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「神の実体論」について

先日このサイトで「神の実体論」に関して構造主義的な回答をしたのですが、意外と世間では素朴な考え方が多いことに驚かされました。どうやら、「神の実体論」というのは一般には単に「神が存在すると考える」立場に立つ、という意味と理解されているようなのです。これは私には理解できない乱暴な考え方です。 単に「存在すると想定する」のは、「私がそう考える」という総体の部分集合に過ぎず、結局ある特定の文化ないし考え方の範疇に回収されてしまう議論だと思うからです。それは別に神を実体として認めることとは関係のないはなしだと思えます。 身近な例で言えばちょうど、浄土真宗の信者にとって絶対者としての阿弥陀仏をたてようとたてまいと、世界がその原理によって動かされていると受けとめるわけですが、そのこと自体がひとつの信仰の枠内に留まっていることと全く同じ構造なのであって、結局「私がそう考えること」という議論を超えるものではありません。 私の考えでは「神の実体論」を論じることは、少なくともデカルトが「自分が考えることの正当性を成立させ得る絶対的外部の他者」を想定したような存在論証明(あるいは結果による証明)を経たものでなければならないし、そうでなければ価値観を自らのうちに根拠づける構造主義的なアプローチしかないと思うのです。このいずれかでなければ、それは結局ある価値観の中の共同幻想に過ぎないと言えるように思えます。 諸賢はこのことについてどのようにお考えになるのか、ご教示頂きたいと思います。 (尚、理解できないからといってせいぜいが下らぬ中傷にとどまってしまう“シンプルな頭の構造”の方のご回答はご遠慮申し上げたいと思います)

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noname#155689
noname#155689
回答No.1

愚者で御座いますが、回答をお許し下さい。 私もこのサイトで少し前に「心の中心には何がある?」といった ちょっと乱暴?な質問に対して 意外と素朴な回答が多いのだな~と感じていたので このご質問に興味を覚えてしまいました。 でも、立ち入った哲学的な話は、ここではしませんし 私にはそのような能力がありません。 で、素朴な感想を返させて頂きます。 >「自分が考えることの正当性を成立させ得る絶対的外部の他者」 簡単に言えば、自分の考えに対し如何に客観性・相対性を維持するか? ということですよね。宜しいでしょうか? 客観性・相対性と、わざわざ言い換えたのは デカルトが「神」を持ち出してきたのは やっぱりキリスト教圏の方だからだと思うんですよ。 日本の、しかも現代人には分かりにくい感覚だと思います。 >「神が存在すると考える」立場に立つ 日本の現代人にとっては「立場」というほどのものでは ないと思います。 リアリティないし、ウケウリ程度のことですよね。 もしくは 日本の宗教観はどちらかといえば自然宗教、アニミズムだから 比較的素朴に所与のモノとして受け止めやすいのかも知れない。 でも、そんなに深くも考えていないでしょう。 神って概念は、やっぱりリアリティないでしょ。 だから、無関心か、いきなり宗教=教義になってしまうのでしょう。 構造主義なんかに行ってしまうのも 一種の教義に向かっているんじゃないかと 自分なんかは疑ってしまうんですが、どうなんでしょう? あれも西洋哲学の一種ですからね 我々はもっと冷めて見ていてもイイよな気がするんですよ、最近。 客観性や相対性の問題ってのも 知識的に追求していくと 下手するとエリート主義みたいになっちゃうし それを回避していると「謙虚を忘れないよう」といった 人生訓みたいになっちゃうし・・・ でもね、突然乱暴に論理を飛躍しちゃうけど >結局ある特定の文化ないし考え方の範疇に回収されてしまう ことへの抵抗といった、一種の「生き方」みたいな コトになっていってしまうのかなぁ、と。 スイマセン、多分ご期待に沿うような回答ではないですね。

neil_2112
質問者

お礼

わざわざのご回答有難うございました >簡単に言えば、自分の考えに対し如何に客観性・相対性を維持するか “客観性”というものも常にその外部が想定され得るものだと思います。従って、自分が考えているということがある共同体に属する限りのことで、必ずしも必然性はない、と考えることも必要だろうと思うのです。 デカルトについて言うと、「方法序説」で彼は色々な地域毎にそれぞれ真理があり、それぞれの人々にはそれが疑いようのない現実と思われている、と書いています。その上でそれは夢なのではないか、自分も夢を見ているだけなのではないか、と考えていきますね。 つまり彼のいう「精神」とは単なる思惟でなく、思惟そのものがひとつの価値観に属している事に過ぎないのでは、という疑いをもつことを指しているのでしょう。 この精神は価値観の根拠を解体する働きで、「客観」の明証性を一義的に認めませんから、結局ひとは最後に実存的な問題に突き当たることになります。「精神」を持つデカルトは、自分の実存を支える為に最後に神の存在に至らざるを得なかったのだと思えます。 私が質問している素朴さをデカルト解釈に引き当てると、「我思う~」を単に「私が思うから私がある」と理解するようなもので、呑気な「ワタシの懐疑論」になってしまいます。 そうでなく、自分はある価値観を疑っているがその疑うということには根拠があるわけではない、しかし、疑わしめる何かがあるが故に自分はそうするのだ、と考えるプロセスも必要ではないかと感じたのです。 結局これも仰るような、抵抗としての「一種の生き方」とさほど変わらないのかも知れないのですが。 >神って概念は、やっぱりリアリティない 神を相対化したつもりでも、せいぜい「この世を動かしている働き」と意味づけて終わってしまいがちです。そういう感覚は単に理論的アニミズムだし自然(ジネン)信仰の変形です。阿弥陀仏の名前を出さない阿弥陀信仰みたいなもので、それが悪いとは言えませんが、少なくとも私には結論のみえている議論だし退屈だという気はします。 また思われるところがあればご回答お願いします。 有難うございました

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noname#155689
noname#155689
回答No.3

興味深い問いでありながら 前回の回答では、もひとつ言いたいことが上手く伝えられなかったので もいっかいだけ、トライさせて下さいませ。 >“客観性”というものも常にその外部が想定され得るものだと思います。 否、否。 少なくともポスト構造を通過しているなら 客観や絶対はない、そういう前提共有から始めましょうよ。 >思惟そのものがひとつの価値観に属している事に過ぎないのでは それもソシュールあたりの言ったことで 前提共有しちゃいましょうよ。 >必ずしも必然性はない、と考えることも必要だろうと思うのです。 必然性はない、を絶対化しちゃうと 否定神学になっちゃう、というか トートロジーになっちゃうから 少なくとも私には結論の見えない議論だし それを今、探求するのは退屈だという気はします。 基本的に私は神を信じません。というか。 実はいるのかもしれませんけど でも少なくとも生きている限り会うことはないでしょうから 存在しないも同然と考えます。 でもさ、神に会える、とか、神になれるなんて 本気で考えている正気の人は 少なくとも今の日本にはいないでしょう? ここに反論なんてあるかいね? まあ、認めたくない人は認めたくないけど 神はフィクションであって じゃー、なぜ人は神なんてフィクションを求めるんか? 私はそれが分かりません。 分かりません、とか言いながら 実は絶対こうだろう、と考えるのは よーするに「客観や絶対なんて、ない」ことぐらい 今の人は本能的には分かってるだろう、でも それを認めちゃうと自分を正当化できない、と それだけではないでしょうか? 別に神でなくてもいいと思うんです。 何らかの権威でも、あるいは社会的地位かもしれない。 また議論が戻ってしまいそうなのですが >結局ひとは最後に実存的な問題に突き当たることになります。 そのとき、何に寄りかかるか? 何か、それだけの問題なんじゃないのか?などと最近思うんです。 知識や知性に寄りかかるか? 神などの権威に寄りかかるか? なぜ寄りかからなくてはいけないの? 実存なんてものに悩むのは 多分に西洋的な価値体系に染まっているんじゃないか? なんて、最近思っちゃったりしてね。 アニミズムは退屈だとのことですが そしてアニミズムとは、ちょと違いますが 私は幼い頃から手塚治虫なんぞを愛読していて? 諸行無常みたいな考え方が一番しっくり来る気がしていて それが正しい・正しくないということではなく そういったある種の諦観を持って その上でどういう生き方を考えていくのがイイのよ? どう自分を強く持つのよ? どう自分を信じるのよ? などと、結局「生き方」の問題ではないかと思うのが 前回の論理を飛躍させた部分の穴を埋める 私の意見なんで御座います。 たわごと、失礼致しました。

neil_2112
質問者

お礼

有難うございます もちろん前提は共有しています(笑)。 私が書きたかったのは、客観なる存在をアプリオリに認めるのでなく、そう考える価値体系を常に解体することが必要ではないか、ということです。その動きは外へずらして相対化するか内側に向かって無化するか、という程度しかないでしょう。 デカルトで誤解されたかもしれませんが、これは質問の発端が神だったから思いたったことです。デカルトにおいても「考えること」が相対化の果てに神を持ち出してぎりぎりのところで決着つけられた経緯を思えば、無条件に「私が神を考える」というスタンスを取るのはあまりに素朴すぎないか、という意味で例に引きました。 レヴィ=ストロースのデカルト批判は有名ですが、実際はデカルトこそ彼の言う「何物でもない立場で考える」ことを実践したわけで、せめて神を持ち出すなら一度デカルトのように考えてみてはどうか、ということです。それ以上に私はデカルトを持ち上げる気はなく、ご高説の通り神を殊更に称揚しようとも思いません。 アニミズムのことも少し言葉を足します。 私が退屈だと言うのは、上に書いた単純な「神」想定の裏返しとしてあたかも神を相対化したかの如く声高に説かれる「働き」信仰で、日本原宗教観としての純粋な(?)アニミズムを否定しているのではありません(それを否定しては、涅槃経から華厳、禅宗に至る日本大乗仏教の根幹たる仏性論そのものが立ち行かなくなるし、ついでに私の生活も行き詰まります)。 私はむしろそこに行きつく過程が大事だと思っているからこそ、その安易さを否定したいのです。ソシュールでも竜樹でも、言葉を否定する力は言葉を限界まで使った先にしか現れません。同様に、「神」でも「働き」でも良いのですが、そこに行きつく過程が「生き方」を浮かび上がらせると思っているのです。 ですから、単なる宗教だ、という私の批判は宗教の否定ではありません。宗教は実存、広い意味の「生き方」を包含する思想だからこそ、逆に単純に「生き方」に行きついたのでは真価を発揮できないという意味です。単純に「なりなりていく自然」を愛でるには私達はものを考えすぎていますね。 CUE009さんが仰ることは、誤読でなければ私はよくわかるつもりですし、表現の形式は違えど問題意識は近いものと思っているのですが、いかがでしょうか。 もいっかいと言わずまたご回答下さい

  • jume
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回答No.2

「神を冒涜する行為」での、neil_2112さんのご回答、興味深く拝読していました。僕は(さっそく逃げを打ちます・笑)構造主義やレヴィ=ストロースについてロクに知らないのですが、興味はあったので、フムフムとうなづきながら読むことができました。 ただそういう考え方に触れたことがない人(多数派だと思いますが)には、構造主義とか哲学の思考なんていうものは、一見、アクロバットな思考を展開しているように見えてしまうんじゃないですかね? 以前、某所で社会哲学の三島憲一先生の講義を聴講したとき、「哲学者の考え方がわからないのは普通です」とおっしゃってました。どういう意図でそうおっしゃられたのか、もう定かではありませんが、そのときは哲学書に無節操に手を出して、挫折を繰り返してたときですから、都合よく解釈して勝手に安心させられてたものです。 さて、前出の質問「神を冒涜する行為」において、neilさんは、失礼ながら乱暴にまとめさせていただくと、レヴィ=ストロースやデュルケムを援用しながら、神は絶対であるがゆえに冒涜されない、という形式において、その冒涜と相互的に存在している、故に神とその冒涜とは同時存在である、というようなことを述べられていたものと思います(著しく間違ってたらごめんなさい、ちょっとだったら許して…)。ところが、質問者さんは、「そんなこと知ってらー」という素っ気無い態度でした。勘ぐってしまうのですが、質問者さんは、上のような構造主義的な論理展開が、自分の質問にどんな意味を与えるのか、よくわからなかったのではないか、と思います。 状況論的認知発達心理学に巨匠ピアジェ(皮肉なことに彼も構造主義者)の批判があります。ピアジェは、実験室的な状況を設定して、並び方を変えても同じ数のおはじきは同じ数、という数や質料、地形の保存実験を子どもたちに行い、発達段階に応じてピアジェ・モデルと呼ばれる発達課題を提唱しました。今日までそのピアジェモデルは発達心理学において支配的な位置を占めてきたのですが、いわゆる「未開」と呼ばれる地域にすむ人たちや社会の下層階級に属し学校に通えない、あるいは通わない子どもたちの認知発達を研究するグループなど多方面からそれへの批判がなされるようになりました。というのも従来のピアジェモデルでは、未開社会や下層社会の子ども達は総じて「知能が低い」という実験的な結果が与えられたからです。これは差別的な見識を助長する、社会的にみてよろしくない結果です。つまり未開社会や下層社会は知能の低い人間が形成する社会なのだ、ということになりかねません。そうだ、とはどうしても思えないわけですが、そう思った研究者たちは、子ども達の保存概念をどうしたら確められるか、さまざまな形で調査し、結果、ピアジェ・モデルの欠陥を指摘するに至ります。すなわちその「実験室的な文脈」です。テストされる子ども達は、ピアジェ・モデルでは総じて「実験室的な文脈」、つまり「生活の文脈」からは鋭く切り離された環境に子どもたちを詰め込まれます。この状況で、正答者となる子どもは、「何を聞かれているか」「どう答えればよいか」つまり「自分の何が問われているのか」ということが理解できている子どもなのです。その文脈を理解できない子どもは、それをあらかじめ学習して知っていない子どもであり、いわゆる学校的文化に参加していない子ども、ということになります。 ちょっと長くなりました。つまり何が言いたかったかというと、先の質問におけるneil_2112さんの回答が正当に評価されなかった理由は、質問者と回答者とが異なった学問的文脈を生きており、質問者にとって回答者の回答が魅力的な回答に映らなかったということでしょう。たぶん回答者には、neil_2112さんの回答が「善があるから悪があるんだ」というような感じに映ったのではないでしょうか? neil_2112さんの回答には、背後に構造主義的な文脈が隠れているのですが、それが読めない読者にとっては、neil_2112さんの質問者の質問の由来を問うような重要な回答が非常に簡素でつまらないものに映ったのではないか、と思います。つまり哲学/思想のリテラシーが無い、ということですね。そして多くの人にはそれがありません。 そこで少なくとも回答者は、構造主義という考え方が世の中にあり、それがどのような思想なのか、平易に説明してからでないと、完全ではなくとも十分な理解すらされないんでしょうね。ただ、neil_2112さんは、そのような素朴論者に「驚かされ」、その素朴な立場に立っていることが「理解できない」とおっしゃることから推測するのですが、普段からそのような人と付き合うことが少ないのでしょうか。どうなんでしょう? それって学問的には、かなり恵まれた環境ですよね(うらやましい…)。僕の場合、周りが素朴論者ばかりですので、その辺の気遣いが必然的にできないと、話になりません。あるときは、ある学説をもともとの態をなさないくらいメチャクチャに噛み砕かないと通じないこともあります。でも学問的な厳密性を求めない日常生活では、それで十分なわけです。思想や学問が不要という意味では決してありません。むしろ必要だからこそ、そのように暴力的ではありますが「翻訳」「意訳」が必要になるわけです。まぁ、それが楽しくもあり、疲れもするという感じです。僕はまだまだ未熟者ですので、そうやって噛み砕いて説明を試みることで、その思想について自分の理解が進む場合が多く、それもひとつの楽しみです。 とりあえずこのサイトは特に専門家に限定された場ではないので、時には語彙や概念の厳密性を犠牲にすることも許されるのではないでしょうか。そうすることで自分の意図が相手に通じるような言葉掛けが生まれてくるものと思います。これは一種の異文化交流ではないかと思います。つまり思想リテラシーがある文化とない文化のコミュニケーション。neil_2112さんは質問の内容から、あるいは文化相対主義には反対なのかも知れませんが、今日でもこの地球上には多くの異なった考え方の文化がある以上、それらはどこかで折り合いをつけて生きていくというのが現実から導かれる結論だと思います。ポパー流に言えば、ある言明は、常に批判に対して開かれており、それは反証されてしまう可能性も捨てることはできないわけで、ただ「理解できない」、あるいは「理解されない」と嘆くばかりでは、議論は一向に深まりません。他者との対話というのは、「開かれた社会」(ポパー)であるべきです。もしかしたら単純に回答者のの論点が質問者の期待した論点から少しだけずれてただけかも知れないのに、質問者の理解不足からそのことすらわからないということも起こりえます(「神を冒涜する行為」では、その可能性もある気がします、つまり質問者は論理学的な、あるいは論理パズルとしての回答を期待したのかもしれません、その意味ではneil_2112さんの議論も数ある回答のひとつに過ぎないわけです)。ですからこの狭いネットコミュニティでいちいち相手に回答が理解されたとか、されなかったとかを考えているのもなんかつまらない話だとは思うのですが、でも確かに相手と問題を共有できるのは喜びでもあります。そこでただ素朴論者にこっちの土俵に上ってこいというだけでなく、こっちからそっちの土俵に上っていくぞ、くらいの意気込みがあってもいいのではないか、と僕は思いますが、neil_2112さんはどのようにお考えになるでしょうか?

neil_2112
質問者

お礼

「わざわざのご回答有難うございました。この質問のきっかけになった当の回答もご覧頂いたようで恐縮です。改めてくどいことを書いたと反省しています。 >学問的には、かなり恵まれた環境 いいえ、私が「驚いた」というのは、他の方の回答が皆一様に似た調子なのに対して私の回答がかなり浮いていたものですから、少し不思議な気がしたに過ぎません。 私のフィールドは仏教で、残念ですが特に恵まれているわけではありません。セグメント化が激しく、思想的な共通基盤もおぼつかない場合すらあるのが現状です。 >文化相対主義には反対なのかも そうではなくて私は全く文化相対主義の立場にいるつもりです。 私は保守的で、リベラルに言うアプリオリな“人間性”は信じないし、善も真理もローカルに形成されるものでしかない、と考えています。格好よく言えばコミュニタリアン的行動を実践していますし、現実の人間は善を限定的かつローカルにしか獲得できないけれども、その善を積極的に実践する存在であるべきだ、と思っています。 構造主義的な考え方は特にこういったネット上の議論には有効だろうと思います。こういう場では個々人の属性や立場は俎上に乗らないからです。事実、ネットの議論というのは、釈迦の対機説法や禅の小参といった個的学習システムの対極だからこそ活発だ、という面がありますね。 言語化された認識だけ、つまりワタシが考えるとワタシが思っている内容だけが情報となり、自分の生き方との整合性が問われない世界ですから、構造主義的見方は強いツールではあります。 >これは一種の異文化交流 構造主義的アプローチは文化の表面的な差異を無化するもので、むしろ異文化理解のための視座を提供しますね。レヴィ=ストロースの構造主義的なアプローチがエスノセントリズムを払拭するのに貢献したことひとつを見てもそれは明らかですが、構造主義とその他のイズムとのメタレベルの文化交流はなかなか難しそうですね。 >こっちからそっちの土俵に上っていくぞ、くらいの意気込みが 私は…ちょっと難しいですね(笑)。“自分をぶつけていく”というのは対面ではしないこともないですが、ネット上では限定的なやりとりしかできませんし、いろいろな面で私には労が勝るように思えますがどうでしょうか。 また思われるところがありましたらご回答ください