- ベストアンサー
なぜブッダは自殺しなかったのですか?
なぜブッダは自殺しなかったのですか? ブッダの悟りの内容は『この世は苦で満ちている』という『苦諦』でした。 そのために欲を無くした『無』こそ最上である、と教えられたのかと思います。 うろ覚えですみません……。 それ程悲しい悟りの内容なのになぜブッダは自殺しなかったのでしょうか? よろしくお願いします。
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
ブッダの存在があった。そして私たちはその存在を知っている。 自己の存在を否定し、それを他のせいにしている昨今自殺の捕らえ方、 はいろいろある、情報社会に生きている人々は、その自殺を捕らえる 力、と、苦に行き詰った時に陥るのが、広い目を持てない、いわんや 持とうとしない自分に気が付くのが難しい、苦は確かにある、それは その前提として、存在がある。苦あれば楽あり、生きていくということ は、あたりまえにそのようなことを考えたり、人知れず細かいことに 悩んだりすることの中で、どのような選択をするか、自分の過去の 記憶の履歴のものさしに頼るか、他の意見を求めるか、いづれにせよ 自分の存在を無視して考えてことは出来ない。 ここで一息、ブッダは人である、ということは当然という確認。 生きるがゆえに苦があり、あなたが日常そんなに気にしない大気や それによって育まれている環境を無視したその捕らえかた、ブッダは とは言っても、なんだか権威的な匂いがする。 大樹の陰、権威的なもの、それに頼るのは大昔から変わって無いらしい その中でも人は連綿とその存在をつないできた。 自分を大切に考えるなら、何気ない、当たり前の環境に目を向けて、 物差しについてゆっくり考える、ことを勧めます。
その他の回答 (5)
- ple6
- ベストアンサー率63% (1285/2019)
私なりの解釈ですが 苦とは楽と表裏一体のものであり 苦も楽も現象に対する心のありようであり 一時の感情に流されない「無」という状態つまりは在るものを在るように受け入れ物事の真理を見間違えることのないことが大切であるということを苦諦に喘ぐ人々に法を説くことが使命だと悟られたからではないのでしょうか? いずれにせよ、自殺という行為自体が物事の解決になることもなければ自殺することが「無」であるということではないことを知っていたのではないかと思います。 なので現在、物議もある「後生の一大事」という逸話もあるのではないでしょうか? うまく説明はできてないと思いますがそのような感じだと思います。
お礼
『無』というのは『あるがまま』というのは新鮮な考えです。 話は飛びますが武術でも最後は型が無くなるという話を聞いたことがあります。 型があると型に縛られるから、だそうです。 『無』だからこそ真理をしっかりと見つめることが出来るのかもしれません。 『無』は言い換えれば『固定観念を持たない』ということかもしれません。 自殺しても物事の解決にならないのも確かです。 私は自殺はしませんが現代社会では自殺を『理想化』している節がある気がしてなりません。 自殺すれば全て丸く解決するか、というとそうではありません。 例え死後の世界が現世よりも良い世界だとしても自分という存在がある限り苦はつきまとうので、完全な幸せはどの世界でもありえません。 それならかなり厳しいこの世界で苦しみに慣れたり精神的な成長を遂げたほうが賢いですね。 新鮮な考えを提供して下さりありがとうございました。
- toha2010
- ベストアンサー率34% (100/288)
民衆を救うと云う使命を感じていた為。
お礼
一言による適切な回答、誠にありがとうございます。 その使命がある限り、人は生き続けていくのかと思います。
- mokha
- ベストアンサー率44% (103/234)
仏教ってのは「人生の迷妄と苦悩を振り切って目覚めた境地になること」すなわち悟りを目指す宗教なんだけどさ。今は宗派によって教えとか辿り着く方法ってのはまちまちなんだろうけど基本的にはこの考え方に根付いてると思う。それはさておきブッダはどうやってこの悟りにたどり着いたのか、 彼はとある国の王子様ですでに妻子持ちだったんだけど、そんな地位や財産を全部捨てて断食とかのそれはもう苦しい修行に耐えて悟りを得ようとしたが得られなかった。 彼は荒行を捨て村娘のスジャータが布施する乳粥をのんで体力を回復して、やがてとある木の下で座禅瞑想していた時に、まどろみから目覚めるように全てが明白になる経験をした。それはブッダが35歳(諸説ある)の時だったといわれている。(この経験が俗に言う悟りのこと) それ以降、彼は苦しい修行をするよりも中庸な生活態度からこそ救いの境地が得られるのだと説いた。この生活態度は「八正道」としてまとめられている。 大まかで大雑把だけどこれがブッダの説いた悟り。ブッダが自殺しなかったのはする意味がなかったからじゃないでしょうか。 長文失礼しましたー
お礼
仏陀の悟りで『中道』という考え方は確かにその通りだと思いました。 断食などの極端な苦行も極端な手抜きも良くない、という考え方は現代にも通じる面があるかもしれません。 『する意味が無いから自殺しない』というのは確かにその通りだと思いました。 仏陀は他の人に必要とされていたから自殺を考えなかったのではないでしょうか。 もしかしたら仏陀は自殺したい、と思っていたかもしれませんが、他の人に止められていたのかもしれません。 もしくは自殺が申し訳ない、と思ったのかもしれませんし。 逆に言うと大量の自殺者を出す現代の日本の状況は目標が無いのに頑張らざるを得ない、ある意味では歪んだ社会構造が原因かもしれません。 現代の日本の大量自殺を止める方法を考えないと日本は危ない気がしてなりません。 私こそ長文失礼しました。 蛇足ですがとある漫画では仏陀は後に乳粥が不味かったと回想しています。 仏陀の悟りにいたるまでを丁寧に書いて下さりありがとうございました。
- gigamax2
- ベストアンサー率27% (170/628)
こんばんは。 無こそ最上・・・とは宇宙の根源を顕した端的な表現です。苦諦は今生の一つの表れであり仏陀が陥っていた訳ではないと言う事です。 本来悟りに悲しみは伴わないのでは?悲しみは浮世の様相に対してであり、そもそも苦諦に喘ぐ人々を導く為に仏陀は生まれ出でたのですから。 宇宙は二元性から成り立ち、無と有。有は即ち経験と言う全てのバージョンで苦諦はその中の一つです。
お礼
悟りに苦しみが伴わない、という考え方は新鮮でした。 私はまだまだ修行が足りません。 人々を導く為に仏陀が生まれてきたのですか……。 苦諦はその中の一つに過ぎない、というのも確かにその通りです。 もっと精進します。 やる気を出させてくれる回答、ありがとうございました。
- kojikino-yama
- ベストアンサー率9% (8/82)
苦しいのはブッタではなく、他の人 その原因が別の人間の欲深だと思っただけじゃないの 自殺するのはお前じゃないの何しに生まれてきた
お礼
確かに書かれた通りブッダが苦しかったのではなく、ブッダは他の人に苦しめられていたのかもしれません。 ブッダの苦しみは他の人間の欲求、というのは初めて知った考えです。 非常に興味深いです。 回答ありがとうございました。
お礼
自己否定はなぜ起こるのか。 それは『自分のせい』です。 それを他の責任にして自分を正当化しているのはよるあることだと思います。 結局自己否定は自作自演です。 ところで人間には破滅欲求がある気がしてなりません。 それは心の中では完全を求めているのにこの世では完全はありえないからです。 完全でないのなら全てを壊してしまいたい、と思ってしまうのでしょうか。 『広い目をもてない、広い目を持とうとしない自分』はその通りだと思えてなりません。 人間、辛いときには自分しか見えず、自己中心的になりがちです。 また、広い目や真実を見ることは非常な苦痛を伴います。 『良薬口に苦し』と言いますが『真実心に厳し』も確からしいです。 『自分があるから他も存在する』のは確かです。 逆に言えば『自分が存在しなければ他も存在しない』と言えます。 しかし『存在がある限り苦がある』というのもある意味では衝撃的でした。 自分が存在する限りたとえ天国へ行っても苦はつきまとう、というのは残酷な気もします。 (天国があるというのは私は全く分かりませんが……) 仏陀は人、というのは当たり前な気もしますがある意味では衝撃的です。 と、いうのも仏陀はある意味では神格化されている様に感じるからです。 仏陀も私達と同じ人間である、というのは心強い気もします。 確かに権威的な匂いがします。 私は私だけの力で生きているのでしょうか。 答えは否です。 私は『生きている』のではなく『生かされている』のであり、そもそも私の考え方は偉ぶっています。 仏陀を質問で出したのもある意味では自分の権威の正当化です。 大気や環境を無視するのは非常に悪いことです。 『寄らば大樹の陰』という言葉があります。 私達は生きる為に大樹に寄りかかり存在をつなげています。 『ゆっくり考える』時間も大切な気がしてなりません。 現代社会ではその『ゆっくり』が軽視されていると思います。 私の浅はかさに気付かせてくださり、本当にありがとうございました。 謙虚になって自省をします。 また、非常なる長文、誠に失礼しました。