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われわれはブッダという父親を殺して来なかったのでは

 ないでしょうか?  あるいは ブッダはすでに死んでいると言うべきではないでしょうか?  あるいは われわれ日本人にとってはブッダは母親だと言うべきでしょうか。そのときには 一般に神話の伝えるような《父親殺し》のかたちではなく どうなりましょうか。母親を抜け出るとでも言うのでしょうか それをおこなって来ていない――のではないでしょうか?  さらにあるいは ブッダもしくはそのおしえは もうすでに確かに末法の状態にあり その基本的な思想としてのあり方において賞味期限を過ぎている――のではないでしょうか?  その欠陥は つねに《彼岸》として見られていること――そしてその点では むしろやはり《父親》のごとく立ちはだかっている―― ではないでしょうか?  この《ブッダ》――つまり観念のブッダとしての像――とわれわれとの隔たり これがつねに壁のごとく前にあり道を遮っているのではないか。こういう問いを持ちます。  ご教授を乞います。    減らず口をたたきます。質疑応答に取り上げられるブッダの多さを見てください。その議論の多くは あたかも意識の排泄であって さとりでも何でもなく 排泄であるなら金魚のふんのごとくつらなります。われわれはこの地獄から解放されるべきでは?  ぼこぼこになるまでご批判をたまわりますようお願い致します。

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回答No.19

 bragelonneさんは、よく聖書からの言葉を引用しますので、それに習って私も、手元の仏書(明治から大正にかけて活動されたお坊さんの書)からの引用を試みました。  ‘逆質問’についてです。《》内は私の解釈ですが、自信が無いので?を付けて於きます。  三縁(さんえん)  如来《神?》より衆生に対する光は三縁にて、即ち恩寵である。恩寵〔光明〕を被(かふ)むる人の信仰に三心あり。近縁(ごんねん)は信。親縁(しんねん)は愛。増上縁(ぞうじゃうえん)は欲、に対する関係にて。如来の智慧《理性?》と慈悲《感情?》と威力(いりき)《意志?》とが衆生の三心の関係に三縁となるわけである。      親(みおや)                  子(こ)      智慧‥‥‥‥近縁‥‥‥‥〈形式〉‥‥‥‥信念      慈悲‥‥‥‥親縁‥‥‥‥〈内容〉‥‥‥‥愛念        同化‥‥‥‥増上縁‥‥‥〈活動〉‥‥‥‥欲念  以上です。    全体愛である慈悲と人に備わっている愛とでは違いがあるように思います。  あまり物事を深く追求できる頭ではないので、このくらいで勘弁してください。    うまく説明できませんが、bragelonneさんの質問の趣旨はなんとなくですが、分かっているつもりです。この回答はどうでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 yy8yy8az さん ご回答をありがとうございます。  またまた引用ですが。神はモーセに次のごとく言ったそうです。  ▲ (出エジプト記33:20-23) ~~~~~~~~~~~~~~  見よ 私の傍らに一つの場所がある。  私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つであろう。  私はあなたを岩の頂上に置こう。  私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。  私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。  私の顔はあなたに現われないであろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 〈如来《神?》より衆生に対する光〉 これが上のように  ○ 如来(=神)の後ろ姿をひとは見る。  ☆ という関係だと思いました。むろんこの関係が 《信仰=非思考》です。  ここからは わたしのほうの解釈で応対してまいります。  ★ 全体愛である慈悲と人に備わっている愛とでは違いがあるように思います。  ☆ まづこの命題がお互いに得られたようですね。  ▲ 神がひとに言うには:あなたはわたしの貌(かお)を見て生きることはできない。  ☆ どうもこういうふうだと考えます。  ▲ 私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。  ☆ これは 類型的に当てはめるにすぎないことですが イエスが地上にいたあいだ イエスは自分が父なる神の独り子であり父は子にそのすべての力をゆだねており子である自分自身も神であるという意味合いのことをすでに言っていたにも拘わらず弟子たちをはじめとして 人びとは誰も そのキリストであることが分からなかった。ことに対応すると言われます。  人びとは その《威厳≒威力》の手で蔽われていて分からなかったという解釈のことです。はりつけの十字架上に死を死んだあと 弟子たちには生前にイエスが言っていたことの内容が分かってしまったということのようです。そういう一連の過程としてのはからいは 知恵であり愛(意志)であると言えるでしょう。つまりおおまかに言って  ◆ 如来の智慧《理性?》と慈悲《感情?》と威力(いりき)《意志?》  ☆ といったところでしょうか。細かいところで突っ込めば 《理性》は 理性以上の理性でしょうし 《感情》は感情以上の知覚のはたらきであるでしょうし 《意志》は 意志中の意志なのでしょう。  その――《三縁》と言いますか――三つの面(おもて)(つまり実際には その背面)は 《形式・内容・活動》に当てはめてもいいかと思いますが それらが  ◆ 信念・愛念・欲念  ☆ という概念に対応するというところは まだよくつかめません。  ◆ 近縁(ごんねん)は信。親縁(しんねん)は愛。増上縁(ぞうじゃうえん)は欲、  ☆ というところですね。と言うのも:  ○ 非思考(つまり なぞ のことですね)としての信仰は すでに《如来とわたしの関係》において その関係の全体として成り立っていると思いますし。  ○ 《愛》は 神の愛と人間の愛とがある。つまり 如来=神の側のはからいとしての慈悲=恩寵・恩恵=恵み=愛と そして この《愛》の似像(にすがた)としての相対的な人間の愛――《衆生縁ないし法縁としての人間における経験的な行為たる慈悲》でしょうか?――とがある。こう区分できるでしょうし。  ○ 《欲》は どうなんでしょう? ――もし如来のうしろ姿をでも見ることができたのなら それに倣ってわれわれ人間も はなはだ不類似ながら多少は似ている愛=慈悲のおこないをできると言っていいかも知れません。その人間の意志のことを広く意欲と言えるかも知れませんし   ○ あるいはむしろ時には《おれはうしろ姿だけではなくその顔を見たのだ》と言い出して意欲に任せて如来の無縁の慈悲そのものを実践できるのだと吹聴するようになる。このような欲望のことを言うのかも知れません。  さらに詳しい方に 解説やらそのあとの展開やらをお願いしておきたいと思います。どうなるか分かりませんが 記しておきます。  * そのお坊さんの名前を出しておかれたほうが みなさんのためにも いいと思いますよ。

その他の回答 (21)

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.1

皆さんの回答の助けになるかと補足要求です。 <<ブッダはすでに死んでいると言うべきではないでしょうか?>> お釈迦様は二千年以上前に涅槃に入られていると伝えられてますねw <<われわれ日本人にとってはブッダは母親だと言うべきでしょうか。母親を抜け出るとでも言うのでしょうか それをおこなって来ていない――のではないでしょうか?>> ●多くの思想家達が「ブッダ」という言葉を使い、我こそは「仏教」と語っていたりしますね(我こそは!といわない理性的な思想家の方もいますね)。あなたの言うその「母親」たる「ブッダ」はどの思想家が語る「ブッダ」のことを言っているのでしょう。どのような経典を基にする「ブッダ」もしくは「お釈迦様の教え」でしょうか。 そこがはっきりすると回答者さんも答えやすいと思いますよ。 <<ブッダもしくはそのおしえは もうすでに確かに末法の状態にあり>> 上記の●の補足要求の「誰が語った、どの経典」をどのように解釈した結果、「末法の状態」と判断したのか明確に提示していだくと回答しやすいと思います。 <<その基本的な思想としてのあり方において賞味期限を過ぎている>> これもおなじですね。 <<その欠陥は つねに《彼岸》として見られていること――そしてその点では むしろやはり《父親》のごとく立ちはだかっている―― ではないでしょうか?>> 仏教といってもいろいろな考え方(マ逆もあったり、初期に論破されているものを復活させたり…仏教を名乗る新興宗教は今日も生まれていることでしょうw)が派生して一つの教えでなくごちゃごちゃしてますから、「誰の語る何をこのように解釈すると」というような解説がないと皆さん回答しようが無い気がします。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 皆さんの回答の助けになるかと補足要求です。  ☆ このひとつの目的のために 本来なら積み残した課題に答えてからでないと投稿してはならないわたくしの質問に投稿してきたと解釈して その点でのみ応答しましょう。  ★ どのような経典を基にする「ブッダ」・・・でしょうか。  ☆ 回答者の捉えるブッダ―― 一般に人びとが詳しくか浅くかも問わず思い描いていると回答者が思うブッダ――に応じて 答えてください。  ★ 「誰の語る何をこのように解釈すると」というような解説がない  ☆ のです。まったく自由に回答者の考えるブッダ観に応じて 答えてください。

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