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心の哲学:心の哲学的説明と科学的説明の違い
心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。 それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。 哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。 そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。 これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。
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けっこう固まってきました。「内部観測」に関して、自分の理解にまだまだ修正の余地があることを自覚していますが、自分が知る領域に引き付けてある程度把握できた気がします。 ここでも回答されているmotsuanさんの質問「人間にとって物語とは何なのでしょう?」(下記URL参照)への私の回答No.8で書いたのですが、「ガダマーの解釈学」。これで途中までは行けそうです。それをここに再掲(コピペ)するのはいくら何でも暴虐ですので、そちらはそちらで軽く目を通していただくとして、ここでは簡単にかいつまんで書きます。 ガダマーは、ある文章(特に古典)が内包している「意味」を客観的に読み取ることは不可能だと断じています。というのは、文中のある単語の意味はそれが置かれた文脈に規定され、その文脈もまた文章全体の中で位置付けられて意味を持ち、さらにはその文章そのものが、それが書かれた社会や時代背景という大きな「文脈」の中で意味を持つものだからです。「客観的に」読み取ろうというのであれば、それらすべてが「客観的に」把握されていなければなりません。ところが、逆に見ると、文脈は単語から形成され、文章全体は文脈から形成され、社会や時代背景はその文章を含む雑多な文物から形成されています。つまりここには「どうどう巡り」が生じてしまう。単語と文脈、文脈と文章、文章と社会は、互いに他方に依拠して支えあっている。…どちらか一方が「客観的に」固定されていれば、他方も客観的に固定できる見込みも立つのですが、それは事実上不可能です。したがって、ガダマーは「文章の客観的読解は不可能だ」とするのです。 このあたりの問題の枠組みは、内部観測論の「内部観察者」と「観察対象」との関係にきわめて近いものがあると感じました。完結した系を外部から観察する「外部観察者」とちがって、内部観察者は完結していない(開放系の)系の中で、対象を同定する「文脈」、その文脈を規定する文脈、その文脈を…という無限遡行を強いられるのです。ここでも「客観性」というものは、素朴な自然科学が前提する「カルテジアン・カット」のように簡単には得られません。 さてしかし、ここでガダマー先生には「脱臼」していただかなくてはなりません。百歳を越える御高齢なのですが…。 というのは、やはり問題が「人の心」となりますと、ガダマーがテクストを相手に構想した解釈学とはまた別の問題が生じるからです。 ガダマーが相手にしたのは、あくまでも「古典」でした。現代のわれわれと、過去との間の「文脈」の差異、これがあるがゆえに「問いと答えの弁証法」が生じ、テクストと読者の双方を巻き込んだ運動となり、その中で「地平」が融合していきます。その運動全体こそが「真理」であると彼は述べています。そこでの「真理」は、それが掴まれてしまえば運動が終結するというような「客観的な」ゴールではありません。無限の、開放系の弁証法です。 前の書き込みでも述べましたように、人間および社会を相手とした知は「開放系の知」であらざるをえません。ガダマー解釈学も開放系の知にはちがいないのですが、それでも既に完結した「テクスト」、および既に完結した「過去」を相手にしています。これに対し、私たちが考えようとしている「心」は、現在のものを当然含みます。したがってなおのこと「完結していないもの」と言えましょう。テクスト以上に。 この点に注目しますと、例えば「人間とは何か」という設問は次のように分解できます。すなわち、 「人間は何であったか」(過去への視線) 「人間は何でありうるか」(未来への視線) です。 前者については、一定の時間の区切りさえつければ、何とか答えが得られる可能性があります。ところが後者に関しては、やはり未来というものの本質的原理的予測不可能性ゆえに決して解答は得られません。また、過去は常に「現在」が積み重なっていくことで膨大に膨れ上がっていきます。そのことを考えると「過去」を片付けるのも容易ではありません。 同様のことが「心とは何か」という問いに関しても言えるでしょう。この問いもまた、 「心とは何であったか」 「心とは何でありうるか」 という二つの問いに分けられます。以前予告申し上げていた「文学っぽいアプローチ」というのは、実はこの前者の問いに関わるものでした。「心の真実の姿を覆い隠しているかもしれない《近代の神話》」を剥ぎ落とすために、過去のさまざまな時代、さまざまな地域との間に「問いと答えの弁証法」を経験することを通じて「心」というものを見ていく…そういうようなことでした。 でもやはり、それだけでは話は済まない。…と、こう来ますと、satonohukurouさんの問題意識である「幻影肢」からはガンガン話が飛びまくるわけですが、本質的に予測不可能が未来が絡む以上は、少なくとも「心の可能態」に関して説明するところまでは行っていないと「心の哲学」として充分なものにはならないのではないかと考えます。これ、ものすごいことですので、もちろんsatonohukurouさん独りでやれってことじゃないです。関連学界全体でそっちもやんなきゃいけないのではないかと。 「心の可能的なあり方」だと、まずは「脳」。心を担う物質的基盤として。心的内容を納める器として。 そして「心理学」。…以前の書き込みをお読みいただいてお分かりと思いますが、私は過去、および現行の心理学にはあまり厚い信頼は寄せていません。一定の有効性はあるでしょうが、いつでも「エセ科学」に堕しうる。少なくとも思索の素材を提供する学、そしてできれば、素朴実在論的実証主義を乗り越えた学となってくれれば…と願います。 でもって「哲学」。人間および世界を捉えようと試みる知としての。 要するに物質的基盤から観念に至るまでの多層的なレベルのどこかに還元するのではない、その全体が絡み合った複雑系として「心」を眺めてみる必要があるのではないかと思うのです。それができるのは「科」に分化した「学」たる「科学」ではなく、哲学でしょう。 幸いなことに、前の書き込みでも紹介しましたように、カオス論などへの注目あたりから、科学の側から人文諸学への歩み寄りが始まっております。「カオス」というのは、解釈の対象たる「自然」の側から人間に突きつけられた「否」であろうと思うのです。「問いと答えの弁証法」を稼動させるところの「否」。それに科学はようやく耳を傾け始めた。ですが哲学を初めとする人文諸科学は、太古の昔から一意に還元できない人間的諸現象を宿命的に、当たり前に相手にしてまいりました。この点からして、「歩み寄り」は「科学の側からの」歩み寄りです。人文諸学の側からではなく。 ここから、「哲学の見方」と「科学の見方」という両者の区別には神経質になりすぎることもないかな、とも思えたりするわけです(哲学と科学を截然と区別すると、哲学もまた仕切りの中に囲われた「科-学」の一つに成り下がることにもなりますし)。ただ、「科学」が示すことどもを盲目的・無批判に受け容れるのではなく、その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む…そういうことでよいのではないかと考えます。 何やら話が拡散して、ご研究には直接役立つ範囲を逸脱しているのではないかと恐れますが…いかがでしょう。
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- halka
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fwappyさま、お相手頂きましてありがとうございます。 ちょっと強引だったことお詫びします。 あなたとのお話がsatonohukurouさまの疑問解消に役立ちますように・・・。 おふたりとのお話の中で懸念事項があります。 (serpent_owlさま) >なお、ニーチェの言う「価値転換」と、halkaさんの言われる「価値変換」とは、何の関係もありません。老荘思想も同様です。 (fwappyさま) >全ては主観的判断でしょう。 これらは言葉の定義段階での問題のように思われます。 serpent_owlさまはわたしに1~6の質問に答えさせた上で有り余る知識に基づき その不備を指摘して過去の先人の権威のもとに無意味さを指摘するものと思い ます。もちろん先人の有益な主張は省みてより有効に使われるべきでしょう。 わたしがこうしてお話できるのもそうした先人たちの知識をもとにいくばくひねくり まわしたものを提示しているに過ぎないと考えます。 しかしそのひねくり回したものが意味を持つためには、すくなくても三者の間では 基礎となる合意部分が必要ではないでしょうか? 基本的に使用している術語に付き、合意に達するかどうかそこからはじめたいと おもいます。まず私が提示しますので合意調整ができればと思います。 1.概念:対象を名辞したもの。内包と外延より形成される。 2.命題:概念と概念が結ばれたもの。この結合の仕方に「すべての」と「ある」がある。「AはBである」A:人間 B:哺乳類として 厳密には「(全ての)人間は(ある) 哺乳類である」と記述される。このときAはBの外延でありBはAの内包である。 結合の仕方には a.(全ての)-(全ての) b.(全ての)-(ある) c.(ある)-(全ての) d.(ある)-(ある) の四区分がある。 3.意識は概念を生み出し命題を判断するものである。判断には真と偽がある。 真の否定が偽であり、偽の否定が真.である。 2-aのサンプルとして「東京は日本の首府である」が真のとき「東京は日本の 首府でない」は偽。個者は(全ての)において適応される。 4.存在:命題の表示形式である。 「AはBである」を命題の繋辞表示という。 「BにAがある」を命題の存在表示という。両者は同値である。 5.存在表示における前件を議論領域という。 代表的なものに事実(時空)、可能、価値がある。 「棚の上にコップがある」のような命題は、これら三区分の命題の中で語られる。 この命題をFとしたとき ・Fが事実であれば感覚がこれを判断する。 「棚の上にコップがあるのが見える」「棚の上のコップをつかんで確かめた」 ・Fが可能であれば推測がこれを判断する。 「コップは棚の上かもしれない」「棚の上のコップがあるはずだ」 ・Fが価値であれば意識自身の満足度においてこれを判断する。 「コップは棚の上に置くべきである」「コップは棚の上において置いておきたい」 これらの命題は2-dの形式である。 「机の上にコップがある」が事実において真である場合、時空の部分である 「いま、机の上」(ある時空)に対して「あるコップ」が結びついたものである。 以上の三区分の根拠となるのは我々の使用する言語の助動詞の区分である。 助動詞の添える意味として イ.使役(せる、させる) ロ.受身(れる、られる) ハ.可能(れる、られる) ニ.自発(れる、られる) ホ.尊敬(れる、られる) へ.希望(たい、たがる) ト.打ち消し(ない、ぬ) チ.推量(らしい) リ.様態(そうだ) ヌ.伝聞(そうだ) ル.比況(ようだ) ヲ.断定(だ) ワ.ていねい(ます、です)カ.過去完了(た) ヨ.推量・意志(う、よう) ツ.当為(べき、べし) のような分類に対して尊敬のような特殊なもの、意志の絡むものを除いて (それは行為の宣言であり判断ではない)振り分けられたものである。 なお、価値を表す助動詞として希望、当為があるが前者は自分自身の満足度 をもとめるものであり、当為はこの満足度を自己の所属する仲間内、社会ないし 行動基準の信念に投影したものである。 6.判断は時空内部での意識によって命題に対して行われる。 (1)全ての時空において一致する判断が客観的判断である。 (2)ある時空において特異である判断が主観的判断である。 fwappyさまぜひあなたの定義をお示しください。 棚の上のコップを取る,という一連の動きを観察してみよう。 その観察事実はtmよりtnにおいてあったとしよう。 コップをとる腕の筋肉運動量、速度、変化率、筋肉内の化学反応、あるい はそれを操作する脳との関連において時間tmよりtnに至るまでのそれらの 測定値を観察することにより得られるのが客観的判断である。 観察によって記述された記録は全ての時空に対して真理値1をもつものと する。これに対して時空に他者を認め、 水が飲みたいので棚の上のコップをとったのだろう とするのが主観的判断である。 「だろう」というのは他者の「たし」は観察不可能であるゆえ断定できない。 tmよりtnにおいて発生した一連の運動の感覚観察に対して、二つの知覚 観察を持つことが出きる。これはルビンの図形に対して向き合った人を見る か酒盃を見るかのごとく、感覚情報を処理する際におこなわれるふたつの モジュールのうちのいずれかの適合である。 ・因果論的判断モジュール ・目的論的判断モジュール 前者のモジュールにおいては助動詞「たし、べし」を含む命題は介入せず, 後者のモジュールにおいて介入する。 幾つか議論の中心となる概念に付き定義してみました。 意見の違う部分および未提出の概念について追加をお願いします。 (serpent-owlさま) 以上の各概念の合意の上に以下の質問回答へのご批判をお願いします。 >質問1:「人間の心は命題論理や述語論理で記述できるとお考えですか?」 >それは「できる部分もある」ことを認めるという程度のことです。 前回も示しましたとおり価値可能に対して主観的判断を含む論理学でひとの 心は記述可能と思われます。たとえばキリスト教や一部仏教の死後の生活 を説く宗教は例の真理表の2行目から1行目への脱却を狙うものです。 すなわち、幸せな生活は死後の意識という可能性のうちに約束されるのです。 奇跡を見せる宗教は可能性のレベルを0→1に変換せしめるものです。 前回も申しましたが老荘思想は真理表3行目から1知行目への移行をねらう ものです。これは価値へのアプローチです。 >質問2:「事例分析(1)について。厳しい教育に対して鬱憤晴らしをする子としない子とのちがいは、お示しの論理式のどこに表現されていますか?」 >質問3:「事例分析(2)について。自分を磨くか周囲のせいにするかに関する本人の選択は、お示しの論理式のどこに表現されていますか?」 >質問4:「事例分析(3)について。他の子どもがいなければよいという論理的推論の結果、幼児を殺害したのなら、なぜ一人で終わったのですか? また、幼児殺害が逆に『地域社会における我が子の肯定』を阻害する可能性の考慮は、被告女性の論理的推論には入らなかったのですか?」 わたくしはこの三つの質問を同レベルで捉えておりましたserpent-owlさまには ご不満かもしれません。 イソップの「すっぱいブドウの論理」をご存知かと思います。 意識は環境を知覚して「ブドウがある」を確認した次に「ブドウを食べたい」それに は「ブドウを取る」と推論するのかもしれません。 VF「ブドウを取るは良い」 PF「ブドウをとることが出きる」 VS「ブドウを食べて わたしは満足」となるわけです。 ここでまず「ブドウを取る」という可能性へのアプローチがあるでしょう。 ここで機軸となる論理式は、公理系Lの選言取りかと思われます。 目的的活動は最終目標Cに至れば良いわけですので 「A∨BかつA⊃C、B⊃CよりCを導出して良い」となるわけです。 すなわち目的にいたることが可能ならば、棒で持って取っても良いし、 石を投げて落とすというてもあるわけです。取りうる可能な手段を持ってPF=1 を達成するわけです。 残念なことに寓話はPF=0のまま推移しました。取りうる可能性はVF=0を 願い真理表の4行目への以降を狙って「あのぶどうはすっぱい」という未確認 の情報であり真とはなり難いので不合理とされたのでしょう。 しかしながら受験などの競争に敗れたとき、伴侶獲得に失敗した時、家族 に死なれた時など、それは一度は高い価値を設定したわけですから、その 変更は容易なものではありません。しかしながらVS=1は実現されねばなら ないとおもいます。そのためには気にしない,わすれる、きりかえる・・・などで 対象価値の削減は実行せざるを得ません。 酒鬼薔薇、バスジャック、お受験はこうした価値判断レベルの変換にまでは 行きついていないサンプルかと思います。彼らは可能性にかけていたと思い ます。しかしながら病的な手段我々の持つ倫理に触れる結果となる手段を 不幸にも選択してしまったと考えます。もしかれらが戦国時代の権力者なら 罰則は加えられなかったでしょう。彼らは満足を得るのです。 >質問5:「フラクタル現象学の見地からの一般論導出とは、どのようなことですか?」 今日の脳化学であればやはり物理学や化学を前提とするものと思います。 カタストロフィーやカオスにしても基本的に現象に対して因果論モジュール を適合するわけです。ここには「たし、べし」はありません。 ゆえにそうした複雑な因果論モジュールをフラクタル現象学の一般論導出と 表現しました。 >質問6:「単純な統計的手法が哲学の方法だとお考えですか?」 わたしの示した目的論モジュールは、たとえば他者の痛みは観察できない としながらも現実には表情や反応で自分を投影して解釈を与えています。 そこから不都合が出るケースは蓋然的にはほとんどないでしょう。 私はファジィないし統計で目的論モジュールは観察可能と判断します。
- fwappy
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halka様: >fwappyさまが、どう返すかなとかおもいまして ? >先ごろよりクオリアエイジェントの方がいらしているようなので エイジェントって何でしょうか? >クオリアについてひとこと。 >上記の例でいえばクオリアとは事実命題の主観的判断ということがいえます。 全ては主観的判断でしょう。 >水平線上の月と空中の月のどちらが大きいかということで、賭けをしました。 >「水平線上の月のほうが大きい」は質感を伴う実感であり主観的判断です。 >結果、計測器を用いて視野角度は同じ、命題Fは客観的判断において >偽となりました。 計測器を用いたのは誰でしょう? 視野角度の「視野」とは誰のものでしょう? 計測者自身の主観が、命題Fを自ら反駁した というべきでしょう。 >ここで主観的判断F=1は有意味性を持つのでしょうか? 先の反論において、大きさを視野角度としましたが、 その判断が「正しい」かどうかは疑われるべきでしょう。 実際に二つの月を見てから、大きさを判断する過程を 調べる必要がありましょう。 したがってクオリア(というよりも主観的経験)は 十分に意味を有します。 意味がないのは”客観(的真理)”でしょう。 Q.E.D
- serpent-owl
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halkaさま まず、誤解なきように。別に「けしかけられた」から反論しているわけではありません。前にも書いたように「あいまいなうなずきあいで問題点をうやむやにしたくない」から話を詰めようとしているだけです。(とはいえ、「幼児虐待する母親」の解釈があまりに問題を卑小化しておられたため、少々感情を害したことは否定できませんが、しかしそれも前に書きましたようにあくまで具体例であって、本論ではありません。) 「質問1」に関しては「心を哲学的に見る作業には論理学で充分。可能と価値を含めた論理学ならよい」とのお答えをいただきました。「質問2」に関しては、「自己否定状態を回復するために対象価値を変換するか、もしくは事実世界に働きかけて可能性を変換するかである」とのお答えをいただきました。ありがとうございます。 「質問6」までのお答えが出揃うまでコメントは控えようかと思っておりましたが、軽く感想だけ述べます。 「質問1」へのお答えにつき。事実命題を巡る論理から価値命題は演繹できません。すると、命題論理に可能と価値を導入するということは、まったく異なった公理系を持つ論理を混在させることになろうかと思われます。新たな公理系の構築になろうかと。もちろん「完全性」を証明された公理系を援用することもできません。すると、その公理系の無矛盾性証明からやらなくてはなりませんね。 「質問2」へのお答えにつき。「自己否定の状態に陥った人間が、価値変換を選ぶか可能性の変換を選ぶか」という二者択一の必然性が、お示しの論理式にどう表現されているのか、というのが質問でした。答えになっていません。その二者択一は、結局「確率」ですか? ならば確率をどう論理式で表現するのですか。それとも「その個人の決断」ですか? ならばその「決断」を下した「心」は論理式のどこに表現されているのですか。…答えになっていません。 なお、ニーチェの言う「価値転換」と、halkaさんの言われる「価値変換」とは、何の関係もありません。老荘思想も同様です。 それから、「絶対的な価値」に関する私の考えについてのご質問、「絶対的な価値についてお考えになったことはありますか?」ですね。「あるなし」を選べ、と。 Have you ever thought about the absolute value? でっか? ほな、 Yes, I have. でんな。「ある」です。「考えたことは、ある」。 でも、これって「証明」するまでもないですよ。私がそれについて考えたことがあるということは、「証明」するまでもなく、私が白状します。「考えたことはあります」。はい。で、それが何か問題なのでしょうか? 「全貌」というのは、halkaさんの「心・命題同一説」の全貌という意味で用いた言葉でしたが、関係…あります? では、残りの質問へのお答え、お待ちしています。
- halka
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そもそも主観客観はカント以前ではその概念内容が現在とはまったく逆になって いたときいています。 subjectumはもともと、ギリシャ語のhypokeimenon(下に横たわるもの)のラテ ン語訳であって、「変化するさまざまな性質の根底にあって変わらないもの」とい う意味である、というのが本来の意味であったそうな・・・。 この意味に対峙する客観とは移り行く本質の束の間の表象であったとか・・・。 この意味を引き継げばむしろ表象であるがゆえに観察にこだわっているといえる のかもしれません。 >それに…yahooに行ったところで、事情の分からない人もたくさんいるわけですから わたくし、かの地ではpandora_mashのHNでやっています。 えげつない私の姿が知られてしまいそうですね。 >今度やったら管理部に死人が出るまで罵り倒すだけのことです。 ほほほ、たのもしき・・・。 パニックの語源であるパーン神が怒り始めると死者が出たそうでございますね。 それにしても、斯様な様になったのはわたくしがserpent-owlさまの美しきお言 葉に魅せられてsatonohukurouさまの質問回答に便乗して、あなたさまをけし かけたことにあるやもと反省しております。 もちろんsatonohukurouさまに論理学ファンになっていただきたいとの思惑 が本来の目的でございましたが・・・。 いまとなってはgooの管理者さまのご温情にすがるばかりでございます。 で >質問1:「人間の心は命題論理や述語論理で記述できるとお考えですか?」 > ・・・「できる部分もある」ことを認めるという程度のことです。でも、それで >「心を哲学の視点から見る」作業に充分でしょうか? 前回、前々回に述べたような観点から私は論理学で充分かと考えます。 従来の論理学は一般命題のみでしたが可能と価値を含めれば如何でしょうか? ニーチェなどもあなたのおっしゃる通り価値変換で永劫回帰思想を述べており ます。それから宗教?かどうか老荘思想などはズバリ価値変換ではございま せんか?無用の用・・とか。ただ価値は一元論二元論で語りうる実態などでなく、 時空と同じく議論領域と考えるのが私のやり方です。 後悔という感情がありますが、たとえば選択を誤ってつらい思いをしてしまった、 さて今になって悔しい、何とかあの時間を取り戻したい。 そこでツァラトウストラは言うわけでございますよ。超人は辛いがゆえに再びそ の生を繰り返そうとするのだ!! でも価値変換する構造的なものをもっと述べても良いのではないでしょうか? 今ある現実に只けちをつける御仁もいらっしゃりますが、それは自己慢心から くる天邪鬼です。今の苦痛がたまらなくて、そうだ!と価値変換するのがニーチ ェなのですね。可能変換はできないわけですからVS=1を達成するのは価値 変換しかないわけです。つまりこれは論理学というわけです。 >そして、私は、halkaさんの考え方は否定できるものと予想しております >(全貌が明らかではありませんので断定はできませんが 全貌といえばserpent_owlさまは絶対的な価値についてお考えになったこと はありますか?対象Fが価値を持つ場合、それを実現しさえすればVS=1は 達成されて意識の目的は終わるというわけです。 それについて、あるなし、をお選びくださいませ。そしてそれは論理的真理であ るか否かを証明できたら私の勝ち,satonohukurouさまから点数を頂く、という ことではいかが? satonohukurouさま!! 何卒お聞き入れくださいませ!!
>これは呼びましょう・・・といっているので「呼びかけ」です。 え?「呼びかけをする立場」ではないんですか? >「必要のない」は私の言で後者の「必要」とは発言者の必要です。 ここに「立場の違い」がありますね。 で、「そもそも説明をする必要のないもの」って学問になり得るんですか? 「そもそも説明をする必要のないもの」だったら、 「そもそも考える必要もない」んじゃないですか? >>そもそも・・・ > >ほっとけ! あれ?その程度しか説明できないんですか? 「そもそも」文章力があやしいんじゃないでしょうか? 「そもそも」意味がわかんないし、 「そもそも」論理性に欠けるし、 「そもそも」矛盾だらけですよ。 「そもそも」この程度のシロートの指摘で「ほっとけ!」? 「そもそも」その程度ならもうちょっと低姿勢で書いたら??
- pikitto
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>「立場のないものが哲学することである。」は、立派な立場ではないでしょうか。 >ですから・・・その「立派な立場」というものがそもそもないものを哲学と呼びましょう。 >「立場に見合う論理展開」とはその「立場の擁護」 にもなってませんか? これ無限連関しませんか? これは呼びましょう・・・といっているので「呼びかけ」です。 この「立場」とは発言者の立場を指します。 正に単なる立場です >哲学の場合そもそも説明をする必要のないものです。 >そもそも説明の必要のないものに理屈を付ける場合の >その「説明」とはその「必要」に対する説明と相成ります。 必要無いのに必要?その必要性の説明?? 発言者の言う「哲学」の定義を問うています。 「必要のない」は私の言で後者の「必要」とは発言者の必要です。 >そもそも・・・ ほっとけ!
- serpent-owl
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哲学と科学について。こちらを先に述べてしまいましょう。 以前述べたことと重なりますが、科学の拠って立つ基盤たる「実証主義」は、「あるものを、あるがままに」観察することを規範としています。「客観的に」ということです。 「客観的観察」は、いわゆる「デカルト的切断(カルテジアン・カット)」にその妥当性を根拠付けられてきました。観察対象と観察主体を切断する、ということです。「私が見るからこう見えるのではなくて、誰が見てもこう見えるのだ」ということであり、「観察する」という行為が観察対象に影響を与えないということであり、さらに言い換えれば観察対象からの「私」(個別的主体性)の排除です。 しかし、この点については、他ならぬ科学自身の中で、その限界が指摘されてきています。例えば量子力学では、観察するという行為自体が対象を攪乱することが確認されています。「量子の位置を確定しようとすれば運動量が確率的になり、運動量を確定しようとすれば位置が確率的になり、両方を同時に確定することはできない」という不確定性原理がここから導かれています。 また「客観」を人間が「知」として我が物となしうるかという点についても疑義が呈されています。halkaさんが名前を挙げておられるラプラス。「ラプラスの悪魔」で知られておりますね。「宇宙のすべての物体の位置と運動を知ることができれば、未来の宇宙の姿を余すところ無く予言できる」という機械論的自然観への信仰です。が、これについても、他ならぬ科学自身が「バツ」をつけています。未来は決して予測できない。例えば「三体問題」です。質量点が2つの系ならば、その運動は解析的に解ける運動方程式で表すことができ、未来永劫、いかなる瞬間の状態でも予測できます。が、質量点が3つ以上になると、その運動方程式は解析的には解くことができず、その都度その都度計算を繰り返すしかないことが証明されています(オイラーによる)。これだと未来は予測できません。運動そのものは「客観的」でしょうが、その振る舞いを「知」として人間が所有することはできません。ケプラーが十七年の歳月を費やして発見した太陽系の美しい秩序すら、細かく見れば「多体問題」の揺らぎに絶えずさらされています。この他にもカオス論絡みで「長期予報は当たらない」とか「生態系内のある生物種の個体数変化は予測できない」とか、類似のものは随所に見られます。 上記のことから、旧来の自然科学が志向した「客観性」とは、一つ「私とは関係なく自立・自存しているもの」であり、一つ「時間的に完結しており、今後新たなものを生み出す可能性がないもの」であると言ってよいでしょう。…後者に関して補足すると、「歴史やら時代やらに左右されない普遍性に高められたもの」ということです。ケプラーの法則も、アインシュタインのe=mc^2も、原理そのものとしては「無時間的存在者」に列せられています。 がしかし、そうした要素還元的な帰結だけでは現実は説明できない。これを示したのがカオスの発見であり、複雑系の議論です。現実そのものを見るためには、有限時間内には完結しない現象を相手にせざるを得ない。すなわち、「現実」をめぐる「知」は完結した体系としては示されえないのです。「知」は永遠に完結しない開放系です。自然科学においてすら、そうなのです。 いわんや哲学をや、でしょうか。 少々話は飛びますが、私には微妙に世代を異にする社会学専攻の友人がおります。彼らと交際が始まったごく最初の頃、彼らが異口同音に言ったことがありました。 「社会学って…学としての基盤が…なってませんけど…」 と、だいたいそのようなことです。知る限りにおいて、社会学専攻の方々はこの面において謙虚ですし、また社会学の本を読んでも、この手のことは最初の方に書かれていることが多いです。曰く、「百人の社会学者がいれば、百通りの社会学がある」などと。 「学」とは何かというと、ヘーゲルを齧った私には『精神現象学』序文に見える「教えうるし学びうる、方法的かつ体系的なもの」という定義が思い浮かぶわけです。大学生だった頃の私は「そお~だよなぁ」と同感したものです。そして、そういうものではない諸学を「いいかげんな学問」と思っていました。が… ヘーゲルって、江戸時代の人です。(…何人か、ズッコケました?) その「体系」が崩壊していることは論を待ちません。彼は『歴史哲学』を体系に包摂することで世界精神が歴史の中に現象する必然性を記述し、「歴史を知として所有」したつもりだったかもしれませんが、現実の歴史では現実的なものは理性的になってるとは限りませんし、理性的なものは現実的になっているとは限りません。お~い世界精神、どこ行ったんだ~? てなもんです。 「現実」は永遠に完結しない。「知」は現実を「所有」できない。原理に回収しきれない新たなものを生み出しつづける。「完結した体系」にはまとめられない。…社会学という学問は、まさにそういう現実に直に立ち向かうフロンティアなのだと思うのです。「学として」まとまるはずなどない。そして、それは恥ずべきことではなく、むしろ誇るべきことである、と。 で、哲学にも似たようなことが言える。しかも、開放系の学たる社会学も基盤とせねばならない「実証主義」に必ずしも足場を置かなくてもよいので、一面において自由であるともいえますし、一面においてだからこそ慎重でなければならないともいえます。 哲学も現実を相手にする以上、開放系の学たることを免れないでしょう。したがって、現実を見るまなざしは自然科学のものであれ、社会学のものであれ、まずは一旦受け容れる必要があると思います。しかし「それそのものではいけない」。…これがsatonohukurouさんの問題意識でしょうね。これへの答えは、やはり「実証主義 positivisum」に対する一定の negativisumだと思います。実証主義が立てる「客観」なるもの、その背後で行われている「私」の排除、その排除のプロセスに、実は時代状況に規定された「私」が混入しているのを暴くこと。「私」による「所有」の欲望が蠢いているのを暴くこと。そしてその「所有」が不可能であると宣告すること。「解体」の論理です。この「解体」は必ずしも破壊ではありません。貧しい「客観」からの脱却です。 とりわけ「心」が問題になりますと、心というのは「私」もまた持っているものであり、「他者」のそれを「観察」するのも困難なものですから、客観性の確保は難しいでしょう。さりとてこれが脳という物質的基盤と無縁に存在しているとも言えない以上、主観を基軸にした観念論も今さら許されるものではない。「心」が問題になる場合、観察主体が観察対象に影響を与え、観察対象が観察主体に影響を与えるということはむしろ当たり前のことです。すなわち「カルテジアン・カット」はなしえない。ということはやはり、「主観-客観」という二分法図式そのものの基底に潜り込んで考える方策をとるのがよい…ということになるのではないでしょうか。 …読みかけで、生半可理解の『内部観測』を交えつつ書きました。まだまとまりません。「自分で書く言葉」を媒介にして理解しようとしながら書いています。「あなたが書く言葉」も媒介になれば、と願います。 * halkaさま 低能管理部による妨害の心配でしたら無用だと思います。もうやらないでしょう。今度やったら管理部に死人が出るまで罵り倒すだけのことです。 私は、どの質問においてもそうですが、質問者の利益を最優先に考えています。この質問のようなややこしいものになりますと、回答者による逆質問や補足要求が出されてくるのは止むを得ないことだとは思いますが、しかし、質問者を無用に混乱させたり困惑させたりするようなものは好ましくないと考えます。 そこに照らして、halkaさんの立論に関してhalkaさんの善意を疑うものではありません。質問者の利益を思って考え、書き込まれているものと理解しています。 が、いかんせん、私の考えとは対立しております。そして、私は、halkaさんの考え方は否定できるものと予想しております(全貌が明らかではありませんので断定はできませんが)。さらに、この場ではhalkaさんの考え方に批判を加え、可能ならば否定し去ることが質問者の利益に適い、かつ、後にこのスレッドを目にする読者にも参考になるものとも考えています。したがって、この場で起きたことはこの場で済ませたいと願うものです。 それに…yahooに行ったところで、事情の分からない人もたくさんいるわけですから、まともに話が進められるとも思えないのです。
お礼
No.170489とNo.172620についてのお礼です。 正直「感動」ものでした。 先ず、No.170489 についてですが、幻影肢についての深いご理解に感動です。そして、身体論からのアプローチを提言していただき、参考文献を紹介していただきました。ありがとうございます。特に、エリアス・カネッティは、全く承知しておりませんのでした。最後に、私の質問がserpent-owlさまの複雑系との関連を考察するきっかけとなったと、いやはや照れくさいのみです。 次ぎに、No.172620についてです。いよいよ佳境に入ったという感じです。身を乗り出して、ご意見を聞かせていただきました。「客観」と「主観」についてのご説明は、実に理解容易でした。そして、私にとって新たな発見がありました。「知の解放性」です。そして、「実証主義の解体」については、私は新たなパラダイムとして捉えました。鋭いご意見かと考えます。 さらに、感銘を受けたのは、私の拙い質問を実に的確に掘り下げていただいたことです。人の気持ちが良くわかる人だ!という感想です。他者の心は観察することは出来ない、ということになっていますが、これは、考えてみれば、実証主義に軸足をおいての考えかも知れませんね。特に、私の質問は全くそのものでした。それと、『内部観測』(青土社・郡司ペギオ幸夫ほか)は、私とっても必読書のようです、早速取り寄せます。
- halka
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> しかしながら、クオリアを、お姉さまは有意味性を有しないことを証明されて排斥されていましたが いえ、じつははしたないですがfwappyさまが、どう返すかなとかおもいまして、 つい・・・。 たぶん、バカは相手にしないといったところでしょうか・・・。 >例えば、お姉さまは、最初に意識を前提していますが、その意識そのものを説明 >する必要があるように思いますがいかがでしょうか。 げっ、なんとなく山姥の私目に観音経の祈りを込めた矢を射掛けられたような 気がしました。クオリアリーダーの茂木様は以前心脳問題を分類して、自己意識の 問題を極めて難しい、に区分していましたが「わたしはなぜあなたでないのか?」 という問題に納得の行く明確な答えを提示せよというようなことですね。 申し訳ありませんが私の関心はどうも目先に傾いていてそこまで到達していま せん。私の現在の主な関心事は不安とか無気力とかの感情が命題のコントロール で制御可能かどうかといったところにあります。憎悪って言うとどうも個人的だし テーマとしてはタブー視されがちですね。しかしこの命題の三区分ならまあ説明 ぐらいまでは行ってるとは思いますが、それは他の擬似科学でもレベルは 同じというところでしょう。ポイントはやはりそれらマイナスの感情より抜け出す のに画期的な有意差を示す統計的結果を導出しなければならないようです。 ここでやっとあなたの「科学的」と「哲学的」の区分わけになるのかもしれませんが 不安とかについて科学的にやるとしたらやはり、脳内物質のノルアドレナリンとか CRFの関与と人の不安状態の観察可能な部分について量化して相関を見ると いう研究方法になるのではないでしょうか。科学的方法はやはり普遍的に真であ る命題に基づいて構成されるというのが原則かと思います。主観的に真である ような命題を取り込むことは科学にはできないと考えます。科学では「わたしは あなたがすきだ」という命題は脳の中のパルスと化学式で解説しなければなりま せん。 哲学は先に示したように価値命題のような主観レベルの命題を扱い、その構造を 考えることができます。「わたしはあなたがすきだ」は命題の単位として分析の中 に取り込むことが出きるのです。 邪悪なふくろう叔父様、時間がなくてすみません。 でもgooの形式に合わないなら如何でしょうか,Yahoo哲学あたりでは・・・。 >「真偽判定する一つの体系である」と定義することによって、さらに主格を >前提にせざるを得なくなります。この主格についての説明が為される必要を >感じるのですが。 そうですね。すみません、もう一度考えてみます。
えー、この問い楽しく拝読させていただいとります。 哲学書を1册も読んだことのないエセ哲学好きのoni_ocでございます。 いろんな方々の御意見を「ほほう?」「な、なんと?」「へへ~??」 などと読みつつ自分の無教養を情けなく思う今日この頃です。 んで、本題に関係ないことかも知れませんが、いささかpikkitoさんに質問が。 >2「立場」について >>「立場のないものが哲学することである。」は、立派な立場ではないでしょうか。 >ですから・・・その「立派な立場」というものがそもそもないものを哲学と呼びましょう。 これも「立派な立場」ですよ。んで、 >「立場に見合う論理展開」とはその「立場の擁護」 にもなってませんか? これ無限連関しませんか? あなたのよく使われる「そもそも」って言葉は「そもそも~~である」 というような用法をもって使用される立場の説明になってませんか? >哲学の場合そもそも説明をする必要のないものです。 >そもそも説明の必要のないものに理屈を付ける場合の >その「説明」とはその「必要」に対する説明と相成ります。 必要無いのに必要?その必要性の説明?? 他の方の回答は理解できましたが、ここの部分はドシロートの僕が読んでも 矛盾だらけに見えます。さて、何をおっしゃりたいのでしょうか? わからないので御説明ください。 突然本題に関係のない割り込み失礼を致しました。 んでは、この問いの更に深い考察のされんことを草葉の陰から望んでおります。
- serpent-owl
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たびたび丁寧なお礼、痛み入ります。いささか奇妙な盛り上がりである上に、管理部の低能どもによる「妨害」も隠微な形で行われており、ちょっとやりにくいことはたしかなのですが、私自身、この機会に勉強させていただきながら参加いたしております。実は今、『内部観測』という本(青土社・郡司ペギオ幸夫ほか)を読んでおりまして、心身問題にも有意義な示唆が得られそうです。直接的には「複雑系」の問題なのですが、知覚心理学のギブスンが提唱したあほーざんす…あ、失礼、あほーは管理部でした…あほはほっといて…「アフォーダンス」ですね。その、アフォーダンスとの関連もあるらしく、ちょい興奮モノです。 前回の書き込み、「簡潔」との仰せですが、なに、上っ面をさらっただけです。satonohukurouさんには釈迦に説法というもの。目的は冒頭にも断ってあるように「他の回答者へ向けた情報共有化」です。そのへんが全然読めていないようです。管理部の低能どもには。その「妨害」のおかげではっきりさせねばならない部分がうやむやになろうとしている。…というわけで、halkaさん。「難点として、現段階では唯心論的独我論に陥る可能性があると思われます」とのこと。わかってくれているなら、おぢちゃんはそれでいいんです。「現段階で」、そうなってますね。…と、ここで「唯心論的独我論」の「わかりやすい言い換え」を一旦書いたのですが、消しました。私の残りの質問にお答えいただいた上で(強制はしませんが)、必要があれば申し上げましょう(とか言って「答えがまだだよん」てことをさりげなく確認しちゃったりなんかする…)。 いやいや、「邪悪なふくろう」の片鱗をお見せしてしまいました。とりわけ「権力を持ったバカ」が嫌いですので、ついつい。さて「幻影肢」の問題。…するとやはり、仰せのように「身体論」からのアプローチになりましょう。 いったん、喩えとして、自動車の運転をする際の「車両感覚」を思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。とりわけ、バスやトラックのプロ運転手さんたちの卓越した車両感覚。中には後ろから笛の音で誘導してもらう人もいますが、慣れた人なら椅子に自分の尻を納めるのと大して変わらない感覚でピタッと一発、後退で駐車ポジションに納めるでしょう。バスのおケツなど、自分のおケツより十メートル近くも後ろにあるのに。 この場合、「身体意識」は、客観的に実在している皮膚に包まれた肉体という空間範囲を超えて、箱型の車両全体まで「広がって、延びている」とも言えるでしょう。その意味で、ジャンボジェット機や巨大タンカーの運転手さん、偉大です。でもちょっと延ばしすぎましたから、今度は縮めましょう。足を折りました。痛いです。歩けません。松葉杖をつくことになりました。最初は違和感バリバリです。脇の下が痛くなります。たまに杖の先の接地に失敗して、すってんころりん、あいててて…なんてことにもなります。でも…慣れてみると「身体感覚・身体意識」は杖の先まで延びます。杖の先で地面の感触を「感じる」ことができるようになる。そうなれば、もうR2D2みたいにゴキゲンで歩き回れます。 もっと縮めます。stomachman症例報告に続き、serpent-owl症例報告になりますが、実は一月頃、バイクで自動車と接触事故やりました(95:5であちらペナルティ)。ぽ~んと投げ出されて、ぐしゃっと着地。擬音語のわりに大した怪我はしてなかったのですが、しばらくは立ち上がれませんでした。のちの診断ではただの打撲で全治二週間程度のもの。ですが「その時」には、意識は非常にはっきりしていたにもかかわらず、まったく身体を動かすことができなかったのです。車道のど真ん中だったので、人に助け起こしてもらって路肩に移動。そこで着地した方の足を恐る恐る地面につけてみて、「あ、折れてないや」と気付き、ようやく少しずつ動かせるようになりました。…きわめて、少しずつでした。 この場合、瞬間的な自己暗示で「あ、折れたかも…やばいかも…死ぬかも…ここ、天国かも…」とでも思っていたのかもしれません。そうでないかもしれない。けれどとにかく、「意識が身体よりも内側に退いていた」とは言えると思います。 こうして見てみますと、意識というものは独り「脳」のみに局限して展開されているのではなく、非常に可塑的に伸び縮みするもののようです。すると「幻影肢」というものにも一応の解釈を施すことができそうです。すなわち、自己の肉体は自動車や杖のように取り外し可能なものではなく、生まれてこのかたデカくなるたびにデカくなってきているわけですから、その肉体に関して及んでいる「身体意識」は非常に根強く意識に枠づけられている。だから簡単には消去・変更されないのだ、と。 症例によっては、存在しないはずの部位に感覚を感じることもあるそうですね。無いはずの貴方が噛んだ小指が痛いとか(古いな…)。切断された付け根で感じるのではなくて、まさにその「存在しないはずの小指」で感じるという。これも不思議なことです。…早計かもしれませんが、やはりこれは、「意識」というソフト的要素(と言って語弊があれば、心的内容ないし観念的要素)が、脳というハードウェアにも刺激を与えうることを示唆するようにも思えます。「脳」の側から説明すれば、脳内に形成された、腕を担当するニューラルネットワークが、腕が切断されたのちもそのままであるため、脳は腕がそのままあると誤認し、意識にもそのように受け止められる、と解釈できます。が、その他方、実際には存在しない「小指の神経」に感覚を感じているわけですから、身体意識の介在も否定できない。その感覚は、脳にではなく身体意識に由来する可能性もある。やはりどうも、脳と身体と意識とは、別々のものでありながら、しかもどこかで分けられない部分があるように思えます。 「身体論」からのアプローチであれば、ヒントは色々なところにあります。前に挙げたメルロ=ポンティや市川浩さんもそうですし、鷲田清一『普通を誰も教えてくれない』にも関連する話があり、佐伯胖(さえき・ゆたか)さんにも「眼鏡が置き忘れやすいのは、それが置き忘れようがない自分の肉体と、外界に空間定位した諸事物との中間に漂っているからだ」という文章があります(出典失念、調査中)。 それから、人間には、おそらく動物でも変わらない「安全空間」が身の回りにあります。赤の他人がすっと、例えば自分の首元まで手を伸ばしてくると、思わず首を引いてしまいます。「侵入してほしくない空間」を、他者が突き破ったからです。ゴルゴ13に至っては、「自分の後ろ」という空間がすべてコレになります。思わず殴ってしまいます。 エリアス・カネッティ『群集と権力』(法政大学出版局)には、これを絡めた話が載っています。互いに安全な距離を保った「群集」は落ち着いている。けれど例えばすし詰めの桟敷席などでは他者と安全な距離が保てず、時に荒々しく、時に妙に明るい雰囲気がかもし出されます。こういう効果を巧みに利用したのがナチスです。集会に集まった群衆を、親衛隊やらユーゲントやらが取り囲む、そして演説がたけなわとなるにつれて、親衛隊は少しずつ前に出る、すると群集は圧縮されていく…いやが上にも興奮が高まる、というわけです。 さらに冒頭に挙げたギブスンのアフォーダンス。いやぁ、これが今勉強中の複雑系問題に関わってくるとは思いませんでした。その意味でもこの対話は私にとって非常によいきっかけになりました。こちらももう少し考えを詰めてから述べます。 で、「文学っぽいアプローチ」ですが、これは「哲学ならではの何でもアリ性」に立脚して考えておりますので、ちとやっかいです。少々お待ちを。また「哲学と科学」という問題にも、そこで考えを述べたいと思います。
お礼
ご回答の皆さまへ No50 の回答にお礼をし書いている現在も、議論ははるかに先を行っております。お礼が遅く申し訳ございません。serpent-owl さんから結論をいただきましたので、少しコメントさせていただきます。 serpent-owl さまへ 長い間、本当にありがとうございました。また返礼が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。serpent-owl さんにゼイゼイと息を切って、振り落とされまいと、付いて行くのがやっとという状況です。 多岐にわたるご回答をいただきましたが、お礼としてまして、私の最大の関心事に限定し理解できたことと、私の本質問から得た私の考えを述べたいと思います。 「心」に関する「知」が有する性質=「開放系の知」であり「完結していないもの」である。このパースペクティブからは「過去への視線」と「未来への視線」が得られる。 過去は現在の累積でありその無限性から説明が困難である。未来は本質的原理的に予測不可能である。予測不可能性から少なくとも「心の可能態」に関する説明が必要ではないか。すなわち、「脳」、「心理学」、「哲学」など、いわゆる物から観念までの各階層のいずれかに還元するのではない『その全体が絡み合った複雑系としての「心」を眺めてみる必要』がある。 科学は、自らの拠り所であった実証主義から現象(世界)を説明することに限界があることの自覚から人文諸学への歩み寄りが始まっている。このような現況からすると、「哲学の見方」と「科学の見方」の区分に神経質になることもないのではないか。要は、真理を追究する態度で重要なことは、「その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む」ことではないのか。 大変貴重なそして重い回答でした。心という事象をいかに説明するのか、ということを勉強していくうちに、哲学での分野での説明と、科学での分野での説明の態度に疑問を持つようになりました。それは、哲学で使用している心に関する知識は科学的知識をも根拠としてしているのではないか、それなのに科学において心は学の対象足りうる資格を有するのかという問題を有するのではないのか、この2つの疑問のために、一体「心を説明する」と言うことはどういうことなのだろうか、という問に突き当たる羽目に陥ってしまったのでした。 serpent-owl さんの回答から私が学んだものは、 「心の性質(本質)を理解せよ、そしてそこから出発せよ。既存の論理に還元するな。」 でした。 serpen-owl さんは、心の本質を「カオス」ととられておられました。「開放系の知」としての本質です。先に引用しました「心の科学は可能か」(土屋 俊、認知科学選書)で、土屋は結言に代えて心の説明の困難性について、心の「文脈依存性」を指摘しています。すなわち「私」と「社会」を内容に含む概念は形式的処理が困難である、としています。serpent-owl さんの回答にも通じるものがあると感じました。 そこで、心の概念を説明していくうえで問題とすべきは、「複雑系」、「文脈依存」で性格づけられる心を説明するに相応しい「論理」を見出していくことだと思います。心の概念を説明する論理として「カオス」、「量子論」、「進化論」・・・(たぶん他にもあるはずですが、これから勉強していきます。)が議論されているのだと思います。 「心の可能態」に思いをいたすと、なんだか「心」がますます果てしなく遠くのものになるように感じますが、とりあえず、第一歩を踏み出すために、私に何ができるかを考えてみたいと思います。 本当に貴重なご意見ありがとうございました。多くの方に参加していたできましたので、その方々にお礼をしなければいけません。もう少しオープンにしておきます。そして、少しずつ終末態勢とさせていただきたいと思います。