断のPFが結果であるFの発生頻度という事実に影響を与える と考えられるのです。 ここでは、tmにおける客観的には偽であるところの主観的判断が事実であるFに 連関性を持ち有意味である、ということが言える。 先ごろよりクオリアエイジェントの方がいらしているようなのでクオリアについて ひとこと。 上記の例でいえばクオリアとは事実命題の主観的判断ということがいえます。 水平線上の月と空中の月のどちらが大きいかということで、賭けをしました。 「水平線上の月のほうが大きい」は質感を伴う実感であり主観的判断です。 結果、計測器を用いて視野角度は同じ、命題Fは客観的判断において偽となり ました。ここで主観的判断F=1は有意味性を持つのでしょうか? Fは結果としての事実命題であり、その主観的判断がVF、PF、VSの如何 なる連関をもつこともない。よって、それが結果としての事実に影響を与える こともない。事実世界における主観的判断F{1、0}は強制的に客観的判断 {0、0}に修正される。 よってクオリアは有意味性を持ち得ない。 証明終り。
お礼
お姉さまが、「心・命題同一説」とご自分の立場を明確に表明されて説明されたことに敬意を表します。心の問題で立場を表明することは欠陥を指摘されることを意味するように思われるからです。ご自分でも承知されておられるようですが。 さて、お姉さまの論理は、「判断」もしくは「思考」の過程を説明する論理、または、錯覚等の感覚の過程を説明する論理と理解しました。 しかしながら、クオリアを、お姉さまは有意味性を有しないことを証明されて排斥されていましたが、私は、心についての説明で哲学でも科学でもその説明の困難性が「感覚質」や「志向性」を説明せざるを得ないところにあると理解しております。例えば、お姉さまは、最初に意識を前提していますが、その意識そのものを説明する必要があるように思いますがいかがでしょうか。「真偽判定する一つの体系である」と定義することによって、さらに主格を前提にせざるを得なくなります。 この主格についての説明が為される必要を感じるのですが。
- motsuan
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serpent-owlさんが唯物論的「心の哲学」にまとめてくださったので、一般論を展開しているときに非常に気が引けるのですが感想を 自然科学の立場からいえば唯物論的「心の哲学」としてはどれでもいいのではないでしょうか?(非法則論的一元論はちょっと異質ですかね) というのは、たとえば、 心を物質の運動として捉えたとして、たぶん行動主義で規定しうる心の振る舞い(現象)を説明できなくてはならないし、物質の運動論が十分に正しそうであれば行動主義の結果に対してチェックが入ることになります。つまり、お互いの方法論から得られた結果に整合性が要求されるわけで、そこがどっちが合っているか間違っているかなんて、研究の出発点としては(お金や時間の問題は別として)そんなに気にしなくても良いところが哲学との大きな違いかなと思いました。これまで哲学の諸説の間で説の間の整合性が得られない(各説の展開の仕方が論理で閉じいるだけで、それを超えたチェック構造がない)ことが自然科学をやっている人から見た欲求不満のもとなのではないかと思いました。 あと、還元主義的な分析方法(心脳同一説や機能主義がこれにあたるのでしょうか)に関する批判(?)ですが、分析の対象とする要素の集合の状態をより高次の状態に対応づけ、高次の状態間の関係をミクロな要素の法則で説明できたとき、そのとき自然科学をやっている人(といより、自然科学の研究システム)がそれを説明できたと考え、研究を止めるとは思いません。おそらく何でそんな複雑なものが上手く説明できてしまったのだろうと考え、なにかあるはずだと思うはずです。(複雑な方程式が上手くとけてしまったときには、そこにはまだ見つけていない何か対称性(不変性)が潜んでいるはずだと考えるのはよくあることだと思います。逆にそういう不変性を見つけたときに分かったような気持ちになるという非常に強い人間の認識の癖があるように思います。)たとえば、社会学における因子分析(でしたっけ?個人の多元的データの統計をとって統計的データの独立要素を抽出するというようなこと)は個人のデータを取っているからといって還元論的な方法かというと私はそうは思いません(この方法で出てきた因子がどれほどであるかは別として)。こんなに単純ではないでしょうが、細かい要素に分解して心を説明をするということの最終目的は、この因子のようなものを見つけて因子によって心を説明するということだと思います(というか、そういう単純化されないと分かった気持ちにならないと思います)。そう思うのは「心」というものがあると私たちが素朴に思えるからです(仕組みはわからないけど脳の中で単純化されているから、自然科学的な理屈でも単純化できる(因子のようなものがある)だろうということですね。きっと・・・ということは私たちの理解の仕組みをしらないと・・・ということになって、ぐるぐるめぐるのでしょうか)。 やっぱり哲学には「心」というものがあると私たちが素朴に思えることをきちんと説明して欲しいです(それは例えば錯覚だ!という答えなのかもしれませんが、錯覚だって素朴にあると思う気持ちは変わらないので、錯覚という切り口で素朴にあるということの状態を明らかしにて欲しいのです)。そして、その過程で「仕組みはわからないけど脳の中で単純化されている」一端が見えるかもしれないと思うのです。 ちょっと皆さんが繊細/微妙な話をしているときに議論を蒸し返しているようで申し訳ないのですが、困ったやつだと笑ってくだされば幸いです。
お礼
初めまして、よろしくお願いします。 新しい視点での回答があったと理解しました。 すなわち、哲学と科学の説明の仕方の違いについて、唯物論の立場では、科学では各種の立場で説明される事象についてチェックを受けることから普遍性が確認される。還元主義では、原子論としての究極の因子の追求により説明が為される。 しかしながら、哲学は自己の論理だけで閉じてしまっているのでチェック機能がない。 説明する、もしくは論理を展開する、さらに説明や論理を納得する(納得できたという気持ちになる)ということのきちっとした理解が私には不足しているようです。
- fwappy
- ベストアンサー率0% (0/5)
serpent-owlさま: 貴方の指摘はとても興味深いと思います。 ところで、心脳問題MLでは「第1回心脳問題研究会」 を4/7(土)午後、新宿歌舞伎町のルノアールで 行います。もし良かったら顔を出してみてください。
- serpent-owl
- ベストアンサー率53% (31/58)
fwappyさま まず「不可知論者」と誤解した点につき、謝罪します。すみませんでした。それと、あの質問、「当局」による削除だったのですか。いかにも無知無教養な低脳がやりそうなことですね。未来の、世界なんたらかんたらなんて十年早い…いや、もうちょっと…だいたい五十六億七千万年ほど早いでしょう。面白くなったかもしれないのに。それから、「コンピュータと人間の脳・心は同じではない」というご指摘、おっしゃる通りです。私もそういう思いから書きました。このアナロジーは機能主義の立場に立つ人が説明上の便宜をはかるためのものだったのでしょうが、アナロジーによる「わかりやすさ」は、時に多くのものを犠牲にします。この場合、シナプスやらニューロンやらの物質的実在と、心的内容という書き換え可能で物理的法則に必ずしも縛られない要素と、分けられるようで分けられない部分というのは確実にあるように思います。逆に言うと、この「分けられるようで分けられない部分」というところをクリアすれば、コンピュータやロボットにも、外部からプログラムされるのではない形で内発的に快と不快を感じたり、「心」を持ったりする可能性が開かれるのかもしれません。 * それから、前回書き落とした点が一つ。天才的な数学者・物理学者であるロジャー・ペンローズ氏が「心」には脳内の量子論的過程が介在しているのではないかと問題提起しています。『皇帝の新しい心』とか『心の影』とかで。(『皇帝の…』はみすず書房。手に入りやすいものに、講談社ブルーバックスに『心は量子で語れるか』があります。) 私にとってはかなり難しいので、充分に理解した上で言うのではないのですが、「そりゃいくらなんでも無茶だろう」というのが率直な感想です。おそらく、またぞろ「素朴実在論」にどこかで足をすくわれているのではないかと…。
お礼
ペンローズの「心は量子で語れるか」は、私も読みました。量子論についての説明は理解困難でしたが、意識の在処を微小管に求めて説明しているその説明の仕方が、実に科学的で、そのためか理解がしやすく、また心についての説明(仮説)がこれほど具体的にされているのを見かけなかったので、衝撃的だったことを覚えております。 このような説明のされ方をすると、哲学的説明の役割もしくは意義というものに疑念を覚えてしまうわけです。
- fwappy
- ベストアンサー率0% (0/5)
些細ではあるが、個人的に興味がある点についてとりあげます。 serpent-owl様: >「脳にせよ心にせよ、ハードとソフトに分けられるとは思えない」 脳におけるハード・ソフトの区分けと 計算機におけるハード・ソフトの区分けは 異なりましょう。 意識・無意識の境と、ハード・ソフトの境の間に なんらかの関係があるかどうかはわかりませんが もし関連があるとすれば、同じ機能だから同じ心 とは言えないでしょうね。ただ、それを確認する のは非常に困難でしょうけれども。
- serpent-owl
- ベストアンサー率53% (31/58)
回答者各位と情報を共有化するために、「心の哲学」の流れと主要な立場を概観しておくのも無駄ではないでしょう。 「心の哲学」は、デカルト(もっと遡ればプラトン)以来の心身二元論に端を発する哲学の根本問題の一つです。これ以来、おおまかに言うと二元論、唯心論(観念論)、唯物論など、三つの立場に整理できます。が、ここでは、自然科学が発達した20世紀後半に主流となった、唯物論的「心の哲学」に限定して概略を紹介します。「行動主義」「心脳同一説」「機能主義」「非法則論的一元論」…と、いきます。 ◆行動主義 心理学における行動主義は、ワトソンらに提唱され、スキナーらに引き継がれて、一応今日の「使える」心理学の土台になっています。stomachmanさんがご指摘のように「パブロフの犬」の実験、すなわち、本能的反応(無条件反応)とは別に、学習による条件反応(レスポンデント条件行動)が形成されうるという発見が出発点になります。 これとは別に、心身問題を哲学的に検討する立場の一つとしても「行動主義」があります。『心の概念』(みすず書房)のG・ライルらが代表的。 この立場の考え方を一言で言うと、「心の内実そのものを説明することを回避し、外から観察できる行動を表現する言葉に置き換えて理解しようとする」ものです。例えば誰かが笑っているとします。ここで「彼は喜んでいる」と言うことも可能ですが、その喜びを彼の心の中の出来事として捉えるのではなく、「彼は感謝の気持ちを伝えようとしている」とか「場の雰囲気を明るくしようとしている」とか「喜ぶべきと解釈し、それにふさわしく振舞おうとしている」とか、行動レベルに置き換えて説明しようとします。 この立場は、誰にでも観察・実験できる心への視点を切り開いた点では評価されています。が、難点もあります。行動そのものは観察可能でも、その解釈は恣意性を脱却できない、という。心の内実に踏み込むことを避けながら機械的な因果関係で行動を解釈しようとしますので、ともすれば「空振り」になります。はなはだしくは「勝手な理屈を先に立てて、それで現実を裁断して納得したつもりになる」危険もある。幼児殺害を「鬱憤晴らし」と解釈するのと同レベルの貧しさです。 ◆心脳同一説 読んで字の如しでしょうか。感覚・知覚・思考・感情・意志などの心的事象は大脳の物理的過程そのものだとする立場です。ファイグル、スマート、アームストロングらにより、20世紀半ばに唱えられました。 原子・分子の物理化学過程を実在と考え、その土台から心を考える立場ですので、はっきりと唯物論的です。この土台に立って、人間の心を刺激と反応の関数として捉えようとします。 私自身、テレビででしたが、猫の脳のある部位に電気刺激を与えると、猫が怒り出すという実験を見たことがあります。「感情とは脳のある種の興奮である」というのは裏付けがある。事実、「科学的」です。が、現実の中での因果関係と切り離して脳の興奮として感情を捉えて何の意味があるのか、疑問も感じます。やはり「心の内実」は説明できない。この立場は行動主義から派生していますので、その流れに沿っているとは言えますが。 また他にも指摘される難点は、脳という器質的説明に還元すれば単一の関数が得られるものの、それでは同一刺激(現実の)に対する感情の多様を説明できないこと、また逆に、多様な刺激によって同一の感情が生じうることを説明できないこと、などが挙げられます。よーするに、つまんない。 ◆機能主義 心脳同一説の難点を補う形で構想されたのが機能主義になります。脳と心的内容の関係を、類比的に言えばコンピュータのハードウェアとソフトウェアの関係と同様のものとして捉えています。 この立場は、心的内容が脳という物理的基盤の上に成り立っていることを認めますが、心的内容の変化や推移そのものは物理化学的過程には還元しえず、現実的・日常的な出来事と心理との関係に立脚する法則性にしたがうと考えます。このことによって心脳同一説の難点を回避しています。 この立場に関しては、さまざまな批判が向けられているものの今なお多くの支持者がいるようです。決着がついていないのが現状らしい。 批判の論点を私なりに要約します。一つは「同じような出来事に対する人による反応の違いはどう説明できるのか」ということ、もう一つは「神経科学の今後の発展により、日常的・現実的経験に基づく法則性の記述は、意志や感情といった曖昧な言葉ではなく、もっと科学的な用語に取って代わられるべきだ」ということのようです。 また、私なりの文句もあります。「脳にせよ心にせよ、ハードとソフトに分けられるとは思えない」という点です。例えば、新生児の脳内におけるシナプス結合の進行は、外界からの刺激に左右されることが知られていますし、成長してからも反復学習によって新たなシナプス結合がなされることも知られています。ソフト的な刺激がハードを構成しうるわけです。コンピュータとはワケがちがう。また、物の見方・考え方を自覚的に変えることで、同じような出来事に対する感じ方を自ら変えることも可能です。一度仕事をクビになったとして、別のところに再就職、この間に俗な言葉で言えば「人間的成長」があったりすれば、またクビになっても案外動じなかったりするわけです。プログラムのバージョンアップ? …でハナシは済むのでしょうか。 ◆非法則論的一元論 D・デイヴィドソンが『行為と出来事』(勁草書房)などで提唱。これはstomachmanさんが言われる「一つの原理で多くの現象を説明」するという哲学的説明の目標定立に対するアンチテーゼと言えるかもしれません。 彼の意見は、宇宙に存在するものは結局は物質のみであることを認める点で唯物論的です。そこに物理的な因果関係の法則性があり、それを説明可能とする点において科学的であるとも言えます。ところが彼は、信念や知覚や行為といった心理的・志向的現象は厳格な法則的説明を受けつけないとします。「心が物質的基盤に立脚すること」を認めつつも、心を物質的基盤および法則に還元することを拒否しているわけです。心的内容は、いわば心的内容自体の自己原因や他者との関わり、現実との交渉の中で、独自の因果関係に基づいて内容を獲得し、変化・推移するということでしょう。 これに比較すると、先に挙げた「心脳同一説」などは「心を脳に還元して器質的に説明可能」とする点において「法則論的一元論」と呼べるでしょう。脳と心的内容を区別した上で、両者の相互作用の法則性を説明可能と考える「機能主義」は「法則論的二元論」。デカルトのように「心」と「物」をまったく別個の実体と捉える立場は「非法則論的二元論」となります。 だいたい以上です。この他にも、やはり「身体論」から心を見ようとする試みも始められているようです。 また、「他者の心の観察可能性」というポイントも不可欠ですね。これはこれで、またしても哲学の根本問題である「他我問題」と密接に関わります。行動主義なんかは、この「他者の心をいかにして観察するか」という課題に対する、一つの回答だったわけですから。 「他我問題」に関しては、エマニュエル・レヴィナスの「他者の思想」やユルゲン・ハーバーマスの「コミュニケーション理論」がヒントになるかもしれません。
お礼
重ねて、感謝申し上げます。私も、一応は心身問題に関する現代哲学史は勉強しましたが、このように簡潔にまとめた形で自分のものに消化できていませんでした。 私は「幻影肢」を取り上げて、哲学のテーマとしようとしております。 感覚器官が作用しない状態で、無いものがあると感じる(無いはずの手足があると錯覚する)、すなわち「感覚質」のみが発生するというこの症状にアプローチすることにより心と脳の関係について考察しようとしています。 ところが、ここであらためて考えてみると、哲学で説明できていない問題となっているのは、まさしく「感覚質」、「志向性」ですね。 この問題に挑戦するということは、私の力では無謀としかいいようのないものだったかも知れません。考察の視点をもっと足元を見るようにすべきなのかも知れませんということを、今感じております。
- fwappy
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stomachman様: >大前提として、人に心がある、ってことは素直に認めて良いんじゃありませんか。 ではこれを”客観性のある手段”で”文脈から或る程度独立に” ”手間を掛けて””少しずつ”でもいいから今ここで”説明” してみてください。 もちろん”でたらめに言葉をこしらえる”のではなく、 ”概念ひとつづつを出来るだけ検証可能な仮説にまで洗練” して”観察・記述するための確たる足場”を”地道に組んで” いってみてください。できますか? #思うに、すべてが自己言及なしに語り切れると結論するのは、 #数学と超数学を「区別」できるというのと同列の「信念」に過ぎないでしょう。 #このテーマは、貴方に「殻を破る」チャンスを与えてくれる筈。 #実に幸せなことですね。
- fwappy
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fwappyです。 serpent-owl様: >ところで、「どんな命題でも証明可能で、しかも無矛盾な論理体系の存在について」というご質問は、 >どうして消されてしまったのですか? 書き込み、用意してたのに… ああ、そうですか。でも、私が消したのではありませんよ。 gooの担当者が「不適切」ということで削除されたのです。 大方、某君の某所掲示板との比較評価の箇所が 当局のお気に召さなかったのでしょう。 >「心に関する仮説を証明する実験はできるのか」というsatonohukurouさんの問いに対して >「絶対に出来ないのでしょうか」との問い。…こういう言葉の返し方はちょっといかがなものか >と思わなくもないですが、 私はそうは思いません。 質問する人間が、無意識に前提していることについて、 解答者が問うのは当然です。質問が真摯であるならば、 そのような質問を歓迎こそすれ拒否する理由がない でしょう。 ところで、他者の心に対して、世界を持ち出したことについて serpent-owlさんは、私が不可知論者だとみなしたようですが それは、まったく逆です。 私がいいたいのは 「他者の心が観察できないなら、世界も観察できない筈だ」 すなわち 「世界が観察できるというなら、他者の心も観察できる筈だ」 ということです。 >よろしければfwappyさんにも一緒に考えていただければと願うものです。 私は考えていますよ。もう随分と長い間。
- pikitto
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1「説明」について 心という現象(これが存在するかどうかも問題ですが)の法則性について推論すること、として使用しております。 2「立場」について >「立場のないものが哲学することである。」は、立派な立場ではないでしょうか。 ですから・・・その「立派な立場」というものがそもそもないものを哲学と呼びましょう。 >この立場に立つということは、その立場に見合う論理展開の方法があると思うのですが。さらに、心に関する哲学のジャンルだけをとっても、「心身二元論」、「論理的行動主義」、「観念論」、「唯物論」、「機能主義」・・・と際限となくあります。 「立場に見合う論理展開」とはその「立場の擁護」と同義であることは承知していたほうが良いと思います。 また際限なくあるとどうだとおっしゃるのかよくわかりません。 3「内包」について >「心について哲学する」ということを、「心の概念分析をすることである」とした場合、心についての概念を「理解」するためには「経験的知識」が必要とされます。この「経験的知識」は「科学」によって得られる知識である、ということです。 「知識」と呼ばれるものを曖昧に定義されているようですが・・・あなたにとっての「知識」とは何か?・・・お聞かせ願えますか? 4哲学の思考展開について >哲学も科学も説明は「理論」によります。 哲学の場合そもそも説明をする必要のないものです。そもそも説明の必要のないものに理屈を付ける場合のその「説明」とはその「必要」に対する説明と相成ります。これはロゴスに対する軽侮ということでしょう。科学についても同様です。 2項で述べたように、哲学と科学はその理論の展開の仕方が異なるのではないかと考えております。 >どう異なるのですか? 科学では、「仮定」、「実験」により推論を進めることにより「論理性」が担保されています。 哲学では「概念分析」だけです。しかし、その概念は科学の知識をも根拠としております。 >ここまでくると、私は「自己矛盾」に陥ってしまいます。哲学と科学はその説明の方法(論理の進め方)に違いがあるはずだ。でも、その違いがよく判らない。というところにです。 「自己矛盾」を感じておられるのは結構なことだと思います。 ------------------------------ 以上、補足させていただきます。つたない説明のために、多くの理解困難な内容を提供していることをお詫び申し上げ、再度ご教示をお願いします。
- halka
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チューリングテストともかかわっていると思いますが、影に隠れた回答者が 機械か人かというやつです。 serpent-owlさまと直接のほうが良いかなと思って質問スレッド作ろうとしたら 表現がどぎついと判断されたのか没になってしまいました。 怨念とかの言葉はダメみたいだから憎悪ぐらいでとどめましょう。 ゲテモノ趣味と笑われるでしょうが、これがわかりやすいと感じます。 意識が何らかの自己否定を意味する環境におかれたとき、自己意識の変容を 観察するとまず、自己否定の原因に対して「怒り」それから「憎悪」というふうな過程 をたどります。この過程を分析すると (1) 自己否定・・・自分がいるという存在のあり様に対して、なにものかの他者に価 値的な否定、たとえば、事実命題として身体に衝撃を受けるなどの場合、怒りが 起きます。 (2)原因となった他者にその罪を問い、さらにその他者の自己否定状態を 実現しようとする欲求が起こる。これが「憎悪」です。 これは個人的なものですが公になってそれを実行する手続きを罰といいます。 さてもどりますが、その衝撃を受けるという原因が、自然災害といった人が介在し ない因果律で起こった場合[怒り]の起こしようがなくなるのです。 罰する相手が見えなくなってしまう。 これが工場などのロボットが原因した場合も、偶然の事故だと判断されるような 場合、これも起こしようがない。 すなわち、外部環境を全て因果律で理解できるとしたら「わたし」の意識は「怒り」 とか「憎悪」の感情は起こしようがなくなると思います。 もし実在を仮定して意識がそれを感覚によって捉えるという事になりますが、 これは同一の感覚に対して二つの知覚が介在していると考えるのが妥当と思 います。たとえば自然災害などについてその因果律が解明できない時点では 自然に「神」という他者を知覚します。意識はこの解釈の上で自然を怖れたり 憎むことができるのです。 つまり意識にはある知覚のモジュールがあってそのモジュールを適合するか否か によって意識のある他者か機械かを見分けています。 ここで不思議なのは「憎悪」という感情・・・、自分を否定するところの原因は取り 除かれたにもかかわらず、なぜ原因となった他者の否定状態に対して欲求が おこるのか? これは対象自身の価値、およびその対象が現実のものとなる可能性の分析 だけでは収まりません。それらの対象から離れた変化を司る原因そのもの (意識の中枢)の存在価値へのアプローチが不可欠と考えました。 よって(VG∧PG)⊃VSといった仮説を立ててみたのです。 つまり、他者にもこの公式を当てはめ他者のVS=0を実現し、自己のVS=1 を果たそうとする反作用のような機能が意識にははじめからそなわっていると かんがえます。 たとえば、えひめ丸の衝突事故にしても遺族に対してたとえ同じ賠償金が支払 われたとしてもグリンビルの艦長が始終高圧的な態度であるか、泣いて謝ったという ことかで遺族の気持ちは雲泥の差でしょう。 しかし人間の持つこのドラマはなんなのか?謝るとは価値的な否定対象の原因と なったことへの自己否定の表明ととっていいのではないでしょうか。 つまりここで反作用のポテンシャルが解消するのです。 よく意識は他者に脅しをかけます。「おまえそんなことをするとこう言ういやな目に あうぞ!」とは以上のモジュールを前提として他者のいやがるGの可能性を示唆 するわけです。結果自己のGを達成してVS=1を実現するわけです。 もちろんVGはひとによってまちまち,当面の他者もいなおりという手続きでVG変換 されれば目的からは外れてしまうわけですが・・・。 >質問2:「事例分析(1)について。厳しい教育に対して鬱憤晴らしをする子としない子とのちがいは、お示しの論理式のどこに表現されていますか?」 満足の行く答えができるかどうかわかりませんが、先の式の示すところは事実と しての対象ではありません。 つまり、わたしが脅しという手段を他者に使おうとしたら他者の状態を自分に適応し ていかなるGが他者のVS→0を達成するかを考え実行するでしょう。 Gはひとつではありません。ナイフをちらつかせるか、殴るそぶりをするか、目的は VS=0を予感させその回避行動を取らせることです。相手がどれに反応するかは 観察によるでしょう。もちろんその回避行動がわたしのVS=1となることを計算した 上でですが…。 VS=0の状態は、初めに示しましたように(1、0、0)ないし(0、1、0)です。 前者は欲するところが事実とはならない自己否定状態であり、後者は欲せざるとこ ろのものが現実になるという自己否定です。事例は後者に該当するでしょう。 つまり親の教育とは本人の今の状態を否定されることですが、意識は二つの 手段を持ちます。対象価値Vの変換ないし、可能性Pの変換(つまり事実世界 への働きかけ)です。V変換であれば、おやの叱責に対して無頓着であろうとする こと、ないしその叱責を意味あるものと解釈すること。それは神の与えた試練だ, …などと、価値変換技術もさまざまですね。 P変換は親を攻撃するとか、家から飛び出すとか、彼のような病的な手段を 選んでしまうとか…、他者を脅す時と同じでVSポテンシャルの要請により事実 世界を見渡して特定のGを見出してアプローチするわけです。 今日はとりあえず、このへんで…。
お礼
ご回答の皆さまへ No50 の回答にお礼をし書いている現在も、議論ははるかに先を行っております。お礼が遅く申し訳ございません。serpent-owl さんから結論をいただきましたので、少しコメントさせていただきます。 serpent-owl さまへ 長い間、本当にありがとうございました。また返礼が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。serpent-owl さんにゼイゼイと息を切って、振り落とされまいと、付いて行くのがやっとという状況です。 多岐にわたるご回答をいただきましたが、お礼としてまして、私の最大の関心事に限定し理解できたことと、私の本質問から得た私の考えを述べたいと思います。 「心」に関する「知」が有する性質=「開放系の知」であり「完結していないもの」である。このパースペクティブからは「過去への視線」と「未来への視線」が得られる。 過去は現在の累積でありその無限性から説明が困難である。未来は本質的原理的に予測不可能である。予測不可能性から少なくとも「心の可能態」に関する説明が必要ではないか。すなわち、「脳」、「心理学」、「哲学」など、いわゆる物から観念までの各階層のいずれかに還元するのではない『その全体が絡み合った複雑系としての「心」を眺めてみる必要』がある。 科学は、自らの拠り所であった実証主義から現象(世界)を説明することに限界があることの自覚から人文諸学への歩み寄りが始まっている。このような現況からすると、「哲学の見方」と「科学の見方」の区分に神経質になることもないのではないか。要は、真理を追究する態度で重要なことは、「その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む」ことではないのか。 大変貴重なそして重い回答でした。心という事象をいかに説明するのか、ということを勉強していくうちに、哲学での分野での説明と、科学での分野での説明の態度に疑問を持つようになりました。それは、哲学で使用している心に関する知識は科学的知識をも根拠としてしているのではないか、それなのに科学において心は学の対象足りうる資格を有するのかという問題を有するのではないのか、この2つの疑問のために、一体「心を説明する」と言うことはどういうことなのだろうか、という問に突き当たる羽目に陥ってしまったのでした。 serpent-owl さんの回答から私が学んだものは、 「心の性質(本質)を理解せよ、そしてそこから出発せよ。既存の論理に還元するな。」 でした。 serpen-owl さんは、心の本質を「カオス」ととられておられました。「開放系の知」としての本質です。先に引用しました「心の科学は可能か」(土屋 俊、認知科学選書)で、土屋は結言に代えて心の説明の困難性について、心の「文脈依存性」を指摘しています。すなわち「私」と「社会」を内容に含む概念は形式的処理が困難である、としています。serpent-owl さんの回答にも通じるものがあると感じました。 そこで、心の概念を説明していくうえで問題とすべきは、「複雑系」、「文脈依存」で性格づけられる心を説明するに相応しい「論理」を見出していくことだと思います。心の概念を説明する論理として「カオス」、「量子論」、「進化論」・・・(たぶん他にもあるはずですが、これから勉強していきます。)が議論されているのだと思います。 「心の可能態」に思いをいたすと、なんだか「心」がますます果てしなく遠くのものになるように感じますが、とりあえず、第一歩を踏み出すために、私に何ができるかを考えてみたいと思います。 本当に貴重なご意見ありがとうございました。多くの方に参加していたできましたので、その方々にお礼をしなければいけません。もう少しオープンにしておきます。そして、少しずつ終末態勢とさせていただきたいと思います。