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なぜ神は多様か。
タイトル通りの内容です。 現実として宗教=神(仏)は多様に存在していることに関して、信仰を持つ人間はその本質としての絶対性といかにして折り合いをつけるかという問題を考えたく、質問致しました。 結局のところは、原理主義と多元主義のいずれかに落ち着くと思われますが、前者の場合、原理主義と原理主義の対立が殺戮や荒廃をもたらすという、救済との矛盾がいかにして克服されるか、後者の場合、ではそもそも神の多元性の原因は何か、というような疑問があります。
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No.4です。ご返答をありがとうございます。 次のように考えております。 ★ 「神」とは「絶対」の解釈(あるいは直覚)であるということでしょうか。(何となく、「神学」の核心をつく見方のような気がします。) ☆ はい。細かくは 《解釈》というよりは《単なる言いかえ》だと思います。《絶対・無限・超経験》という言葉は 概念として説明つきです。《神》は ほとんどその意味が分かりません。でも昔から用いて来たという歴史があります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ここにおける「絶対」とは、どのように現れるものと考えておられますか。 私見としては「世界の調律」において見い出されるものに思えます。 また、その解釈は唯一なものと思われますか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《絶対》と《わたし》との関係は 非思考としての こころの明けないし伸びとして 経験的にも現われると捉えています。つまり《経験思考》を超えているという意味で《非思考の信仰》としてです。 ちなみに この信仰が 教義を持ち集団として社会習慣となったものは 宗教です。こちらは 不必要だと考えます。ローマ教会をはじめとする組織に対して 自己解体を勧めます。非思考のことがらが 思考によって(つまり他のひとによって)決められたりすれば それは無効であり犯罪であるからです。 ★ 「世界の調律」 ☆ は信仰ないしひとりの存在にとっての主観の内におさまると見るべきです。社会経験的な問題に対しては 信仰は背景へ(つまり主観の内へ)しりぞきます。世界観は 経験思想に解釈しなおして理論としても政策的な意見としても述べるべきだと考えます。 ★ 私は「イエス」も「アラー」も「ヤハウェ」も「釈迦(並立は不適切か)」も、現実に引き摺られた「絶対」のレトリックであり、ゆえに異なる解釈は成立しうると考えますが、どうでしょう。 ☆ 《絶対》を擬人化して《絶対者》としたり これとしての・つまり《創造主としての神》としたりするのも まだ《言い換え》に属すると考えます。ヤハヱー・キリスト・アッラーフも 《言い換え》に属するでしょう。 釈迦とイエスは 人間の存在を言っていますから 神ではないでしょうね。しかも釈迦がブッダだという場合 そのブッダも 神として想定しているのかどうか 分からないところがあります。《諸法無我》と言いますから。 ただし《仏性》は 《絶対》のもとにある。もしくはその属性を解釈したもののようです。そして《絶対》はむしろブラフマンに相当するかも知れません。 ★ 現実に引き摺られた「絶対」のレトリックであり、ゆえに異なる解釈は成立しうると考えますが、どうでしょう。 ☆ 《絶対とわたしとの関係》としての信仰からさらにこの世界と相い対する《わたし》の生活現実に戻るなら そう成っているようだとわたしも考えます。 それは キリスト・イエスなどなどの名前というよりは たとえば《愛だの慈悲だの 永遠の生命や復活あるいはさとりなり不死不生なり》など経験思想にもかかわる概念での理論や説明の問題だと思います。今では扱いにくい《義・正義》という概念も 神の属性として添えられていましたね。概念説明を互いに行なって 自由に批判しあいつつ 共通の了解および相違点の確認へと進めていけばよいと考えます。 次のようにまとめたことがあります。よかったら参照してください。 ○ (信仰類型論) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。 Y=考えれば分かること。 (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行 為によって分かるようになると考えられること)。 (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する 場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明 しうることがら。) X=考えても分からないこと。 (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。 (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。 (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ とがら。 ) ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて 超経験の領域= X 超自然・非経験・絶対・無限・永遠・ 〔そしてこのような意味での〕神・ 〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3) さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。 §2 《考える》と《信じる》 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。 人間存在 = Z とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。 人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。 §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の 歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。 これに対する答えは むしろ簡単である。 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。 介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。 いま一歩進めるならば このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。 もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。 以上の定義だけの理論は 次が その心である。 吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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NO20ですが、補足します。 NO20におきましては、選挙の例を用いた上に、更に信者の側からの視点で言及した面もありましたので、私の説明に不充分な面もあったかと思いました。 NO20の管理職の例を用いて補足しますと、 選挙では仮にBさんが管理職として選出されたとしましょう。 この場合、実際の実力はCさんが1番、ということはありえるわけです。 選ぶ側の見識が不足していた、ということはありえるわけです。 ですから、霊界においては、本来の序列というものがあると思いますが、この世においては結局は選ばれた結果で勢力分布が分かれる、という形になる、と思います。 ただもちろん、この世での選出の結果が、霊界での本来の序列のとおりとなる、ということはありえますので、そうした理想の形が実現すれば望ましいなあと思う次第です。 ともあれ、各人がしっかりと各派の内容を吟味して、その都度、最善と思われるものを選べばいいと思います。
お礼
厳格に見える宗教でさえ 結果的に「ユルい」考えでもって回っている。 思いの外気楽で前向きな解釈が出るものですね。。 適当にまとめてしまいましたが、ともかくありがとうございました。
- sugartax
- ベストアンサー率50% (22/44)
>私の考えでは、繰り返しますが、信者自身にとっては「拠り所」ではなく「真理」でなければ成り立たないはずです。 ご質問のジレンマは、「真理」という絶対的な物を信者と言う多様で広範な物に落とし込もうとしているから発生するのだと考えますね。信者と言うものが一様に等しければ、dansunflux さんが言われる様な帰結に至るでしょう。しかし、現実はそうならない。そうならないのには根拠があります。信仰心であれ信ずる人であれ、強さと種類があります。絶対性を持つ教義に対してどう接するか?それは人それぞれで一様ではありません。そのため >ダブルスタンダード的に神の絶対性を留保する力が働いているか、もしくは実は真面目に信じてはいないかでしょう。 というのも極端な一例に過ぎない訳です。 絶対性を認識しつつも等の本人の解釈が異なれば、絶対性が失われると言う事にも気付くと思います。 しまり絶対的ではあるが、一人一人にその絶対的な物を落とし込もうとすると、解釈、信仰心その他精神性の違いにより、その時点で実のところ絶対性は失われてしまっているのです。 つまりそこでジレンマが発生している。とは、考えられませんか?
お礼
>相反する気持ちが同時にあるのが人として正常な状態 非常に示唆に富んだご意見です、 私もそう思います。 なぜ人間はこうにも非合理的か。 しばらく、考えてみたいと思います。 >絶対性を認識しつつも当の本人の解釈が異なれば、絶対性が失われる 信仰はテキトーでもよい、 (しかしテキトーな宗教は認めない。) 解釈には何かしらの基準はあるが、絶対的でなくても良い ということになるでしょうか。 科学的・宗教的・夢・日常的etcの世界の多重性が、人間の主観世界において折衷され統一されるためだろうか。 そのまま現象学ですね。。 お付き合い頂き、ありがとうございました。
- sugartax
- ベストアンサー率50% (22/44)
>sugartaxさんは、上の回答に示される考えと信仰心が両立すると思われますか。 間違いなく両立すると思います。信仰心にも段階と言う物があります。 何となくあるんではないか?という漠然とした物から、厳然と従うべきものというまさに原理主義的な信仰心まで様々でしょう。当然原理主義的な宗教でも、我々日本人のように漫然と従っている(とあえず従っておく)という人は少なくない。 そして『拠り所』は気休めなどという安い物ではありません。 例えば、ある意味『弱い信仰』として、あなたはこの哲学的な思考を考え方の規範とされている。しかし、「宗教」として原理主義的な規範とまではされていない(ように見える)。例が逸脱し過ぎましたか? 他に面白い例としては、ある場所が立ちションベンの被害に悩まされていたのですが、そこに小さな鳥居の絵を描いた所ピタリと被害がなくなったという事実があります。これを宗教と言うかどうかは悩むべきところですが、これも一種信仰心です。 正月にイベントとして詣でる神社の鳥居という、ただのシンボル的なものにさえションベンをひっかけることを躊躇するのです。人とはそういうものです。 押し並べて全員が同等レベルの信仰心をもつ訳でなく、さらに言えば偏った信仰をもった人だとしてもによってどのような意味でその信仰を成り立たせているのか『精神的な利害』が異なる場合が多い。当然、『教え』に対してどこに傾倒するかも信者により異なってくる。そして、信者は信者同士で派閥やグループを形成し、教えに対する精神的な利害とはまた別の利害から、闘争や結託が生まれるでしょう。人である以上、同一の宗教でさえ多様化はまぬかれない。 そういう意味で言えば、ある程度拡大した原理主義はもはや原理主義を維持できなくなる筈です。その中枢には私は立ち入った事がないので分かりませんが、中枢の意志を末端にまで届かせようとしたら間違いなく『弾圧』が起こるでしょう。まさにオウムのように。 それからダブルスタンダードという言葉は詭弁です。 例えば「リンゴよりナシの方が美味いじゃん」と言いながらリンゴは体にいいよと言いながら販売するのはダブルスタンダードですか?どこぞのチャンネルならダブスタ扱いでしょうね(笑)あまりにも多くが見えていない。まさに ch が言うところの「思考停止」です。(思考停止という言葉自体が思考停止ですが。笑) アンビバレントな「相反する気持ちが同時にある」状態が人として正常な状態です。
怒ってはいません。ポケモン(ユニコーン)は, 実際問題として存在しないというのが私の回答です。個人的・主観的には正しい解答だと思いますが… 質問者様の主張は、 ☆『神は多様である。』ということです。 この主張は、神の存在を前提としています。 質問者様のおっしゃりたいことは= ☆『タイトル通りの内容です。』 また、 ☆『現実として宗教=神(仏)は多様に存在していることに関して』 主張しておられますが、根拠がありません。 ★神は存在しません。質問者様の思い描く、「一般の神」をモディファイした「改良版の神」も存在しません。ないものは改良できませんので。 ☆『信仰を持つ人間はその本質としての絶対性と折り合いをつける』 というのも主張。いるとしても、かなり少数の人間だと思われます。 ★この項目の「回答者」の中には、このようなことを本気で信じている知能レベルの低い人もいるかもしれませんが、少数派、もしくは、たったひとりでしょう。 ☆『結局のところは、原理主義と多元主義のいずれかに落ち着くと思われます』 この主張も根拠がないのではないでしょうか? ケース1 ☆『宗教が原理主義を伴う場合、原理主義と原理主義の対立が殺戮や「荒廃をもたらす」。』 ★一神教の批判は、それを信じている人を対象として実践してください。 ★ここは哲学カテゴリーのQ&Aです。この哲学カテゴリーで、一神教を広げようとしている人は、哲学者ではありません。信者です。 普通なら、くだらない質問で『☆荒廃をもたらす』のは極力避けていくべきでしょう。質問者様も信者ではないという自覚があるのであれば慎むべきです。(それでもあえてくだらない質問をするのが狂信者です。そんな人が一体存在するのか、よく観察してみてください。) ☆『救済との矛盾』がいかにして克服されるか? 是には回答が出来ます。 ★「神の救済はありません。」矛盾以前の問題です。 この人たちは、「信じてみればわかる」とか「貴方に共感します。時(トキ)がくればわかるのですよ!」とか「可能性ですよ!」とかキモいことを言ってくる… 詭弁です。 「死んだあとには救済されているのですよ」ということ。 ( 救われるか救われないかはわからないが、更にそう信じなさいということ。救いようがありません。) 自白は絶対しない。(それでも他人をだましとおす!余計なお世話です…) 最期までうそを突き通すことです。 ★でもお葬式は、親の宗派の葬式(浄土真宗www)です。「本当にくだらないこと」だと思いませんか? さもなくば オ=ムのように世界を破壊してみればわかるとか敵を根絶やしにしてみればわかるとかと言い出します。でも行動すべきは、常に「他者(自分以外の人)」であるということに注目してほしいのです。言いだしっぺは、壁の中に隠れています。 兵士が戦うべき 手下ががんばるべき 信じていないものが信じるべき 平社員が働くべき 若者が行動すべき という主観的「べき」論です。自然法・組織の法制・法規を度外視した「オレ様が基本」の権威主義=独善主義です。 ★プロジェクトチームには、ミッションがあります。 家父長的社会には、庇護と忠誠があります。 成果主義の社会には、透明性があります。 ★一神教の社会に存在するのは、「教義」のみです。 この人たちのやっていることは、 「聴衆よ!お前はオレの手下だ!まずは信じることだ!次は俺の言うことを信じろ!俺の書いた言葉を読め!ということです。」他人にどうしろといっているだけ・議論ではありません。 ★組織のない一神教(水による洗礼を受けないwww) には、それさえもありません。存在するのは、ヘリクツと虚言のみです。 「5年後には富士山が爆発する」と主張する自称「預言者」が、その当日になると雲隠れしているという事実に似ています。(2000年前後の実話) 「なぜ逃亡したのか」と問い詰められると、「この世の終わりだと思ったので避難していた」と一聴 「なるほど」と思わせる回答ですが、ヘリクツもいいとこ… 前提が虚言だからです。土地の登記が終わっていない農地に家を建てるのと同じです。 ★存在論は、「読み物」ではないのですから、「存在しないものの存在」について議論するのは、かなり厄介です。滅相もないと断じることが出来ます。 ★こいつらは、自分の主張に関して、「間違っていたから責任をとる」なんてことは夢にも思っていません。 ヘ理屈はいつでも・どこでもこねられます。無駄話です。個人的には文学・国語でやってほしいのですが… (慕って訪れる孫もいないのでしょうから、そういうかたがたは、自分の住んでいるところで大好きな聖書の読書会をやってればいいのです。他人の迷惑を考えるべきです。) ケース2 ☆『宗教が多元主義を伴う場合…』 ★意味が不明です。 ☆『後者の場合、ではそもそも神の多元性の原因は何か、というような疑問があります。』 もう一度繰り返します。 ★神の多元性は存在しません。神は存在しないのですから。 「神はいない」と見れば、議論が完結しています。始まりさえもしません。 つまり、 ★質問者様がお探しの「回答」とは、「そもそも存在しない」か「ヘリクツwww」かのどちらかです。 果たして、「ポケモン(見えざるwww)」は。存在する可能性があるのでしょうか?どうでしょう。(回答・経験者・自身あり) 「だからぁ ナイ っつーの!www」(アドバイス・一般人・参考意見)
お礼
繰り返しますが私は 「信者にとって」の問題提起 をしているのです。 ですから当然神(仏)は存在するという仮定の上での話になります。
補足
お礼への補足ですが もしあなたが仏教の人でしたら「煩悩」は捨てるべきでしょう。 あなたの批判は一理あると思いますが、批判を越えて中傷になるのは避けるべきです。
- sugartax
- ベストアンサー率50% (22/44)
No12 です。 >噛み合わないやりとりを強要しているようで申し訳ありません。。 いえいえ。なるほどそういう事でしたか。 >要点として >宗教は全て絶対的でなければならないのではないか、ということがまず一つ。 まず、この帰結自体がどこから来たのか私には定かではありませんし、アニミズムを許容しつつ「宗教は全て絶対的でなければならない」という結論に至るには、アニミズムを宗教として認めていないのかな?とも思ってしまいますが、それはこの際置いといて・・・。 宗教をなんと定義されているかによってその絶対性は変わると思います。 一般人として見るならば宗教のありようは、ただの拠り所です。そして宗教は権威ではなく大衆より始まる。大衆が原点です。 詰まるところデーモニズムであっても良いし、拝金主義でも構わない。 ただ、そこに人格を投影したに過ぎない。そう考えれば、絶対的である必要はなく当然原理主義である必要もない。 そして原理主義は「宗教が絶対でなければならない」のではなく「宗教に絶対性を求めた」のです。 それ故にキリスト原理主義は多くの苦悩と闘争を抱える事になった訳です。
お礼
sugartaxさんは、上の回答に示される考えと信仰心が両立すると思われますか。 私の考えでは、繰り返しますが、信者自身にとっては「拠り所」ではなく「真理」でなければ成り立たないはずです。少なくとも「気休め」で「天国」や「輪廻」を信じ、宗教生活を実践しようとは思わないのではないでしょうか。ある人において、他の宗教と多元的に成立可能な、気休めとしての宗教が成り立つとすれば、何かしら彼の内には、ダブルスタンダード的に神の絶対性を留保する力が働いているか、もしくは実は真面目に信じてはいないかでしょう。初めの質問に戻ってしまいましたが、sugartaxさんの文脈においてはこのように質問内容は詳細化されると思います。
原理主義が複数存在していること自体、既に客観的には多様である、という現実実態を表していると思います。 多元性の原因は、現実的に、信者から見ても、一定の神と認めてもいいレベルの方々が、多数いらっしゃるからである、とも言えるでしょう。 会社だって、平社員から見ても、AさんもBさんもCさんも管理職として一定の力量を備えておられることはわかる、ということはあります。 それが宗教においてもあるのは自然なことのように思えます。 あとは選挙に似たような感じでしょうか。 AさんもBさんもCさんも、自分こそが最も適任である、とPRすること自体は自由ですし、 選ぶ方も、Dさんは管理職適任者はAさんしかいない、と思い、 EさんはAさんもBさんも管理職としての力量は備えているけど、順位をつけるとすればCさんが最適、と思う、 ということがあるわけです。 最大のポイントは、 立候補者の発言自体は制限できなくても、 結局は選ぶという行為で決まる、 ということではないでしょうか。 すなわち、 選挙で言えば政策内容ですが、つまりは宗教の内容を見て、 最もいい、と思うところを選ぶ、 ということで決まるわけですから、 殺戮につながるところを選ばなくなる、ということはありえないわけではないでしょう。 また、日本国内であれば、殺戮行為に関しては別途法律で取締がありますので、この点最低レベルの問題はクリアしていると思います。 ただ、国際レベルで見ると、一日本国内のようなわけにはいっていない実態があります。 ただ、それは宗教に限らず、イデオロギーや民族や利権等々の面でも同様です。 ただ、世界史を見てみると、改宗、ということ自体は多々ありますし、 また、宗教に限らず、戦争行為自体も、例えば第二次大戦後、その反省から例えばGATT(関税貿易一般協定)等々を設けたりして、戦争を極力回避しようと様々な取り組みがなされて来ています。 ですから、世界レベルにおいても、日本国内のようなあり方に持って行くこと自体は、不可能ではないということは言えるでしょう。
お礼
鋭い指摘に思えます。 候補者である神(仏)同士言っていることが矛盾し合っている場合、ある神(仏)が「ポスト」に就いた時点で、他は「天下る」しかないように思えます。例えば大日如来がポストに就くなら、大日如来は文字通りアラーよりも天照大神よりも「偉く」なるはずですが、これは無限大の数字に大小関係を付けるような矛盾に陥っているのではないでしょうか。 さらに問題はなぜ信者はその神(仏)を選んだかということで、もし「感性に合うから」程度の理由しかないのなら、自らがその神(仏)を信じるという理由でもってのみ「救済」を信じるに至るのなら、神(仏)による「救済」はあみだくじのようなもので、結局「外れ」という可能性が避けられないはずです。 かなり良い所まで来られた気がします。 ありがとうございます。
なぜ理解できないの? 現実は、 「神は、存在する」か 「神は存在しない」かのどちらかです。 理解することではありません。 キリスト教の神(主観的改造/海賊/改良版の「かみ」) リアルは、様態 リアリティーは、オブジェクトです。 神と仏性は、どちらがどちらに属するのでしょうか? 回答=手続きの問題です。 くそ(みそ) 馬(鹿) 宗教(哲学) 原理主義(多元主義) 神(仏) 絶対(主観) 私見(情報源) 質問(自分の主張) 同様の誤謬 AあるいはB Aの質問あるいはBというふざけた質問 Aを訊きたい といいながら Bを主張する Aというの(うわさor自分の主張したいこと)は、本当ですか?と疑問系で信憑性の印象を刺激する。 Aであるのは、なぜ と質問しながらAと言う主張を正当化する 全部週刊誌のタイトルと記事内容の焼き直しです。 船乗り・漁師でもないのに 「船と船乗りの物語」を書く無知な散文家とおなじ。 なぜこんな本を書くかというと、「だって編集さんが、旅をしたくなる本を書いてください。たすきのコメントも、すでに出来ています。といってたんだもん。」という理論です。 この種の本・散文は、購入された後、「くだらネ」と一蹴され、 数日でリサイクルショップゆき… 新品100円均一のアサリ台で「売れ残る」くだらない散文です。 取材の「ねた」となった船乗りさんには、「取材に当たって一言の挨拶もなかった」・「レポート完成後、感謝のかの字もなかった」というのも秘密です。 もっと正確な質問を国語・文学のカテゴリーで提起するようにしましょうネ! !?の文化は、某チャンネルだけで勘弁してください。
お礼
nananisseさんが怒っておられる理由は分かりませんが、ともかく私としてはいかに仏教が私のいうところの「宗教」から独立しているかについて、あなたの議論を待っているところです。 一応明言しておきますが、今回の回答中の批判の大部分は私の意図とは無関係に思えます。
>実際には、"なぜかなあなあのままに"宗教宗派が乱立する状況があり、宗派を越えて人間は分かり合うことができている。 このダブルスタンダードはなぜ成り立つのか、ということです。 調停というよりは超越的地平という問題になってくるのでしょうか。 つまり世界は多様における統一をその本質とする、という考え方ですね。 その可能性のお話でしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。 >調停というよりは超越的地平という問題になってくるのでしょうか。 この表現を借りると、あくまで「調停」であると思います。「多様における統一をその本質とする」ということは、少なくとも宗教者にとっては彼の神において究極の本質に至っているのであり得ないはずです。 質問とは離れますが、私にとっては非常に興味を掻き立てられる命題ですね。
- sugartax
- ベストアンサー率50% (22/44)
No.12 です。 >少し誤解があるように思います。 >私の質問は、神を信じる人にとっての話とお考えください。 はい。私もそのつもりでした。 >>取り込みと破壊です >神の意思による神の取り込みと破壊、とまるで人間のような争いを必要とする神は、他でもなく人間の、天に映る巨大な影だったのではないか、という疑問に対し、宗教者はいかに応えうるでしょうか。 取り込みと破壊は、人の側で起こります。 私は宗教間の問題として「神の意志」と称して信者が、他の宗教の神を「悪魔」として取り込んで「破壊」すると解釈しています。 また、仏教では融合してしまうようにも見えますね。 ひょっとして、ギリシャ神話のような神々や日本の神話のような神々が、(同一の思想の中で)争う事に関して言っておられるのかなぁ? 「他でもなく人間の天に映る巨大な影」という dansunflux さんの表現には人(とその宗教)に対して否定的な意識を感じますが、人がもとめる拠り所は人もしくはそれ以上の存在でなければならない訳です。ある程度段階を踏むとは思いますが、人が自らを投影した物が人臭くなるのは、ごく自然なものだと思います。 なんでしょうね。拠り所を求める心に弱さや欺瞞を見るのも良いですが、その必然性にまで視野を広げるのも良いかと思います。 >多元性が発露しているに過ぎません。 信者にとって神は絶対的だとすると、そこで神の絶対性と多元性は相容れないのではないか、というのが私の問題とするところです。 何をもって絶対的、多元性とするかですね。 宗教(神)と広範にくくり過ぎている気がしますね。キリスト教とアメニズムは、宗教ではあるが全く別物です。 実際、日本の一般の意識では絶対的な神はいませんでした。 神とは畏敬の対象でしかない。そこには多元性しかない訳です。 また、キリスト教では唯一絶対神になる?のでしょうが、これは先の通り、他の神を神として認めない事でその絶対性を維持しています。
お礼
噛み合わないやりとりを強要しているようで申し訳ありません。。 要点として 宗教は全て絶対的でなければならないのではないか、ということがまず一つ。 そして、宗教はその絶対的であるがゆえに、原理主義を避けられないのではないかということがもう一つ。 そして、それなのに現実として原理主義は、少なくとも先進国家においては一派閥に留まっているのはなぜかということが一つです。 私自身八百万の神については「あり」だと既に言っているように、 アニミズムは特に問題としていません。 確かにここも微妙だと思いますが、経験世界を超越した根拠において価値判断を下すか否かでもって区別しています。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.4&7&11です。 dansunflux さんとわたしとの異同の異のほうも分かったかと思います。その点を述べます。 ★ (No.11) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ なるほど、確かに「無記」としておくのが良いかもしれません。 しかし私としては「見えざるユニコーン」について、その可能性を前提において語ることは避けたいところです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 神について不可知でもなく可知でもなく 無記とすると 《見えざるユニコーン》だという規定がはびこるというお考えでしょうか? ★ ユニコーン ☆ という規定が 非思考の信仰を表わすのに似つかわしくないかどうかの問題だと思います。想像上のものだとしても 動物として形を持つものだとしたら その表象が成され得ることになります。すなわち 観念の偶像だということになりませんか? ですから 《見えざるユニコーン》という表現で――おそらく人のもっとも主観的である部分としての信仰をほかの人間が判断して規定したり指導したりする宗教を批判しようとしているのでしょうが そのときしかしながら―― 信仰を揶揄するとなれば 問題は違ってきています。 おそらく 信仰を 宗教と同じように可知だと規定する部分と 一部の科学と同じように不可知だと規定する部分とを 同時に備えているのが この《見えざるユニコーン》説だと思われます。つまりそれぞれ《ユニコーン》と《見えざる》とです。 ですから ★ 「見えざるユニコーン」について、その可能性を前提において語る ☆ というとき 《その可能性を前提にお》くこと自体が 信仰から逸脱しているのではないでしょうか? 繰り返しになるかも知れませんが 記します。たしかに わたしは ○ 信仰者が 神を《見えざるユニコーン》だと表現するところまでは 自由だ ☆ と言いましたし その矛盾を指摘し批判するのも自由だと言い添えていますが 問題点はふたつあると考えます。問題点というよりは やはり信仰の可能性もしくは現実性という盲点のようなところです。 1. 見えざるユニコーンだと言ったからといって その偶像が神そのものだと言っているわけではない。この可能性を捨ててはいけない。――主観は そこまでは とうとばねばならないですね。 2. 《見えざる》という不可知と《ユニコーン》という形としての可知とのあいだに矛盾があるという指摘は ひょっとすると 《神の臨在》を言おうとする表現であるに過ぎないかも知れません。――そしてこれも 主観の内なる出来事としては そこまではそのままを人は受け取らねばならないと考えるのですが どうでしょう? 付け足しのようなことですが 一般にどうも信仰と宗教を一緒にして議論している場合が見られるのではないでしょうか? ひとの信仰がほかの人間の発言などによって生まれたり左右されたりすることを宗教の教義なり組織なりがゆるしているとすれば それは 個人の信仰の自殺行為だと考えます。そのように神は可知だと規定したかたちを採る諸宗教による神の多様性は 多様でも何でもなく 神でさえないということだと思います。 そしてそれは 神を不可知だと規定するそういう科学の場合も同じ間違いを侵しているのではないでしょうか? 要するにどちらも 神の上におのれの主観が乗っかっています。おのれが《絶対》に取って代わっています。信仰がおのれの主観の外に出かけてしまうからだと思います。 * 補い直します。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ですから ★ 「見えざるユニコーン」について、その可能性を前提において語る ☆ というとき 《その可能性を前提にお》くこと自体が 信仰から逸脱しているのではないでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この場合はけっきょく このこと自体がすでに信仰のいわば相互の査定をゆるしてしまう宗教の問題になっていたようです。だとしたら dansunflux さんのご見解も同じだとなります。 つまり わたしの見方も すでに同じだったのですが それを違うと捉え別の見解だというふうにコメントされたものですから この仕儀に及びました。書いたあと読み返して気づきました。 ですから このわたしからの応答は No.11までのところ互いに見解は同じだと思いますよという趣意だったようです。書きなおさずにそのままを回答とします。あしからずご了承ください。(ただし ご見解が違うようでしたら 明らかにしておおしえください)。
お礼
繰り返しありがとうございます。 見解はおおむね一致しています。 ただ私は、「かもしれない」「どうか分からない」ことについて話す必要はないと思う、ということです。 この点に関し、誤解があれば済みません。 質問の扱う領域を既に大きく超える話になっているということもあります。
お礼
ありがとうございます。 同意する、の一言に尽きます。 私からこう評すのは二重の意味でおこがましいとも思いますが、もはや「宗教(信仰の基本形態)とは何か」という問いに関して一流の哲学的あるいは倫理学的考察ですね。 不可知に対する「自然的態度」と、そこから注意深く自然的態度を保持しつつレトリックとして導かれる「実践的態度」としての信仰と宗教生活。 この二重性の自覚こそが宗教対立の解消あるいは真の宗教理解の鍵となる、というようにまとめてよいでしょうか。 これが何を意味するかについて、しばらく吟味させて頂くことにします。