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信仰するとは固定観念を鵜呑みすること=哲学ではない?
学問は出来あがった取り決め、公理主義、 同じ性質の規制主義で 反証可能性を有するというものである(仮説)。 宗教が例えば「因果応酬」という概念で 悪意を持って報いることを推奨するのであるなら いつまでも原因が連鎖する結果になるように思います。 哲学が現象が成立するための根拠を探ったり 原因を推測することで解決しようとする姿勢と 宗教教義は逆するのではないかと疑問なのです。 哲学は永遠に推論であるのですよね? つまり知識や理論に執着しないという姿勢だと思います。 無学故の間違いならご指摘下さい。 厳正とされる科学でさえ 既に確立した理論法則の変更をしてきたのですから 宗教も色々ですが、 「固定観念」ではないという証明が出来るのでしょうか? 「固定観念」だから(都合も)良いのでしょうか?
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ご質問の趣旨が判りにくいですが、表題からすると、「信仰は哲學と同じか」といふ疑問でせうか。勿論、同じではありません。 學問、哲學、宗教は、いづれも人間の心の作用であり、人の行動を支へるものですが、そのやりかた、作用、性質など異なります。學問、とりわけ現代科學は、論理に支へられて、その成果は他者の檢證を前提とするために、社會的に共有することができます。學問の應用は商品や社會制度、その他の仕組みなどに應用されて、誰もが享受することが出來ます。 哲學も論理に支へられた心の働きですが、必ずしも他者による檢證を前提とせず、個人的な納得があればよいとされます。從つて、その成果は必ずしも社會的に共有されるとは限りません。 宗教は、心の作用で、社會的な性格の強いものですが、必ずしも論理を前提とするものではなく、「非論理ゆえに信ずる」面もあります。「因果應報」といふ考へ方は宗教では可能でも、科學的な檢證は出來ませんし、哲學的な論理展開も馴染まないと言へます。 「哲学は永遠に推論」とか「宗教は固定観念か」など、難しい言葉で考へずに、ご自分の具體的な言葉で考へるはうが、考へ易いと思ひます。
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miko-desiさん、こんにちは。 人間は理性的動物である限り何らかの価値観をもって生きているのだと思いますが、それが絶対的価値観となれば、哲学だろうが、共産主義だらうが無神論だろうが 全て宗教ということになるのではないでしょうか。 信仰の対象が、ニーチェやウイトゲンシュタインという方もいらっしゃるかもしれませんね。 自信無しの回答では失礼なので自信ありにしておきます。
お礼
kimitoki333さんおはようございます、 回答ありがとうございます。 人間が理性的動物ということは 理性も本能で 人間は社会性もあって 社会で絶対に獲得する 理想の価値観(道徳)があるなら 本能と断言して問題ありません。 宗教も言語を習得するように 本能を満たすべ人間の能力に 用意されているかもしれませんね。 ありがとうございます。
補足
私は回答を入れるのはいつも「自信なし」です。 kimitoki333さんは真面目で信頼できる人です。 でも自信なしでは失礼でもないですよ。 失礼なのかな? 表示させた言葉の意味を変えたり、撤回したり、 時間を戻して なかったことにする責任能力がないから そうしてます。 ウケを狙った回答では「自信あり」にしてます(笑) このことに特に意味はないです。
- reikasuzu
- ベストアンサー率30% (4/13)
哲学は宗教とは違うのだと、長い間主張してきたように思います。 でも哲学も宗教とは重ならないようでいて、かなり重なるものだと思います。 とくに哲学はヨーロッパ、すなわちキリスト教の圧倒的影響力のもとで発達してきた学問だと思います(それに賛成するにせよ反対するにせよ)。 例えば、デカルトは全てのものを疑って、絶対に確実な原理(われ思うゆえにわれあり)から初めて、推論を重ねることが哲学だとしました。 でも彼の『省察』の魅力は、神の存在証明をする時の迫力と、神という概念を巡る、めまいのするような論証だと思います。 結局、唯一絶対の真理=「神様」を巡って思考が展開されています。 ビトゲンシュタインは全てを疑うものは疑うことすらできないといいました。 ニーチェは全ての真理の裏には「信じること」=価値評価がある、といいました。 何か思考を始めるときに、その背後に思考の展開を規制する「価値評価」「信念」なるものがあって、それは疑うことができない。 もしそれを疑ってしまうと、その思考そのものが崩壊し、考えなくなる、という一点があるような気がします。 規制の固定観念を否定するような思考を展開する場合、その裏側に「社会が押し付ける固定観念を逃れて自分の信じられる真理を見つける」という想いがあることも多いかもしれません。 そのとき、そうした想いは疑うことができない一点となり、この一点は非常に「宗教」に近いものとなると思います。 (そうした一点を疑い続ける分裂的な思考のスタイルもありますが、それはここでは置いておきます) つまり固定観念零では基本的に考えることができない。人はいくつかの固定観念の上にたってしか考えることができない。 この点は憶測ですが、従来哲学と宗教が区別されてきたのは、<哲学は、キリスト教の教義の枠の中でものを考える神学とは違う>という主張だったと思います。しかし、そうした哲学も、実はひとつ、あるいは複数の「固定観念」を中心に展開せざるをえない。 すると従来キリスト教とはなじみのない日本人なんかにすると、哲学も神学も似たようなものと見えてくるのかもしれません。 長くなった割には不明瞭かつ、問いに的確に答えていないですね。申し訳ありません。
お礼
reikasuzuさんアドバイスありがとうございます。 返事遅れてすみません。 明瞭とか的確を 苦手な私から求めるようなことはしません(笑) 哲学でも教義でも難しいもので 用語や用法を覚えることと理解は別だと思います。 知らずに実践出来てる人だっていたり。 当たり前や簡単なことが 実は難しいものと最近思うのですよ。 >人はいくつかの固定観念の上にたってしか考えることができない。 そうですよね、固定観念が無しに疑うことも出来ないですね。 疑うのは信じたいから 裏切られたくないからであるかも。 お礼も的確でないですがお気になさらぬよう(苦笑) ありがとうございます。
補足
●統括でのお礼● 大幅に締め切り遅れましたことをお詫びします。 年も変わり、 明けましておめでとうございます。 宗教も人間の英知と営みから生まれた哲学ですね。 哲学もいずれもっと身近な教義になるといいなと思いました。 宗教は哲学にいない教祖がいることで智より情を優先してしまったり、 その点で強みにも弱みにもなるという意見のhakobuluさんと、 宗教は「非論理ゆえに信ずる」面もあります。 に納得のmusokuninさんに心ばかりのポイントを贈ります。 みなさんの回答を幾度と無く読ませていただき参考になりました。 私が回答の時に時折パクらせてもらうかもしれません。 皆様にありがとうございます。 哲学は自分が納得しつつ自分を疑うことでもあるのですよね。 点数のことなど、パクられても多分損させませんからお気に為さらぬよう~。
- hisya
- ベストアンサー率22% (65/285)
哲学は、あくまで知の問題であり、普遍的な妥当性を求めます。 しかし、宗教は、本質的には、私的なもの個人主義的なものです。 信仰というのは、思想を頭で理解するものでなく、言葉を超えた特殊な感情体験です。 それ故に、宗教の発生以来、信仰には様々な思い込みが付き物でした。 そして、世界的な宗教であっても、その中に誤った思い込みもたくさんありました。 哲学はこうした宗教の周辺にある誤った思い込みを取り除くのに役に立つのです。 たとえば、科学と宗教の矛盾は科学に軍配が上がりました。 しかし、宗教の本質(神の問題など)は哲学では捕らえ切れないのです。 そういう事は宗教的な天才が直接体験で啓示や悟りを受けるしかないのです。
お礼
hisyaさん回答ありがとうございます。 クリスチャンなのですよね? 貴重な意見ありがとうございます。 哲学は自分で考えることで、 宗教は教わるものって思ってました。 でも教わっても色んな解釈が出来るように 哲学書同様、教本も難解な表現に わざとしてるのだ、って勘繰ってしまう。 安全弁か?やはり私の知能の問題か? 哲学は高級な敷居が高い学問と思われてますよね、 実際は誰もが実践していることで。 いや哲学を本気で学べば 相当広範囲に及ぶ深い推測力、 知識教養を求められて大変です。 どちらかというと宗教の方が生活に馴染んでます。 哲学を知ってて生活が潤うってこともありませんし。 それこそ生活の役に立つのだろうか?ですし。 それが私が崇拝する恩師(一般人です)は 「知識に価値は認めない、明るさは価値がある」 という方だったのです。 感情や思いこみも理解から導き出されるものではなく、 言葉を越えた、言葉以前の存在 それが世界が動かしているのかもしれませんね。 感じ方からそのように値打ちがあったりなかったり 大切を確認しては体感していくようです。 哲学好きでも死ばかりは物質世界にいては謎ですね。 宗教は死を終わりでなく人生にしてしまえる。 生きる目的は永遠の命であってもいいし、 何か一つでもしっかり感謝して死ねたとか、 大切な人に涙を贈ってもらうこと とかでもいいのではないかと。 私は宗教と哲学だと、 宗教の方が妥当性を求めているって感じしますよ。 でもどちらも深遠なもので 理解を深めれば深めるほと 結論は出せなくなりそう。 持論ばかりでお礼になってますでしょうか? 迷ってばかりですが、教えてもらうことも 考えるのも楽しいです。 ありがとうございます。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#3です。ご返事ありがとうございます。 哲学など門外漢の私がこんなことを言うのもおかしいというか、おこがましいのですが、 前回、宗教を哲学の8合目と言ったのは、哲学が山頂である、という意味ではありません。 人が哲学に惹かれるのは、そこに、あるかなきかの山頂を目指す「あくなき追求心」が常に存在するからだろうと感じています。 そして、端的に言えば宗教はそれを諦めて、8合目にいながら「ここを頂上ということにしようじゃないか。これだけ登っても頂上は見えてこないし・・・」と言っているような印象を受けるのです。 ですから、宗教は論理を嫌うと私は思っています。 「そういうことにしておこう」ということで成立しているのですから、8合目までの登り方に対する論理はあっても、そこから先に関する論理展開はタブーとされ封印されるでしょう。 ふと思ったのですが、「教祖」にこだわるというのも宗教の弱点ではないでしょうか。 「教理」だけではなぜいけないのか。 それだけでは、論理面から検証されると回答不能なことが出てきて困るからではないでしょうか。 その時威力を発揮するのが「教祖はこのように言っておられる」ということになるのでは? 「固定観念」と言ってしまえばどのような思想もそう呼べると思われますが、問題は「教理=教祖」となってしまう構図が強い場合だと思います。 「固定観念」ではなく「固定人」になってしまいます。 観念は齟齬があれば変更するにやぶさかではないと考える人がいたとしても、相手が「人」となると【裏切り】の心理が醸成されてしまいます。 このあたりが宗教の留意点ではないかと私は感じています。 本物を掴む唯一の方法は、偽物を掴まない、ということでしょう。 そして、本物が無ければ諦める、という潔さも必要かもしれません。 ちょっとズレスレになってしまったようで失礼しました。 いつも頭の体操をさせていただきありがとうございます。
お礼
hakobuluさんは全~然ズレてませんよ、 私のお礼が絶対ズレるのはいつものことです!し、 もう慣れて下さいっ。(ある境地に達しているので反省しない私) それでも何か、パクってでも書くことは 文章の自主トレにもなるので 除名にならない限り諦めず続けます。 お付き合いありがとうございます。 時代よ頭を解しに私に付いてきて! というか低次に原始に帰ってしまえ(爆) ありがとうございます。相変わらず失礼ばかりしてます。 哲学は良い所まで来ていても 満足しない探求心、好奇心あってですよね。 人が満足するには 教祖様とか対象が人間っぽいのこと望んでしまいます。 法とか自然とかより人間だからの愛が嬉しい、 人間だから特に裏切られて悲しんだり。 教祖は宗教の突ける弱点でもある、なるほどです。 教祖というか私の恩師はこう言ってたって 5年経って威力を感じたり(鈍感な信者って引くでしょうね…) 古美術鑑定士さんて物心ついた時から 本物に囲まれていたんですよね、 だから偽者はピンとくる、違和感を感じるって。 お礼の長さ、もろもろにバラツキがあっても気にしないで下さいね、 私は一般人より何倍も回答を、自分の文章も読み返しミスはなぜか減らず悩み尽きないです。 だからもう何に優先順位をつけて悩んだらいいのか?状態。
少なくても欧米人にとっては「神は存在する」これを真理として証明することに躍起になっているのがあらゆる学問だと思います。(もちろん例外的な実験もあると思います) 日本ではこの姿勢は輸入できていないから、たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか」とか田舎臭い無意味な議論まで付き合わなければいけないのだろうと思います。 魂には広がりがあり、お互いに共感できるものですから、そうした心にすら疑いを持つと良くないと思います。 そうは言っても知性の暴走は自分では止められないと思いますが。
お礼
primeapeさん、回答ありがとうございます。 欧米人には日本人が何を信仰しているか知られてない、 日本人に無神論者も多いとうことさえで、 むしろそれは不自然、不可解なことなのでしょうね。 以前アメリカ人に「信仰は何ですか?」と聞かれて 「えぇぇ~信仰はありません、全然ありません!」って答えたことがあります。 しばし沈黙の後 「実は私も何も信じてない」って若いアメリカ人は告白しましたよ。 勇気のいることなのでしょう!? たまたま変わったアメリカ人だったのかも? 信仰があれば死を恐れなくなるが 自殺は抑制出来るというのが素晴らしい。 「生きる苦しみなんかより死後の人生はもっと大事! とにかく誰もかれも神のご加護で 祝福されて生かされてます」みたいな。 虚しい慰めにも聞こえてしまう不粋な無神論魂なのです。 宗教に反論ばかりするのではないですよ、 旨み成分の良いとこ取りしたいだけで 自分なりに本を読んだりgooしたり 楽しみながら学んでます。 刺激されるところ学ぶべきところ大です。 身近いた人と共に宗教が「死とは?」「偉い人とは?」「大切とは?」に触れ合って 神妙な気持ち、感謝の気持ち、礼儀の大切さを 教えてもらいましたもの。 「信じているから救われる」って 純粋な人間になりたい気持ちもあります。 でも無神論(他信論?)者が多い日本人で 訳のわからないことも堂々と公言できて 本当に良かったとも思うです。 ありがとうございます。
補足
お礼の文中の他信論を、多信論(とっさに思いついた言葉です)に訂正します。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
難しいことはわかりませんが、人は弱い者です。 その弱さを否定して生きようとする人(現実から目を背けようとする人)にとって哲学は無用でしょう。 しかし、いくら自身が否定しても弱さ自体は厳然と存在するので生身を苛みます。 そこで、問答無用でその弱さを否定してくれるものが求められます。 宗教とはそのようなものであって(様々な宗教の教義というものを殆んど知らないので、「ものだと思う」というのが正しいのでしょうが似たようなものでしょう)、『哲学的姿勢』とは相容れないものではないかと感じています。 哲学山の8合目に作られた緊急的避難小屋である、といったイメージを持っています。 かといって、哲学山の山頂にはなかなか辿り着けず、その避難小屋があって命拾いする人々も大勢いますから、その価値を軽んじているわけではありません。 ただ、山頂でないのに山頂と思い込ますのは良くないかな・・・、などと思ったりすることはあります。 蛇足ですが、 弱い人間・強い人間という区別があるとすれば、 「自らの弱さを堂々と受け止めているかどうか」 ということになるのではないか、と思ったりもします。
お礼
hakobuluさんいつもお世話になります、回答ありがとうございます。 私は理屈っぽい表現が苦手で(でも好きで使ってしまう) 繊細な人に返って混乱させてしまうようで、すみません。 大体のフィーリングで解釈して頂いて私はOKです。 人間は肉体的な辛苦を怠けることは進んでしたいのに 精神的な辛苦には何故こうも勤勉でしょうか? 全知全能、絶対の神様がいて 救いや許しが与えられると信じたい気持ちはわかります。 哲学の山頂に住めばえらい変人となりそうですが。 あんまり哲学ばかりして一人強くなるのも 良い生き方とかけ離れそう(笑) 弱いからこそ、美しいドラマもありますもの。 ありがとうございます。
「不合理ゆえにわれ信ず」 信仰は人間の知恵にとっては愚かで、誇りにとってはつまずきである、という言葉があります。 哲学とはまるで逆行しているような言葉です。 (哲学は人生の知恵を愛し求めることからはじまったものだから。) しかしながら何故人間が信仰を持つかと言えばそこに絶対者による救済と恵みという希望があるからです。 神仏などの絶対者の真実を信頼し、その正義を確信し、その支配に服従するということは、救済と恵みという絶対者による権能の発現を待ち望むことであると言えます。 それを「固定観念」と仰るのであれば正に信仰は「固定観念」です。
お礼
selbustさん回答ありがとうございます。 信仰により、固定観念、常識により連帯感を持てる合理性はあると思うのですね。 固定観念を共有する方が人類の発展に便利、多大に貢献出来てますよね。 哲学に絶対なんてありませんよね、多分…。 哲学がどう便利なのか…。 変人にとっては!?になりそう。 信仰は便利だし、普遍である(と信じられる) から哲学とは言えない!に傾倒しております。 ありがとうございます。
補足
なんだかよく解らないお礼だったので、追記します。 全知全能絶対の神様に見守られたいって理想ですが、 信仰すると一個も疑問を持てなくなるのではないか? ってそれでもし、まだ迷って不都合があったら 責任は信仰ではなく自分の信心不足になるんですよね。 それだったら最初から服従が楽で幸せだったより 自分の自由意志で悩んだ末での 結果だった方が納得しやすいですよね。 悩むのが青春!(年齢制限なしで) それ故、自由は厳しいですが、 恩着せされることも、 自分がしてしまって自分に失意したり 孤独にこれ以上失う自由もないのだから 孤独も誇りです?自由気ままがいいなぁ。 孤独を知るのも、人が好きになる方法になる。 私は人を嫌いになるってあんまりない。 それってすご~く幸せなことですよね。
お礼
musokuninさんアドバイスありがとうござひます。 そうでございまふ。 簡潔に「信仰は哲學か」という疑問でございまふ。 哲學は個人的に納得すればいいとうのも納得で そうして私は孤独に生きてきましたのでせう。 心理學も心の働きを科学的に檢證するものなのだと思つていたら 精神活動の檢證にはならないらしい。 心の領域も細分化され、 学問の壁が多くなり過ぎ担当外、 責任外になつたのでせうか? 宗教や芸術に感情をなくすと それこそ成立しえないものだと思いますが、 学問に感情が必要かどうか? という疑問にしてもいいかも。 私は人に流されやすく、 とりあへず真似るの好きで 結局自分の言葉というのもあってないようです。 自分さへも過信できておりませーん。 >「非論理ゆえに信ずる」面もあります。 これが逆に情動を揺さぶり 檢證不可の説教は説得力を持たせる。 かもですね、勝手に少し納得しました。 ありがとうございます。