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われわれはブッダという父親を殺して来なかったのでは

 ないでしょうか?  あるいは ブッダはすでに死んでいると言うべきではないでしょうか?  あるいは われわれ日本人にとってはブッダは母親だと言うべきでしょうか。そのときには 一般に神話の伝えるような《父親殺し》のかたちではなく どうなりましょうか。母親を抜け出るとでも言うのでしょうか それをおこなって来ていない――のではないでしょうか?  さらにあるいは ブッダもしくはそのおしえは もうすでに確かに末法の状態にあり その基本的な思想としてのあり方において賞味期限を過ぎている――のではないでしょうか?  その欠陥は つねに《彼岸》として見られていること――そしてその点では むしろやはり《父親》のごとく立ちはだかっている―― ではないでしょうか?  この《ブッダ》――つまり観念のブッダとしての像――とわれわれとの隔たり これがつねに壁のごとく前にあり道を遮っているのではないか。こういう問いを持ちます。  ご教授を乞います。    減らず口をたたきます。質疑応答に取り上げられるブッダの多さを見てください。その議論の多くは あたかも意識の排泄であって さとりでも何でもなく 排泄であるなら金魚のふんのごとくつらなります。われわれはこの地獄から解放されるべきでは?  ぼこぼこになるまでご批判をたまわりますようお願い致します。

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回答No.19

 bragelonneさんは、よく聖書からの言葉を引用しますので、それに習って私も、手元の仏書(明治から大正にかけて活動されたお坊さんの書)からの引用を試みました。  ‘逆質問’についてです。《》内は私の解釈ですが、自信が無いので?を付けて於きます。  三縁(さんえん)  如来《神?》より衆生に対する光は三縁にて、即ち恩寵である。恩寵〔光明〕を被(かふ)むる人の信仰に三心あり。近縁(ごんねん)は信。親縁(しんねん)は愛。増上縁(ぞうじゃうえん)は欲、に対する関係にて。如来の智慧《理性?》と慈悲《感情?》と威力(いりき)《意志?》とが衆生の三心の関係に三縁となるわけである。      親(みおや)                  子(こ)      智慧‥‥‥‥近縁‥‥‥‥〈形式〉‥‥‥‥信念      慈悲‥‥‥‥親縁‥‥‥‥〈内容〉‥‥‥‥愛念        同化‥‥‥‥増上縁‥‥‥〈活動〉‥‥‥‥欲念  以上です。    全体愛である慈悲と人に備わっている愛とでは違いがあるように思います。  あまり物事を深く追求できる頭ではないので、このくらいで勘弁してください。    うまく説明できませんが、bragelonneさんの質問の趣旨はなんとなくですが、分かっているつもりです。この回答はどうでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 yy8yy8az さん ご回答をありがとうございます。  またまた引用ですが。神はモーセに次のごとく言ったそうです。  ▲ (出エジプト記33:20-23) ~~~~~~~~~~~~~~  見よ 私の傍らに一つの場所がある。  私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つであろう。  私はあなたを岩の頂上に置こう。  私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。  私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。  私の顔はあなたに現われないであろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 〈如来《神?》より衆生に対する光〉 これが上のように  ○ 如来(=神)の後ろ姿をひとは見る。  ☆ という関係だと思いました。むろんこの関係が 《信仰=非思考》です。  ここからは わたしのほうの解釈で応対してまいります。  ★ 全体愛である慈悲と人に備わっている愛とでは違いがあるように思います。  ☆ まづこの命題がお互いに得られたようですね。  ▲ 神がひとに言うには:あなたはわたしの貌(かお)を見て生きることはできない。  ☆ どうもこういうふうだと考えます。  ▲ 私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。  ☆ これは 類型的に当てはめるにすぎないことですが イエスが地上にいたあいだ イエスは自分が父なる神の独り子であり父は子にそのすべての力をゆだねており子である自分自身も神であるという意味合いのことをすでに言っていたにも拘わらず弟子たちをはじめとして 人びとは誰も そのキリストであることが分からなかった。ことに対応すると言われます。  人びとは その《威厳≒威力》の手で蔽われていて分からなかったという解釈のことです。はりつけの十字架上に死を死んだあと 弟子たちには生前にイエスが言っていたことの内容が分かってしまったということのようです。そういう一連の過程としてのはからいは 知恵であり愛(意志)であると言えるでしょう。つまりおおまかに言って  ◆ 如来の智慧《理性?》と慈悲《感情?》と威力(いりき)《意志?》  ☆ といったところでしょうか。細かいところで突っ込めば 《理性》は 理性以上の理性でしょうし 《感情》は感情以上の知覚のはたらきであるでしょうし 《意志》は 意志中の意志なのでしょう。  その――《三縁》と言いますか――三つの面(おもて)(つまり実際には その背面)は 《形式・内容・活動》に当てはめてもいいかと思いますが それらが  ◆ 信念・愛念・欲念  ☆ という概念に対応するというところは まだよくつかめません。  ◆ 近縁(ごんねん)は信。親縁(しんねん)は愛。増上縁(ぞうじゃうえん)は欲、  ☆ というところですね。と言うのも:  ○ 非思考(つまり なぞ のことですね)としての信仰は すでに《如来とわたしの関係》において その関係の全体として成り立っていると思いますし。  ○ 《愛》は 神の愛と人間の愛とがある。つまり 如来=神の側のはからいとしての慈悲=恩寵・恩恵=恵み=愛と そして この《愛》の似像(にすがた)としての相対的な人間の愛――《衆生縁ないし法縁としての人間における経験的な行為たる慈悲》でしょうか?――とがある。こう区分できるでしょうし。  ○ 《欲》は どうなんでしょう? ――もし如来のうしろ姿をでも見ることができたのなら それに倣ってわれわれ人間も はなはだ不類似ながら多少は似ている愛=慈悲のおこないをできると言っていいかも知れません。その人間の意志のことを広く意欲と言えるかも知れませんし   ○ あるいはむしろ時には《おれはうしろ姿だけではなくその顔を見たのだ》と言い出して意欲に任せて如来の無縁の慈悲そのものを実践できるのだと吹聴するようになる。このような欲望のことを言うのかも知れません。  さらに詳しい方に 解説やらそのあとの展開やらをお願いしておきたいと思います。どうなるか分かりませんが 記しておきます。  * そのお坊さんの名前を出しておかれたほうが みなさんのためにも いいと思いますよ。

その他の回答 (21)

noname#89707
noname#89707
回答No.11

人は、その人にとっての善知識(=一瞬の化身仏)との出会いによって解脱します。生き身の如来と出会うことによって解脱するのではありません。 ですから、人は、如来と出合うことを望むよりも、善知識と出会うことを心から望むべきであるのです。 それは、その人の身近に必ず現れると言うのですから。 父性(の望むところ)を欠いていても、母性(の望むところ)を欠いていても、自性(の望むところ)を欠いていても、仏性(=利他の心)には欠くところはないのだと知って、欠けたものに注目するより、満ちたところに注目して、平等な心の完成を目指すべきではないでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 rain_nil さん ご回答をありがとうございます。  どちらかと言えば 前回の選択肢の中では 次の(3)としてのご見解でおられるでしょうか。  ☆☆ (No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) いやいや そんなどこかの神話の問題は 関係ない。  ★ 如来であっても、菩薩であっても、他の何であろうとも、まっとうな人はまっとうな人として振舞うからである。  ☆ つまり父親殺しなどという問題は お呼びでない。ということなのか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただし 勉強や修行の過程を経るというよりは およそすでに――即身成仏ではありませんが―― そのいま・ここなるわたしに立ちなさいとおっしゃっていましょうか?  ★ ・・・欠けたものに注目するより、満ちたところに注目して、平等な心の完成を目指すべきではないでしょうか。  ☆ いまの状態でかまわないという姿勢が見受けられます。そうしているとき もうひとつの注目事項は   ★ その人にとっての善知識(=一瞬の化身仏)との出会い  ☆ であるようですね。  ★ その人にとっての善知識(=一瞬の化身仏)との出会いによって解脱します。  ☆ と。  ★ 生き身の如来と出会うことによって解脱するのではありません。  ☆ と。  わたしは前回 次のような評言も添えていました。  ☆☆ (No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしは 現状として ずるずるだらだらと《さとり》だの《無我の境地》だのと言って盛んに《父親との対話》が行なわれていると見ています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なおこの話をここに持ち出すのは rain_nil さんの切れ味のよい解説をお聞きした上でも やはり  ★ その人にとっての善知識(=一瞬の化身仏)  ☆ というからには ブッダという想定を抱き そのブッダと《わたし》との関係構造はかたちづくられていると知るからです。あるいは  ★ 仏性(=利他の心)  ☆ という規定も見られます。これが いまの《関係構造》の中に位置するものと思われます。――なぜなんでしょう? なぜ  ★ 利他の心  ☆ というように観念の像――あるいはつまり 理念ですね――が持ち出されてくるのでしょう? もし仏性を言うのであれば  ○ 誰にでも そなわっており ただわづかにこれに気づけばよい。  ☆ というようになっておかしくないと思われるのに どうして ならないのでしょうか? 理念であってもいいでしょうが そもそも人間に生来そなわっているのではないですか? ただの想像であり幻想であるに過ぎないのですか? そんな幻想をわざわざ人びとに触れまわってきたのですか ブッディストたちは?  こうはなりませんか?  ○ 善知識は わたしにとって わたしである。わづかに外へ社会へ開かれなさい。そうすれば ただちに仏性も目覚めてくるものだ。  ○ ゴータマ・ブッダは ただもったいぶって言ったのだ。心配要らない。誰でも 仏性が目覚めたなら ただちにブッダなのである。気をつけていたまえ。見過ごしてはいけない。  ○ この利己――この利己――の徹底によってこそ ひとは ブッダであることを磨いていける。利己から始めなさい。  ○ みづからが大きくなって行けば そのこと自体がすでに利他のおこないに通じている。何も心配も要らない。ゴータマは 昔の人間だから もったいぶって最後までそっくりかえっていたのだ。  ○ そういう無明のもとにも ブッダの境地を指し示すことくらいは出来たのだ。それにじっさい利他なんていうのは その相手にしてみれば 気持ち悪いものですよ。なんでわたしをそんなにあわれみ ほどこしをしようとするのか? おのれのことにかまっていろ。と返されるのが関の山である。  ☆ のではないでしょうか? どうでしょう?

回答No.10

 bragelonneさんは、釈尊が神なのか人間なのか明確にされていない、という点を「あいまいにしておく」といっているのですね。  そう解釈して、  キリスト教では、神の‘使い’としてイエス・キリストが現れ、仏教では、仏の世界(宇宙の本体といった意味の)を知らせるために釈尊が現れました。  ですからキリストも釈尊も‘人間’である。  というように受け止めています。  マザーテレサのように、自身の心を神や仏の心に近づけたいと努力し続けた結果、伝道者となりえたのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 《はからいによってすくわれるのか そうではないのか。いづれなのか 人間のはからいによっては決めかねる》――こう言ったほうが分かりやすいでしょうか。《風は気ままに吹く》の意味としてです。    ゴータマは自力でブッダを指し示す境地になったかも知れませんが アブラハムは 神との関係(けっきょく何とも捉え難いものです)において 祝福され神の子〔のごとく〕であるとされたものです。イエスは 神の子であり神である存在(霊)が 人間に宿ったというべらぼう話です。  けれどもこのキリストと呼ばれるようになったイエスが出て来なかったなら わたしたちは依然として アブラハムとその子孫と同じように 神の子であり光の子である境地に到るという気づかいは まだなお無用であったということです。暗中模索だったという意味です。  約束だけは有効であったし 有効であると言えます。  つまりは ゴータマはあくまで人間であり ただ仏の世界を指し示しただけだとなれば その指し示したおしえが 幾通りにも解釈されさらにそこに目鼻が自由につけられて行き 暗中模索である以上にいい意味でも悪い意味でも百花繚乱だということになります。  ということは   ○ ブッダの世界というのは 誰もその世界じたいに成ったことはないが おそらく存在するであろう。間違っていないであろう。  ☆ といったご主張になりましょうか? このことが明確になれば 互いにさらに自由に建設的に対話をおこなっていけるのではないかと考えます。まづはその出発点についての話です。  でもこの出発点の議論が ブッディストのあいだでは延々とつづいているようにも見えますが――というより 出発点を明らかにしないという方針を頑なに守っているように見えますが―― いかがでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 yy8yy8az さん ご回答をありがとうございます。  えっとですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  キリスト教では、神の‘使い’としてイエス・キリストが現れ、仏教では、仏の世界(宇宙の本体といった意味の)を知らせるために釈尊が現れました。  ですからキリストも釈尊も‘人間’である。  というように受け止めています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづクリスチアニスムのほうから行きます。わたしの聞いているところでは こうです。  ○ ナザレ出身のイエスという男は ふつうの人間である。と同時に――物語によれば―― 神の独り子であり自身も神である存在が キリストとして(それは したがって形あるものではないですから 霊として) この人間イエスに宿った。  ☆ No.4と6でも触れていますが  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ= ブッダ   イエス = キリスト  という理解にはならないですか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういう理解と問いですね。  ★ 神の‘使い’としてイエス・キリストが現れ  ☆ というのは   ▲ (ヨハネによる福音書1:17-18) ~~~~~~~~~~~~  律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。  いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあたりによって言うのだと思います。《神を指し示した》という一面があるという意味です。でも《ひとであり神である》存在だというのが 物語に即した神学です。  さて ブッダのほうです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  仏教では、仏の世界(宇宙の本体といった意味の)を知らせるために釈尊が現れました。  ですから・・・釈尊も‘人間’である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ むろんこのご見解もあり得ると受け取っています。そしてそのときには さらに次のように質問が続きます。  ○ ブッダも人間であるならば だれでもブッダになれると明確に言わなければいけない。  ○ それとも ゴータマは 《仏の世界(宇宙の本体といった意味の)を知らせるために現われた》人間であるに過ぎず ブッダ(=《仏の世界》)は 人間を超えているということでしょうか?  ☆ 次のように違いが現われていましょうか?  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ クリスチアニスムでは おとぎ話として:    人間  = 絶対(絶対者=神)     イエス = キリスト(神の独り子で自身が神)  ○ ブッディスムでは:    人間  ≠ 絶対(=宇宙の本体といった意味の仏の世界)    ゴータマ≠ ブッダ(仏の世界)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりは ブッディスムは 科学であり哲学であり経験思想であり 芸術であり文学であるという趣旨になりましょうか? そこに信仰(=非思考)が入るかどうかは ひとそれぞれの自由であると。   ★ マザーテレサのように、自身の心を神や仏の心に近づけたいと努力し続けた結果、伝道者となりえたのではないでしょうか。  ☆ かのじょの人生と努力 またそれをどう捉えるか については わたしは意見を控えます。問題は 上のようにブッディスムを 経験科学であり思想であると捉えるときには このおっしゃるようなマザーテレサの評価が出てくると考えます。  ところが クリスチアニスムの場合には   ○ 知性や人格あるいは社会への貢献の努力――むろん これらを貶ることではありません そうではなく その上にということですが――によって ひとはすくわれるのではなく ただ恵みによる。  ☆ と捉えます。恩恵というのは そのまま《ただ(無料)》ということであり 《風は気ままに吹く》という意味です。それゆえに 《非思考》なのです 信仰は。親鸞の言うごとく《はからいによってではない》というわけです。

回答No.9

 現代の‘宗教観’というものを危惧するがゆえの質問かと受け止めました。  全く、仏教に関して云えば、釈尊の残された仏典にとらわれすぎているように思います。  なぜ知識人たちは、理屈ばかりを優先するのでしょうか。  心は理性ばかりでないという事を、十分承知しているというのに。  原因は、自身の心をよく見つめるということをしないからではないでしょうか。  わが心を見つめるということは、自身の感情面を客観的に見る、ということだと思うのです。  理性に頼るあまり、釈尊の残された仏典を理解しようと、また理解したとして、こだわってしまうのです。そこから離れられないのです。  釈尊は過去の修行者の残された言葉に頼って、悟りを開いたというのでしょうか、否。    釈尊はご自身の心を見つめて、その心を言葉に顕しました。  先達のことばをよりどころにしたのではないのです。  我々も見習うべきは自分の心を見つめる、ということです。  そして自身の言葉で、宗教観を築くべきなのです。  私自身が己が心(感情面)を見つめて得た宗教観とは。  幼稚な‘宗教観’ですが以下に。  我々人間は、宇宙の精神に神(善)と悪魔(悪)を想定しました。  また、人の精神に、好ましいほうの心(思いやりの気持ちとか)〔全体〕と好ましくないほうの心(仏教では煩悩とか)〔個〕という二つの要素があることも認識できます。  宇宙の精神も人の精神も同質であると受け止めれば、人の好ましい心は神の心であるとしてよいのではないかと思います。  これを私は、神の心が人の心に‘反映している’と表現します。  さらに、心は肉体と同じように使うほどに育つ、ということを体験を通し学びました。善い心も悪い心も。  だから釈尊が‘悪しきをなさず善(よ)きを行え’と言ったのは、心は使うほどに育つのでそう言ったのだと、受け止めることができたのです。  私のような無知な者でも、自分の心を見つめることで、こうした宗教観を持つことが出来て、今は信仰というものについての迷いがなくなりました。(特に信仰生活を送っているわけではありませんが)  ちょっと尻切れトンボのようですが、これで切り上げます。  bragelonneさん。回答になっていますでしょうか。自分を主張しすぎたかもしれません。お詫びいたします。  

bragelonne
質問者

補足

 yy8yy8az さん こんにちは。ご回答をありがとうございます  ★ さらに、心は肉体と同じように使うほどに育つ、ということを体験を通し学びました。善い心も悪い心も。  ☆ ここがおもしろいですね。ま 精神の・その――記憶という精神の秩序作用は措いておくとしても その記憶の宝庫に尋ねつつ――推論をみちびく知解能力あるいはみづからの意志決定のための判断能力 これは使わなければさびて来るでしょうね。  推論の妥当性あるいは判断のやはり妥当性 これを試行錯誤において重ねていくことは おおきなちからになるでしょうね。  意志がわがこころに問うとき――あるいはわたしが精神に問うて 意志決定に際してこころにも問うとき―― 論理的な妥当性のほかに・またそれ以上に こころの坐り具合いや気持ちの落ち着き方によって 決まるものとも思います。  これは おっしゃるように  ★ 心は肉体と同じように使うほどに育つ・・・善い心も悪い心も。  ☆ のことだと思います。へそが曲がっているかいないか これが善か悪かのことではないでしょうか。  曲がっていれば だれでも こころにやましさを覚えるものです。けれども 少しづつこのことをないがしろにし もはや忘れてしまえるようになり このような《こころの使い方》を放擲してしまっているなら それは《育たない》。育たないどころか そのような萎えたこころのもとに 身体は空気のような状態になっていくものと考えます。  もはやいかなるものの下にも立つまいと固く誓った末に どれだけ土下座をしてでもいいからあらゆる手段を使って人びとを《なびき寄せる》 この一事のために一心不乱に一路邁進するという人間が生まれます。  空気のような身体人間とは 人間にとってまづその自然身体としてはごく普通の死ぬということが 死ななくなった状態ではないでしょうか? 身体にしても やがて死ぬという状態 これが こころの死とともに固まって行き これらの死がもはや死ななくなる。死の状態が永遠につづく生(?)。  これは へびが這い進むように 少しづつ日に日に 心を使わなくなるごとに 陥ると聞いています。しかも空気のような身体をつうじて その場の――その仲間内の場ではその場の――空気を読みますし あたかも支配することもあります。このときあたかもおのれは人間的になったのだなぁと自負するようになるでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  釈尊は過去の修行者の残された言葉に頼って、悟りを開いたというのでしょうか、否。    釈尊はご自身の心を見つめて、その心を言葉に顕しました。  先達のことばをよりどころにしたのではないのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづ次の文章をごらんください。  ▲ (創世記12:1-3) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   主はアブラムに言われた。   ――あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさ    い。     わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名    を高める 祝福の源となるように。     あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは    呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《アブラム》のちのアブラハムですが かれは このように聞いたと言います。つまり そのこころにこの内容を受け容れ持ち続けたという意味です。すべての後世の人びとの父(信仰および思想の先駆者)となると言っています。天上天下唯我独尊でしょう?  もし自分がこの上なき知恵といのちに満ちた存在であると自覚し自認したのであれば それは神だというのか? それとも あくまで人間であるというのか? そこのところを明らかにしなければならなかったのではないでしょうか?  ブッディストなら はっきりさせるべきではないでしょうか? ブッダは あいまいにしておけば 二千年ないし二千五百年くらいは 自分の名声が持つだろうと思っていたのでしょうか? この計略にブッディストたちは まんまと嵌まった。それでもいい と言うのでしょうか?

noname#89707
noname#89707
回答No.8

まっとうな人間は、自分のほかに誰を頼ることも無いとか、あるとか、そういうことにはこだわらない。 如来であっても、菩薩であっても、他の何であろうとも、まっとうな人はまっとうな人として振舞うからである。 如来の何を否定しようとも、如来の何をイメージしようとも、それ自体が彼の発心を支えるものとはならないであろう。 思い巡らしたことについてああだこうだと論議を重ねることは、想像の域を脱しておらず、自ら歩むこととは関係ない。 正しく人々と語らい、正しく自らを律して、人は健く道を歩み行くべきである。

bragelonne
質問者

お礼

 rain_nil さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  おっしゃったことは 次のいづれに当たるでしょう?  (1) わたしの提案した《観念の像としてのブッダなる父親を殺した》あとのわれわれの生きる状態を言ったものなのか?  ★ 思い巡らしたことについてああだこうだと論議を重ねることは、想像の域を脱しておらず、自ら歩むこととは関係ない。  (2) ただしそれはすでに実際であるとは限らない。  ★ 正しく人々と語らい、正しく自らを律して、人は健く道を歩み行くべきである。  ☆ というように理念において今語っているものであるとも考えられます。行く行くはこの理念に沿ってでしょうか  ★ 如来の何を否定しようとも、如来の何をイメージしようとも、それ自体が彼の発心を支えるものとはならないであろう。  ☆ ということが実現するというご議論なのか?  (3) いやいや そんな神話かどこかの問題は 関係ない。  ★ 如来であっても、菩薩であっても、他の何であろうとも、まっとうな人はまっとうな人として振舞うからである。  ☆ つまり父親殺しなどという問題は お呼びでない。ということなのか?  わたしは 現状として ずるずるだらだらと《さとり》だの《無我の境地》だのと言って盛んに《父親との対話》が行なわれていると見ています。

noname#107497
noname#107497
回答No.7

私は、日蓮宗派の日蓮正宗の者です。修業中の身であり、一信徒に過ぎませんので間違いや勘違いもあるかと思います。 質問、お礼等を見ましたが、私の頭では何を求めているか解りませんでしたが、質問者さんの何かになればと思い回答します。また、この機会を与えていただいて感謝を初めに申し上げます。 仏教の難しさは、いろいろありますが、私が修業をして、感じたことをあげていきます。 仏教に限らず、教えと言うのは、悟る(実感する)、それが道理であると気付くことことが大切です。 「悟ること」と「聞く、見る、内容を理解する」というのは違うことだと私は思っています。 悟ることは容易ではありません。悟りはいろいろな悟りがあります。仏性の開花の度合いによって悟れる悟りもまた、違ってきます。(私が感じるところ) 「悟りたい」が「悟れない」ということに対して私はずいぶん、悩みましたし、今でも時折、それに対し、苦しみます。 悟るためには、修業をするしかない。しかし、修業をするということは人生の一部を確実に費やすことになります。費やす(賭けて)て、得られるのかどうか、私はずいぶんと悩みました。人であれば、間違いのない道を歩みたいと思うと思います。 法華経にいわく、自分の持つ業によって長い間、仏、法、僧侶に出合うことはないと書かれています。(解りやすいように要点だけを書きました) 確かなものに触れたい、確かなものに出会いたいと思っても、自らの業によって合うことはできないということです。 これを言い換えると、自己の仏性の度合いよって出会うものも変わるという訳です。自己の仏性の度合いが因縁の良さ価値の度合いにも繋がる訳です。私は、これも実感しています。 例え、苦しいことであっても、後々の自分のためになったり、また、逆のただ、苦しむだけであって得るものはなく、失うものが多かったものもあります。 また、私より長く修業しているのに、明らかにひどい考えをしている。それはないだろうと言う人います。 法華経には、毒気深入というものがあり、毒気(業)が深いものは、正しい教えが解らない、あるいは、正しい教えが苦であるとされています。これも私自身、感じるところで、自分を苦しめることが正しいと思い込んだり、破滅的なこと、あるいは、修羅的な、勝つか負けるかを優先して、人の愛や救い、安穏と言うものを無視したり、それを感じることができない時もありました。修業のせいで、だいぶ変わり、救いの気持ちが生じているところではありますが、業が深く、それを実現するには至っていないところです。 法華経に、仏の教えは仏の教えのみが解ると書いてあります。つまり、どんなに考えも仏様の教えが正しいかどうか、解ることはないということです。私自身、修業をして、功徳を積む、仏性の度合いを高めることによって、実感するところやそれが尊いことであることなどが解るようになってきました。それでも、仏様の深いところは解らないです。 最近になって、感じるところは、仏教の目的とは、成仏ではなく、完全なる救いだと思います。成仏というところに、たぶん、人は、栄光や名誉というものが含まれているのだと思います。 救わんがために、教えを説く、救いたいと思うが故に教えを説くのだと思います。私自身、最近になってその気持ちが生じてきました。しかし、まだまだ、栄光や名誉、畏怖といういったものに心が引かれるとの同時に救いの前にそういったものは無用というものの中にいます。 苦しみを作り出す、感情を生じていては、自分と他も救われません。自分は他人との影響を立つことはできませんから。 例え、山奥に一人でこもったとしても、自然の変化として山奥に影響する訳です。 しかし、救おう救いたいと言う気持ちが生じるのも難しいものです。人なら、誰しも、救いたいと思うよりも、正しい事をしていることに酔いしれたい、誰からから認めて貰いたいと他人を大切する前に自分の欲を満たしたいという感情を持っています。その感情こそ、苦の原因であり、業から生じるものと私は、感じるところであります。自己満足を優先する救う気持ちは、他人にどうやったら解って貰えるかを考えるより、否定された場合、腹が立ちます。 苦の原因、業から生じる感情、感覚、欲望、そういったものが、救える教えを捻じ曲げたり、一部を盗み、自己の欲望を満たすために行動しようとする人がいます。世に詐欺師や、社会的権力や力的に高い立場にいるのに、他を苦しめたり、犠牲したりして私利私欲を満たそうとする人がいます。そういった人は、仏教や宗教の教えすら、自己都合の良いように取り入れて使います。 信じる者は、正しい教えなど解らないから信じてしまったり、あるいは、自己の業がそれを正しいと思い込む感情が生じてしまったりします。また、生活苦などで苦しんでいるものに対し、モノを恵み、信用を勝ち取る。その後は徹底的なノルマを課して、そうやって、私利私欲の指導者の駒にされることもあります。 人は、仏様の境地に至ったと感じる人は少ないでしょう。しかし、小さな悟りで自分が素晴らしいやつだと思い込む。慢心があります。物事を冷静に見て、禅定なる人はそうはならないのですが、慢心が生じる業があるが故に、知らず知らずのうちに慢心になってしまいます。仏様の境地に至っていないと思うなら、仏教徒であるなら、至りたい、近づきたいと思い修業するのが肝要だと思います。 しかし、いつまで経っても、悟れない人は、悟れないことを肯定し、近づきたいと思わず、職業的な仏教になってしまう人もいるかと思います。 仏教に関して詳しくもない、いや、悟ることもないのに、仏教の教えなら何でも正しいとか言う人もいるかと思います。 人間には、実感として正しいと解っていること(道理に基づく)、 実感として正しくないと解っていること(道理に基づかない)、 正しいかどうか解らない(道理に基づくか基づかないか解らない) の3つがあると思います。 解らなければ解らないと言えばいいが、業が深い人間は、そういった智慧もなく、浅はかに考えてしまいがちです。私自身、そうでした。 これが、仏教ならどれでも良いということになり、効果がない教えが存在する原因です。 しかし、実感として正しいと思っても、錯覚という可能性もあります。だから、それが正しいかどうかと決めるつけるのではなく、あくまで行動の指針でなければなりません。つまり、正しくないと思った時に、自分が間違っているのかという自問自答をしなければなりません。自問自答により、それが間違っているのか、人にまだ、教えを説くべきではないかもおのずと見えてはきますが、そういった自己浄化作用を持たない人もいます。一度正しいと思い込んだら、それから抜け出すことができない人がいます。 それが、浅い教えが最上の教えと思い込んだり、間違った教えが広まる原因です。 また、仏教には、段階があり、悟り、力、信じる心によって求める教えも、行事じる教えを違ってきます。そして、仏様は、その人の仏性の度合い、機根をよくよく見て、分けて、その人に合った教えを与えて悟らせてくれます。救うと言ってもその方法がどうすればいいのか解らなければ救うことになりません。また、物事の道理が間違って言うと、いたずらに相手を傷つけることになります。何かを成すために何かが必要なことはたくさんある訳で、1つ1つ自身を仏様に近づけることによってより仏様に近づいた修行や行もできるようになる訳です。 また、法華経にいわく、低下の教方を求めるような福徳の薄い人には今生で成仏したという。しかし、私(釈迦如来)は、成仏してから長い年月(人の人生100年として何億倍、正確には数字上では表せられない長さ)が経っている。つまり、業が深いものに対し、やる気を出させるために嘘を言う。嘘を言い、修業に励ませ、得を積ませる。(方便) 私が、この宗派で修業して感じたことは、人には仏性があり、仏性は功徳(得)によって開かれるものだと感じました。仏性を開ける修業をすれば開けていけるのだと解り、これが正しい教えなのだと思います。ただ、私は成仏していませんので、成仏できる教えかどうかは解りません。故に、正しいと思う域を脱していない人間です。人は無明ですから、この無明はそう簡単には消せないでしょう。 例え、仏教に限らず、先の見えない人間は、何かを信じて前に進むしかありません。例えば、学校の教科書に書いてある事が正しいなんて、言いきれないでしょう。正しいと思える信頼度は高いと思いますが、実際、自分で確かめてみなければ、正しいかどうかなんて、言いきれないものです。 長文です。以上、参考になれば。

bragelonne
質問者

補足

 RF2244 さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 人は無明ですから、この無明はそう簡単には消せないでしょう。  ☆ この考え方がまちがいのもとです。  ○ ひとは煩悩をもって無明で生まれてくるのであれば そのままこの無明も渇愛もそのほか何やかやも すべてわたしがわたしのこととして受け容れればよい。  ☆ のですよ。こわがることはありません。  ○ なぜなら ひとには そしてわたしには 無明を無明であるとさとるブッダの知恵が生まれつきあるから。  ☆ です。これを仏性というのではありませんか?  なんで   ★ 無明を消せない  ☆ と考えるのでしょう?   なんで《無明を消さなければならない》のですか?  なんで   ★ 私が、この宗派で修業して感じたことは、人には仏性があり、仏性は功徳(得)によって開かれるものだと感じました。  ☆ なのですか? 仏性は ブッダだけの専売特許なのですか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人間には、    実感として正しいと解っていること(道理に基づく)、    実感として正しくないと解っていること(道理に基づかない)、    正しいかどうか解らない(道理に基づくか基づかないか解らない)  の3つがあると思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これでいいのではないですか。  ○ わたしには無明の状態もあるがさらにそれを上回る仏性の状態もある。  ☆ と知っているのが 人間ではないですか? ゴータマくんがブッダになる前にも じんるいにはこのことが真理としてあったのではないですか? すなわち  ★ 実感として正しいと解っていること(道理に基づく)、  ☆ でしょう。  ただし ほんとうを言えば この《真理》というのは くせものです。ほんとうは  ★ 正しいかどうか解らない(道理に基づくか基づかないか解らない)  ☆ ものなのです。なぜなら《経験合理性に照らして妥当である》という意味での《正しい》かどうかを 真理はとうぜん超えているからです。この無明を帯びてもいる経験世界(世間)を超えている(出世間)からこそ 《真理》というのですから。  ブッダとは この真理に触れたひとのことですね。それは仏性という自然本性としての能力をとおして 誰にとっても 現実となることでしょう。仏性が生まれつきあれば やがて芽を吹くでしょう。芽を出せば 花も開くでしょう。よほどへそ曲がりでもなければ。  ★ 自己の仏性の度合い  ☆ という言い方を聞きましたが これは きちんと言うべきではないでしょうか。  ○ 仏性は ひとに自然本性として誰にもひとしくそなわっている。  ○ しかもこの自然本性には自由意志があり この自由はおのれの意志(その心)を曲げる自由をも持っている。  ○ へそ曲がりの自由によって 無明(煩悩)をそのまま無明(煩悩)として見ることが出来ない。  ☆ このような状態のことを 《仏性の度合い》と言っているのだと思います。きちんと言えば 仏性じたいには《度合い》はないでしょう。ひとしくそなわったひかりでしょう。  ★ 仏様は、その人の仏性の度合い、機根をよくよく見て、分けて、その人に合った教えを与えて悟らせてくれます。  ☆ ではなく そうではなく ゴータマくんも すでに真理のもとに自然本性としてそなわる仏性を開いて ブッダになったと言っているのでしょう。みなさんもどうぞと言っているに過ぎないでしょう。なんで専売特許なのですか?  ○ 人間であれば 誰でも例外なく ブッダである。  ☆ のですよ。そうおしえたのではなかったのですか? もしそうおしえていないとすれば それは  ★ しかし、いつまで経っても、悟れない人は、悟れないことを肯定し、近づきたいと思わず、職業的な仏教になってしまう人もいるかと思います。  ☆ のたぐいであるか それとも すでにブッダになりさとっているのに なおその上に 名声名誉あるいは銭儲けを望む不届きなほとけさんということになりませんか?

noname#91243
noname#91243
回答No.6

仏教ってどっちかつ-と哲学でしょ? ユダヤ教やイスラム教みたいにああしろこうしろじゃないじゃん。 質疑応答が多いのは宗教によくある思考停止じゃないからでは?

bragelonne
質問者

お礼

 sabath さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 仏教ってどっちかつ-と哲学でしょ?  ☆ ですけれど  ★ ユダヤ教やイスラム教みたいにああしろこうしろじゃないじゃん。  ☆ でもなかったようですよ その当時は。出家も在家も 二百五十戒だとかいろいろと戒律がありました。反故にして来ただけです。出家=僧侶も妻帯するようになりました。  ★ 質疑応答が多いのは宗教によくある思考停止じゃないからでは?  ☆ 答えられない難点を持つところが 思考停止の状態にあるのと同じではないでしょうか?  ○ ブッダは 神ですか?  ○ 仏性は 誰にでもそなわっていますか?  ○ 人間なら誰でもブッダになれますか?  ○ 諸法無我(不可変性なる実体は 世界にない)ならば ブッダの境地は 永遠ですか? そうではないですか?  ○ つまり ブッダの境地が永遠=不可変性であるなら 諸法無我ではないように考えられますが どうなんでしょう?  すでに掲げた参考質疑応答ですが あらためて掲げます。わたしの質問です。  ☆☆ 【Q:ブッダは 神ですか】 ~~~~~~~~~~~~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4199231.html  絶対(または絶対者)として想定していて 信仰の対象ですか。  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。  もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。    このような考えに対して添削をおこなってください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#89025
noname#89025
回答No.5

父親的「智慧」と母親的「慈悲」を兼ね備えていらっしゃる仏陀は、常に理想であり、このような人格を目指して上求菩提・下化衆生に精進して行くことこそが、仏教の真髄であると思います。 その精進過程の成熟度により、例えば、阿羅漢→菩薩→如来→仏陀の各段階境地があると思います。 釈尊は仏陀の境地であられたわけであり、 であるからこそ、 仏陀へ至るための修行方法を説いて下さったわけです。 ただし、長い歴史の中で、御法話が薄れて来たことも現実的にはあるでしょうし、また、時代社会も釈尊御在世当時とは、激変している面もあろうかと思います。 この世の法律であっても、新しい状況が発生すれば、それにふさわしい法律を決めることがあります。 ところで、「過去七仏」「転生輪廻」の御法話もあるかと思いますが、 釈尊御自身、現世に生まれておられるかもしれません。 私は、上段記述の文面は、そのような御方だと思われる方の御法話書籍を基に記しました。 釈尊も、約2500年前に生まれられたのであり、ではそれ以前やその後に釈尊のような方が全く生まれられないとは、むしろ思えません。 また、釈尊御在世当時だって、またイエス様にしても、当時すぐ全員が仏陀や救世主だと気付いたかというと、気付いた人あり、少し遅れて気付いた人あり、気付かぬ人あり、御帰天後に気付いた人あり、等々でしょう。 その御方の御法話では、基本主旨は上述のとおりですが、 どの段階であるにせよ、要点は上求菩提・下化衆生にあり、 具体的には、医者であっても音楽家であっても、 精進してより一層腕等を磨いて行き、各人の個性を一層輝かせて行くことにより他者にもより一層の幸福を味わって頂くようにして行き、よりすばらしい地上仏国土(ユートピア)建設をなして行きましょう、 と明確におっしゃっています。 つまり、一つの具体的例えとしてですが、 学生でいる間は母親的一定の養護環境の下で、一定の父親的智慧の獲得に励むことがまずは大切ですが、成人後は社会人として自立し、もちろん当初は未熟でありながらも、更に自己研鑽に励んでいくと共に、仕事や子育て等を通して他者のためにも何かをなす、というあり方をとったりするわけです。 なお、再質問等にはお答え致しかねるかと思いますので、以上だけご参考までに、ということでよろしくお願い致します。

bragelonne
質問者

補足

 yrms0 さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  このご投稿にてすべてとして受けとめ お礼を述べつつ まとめるとすれば どうすべきでしょうか。  趣旨説明をあらためて明確にしておくという方向がよいでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  学生でいる間は母親的一定の養護環境の下で、一定の父親的智慧の獲得に励むことがまずは大切ですが、成人後は社会人として自立し、もちろん当初は未熟でありながらも、更に自己研鑽に励んでいくと共に、仕事や子育て等を通して他者のためにも何かをなす、というあり方をとったりするわけです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このような人生の歩みを ブッダとは関係するかたちでも あるいは関係しないかたちでも だいたいひとは送るのではないでしょうか?   ★ よりすばらしい地上仏国土(ユートピア)建設をなして行きましょう、  ☆ というふうにブッダと関係させなくても よりよい社会を築こうという意志と努力は おおかたの人びとに共通のものではないでしょうか?  ★ 父親的「智慧」と母親的「慈悲」を兼ね備えていらっしゃる仏陀は、常に理想であり、このような人格を目指して上求菩提・下化衆生に精進して行くことこそが、仏教の真髄であると思います。  ☆ 《上求菩提・下化衆生》という人生の態度は その言葉を用いずにも同じ内容を歩むことが けっこう多いと言えるのではないでしょうか?  向上心を誰でも多かれ少なかれ持っていて 責任ある地位につけば権限関係において下の者に対して いろいろとおしえるところはあると考えます。  ですから ブッダという観念をいちど取り払ってその上で どうしてもブッダの思想でなくてはならないと言うでのあれば そのところを明らかにしていくという道が考えられます。その段階へと一歩すすんで行っていただきたいですね。  ★ 釈尊も、約2500年前に生まれられたのであり、ではそれ以前やその後に釈尊のような方が全く生まれられないとは、むしろ思えません。  ☆ でしたらそういう人びとは 黙っていても注目を浴びることと思います。でしたら 《ブッダ》の境地は そういう人びとの系譜において受け継がれて来ているはづです。これが残念ながら 一般に伝わっていないようなのですよね。そこが悔やまれます。  それでひとこと余分を申すなら いちど頭からブッダという観念を取り払うとよいのではないか――こういう提案のようにもなっているかも知れません。

回答No.4

おもしろいですね。 >ゴータマ・ブッダも ほんとうにはブッダにはなれないし なれなかったということでしょうか? あるいは逆にかれだけは 例外としてのごとくブッダになったのでしょうか? それは、知り得ないことですね。どう信じても信じなくとも知り得ません。 >あるいはこうでしょうか? ほんとうのブッダには誰もなれないけれど その本当のブッダを指さすことのできるゴータマ・ブッダの境地には人間なら誰でもなれると。そのへんは きわめてあいまいですね。 かれは、ブッダであるとされていることが極めて明確であるに過ぎません。 >《仏性》が誰にも備わると言うのであれば 理論的には 誰でもブッダになれるということでしょうね。あるいは 人間存在としてのブッダと それを超えた(ほんとうの)ブッダと ふたとおりの存在の仕方があるということでしょうか? ブッディズムは、ゴータマ・ブッダが人間存在であると同時にブッダであったとされている一大叙事詩であり、綿々と受け継がれてきた実践でもあります。 ヒトに《仏性》が備わることはおそらく有り得るのでしょう。しかし、誰も人間存在のままブッダになることはできません。《仏性》が備わったヒトにはその中に誰もいません。そして、ゴータマ・ブッダはもういません。結局《仏性》は指し示すことしか出来ません。 もはや、指し示しているのがブッダであり、そうである種明かしをブッディストはやらないにこしたことはないのでしょう。 これは、マリア様が処女でご懐妊あそばしたことに似ているんじゃありませんかね。程度は随分違いますけど。 以上は、信じるも信じないも不信心も誤解もへったくれもないことなのですが、私に《仏性》が備わっていないことの証明でもあり、末法が嘆かれる理由なのかも知れませんね。

bragelonne
質問者

補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。  おもしろいですけれど まだあいまいです。以前にも次のような質問をしています。  ☆☆ 【Q:ブッダは 神ですか】~~~~~~~~~~~~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4199231.html  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト  という理解にはならないですか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ブッディズムは、ゴータマ・ブッダが人間存在であると同時にブッダであったとされている一大叙事詩であり、綿々と受け継がれてきた実践でもあります。  ☆ については 分かっているようですね。ところがこのブッダはと訊くと 《神ではないが 人間でもない》という分かったような いえ決して分からない説明しか返ってこないようです。  ★ 私に《仏性》が備わっていないことの証明でもあり、末法が嘆かれる理由なのかも知れませんね。  ☆ ブッダ自身の説ではないようですが  ○ 山川草木悉皆仏性  ☆ とも言われるのでしょう? だったら備わるのには 例外がないのではないですか?    ★ これは、マリア様が処女でご懐妊あそばしたことに似ているんじゃありませんかね。程度は随分違いますけど。  ☆ これはですね。聖母もけっきょく  ○ マリアは 人間としてふつうの母親であったと同時に 《人間イエスであると同時に神の子であり神であるキリストであった存在》の母として聖霊によって身ごもったと物語られるゆえ《処女》でもある。  ☆ という説明だと思います。  ★ 似ている  ☆ けれども あいまいぢゃないようですよ。ともかく  ○ 経験世界とそこにおける人間がいるほかに この経験を超えた存在として神(絶対)を想定する。  ☆ という限りでは はっきりしているようですよ。  ○ 人間は 神にはなれないけれど 神に似た存在として生まれてきており あたかもイエス・キリストの存在と同じように 似像(にすがた)としては神の子らであると言われる。  ☆ ところの存在です。《似像》であるというところが いわば《仏性の具有》に当たるでしょう。例外はないわけですから かなりはっきりしているでしょう?  神にはなれないけれど キリスト・イエスを通じて 神につながっている。道がとおっていると言われます。  ブッダは あいまいですよね? どないかしてください。

回答No.3

Oh!My God! なんという質問でしょう。 そんなブッダを殺してもどうしようありません。 ブッダは指にすぎません。賞味期限もなにも、そこに賞味するものなど何もありません。 おっしゃる通り指に囚われすぎたのです。それは排泄物に違いありません。 殺す必要があるのではなく、指の先にあるものへ跳べということでしょう。そこに到ることは出来ないことが解っていてもね。 Never say,Oh! My Buddha! 

bragelonne
質問者

お礼

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。  基本的にわたしはご回答に賛成なので 質問趣旨には賛同いただいたと受け取っています。  二点あります。  ★ 殺す必要があるのではなく、指の先にあるものへ跳べということでしょう。  ★ 指の先にあるものへ跳べということでしょう。  ☆ これに同意します。言いかえると   ★ 殺す必要がある  ☆ のは 《観念のブッダ》です。それは 精神の産物としての《観念の神》が あたかも道徳規範(もしくは律法規範)としてあがめられたように そうしてこの偶像なる神が デカルトのあと経験思考ないし想像によって――《理性なる神》としてのように――頭の中で固められ ついには 誰かさんに《神は死んだ》と言われなければならなくなったように 要するに ただの観念としての《いと高きもの》が まがいものの神であったように 観念のブッダも 同じ運命をたどる必要があると考えられます。  ま たいていは 無我の境地であるとか空であるとかのさとり としての観念であるのでしょうが。  二点目です。  ★ そこに到ることは出来ないことが解っていてもね。  ☆ これは はっきりさせなければいけません。やはり  ★☆ そこに到ることは出来ない彼岸  ☆ なのですか? それとも ブッダになることは 誰にでも可能なのですか?  ★ ブッダは指にすぎません。  ☆ つまりは その人間としての境涯もあったでしょうし 言葉としておしえを遺した。《指》ですね。ということは ゴータマ・ブッダも ほんとうにはブッダにはなれないし なれなかったということでしょうか? あるいは逆にかれだけは 例外としてのごとくブッダになったのでしょうか?  あるいはこうでしょうか? ほんとうのブッダには誰もなれないけれど その本当のブッダを指さすことのできるゴータマ・ブッダの境地には人間なら誰でもなれると。  そのへんは きわめてあいまいですね。  《仏性》が誰にも備わると言うのであれば 理論的には 誰でもブッダになれるということでしょうね。あるいは 人間存在としてのブッダと それを超えた(ほんとうの)ブッダと ふたとおりの存在の仕方があるということでしょうか?  そのあたりを明らかにして欲しいと 長年思って来ました。ぜひよろしくどうぞ示していただけますか?

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.2

<<つまり観念のブッダとしての像――とわれわれとの隔たり これがつねに壁のごとく前にあり道を遮っているのではないか。こういう問いを持ちます。>> 「理想的な性格・人格」「観念の仏陀イメージ」(個人的にはパーリ語の仏典に記されたブッダ)と我々の「不完全な人格」との差に、道が現われると僕はそう思います。 道を遮っているのではないと思いますよ。人格を善く更新していく方法を道標の如く設置してくれているように思いますので。実験結果検証の繰り返しの中で。。。 これが僕の抱いた見解です。 何かお役に立てれば幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 「理想的な性格・人格」「観念の仏陀イメージ」(個人的にはパーリ語の仏典に記されたブッダ)と我々の「不完全な人格」との差に、道が現われると僕はそう思います。  ☆ この議論は すでに何万回となくして来ています。繰り返すつもりも謂われもないでしょう。  課題はそちらに伝えてあります。  OKwave の負荷を考えて投稿をおこなうべきです。なぜなら その責任は 質問者のわたしにありますから。

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