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なぜ神は多様か。

タイトル通りの内容です。 現実として宗教=神(仏)は多様に存在していることに関して、信仰を持つ人間はその本質としての絶対性といかにして折り合いをつけるかという問題を考えたく、質問致しました。 結局のところは、原理主義と多元主義のいずれかに落ち着くと思われますが、前者の場合、原理主義と原理主義の対立が殺戮や荒廃をもたらすという、救済との矛盾がいかにして克服されるか、後者の場合、ではそもそも神の多元性の原因は何か、というような疑問があります。

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回答No.7

 No.4です。ご返答をありがとうございます。  次のように考えております。  ★ 「神」とは「絶対」の解釈(あるいは直覚)であるということでしょうか。(何となく、「神学」の核心をつく見方のような気がします。)  ☆ はい。細かくは 《解釈》というよりは《単なる言いかえ》だと思います。《絶対・無限・超経験》という言葉は 概念として説明つきです。《神》は ほとんどその意味が分かりません。でも昔から用いて来たという歴史があります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ここにおける「絶対」とは、どのように現れるものと考えておられますか。  私見としては「世界の調律」において見い出されるものに思えます。  また、その解釈は唯一なものと思われますか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《絶対》と《わたし》との関係は 非思考としての こころの明けないし伸びとして 経験的にも現われると捉えています。つまり《経験思考》を超えているという意味で《非思考の信仰》としてです。  ちなみに この信仰が 教義を持ち集団として社会習慣となったものは 宗教です。こちらは 不必要だと考えます。ローマ教会をはじめとする組織に対して 自己解体を勧めます。非思考のことがらが 思考によって(つまり他のひとによって)決められたりすれば それは無効であり犯罪であるからです。  ★ 「世界の調律」  ☆ は信仰ないしひとりの存在にとっての主観の内におさまると見るべきです。社会経験的な問題に対しては 信仰は背景へ(つまり主観の内へ)しりぞきます。世界観は 経験思想に解釈しなおして理論としても政策的な意見としても述べるべきだと考えます。  ★ 私は「イエス」も「アラー」も「ヤハウェ」も「釈迦(並立は不適切か)」も、現実に引き摺られた「絶対」のレトリックであり、ゆえに異なる解釈は成立しうると考えますが、どうでしょう。  ☆ 《絶対》を擬人化して《絶対者》としたり これとしての・つまり《創造主としての神》としたりするのも まだ《言い換え》に属すると考えます。ヤハヱー・キリスト・アッラーフも 《言い換え》に属するでしょう。  釈迦とイエスは 人間の存在を言っていますから 神ではないでしょうね。しかも釈迦がブッダだという場合 そのブッダも 神として想定しているのかどうか 分からないところがあります。《諸法無我》と言いますから。  ただし《仏性》は 《絶対》のもとにある。もしくはその属性を解釈したもののようです。そして《絶対》はむしろブラフマンに相当するかも知れません。  ★ 現実に引き摺られた「絶対」のレトリックであり、ゆえに異なる解釈は成立しうると考えますが、どうでしょう。  ☆ 《絶対とわたしとの関係》としての信仰からさらにこの世界と相い対する《わたし》の生活現実に戻るなら そう成っているようだとわたしも考えます。  それは キリスト・イエスなどなどの名前というよりは たとえば《愛だの慈悲だの 永遠の生命や復活あるいはさとりなり不死不生なり》など経験思想にもかかわる概念での理論や説明の問題だと思います。今では扱いにくい《義・正義》という概念も 神の属性として添えられていましたね。概念説明を互いに行なって 自由に批判しあいつつ 共通の了解および相違点の確認へと進めていけばよいと考えます。  次のようにまとめたことがあります。よかったら参照してください。  ○ (信仰類型論) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

dansunflux
質問者

お礼

ありがとうございます。 同意する、の一言に尽きます。 私からこう評すのは二重の意味でおこがましいとも思いますが、もはや「宗教(信仰の基本形態)とは何か」という問いに関して一流の哲学的あるいは倫理学的考察ですね。 不可知に対する「自然的態度」と、そこから注意深く自然的態度を保持しつつレトリックとして導かれる「実践的態度」としての信仰と宗教生活。 この二重性の自覚こそが宗教対立の解消あるいは真の宗教理解の鍵となる、というようにまとめてよいでしょうか。 これが何を意味するかについて、しばらく吟味させて頂くことにします。

その他の回答 (24)

noname#131234
noname#131234
回答No.15

では、神(仏)とはどういう作法でしょう。 「似てもにつかぬ概念」の強引な援用は、さけるべきです 神と仏は、違います。 違うことを違う。不明なことを不明であるとしてはじめて議論が進むものだと考えます。 「一神教とそれ以外の宗教」との区分けぐらいは最低必要かもしれません。 勘違いをなくしていくことが根本中の根本。最低限必要なことです。

dansunflux
質問者

補足

他力本願や輪廻など、超越的な論理を教義に含み、仏との秘儀的交流を重んじるという点でキリスト教と仏教に大差はないと思うのですが。 一神教か多神教かではなくて、要は宗教内部で完結している、教義や信仰の超越性あるいは秘儀性を問題としている訳です。 どの宗教も一枚岩ではないのは承知の上ではありますが、私がしているのはより一般的な問題提起です。 なぜ"客観的あるいは経験的に見て途方もない飛躍を含む宗教的概念や世界観"が信じるに足るかは、その絶対性によるとしか言いようがない。("感じ方は人それぞれ"では宗教と妄想の区別が付かなくなります。) ゆえに、それ自体の絶対性を根拠とする仏教が、別の絶対性を根拠とするキリスト教を認めることはできない(逆もまた然り)のではないか、ということです。

noname#131234
noname#131234
回答No.14

仏性と神の違いをよく考えてください。 その背景にあるのは 神の場合 -「かみたま」と のたまえば全てを説明したことになる。という詭弁・無責任です。手続き上の誤謬です。 誤謬の諸例 1)「かみ」は、「いろいろ」です。 具体的な論述は不必要であるという教義の具体的定言です。 (その逆として「神はヒトツです。」は、胡椒のような味付け部分) 2)「かみ」は、「普通」ではない。 この主張は、多義性を内包しています。ニュートラルという言葉の持つ構造をお忘れなく。 ニュートラルとは、「ne」+「utrum」善でも悪でもどちらでもないということです。 具体例として  無限  非物質的  無  不可知 「いったい神とは具体的にはどういうもので『ある』のか」と言う視点から省察すると、 これらの修辞は、何一つとして具体的内容を含むものではありません。 『「neutrum」ではない』は、修辞論理学的には肯定ですが、詭弁を許す土台(tautoloy)となっています。右翼左翼・存在・非存在の議論もこの論理構造が背景となっています。 存在しないものを存在すると説明したいので 4つのやり方が浮世に立ちのぼってきます。 1)手にとって感じることが出来ないものを、「そんなものがあったら、楽しいでしょう」という疑問形で問いかけてくる。 2)「あるのかな、ないのかな」と2者択一を迫る。 3)可能性を問いかけてくる。「その可能性はありますよね?」 4)これから「奇跡」または「最後の審判」があるのかもしれない と遠い過去もしくは未来の時系列で起こりもしないことを可能性として述べていく。 仏性の説明については、ここでは省きます。キリスト教者は、仏教者には、執拗に具体的説明を要求してきます。(仏教者の間には具体的な説明が出来る人も多いので問題ありませんが・・・) キリスト者に言わせれば… 「結論としては、なんだかよくわからないけどWW 究極は同じWWW 仲良くしましょう!」 という きもい態度を示し、しかしながら、心の中では、「神はキリスト教の神だけだにょぉぉ。バカ」とおもっているのです。 仏性の説明は、人が救い・自助を得る為の 具体的回答を含んでいます。 キリスト者にとっては、常に「なんだかなあ」という、疑念が勝る。 とにかく、いちゃもんをつけることが出来ます。 仏性のコンセプトは、 「語源的にゼウスに起源を持つ神」より具体的で納得の行くものです。しかし、「神」の説明は、どうどうめぐり。 キリスト教教義の欠陥は、ゼウスに語源を持つがゼウスではない(と主張される)「神」という無意味な「ヘリクツ」構造が「おおもと」。ナンセンスの土台です。 キリスト教の主張によれば、 「ポケモン(神)は貴方の心の中に存在しますよ。だから、いつかお現れになって、私たちの心を癒してくれるのです。ポケモン(神)の到来を待ち魔性。ポケモン(神)がいないという人は救われません。心のない人です。夢のない人です。ポケモン(神)を信じなさい。」という理論です。 「主観的」には、信じているから納得がいくのでしょうが、その他の人には幼稚すぎる理論です。「主観こそ正しい」という狂信です。 ------------------------- ひょっとしてポケモン(神)は、存在するのでしょうか?  私には理解しかねますWWWW (りかいできるわけねえだろ!)

dansunflux
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ともかく一つ言いますが、私は「見えざるユニコーン」がピンクかどうかについては沈黙せざるを得ません。 もう一つ。私は自然的態度をもって圧倒的な世界の現れと向き合ったとき、そこに「ポケモン」や「空飛ぶスパゲッティモンスター」を見ることはありません。また、何らかの人格神の存在を見ることもありません。たぶん。 最後に、私は超越論的説明に依存する時点で、大多数の仏教もキリスト教も、五十歩百歩だと考えます。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.13

#8です。 >壮大な自然や、無気味な暗闇などから生じる主観的世界像もまたリアリティとしては真実だと捉え、 その主観的世界の説明方法の一つとして宗教がある、という考えです。 :実に腑に落ちるご見解です。 「主観的世界像」以外の世界というのはおそらく存在しないでしょうし、それがリアリティであり、真実であるのは、本人にとっての真理に違いありません。 私の言葉に代えさせていただくならば、納得の無いところに個人の幸せは訪れない、ということにもなるでしょうか。 しかし、人口の数だけの主観が存在することもまた事実でしょう。 「主観的世界」というのはまさしく主観なわけですが、主観だからといって必ずしも納得できるわけではない、というところが人間の難しいところです。 それゆえに、 >主観的世界の説明方法の一つとして宗教 :の必要性が生じてくるのでしょう。 他者(神でも仏でもいいですが)によって説明されなければ納得できない主観とは何だろうか? ということになると思うのですが、 これは「主観の危うさ」ということになるのでしょう。 その主観の危うさを、ある教義なり、ある信仰なりに預け切ることによって平安を得ようとする。 ここが宗教の脆さの所以と言えるはずです。 脆さとは、つまり頑なさの裏返しであり、なぜ頑なであるのかと言えば、頑なに防御していなければ自ら崩れ去るという不安に怯えているから、と考えるのが論理的です。 結局、自己安泰が宗教の目指すところであって、信じなければ救われない、などというさもしさで人間を救えるはずもないだろう、と私などは考えてしまいますけどね。 まあ、宗教家の方や信仰心篤い方には失礼かもしれませんが、素人の感想としてはこのように思います。 救済とは自らの気づき、つまり自己変革でしょう。 宗教をこのための方便として活用している方にとっては、宗教というものは有意義であろうという気がします。 それは新たな視点のひとつを提示してくれるもでもあるでしょうからね。 しかし、その視点に呑み込まれるだけでは自己の喪失につながるでしょう。 自己喪失の予感が、不安と、その反動としての決め付け・押し付け・強制につながることは自然の理です。  

dansunflux
質問者

お礼

どうも私がおおまかな読みしかできていない気がしますが、非常に同意いたします。 宗教については更に多面的な評価を加えていく必要がありそうですが、批判すべき面についての意見を充実させることができました。既に質問の枠を超えつつあるため、ここで区切りを付けたいと思います。 ありがとうございました。

  • sugartax
  • ベストアンサー率50% (22/44)
回答No.12

>原理主義と原理主義の対立が殺戮や荒廃をもたらすという、救済との矛盾がいかにして克服されるか 取り込みと破壊です。 これは宗教史を見ればおのずと分かるのでは? >そもそも神の多元性の原因は何か 人の持つ多元性が発露しているに過ぎません。 何も難しい事はない気がしますが・・・。

dansunflux
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 少し誤解があるように思います。 私の質問は、神を信じる人にとっての話とお考えください。 >取り込みと破壊です 神の意思による神の取り込みと破壊、とまるで人間のような争いを必要とする神は、他でもなく人間の、天に映る巨大な影だったのではないか、という疑問に対し、宗教者はいかに応えうるでしょうか。 >多元性が発露しているに過ぎません。 信者にとって神は絶対的だとすると、そこで神の絶対性と多元性は相容れないのではないか、というのが私の問題とするところです。

回答No.11

 No.4&7です。  次のように捉えられたご見解の趣旨と志向されている作業の方向について賛同します。そして賛同しておるにもかかわらず 重箱の隅をつつきます。  ★ (No.7補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  不可知に対する「自然的態度」と、そこから注意深く自然的態度を保持しつつレトリックとして導かれる「実践的態度」としての信仰と宗教生活。  この二重性の自覚こそが宗教対立の解消あるいは真の宗教理解の鍵となる、というようにまとめてよいでしょうか。  これが何を意味するかについて、しばらく吟味させて頂くことにします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 主題は 三つあります。  (1) 《神》に関して《不可知》という規定でよいのか?  (2) 有神論も無神論も 同じく《非思考》という信仰であるという命題について。  (3) 組織としての宗教は個人の信仰の鬼っ子であるという命題について。  わたしたちが経験合理性によって 誰もに共通の認識が得られると思っている事柄は 既知と未知とがあります。未知のものは やがて既知となるだろうと踏んでいます。  ところで 不可知というのは げんみつに言えば 《不可知として人間が規定した既知》のことではないですか? その中身を知り得ていないのだけれど人間にはそれは知り得ないと規定したのなら そのものの性格といったことに関しては 既知となっている。のではないでしょうか?  そういう意味での不可知のものがあるかどうか わたしには分かりませんが 厳密に言うと 《絶対》は この不可知ではないですよね。  神は――つまり無神はと言っても同じだという理解に立っていますが―― ひょっとして 知り得るかも知れないんです。絶対は この相対的・経験的な世界に ひょっとして 介入しているかも知れないのです。ひとによっては これをひらめきのもとに感じたというかも分かりません。  と話は何やらあさっての方向を向いてしまいましたが まづ 科学は むろんこの神による人間世界への介入を経験知とすることは出来ません。そのひらめきを 普遍的な既知として規定することは出来ません。未知としても規定し得ません。《わけの分からないことが起こった》という規定になります。  では これは 不可知なのか?   結論に飛びますが ひらめいた主観の内に何が起こったのか ほかの人にはもとより本人も分からないということだと考えられます。そうしてしかも これを《不可知》とは規定し切ることはしない。規定し切るためには そこで起こったわけの分からないことを 科学は解明してみせなければならないからです。  《無記》――善とも悪とも規定しない――という言葉があります。ですから その《神の臨在》については 不可知と規定するのではなく無記として扱い その主観つまりその存在としてのひとは わたしたちとまったく同じ存在であるとして交通し合わなければならない。こう結論づけられるのではないでしょうか?  ひらめきの起こらないひとは 《無神の臨在》もしくは《神の臨在の欠如》に出会っているとも言えるのではないでしょうか? それが《絶対》という想定だと考えます。つまり非思考という信仰は 誰もに共通の出来事であるのではないでしょうか?  (おれは絶対を絶対に想定しないという向きには どう対処するか?――その発言にすでに想定は現われていると思います)。  無記とすべきところをいわば有記とし その神のお告げを 教義とし けっきょく政治的な力によってその教義集団をつくる。という宗教 これは これも 科学が勝手に不可知と規定するのと同じように 勝手に可知だと言いふらしているという間違いを侵しています。  表現の自由および結社の自由などなど 自己表現はあくまでどこまでも自由なのですが 考え方の間違いを指摘することは これも自由ですので そういう宗教批判は しかるべく行なっていく必要があると考えます。ローマ教会は 過去の清算をもしなければならないでしょう。頭を丸めなければいけないでしょう。

dansunflux
質問者

お礼

なるほど、確かに「無記」としておくのが良いかもしれません。 しかし私としては「見えざるユニコーン」について、その可能性を前提において語ることは避けたいところです。

  • CageAnoe
  • ベストアンサー率53% (128/240)
回答No.10

#1です。質問の中でちょっと分からないことが2点ほどありますので、先に。 1.『神は多様に存在している』と認識している主体は誰ですか?信仰者ですか?   プリミティブな信仰においては、宗教的排他主義(=原理主義)が一般的であり、   彼らが『神は多様に存在している』と認識することはありえないと思うのですが。 2.宗教多元主義とは『宗教的絶対』に対する『異なる体系』が多数ある(=諸宗教)と考えるわけですから、   宗教的絶対は単一です(ここでの『宗教的絶対』は『神』ではありません)。   質問者様の仰る「神の多元性」とは、『宗教的絶対』が多数存在するという前提になっているように読み取れるのですが。 原理主義者は異教徒との衝突を、『原理主義と原理主義との対立』という構図で見ることはないと思います。 なぜならこの構図は既に自らの信仰を相対化しているからです。 彼らにとって信仰は神の下部構造であり、信仰の相対化はすなわち神の絶対性の誤謬を問うことになります。 したがって「殺戮や荒廃」と「救済」との矛盾は発生せず、逆に「殺戮や荒廃」は『神』或いは『信仰』によっていつか「救済」されると考えます。 宗教的多元主義は、現在までのところ『ヤーウェ(=アッラー)』という「同じ神を頂く分派」、 つまりユダヤ教、イスラム教、キリスト教の内部にとどまっており、 彼らは外部に対しては排他主義、或いはせいぜい包括主義でもって望んでいると私は認識しています。   『宗教的絶対』が多数存在するという(質問者さまの?)構図は、   世俗的なスクリプトであり、「神は唯一無二である」という『神の絶対性』を既に否定しているように思います。 つまり『神の絶対性』と『神の多元性』は、完全に矛盾した概念であり、個の内部に同時に存在できない。 であれば個別に検証するしかないと思います。 (もともと多元的で、なおかつ次々に新しい神(らしきもの)を生み出す体系であるヒンドゥや仏教の神は、同列に扱うと議論が発散してしまうと思うので、ひとまず措きます。) --------------------------------- 私は神の登場(信仰の誕生と言ってもいいかと思います)以前に、 『絶対』という概念が先に誕生したのではないかと疑っています。 『超越したもの = 絶対なるもの』という概念が、何らかの理由で必要とされ、そして誕生した。   『絶対』『超越』の誕生を要請したモチーフが何なのか、   これについて永年考えているのですがまったく分かりません。   自然的体験に基づく個の存在の儚さ=非絶対性に対する諦観や、   超自然的神秘的体験が影響したのではないかと考えていますが、   それはあくまでも影響であり、決定的なモチーフではないように思います。   おそらく言語化しにくいものであったと推測しています。 そしてその『絶対』の表現形として数多の概念が生まれた。   ある者は『疑っている自己』を絶対であると見做し、哲学者になり、   ある者は『神』という概念を生み出し、信仰者になった。   ある者は『検証可能性』という概念を生み出し、科学者になった。   (いずれも『絶対』に対する信仰者であることに注意しなければなりませんが。) 数多の概念の中で『神』がとりわけユニークであるのは、 「不可知なる絶対」として誕生していることです。   「可知なる絶対」も数多発生したはずで、   そしてそのほとんどは淘汰されてしまったと思料します。   なぜなら「可知なる」ということは「馬脚を現す危険を内包する」からです。   「完全なる絶対」以外はいつか馬脚を現す。   「不可知なる絶対」は「完全なる絶対」であることを放棄することで、   無謬性を獲得したと考えられます。 しかし『絶対』の誕生は「さまざまな異なるモチーフ」が「さまざまな異なる集団」に同時多発的に存していたと思います。 そしてそのモチーフを共有していない者=他者には、「不可知であるもの」は「存在していないもの」と同義になります。 よって「不可知なもの」は普遍を獲得しえず、ローカルであり続け、その結果として多様な神が(同時多発的に)生まれた。 これが神の多元性の発生要因ではないでしょうか? ※神が『絶対』のレトリックであることはそのとおりだと思うのですが、 『絶対』の修辞の多様性は、先ず「不可知なもの」と「可知なもの」という形で立ち現れるはずです。 そしてそのうちの「不可知なもの」というテクストの下部構造が『多様な神』であり、 『多様な神』のさらに下部に「ヤーウェ」や「ツァラトゥストラ」や「八百万の神」というサブスクリプトが存在している。 そういう構図で私は見ています。 ---------------------------- >>神が人間の創造物である以上 >信仰ある人についてはこのことは当てはまらないのではないでしょうか。 その通りだと思います。 そして信仰者は「神が人間の創造物だとは考えない」のと『まったく同じ理由』で、「多様な神が存在すること」を認めません。 >「宗教を信じる者」とは「神を人間に先立つ実在と信じる者」だと思われます。 >そうでなければ、「神」と「妄想」との区別がその人の中でつかなくなりませんか。 「根拠」のない想像のことを妄想というのだと思いますが、「神の根拠」は先述の言語化できないモチーフなのだと思います。 そのモチーフが彼らの内部に備わっている、その一点においてのみ、妄想というくびきから脱しているのだと思います。 非信仰者から見れば神は妄想以外の何ものでもありません。   神の誕生に立ち会えなかった者、すなわちモチーフを共有しない者の信仰はとても脆弱です。   このモチーフを、或いは信仰を強化するための装置が宗教という体系なのではないでしょうか。 >>神の存在の絶対性は、回答の無期限延期に依って担保されており >つまりそれは、「いないと言い切れないから存在する」ということでしょうか。 先ほどの論のとおり 「不可知なる絶対」は「不完全なる絶対」であることを甘受することで無謬性を獲得したと考えられます。 その意味では「いないと言い切れない」構造になっていることは、その通りだと思います。 >同様の論理はあらゆる物事に対して成り立つはずです。 あらゆる物事は回答の「有期限延期」に拠っています。 科学は物事を「解明する」=「言語化する」ことで、結果的に「解明されていないもの」=「現時点では不可知なもの」を表現しています。 >なぜ「神」の場合には特殊にこのような蓋然性の無視が正当化されるのでしょうか。 「神が存在すること」と「神は不可知であること」は、併せてひとつのタームだからだと考えています。 独立して検証することは出来ないものとして最初から存在している。 神は立ち現れたときから不可知であり、不可知であることを疑えば、或いは知ろうとすれば、たちどころに神は消滅してしまう。 「神が消滅してしまってもいいんですか?」 ある意味で見事なロジックだと思います。 ----------------------- お付き合いいただきありがとうございます。 自分で読み返してみて、なんとまとまりのない文章であることかと情けなく思います。 質問者様や他の方の御意見を参考に、今しばらく思索してみようと思います。

dansunflux
質問者

補足

ご指摘の通り、確かに曖昧な文章であったようにも思います。 しかし結果的にと言うか、CageAnoeさんの回答は、私の質問をCageAnoeさんの視点から進めた形となっていますので、 回答を踏まえて、疑問点を集約できそうです。 つまり、宗教者Aはその信ずる神の絶対性において、別の宗教者の信ずる別の「神」の絶対性を虚偽と見なさなければならないはずである。いや更に言えば、同一宗教内における解釈も統一されなければならないはず。 ここで必然的に、Aのモチーフに基づく神と、他のモチーフに基づく「神」が存在し、Aと他は互いに「私たちこそが正しく、救済されうる。彼の神は虚偽である。」と考える。 これはほとんど原理主義的と言って良い。そしてこのような人間同士が心の内で互いの尊厳を自覚的に貶し合うとはあまりにも精神的に貧しく、悲しいと言うべきだ。 実際には、"なぜかなあなあのままに"宗教宗派が乱立する状況があり、宗派を越えて人間は分かり合うことができている。 このダブルスタンダードはなぜ成り立つのか、ということです。 実際真面目に信仰を反省する人などほとんどいないのではないかという思いがあります。

noname#100496
noname#100496
回答No.9

神の世界も、政権交代前夜です。神道系の新興宗教の話だと、今までは、副神系統の神が支配していました。だから龍神様、稲荷様、八幡大菩薩様、観音様、エビス様など、様々な神様がいます。天の岩戸が開いて、カゴメの歌のように、本当の神が、正神が現われて、一神教の時代になるそうです。

dansunflux
質問者

お礼

ううん。。 済みませんが、私としては何とも言いようがありません。 回答ありがとうございました。

  • hakobulu
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回答No.8

>信仰を持つ人間はその本質としての絶対性といかにして折り合いをつけるか :このことに関しては、 なぜ信仰を持つのか、という根本を抜きにしては語れないような気がします。 本質としての絶対性といっても、そんなものが信仰で手に入るはずもないのに、入ると錯覚してい無理に手に入れるから折り合いが必要になるのではないでしょうか。 つまり、錯覚ならいくらでもあって不思議ではありませんから、神が多様になるのは必然的結果ということです。 一旦、陥ってしまえば、たとえ錯覚といえども(無論、そのことに気づいていないせいもありますが、それを覆されると生きていけませんから)死守せざるを得ません。 結果として、 「>原理主義と原理主義の対立が殺戮や荒廃をもたらす」 ことになるのもまた必然でしょう。 「前者」と「後者」ではなく「因」と「果」と捉えたほうがわかりやすいような気がします。 因である、 >原理主義と原理主義の対立が殺戮や荒廃をもたらすという、救済との矛盾がいかにして克服されるか :に関しては、 「原理というものを拙速に求めずに、わからないことはわかるまで追い求めて、安易に(教義という)帰結を求めない」 覇気に目覚めることでしょうかね。 虫歯が痛いときには正露丸(古い?)を詰めれば緩和されますが、宗教とはそういったものでしょう。 一時的に痛みは取れますが、本質的に虫歯が治癒するわけではありません。 痛み(悩み)が一時的に取れたように錯覚させるのが宗教であって、錯覚(=真実ではないもの)であればこそ必死で、対立する概念を否定する必要がある、ということだと思います。  

dansunflux
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 宗教の本質的矛盾については同じ思いです。 hakobuluさんのような、科学的立場からの宗教批判は現代の一つのスタンダードですね。非常にわかりやすいです。 私は、科学あるいは経験の知が捉える(蓋然性の高い)客観的世界像を正しいとした上で、 壮大な自然や、無気味な暗闇などから生じる主観的世界像もまたリアリティとしては真実だと捉え、 その主観的世界の説明方法の一つとして宗教がある、という考えです。 結論は似ていますが、もしかするとhakobuluさんとは対立する意見かもしれません。 しばらく検討を続けたいと思います。

noname#94476
noname#94476
回答No.6

唯一神を信仰する者は、多様性…考えません。 その人それぞれが、宗教感を持ち、その崇める対象を信仰する。 その時、唯一神なのか、多神教なのか、仏様なのかです。 宗教は、自由だから。 宗教感をお持ちの方ですか?それとも、学問的になのでしょうか? 宗教否定派の方ですか? 日本人独特の神にも、仏にも、手を合わせる一般人ですか? と、問いたく成る質問に思いました。

dansunflux
質問者

補足

回答ありがとうございます。 >その人それぞれが宗教観を持ち、その崇める対象を崇拝する。 まさにこの状況が私の疑問でして、相異なり、時に矛盾する宗教観を許容した上で、ではそこで人を信仰に至らせる神の真理性はどのように保たれるのかということです。例えば一神と多神という宗教観の不一致もそれは既に宗教の相対性を示唆します。にもかかわらず宗教は絶対的な形で死後などの超経験的世界を語る。絶対的真理であるから信用(信仰)に足るはずなのに、「真理」は複数存在する。どのようにしてか。さらに、他の「真理」を虚偽とする「真理」さえ存在する。この問題に満ちた状況を、宗教者は原理主義以外によっていかに脱すると考えられるか、という質問です。 私の立場は、原理的に否定が不可能だから宗教を否定しないといったものです。 八百万の神は主観として存在する(「魂」のように)と認めますが、宗教の超越的世界観から取り出される実践的道徳は認めない立場です。簡単に処理できない区分とは思われますが、恐らく私は神武天皇の存在を認めないのと同様の論理でもって二者を判断しています。 この質問は、その立場から、実際に実践されている宗教に対して批判的な考察を加える意図で行っています。

  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.5

神はいろいろな多様性を有しているようですが、立正安国論によれば全ての神々はいなくなっていますので この問題自体成り立ちません。

dansunflux
質問者

補足

回答ありがとうございます。 立正安国論を全面的に受け入れるならば、 世界の諸宗教は日蓮宗に還元・統一可能ということでしょうか。 例えばキリスト教徒を折伏する場合はどのようになりますか。 ぜひ教えて頂きたいです。

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