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“隣り人”
“隣り人”、並びにこのことばの同義語で検索すると、たくさんのご回答などを拝見できます。 日本語では“隣り人”ということばをあまり使ってはきていないと存じます。“隣りは何をする人ぞ”です。 “隣り人”という語は私たちの日常の中では使用されてきたとは思いません。 “隣人”とか“隣人愛”とかいう観念(もしこんな観念があるとすれば)も私たちには翻訳(舶来)的に思えます。 “袖振り合うも他生の縁”または“お互い様”、または“武士同士の思いやり、理解”などなどならば親近性があります。 この“隣り人”という語は多分聖書とされているもの中のことばの翻訳だと存じます。英語では“neighbor”という語なんでしょう。 でも、多分聖書も、そしてその翻訳もこの“隣り人”というのを使っています。 それで、この“隣り人”という人を、どうイメージしたらいいのでしょうか?どう意識すればいいのでしょうか? 具体的というのは妥当ではありませんが、どういう人をいうのでしょう? 友人ですか? 家内や家族ですか? ご近所さんですか? ともに政治や思想での、活動をしている同志ですか? 電車での隣席の方でしょうか? 不特定の他人でしょうか? 同じに呼吸しながら、地上を歩いている人同士でしょうか? 同じ方向に向かう方同士でしょうか? “隣り人”って、いったいどういう人なのでしょう? “自分以外の人”、“他人”というのではなく“隣り人”という翻訳をした意味は何なのでしょうか? 格好がいいからでしょうか?宗教的文言(もんごん)は人の心にインパクトがなければなりませんが。 聖書とその翻訳って疑問になってきます。 実際生活を送るもの、人生者としての疑問なのでどうかお教えを頂きたく存じます。
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○“隣り人”って、いったいどういう人なのでしょう? “自分以外の人”、“他人”というのではなく“隣り人”という翻訳をした意味は何なのでしょうか? ● 肉親・親類・友人・知り合い・近所の人、会社や団体・何らかの縁のある人、あなたが好意を持てる人、こういうたぐいは隣人の範疇には入らないんですね。 意識的にもっと広義に取れば、同一町内会や、同一市町村、国も含みますね。これらは隣人の範疇ではないといえますね。 つまり、何を隣人というかは人によって違いますが、非常に簡単に言えば各人が嫌いと思える人、団体、民族、国なのでしょうね。 汝の隣人をこそ愛せよとは、汝が嫌い、あるいは敵と思えるものを愛せよ。といってるのですね。 身の回りの人や人種・団体・国を愛すことなどは「ちょっときついが」猿や犬にでもできることだといいたいのですね。 それが「イエス」の言葉の意味ですね。 この言葉の持つ宗教的根源的な意味は、色も考え方も見栄えも国も違う人のように目には見えるが、人間の魂は、もとは同じものから分かれているということなんですね。それを知らしめんがために「汝の隣人」と表現してるだけですね。
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- owlsjp
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汝の隣人を愛せよ ですよね、 単純に(心理的、物理的)距離が近い人のことではないですか 生みの親より育ての親 遠い親戚より近くの友人 世界平和を謳うより、普段の人間関係が大切 など。 自分を中心として、日常の人間関係を通して、あらゆる波動は外へ、遠きへ向かって伝播していきます。 と、いうことではないですか、しかし当たり前、奇麗事過ぎて面白みが無いですね。
お礼
ありがとう御座いました。 この質問を書いているときは、ご回答のように存じておりました。 「しかし当たり前、奇麗事過ぎて面白みが無い」というように存じておりました。 ありがとう御座いました。
そのとき隣にいる人じゃない?
お礼
その通りと存じます。私もその理解に達することが出来ました。 ありがとう御座いました。
お礼
ありがとう御座います。 ご回答の通りと存じます。 最初のお礼を書いたら、正に町内会の共同募金で呼ばれてしまって、今戻りました。 質問を出してから、“汝の敵を愛せ”に脈絡が通じていることを感じました。 mmkyさんのお教えと同感です。 私も朝は三時起床ですが、行の前に感じたことを皆様に報告してお礼とさせていただきます。 申し訳ありませんが、補足欄をお借りします。
補足
ご三方皆様へ お礼欄の続きとして、私の思いをお読みください。 神とその使者の言葉だと存じます。そういうものとして有効な言葉だと存じます。 つまり“God the first(すべてにおいて)”。 如何に神の前で、神と同じに素裸になれるか。 そういうメッセージを伝える言葉だと存じました。 ですからつまり、眼前、現前のすべてである。 漢字に“子”がありますが、これは創造の存在主体、存在客体ですね。 それがおまえ自身、自分であるよ、ということを知りなさい、というメッセージなんですね。 それで私などが、どなたかを“隣り人よ”などと呼んでは、不遜であり、意味不分明になります。 何も指し示すことばとならない、無内容なものになってしまします。 そしてまた、どなたかに“隣り人よ”などと呼ばれたら、きょとんとしてしまいます。 “そいつぁ、一体誰だぇ”てなわけです。 神とその使者の用語です。 私たちにはそれぞれみな、色も形も、立場も名前もある。 その、お互いの眼前の、現前たる方がおられます。 そういう方を神とその使者は“隣り人”と言っているのですね。 仰せのように、お互いが魂、共通ではなく、同一の魂なんですね。 色も形も、存在も区分してはいるが。 人間は区分したり、着物を着たり、着せたり、色や形がないと意識や認識の中身にできないのですね。 つまり、対象にメディア性をふよしたり、主観のメディアでしか認識や意識ができないと言うわけなんですね。 でも同一のお互い同士なのでした。ありがとう御座いました