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「悟りを開くこと」と「どうでもよくなること」の違い。
「悟りを開くこと」と「どうでもよくなること」の違いのうち 解かり易いもの・顕著なものをいくつか挙げてくらはい。
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hangenkiさんはまた面白い質問をしますね。 「悟りを得ること」は確かに「こだわること。」と「どうでも良いこと。」が非常にはっきりするのですね。 それは、人間(自身)や家族・友人・社会生活・国家の本当の意味を知るからなんですね。 「どうでも良いこと。」:死・身体(見栄えなど)・人種・地位・名誉・良く見られること・ゴミ知識・家・財産・名前(含む戒名)・墓・などいろいろ。 「こだわること。」:心・信仰・知識(真・善・美)・両親・「自殺の阻止」・「脳死状態からの臓器摘出の阻止」・「悪霊・悪魔の阻止」・人々の幸福・国家(市民の安全)など。 「心・信仰・知識・両親」は個人的なこだわり、個人的なこだわりは極端にすくなくなりますね。 「「自殺の阻止」・「脳死状態からの臓器摘出の阻止」・「悪霊・悪魔の阻止」・人々の幸福・国家(市民の安全)」これは公的なこだわりですね。 特に・「「自殺の阻止」・「脳死状態からの臓器摘出の阻止」・「悪霊・悪魔の阻止」」は悟りを得なければ理解不能でしょうし、得たものはこだわらなければいけないものですね。つまり、目に見える世界と見えない世界の境での出来事がわかるからこだわるんですね。 また、人々の幸福・国家(市民の安全・繁栄)は仏や神々の要請ですね。知りえたら手伝うしかないですよね。 悟りにもいろんな段階がありますが私自身はこんなんですね。 仏の足元の蟻ぐらいの悟りなんです。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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「悟りを開く」って、根本のことにいたってしまったことですね。わかるのではなく。 意を意志しないでいられますね。普通のままでそのとおりですね。 条件は必要なくなります。でも事の本質や価値判断は当然してます。 黙過していても黙過していません。 以上は精進の中での私の思いです。以下は50年前、二十歳代でラートブルッフの法哲学に書いてあったことです。 価値を目指さない存在をその面から、没価値という。 価値を目指す意志、原理を当為という。 法律や倫理、人間の行為というものはそういう当為存在である。 価値を超越した状態、問題にしない存在や行為がある。 それを超価値という。 没価値と超価値は似ていて、異なるものである事はいうまでもない。
補足
みなさんの回答はきちんと読ませていただきました。ただ、かなり難しいですし分かりにくいです。 ・・・彼の言ってることが分かった気がします。 少しググってみて考えてみます。 ありがとやんした。
- tumaritou1
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悟りを開くと言う事は自分自身を知ると言う事です。もっと言うなら自分の自我意識に自我意識が意識をしていない処の音や気配を知らせている者の意識と出会うと言う意味が在ります。 分かり易い説明をするなら、自我意識は何も感じる事は出来ません。感じたり、怒ったり怖くなったりは自我意識単独では出来ません。自我意識に感情を抱かせている者が人間の心には存在しています。怖いものに会ったとしても自我意識単独では怖いとは感じません。怖いと思わせる者が存在しています。 納期が来た時には、或いは期限が迫った時にはそわそわしたり、せっぱつまった感じがします。高い処に上がったら怖いと思います。それらは自我意識に知らせている者が存在しているからです。 言い方を替えたなら、一人の人間には心が二つ在ると言う事になります。健常者と言う人達には気が付かないかも知れません。精心疾患や神経症や、自律神経失調症になった人たちには少しだけ分かるかも知れません。 悩みや苦しみにも今言った事が関係しています。それは人間の脳の機能が関係してきます。時間がない事から簡単に説明してみますが、質問が在ったら書いてください。時間が有る時に又回答します。 自我意識は左脳に在る意識の事です。役割が在ります。意識をすると言う事です。分別して世の中の事を論理的に割り切ってゆく能力の事です。従って割り切れない事には無力な脳と言う事が出来ます。 それに対して右脳に在る意識は言葉を持っていません。物事を論理的に計算する事は出来ません、ですが直感的に物事を判断できます。説明は出来ませんが? 人間が思春期頃になって脳の機能は完成に近くなります。その頃から人間には悩みや生き難さが生じてきます。是は脳の機能からそうなっています。この悩みや苦しみを仏教では「無明」と言う言葉で説明しています。キリスト教では「失楽園」と言う言葉で説明しています。 先に云った人生の障害も、悩みや苦しみ、全てがこの事が関係してきます。それは問題をどちらの脳で抱え込んで、どちらの脳で問題を解決しようとするのか?と言う事になります。永遠と言う事は自我意識には理解出来ません何故ならば割り切れない事を無限、永遠と名をつけてあるからです。 従って人間の苦しみとは割り切れない問題をを、計算できない方の脳「自我意識」で抱え込むと言う事が言えます。
- ceelee-boy
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周囲との関係で区別できます。 悟りを開く:周囲との関係が良好なまま どうでもよくなる:周囲との関係が険悪になる 自分で悟りを開いたつもりに勘違いしていると、周囲との関係は悪化します。 どうでもよくなる:周りの人は説教をしたくなる 悟りを開く:周りの人は説教してほしいと願う 悟りの境地は周りの人はもちろん理解できませんが、一人だけ突出して悟りを開くことはありえません。悟りを開く人の周囲には、その一歩手前、2歩手前の人がたくさんいるはずです。そういう人からは尊敬されます。悟りの十歩手前、二十歩手前の人からは、畏敬のまなざしをむけられるでしょう。 悟りを開く:周囲から突出して尊敬される どうでもよくなる:周囲から落ちこぼれて哀れみの目を向けられる 悟りを開いたということを 悟りを開く:いっても周りは理解できないだろうと思う どうでもよくなる:信じないと心が折れてしまう 悟りを開く:その前には友達がどんどん増えていく どうでもよくなる:友達はどんどん減っていく 自分の気持ちだけで判断すると、悟りを開いた状態と悟りを開いた気になって勘違いしている状態は区別できません。 また、あなたも私も悟りを開く境地からはほど遠いので、本質的な理解は不可能だということを理解しましょう。 なので、周りの様子で判断しましょう。
- 来生 自然(@k_jinen)
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悟りを開く---「開く」という言葉は能動的な用語であり、他者との関係を「常に考えつつ」積極的に関わり合っていくことを排除せずに至る、ないし至ろうとする境地。。。だと思っています。。。 どうでもよくなる---「○○にとって、どうでもいい」という言葉の背景には、○○と、その○○にとっての他者との関係そのものを「考えたくない」という消極的な含意があって成り立つ。「どうでもよくなる」は、通常、「○○にとって、どうでもいい」の「○○」に「私」が入った情態のため、他者との関係を「考えないで」(どちらかといえば、状況に対して受動的に)至ってしまう、ないし陥ってしまう状態。。。だと思っています。。。 ですから、 「悟りを開く」の場合、ガンジーに代表されるように、意識が清明な状況で「他者との関係を常に考えて」至る「無抵抗・不服従」が含まれるでしょうし、「どうでもよくなる」の場合、意識が不鮮明な状態(たとえば「酒を飲んで酔っぱらった状態」)で、車をぶっ飛ばしてしまい、自他の命のことをこれっぽっちも考えることのない状況が含まれるでしょう。
私も考えたことあります! 「どうでもよくなること」 は目的や目標が固定されてないのでどんな結果にも理不尽とはしないこ とで、もっといえばずっと中途半端な状態となり、哲学が求める普遍妥 当性を有するものかどうかも?中途半端です。 「悟りを開くこと」 は既成概念に囚われて心身を無用に蝕むこと、極端なことを回避すること。 あと間主観性(立場が入れ替わっても見解の変わらないこと)を有する かどうか。
悟りを開くこと・・・それぞれレベルがあるよね、個人レベル・家庭・地域社会・国のこと・世界のこと・それ以降は宗教的な極限レベルでの内容です。悟りっていうのは確か仏教用語だと思います。 そんな難しいこととして考えなくてもいいから自分が目的、方向性、判断・・人生にとって必要なこと どうでもよくなるっていうのは、ある面では開き直ることか、妥協したりすることか、方向性が良いことなのかそれとも悪いことなのかを選択した時にそれにおいて追及したりした時に限界線での結論かな
お礼
なるほど、誤解してましたわ。悟るとこだわりがなくなると思ってた。 ありがとうございました。