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悟りについて教えてください。

悟りを開くと趣味がなくなると聞きました。悟りを開く直前まで趣味はあるものなのでしょうか?

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回答No.3

悟りを開く前に趣味があるかないかは個人差だと思います。 悟りを開いた後は、日常の、呼吸、睡眠、食事、排泄などから最大の幸福を感じることができるようになるため、あざわざ手間暇かけて特別なことをする(=趣味)にあまり興味が無くなるということのようです。 たとえば、グルメを自称して、全国各地の有名な割烹やレストロンを訪問していた人が、悟りを開くと、毎朝の日常の白米を喰うことに無上の幸福を実感するようになり、美食を求めて予約したり、行列をすることなどに興味がなくなるようです。 かといって、特別なことを拒絶するわけでもありませんので、ミシュランの星が付くような特別の店で食事をする機会があれば、それはそれで普通の食事と同じように幸福を感じることができます。

noname#206725
質問者

お礼

趣味よりもっともっと楽しいと感じるものが出てくるということですね。 ありがとうございます。

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  • g0721475
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回答No.8

般若心経を参考として書きます。 「全ては空 人それぞれ」 自分の肉体を、自動車の車とするならば、運転するのは、自分の脳みそ魂です。 病院は整備工場です定期検査をします。車が寿命で壊れれば買い換えます。 魂は新しい身体(車)に乗り換えます。第6感も感じないのです。 以上が、この世には何も無い空であると言うのです。 世の中は常に変わりゆく、けして同じ事が無い。 過ぎし日は夢か幻か(写真だけがその時に戻してくれる) もう過去には戻れません。映画のスクリーンを見ている ように一秒ごとに過ぎていきます。戻せません。 これを解って人生を生きる人は時間を無駄にはしないでしょう。 趣味は楽しく自分が生きている限り楽しもう。老いて死すときは 自分は初めからこの世にいなかった者として悟り、お別れしましょう。

回答No.7

 こんにちは。  趣味はあってもなくても 関係ありません。  さとりとは 真理がすべてにおいてすべてである状態です。  世界の人という人を・歴史の出来事という出来事をすべて知っていて そのつどもっとも人間的で当事者たちにそれぞれふさわしい内容となる考え方と行動とを採れること。これが さとりの知恵です。

noname#231796
noname#231796
回答No.6

何か好きなことが最後まで残っていたら、あるかもしれません。

  • titelist1
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回答No.5

悟りなどは普通の人間では得られるものではないと思っています。お釈迦様も出家をして世俗と縁を切ることはじめてできたのです。趣味などは世俗のものなので興味を無くすのは当然だと思います。普通の僧侶でも家族を持っていたら悟りが得られるはずがありません。座禅をいくらしても悟りは得られないと思っています。荒行などは自己満足だけで無意味だと思います。仏陀をはじめとして先人の悟りの教えの一端を知り、自分がそれに納得できれば十分だと思っています。

回答No.4

悟りが何であるか知りたかったら、禅の専門道場が全国に何か所かあるから、そこで修行するしかない。 昔は、三島の龍沢寺が知られていて、そこに山本玄峰老師がいて厳しい師家だったことが知られていた。 全国から、修行僧が集まっていた。 その山本玄峰老師が死んだ後は龍沢寺に行く人はいなくなったけど。 私が禅の修行をしたのはだいぶ昔だけど、鎌倉の浄妙寺で開催されていた座禅会で、師家は大正・昭和の名僧・原田祖岳の遺鉢を継ぐ、故・安谷白雲老師でした。 毎朝、朝の9時から夕方の6時まで座禅三昧、その間昼食をはさんで、老師の提唱があり、その頃は臨済禅師の「臨済録」がテクストでした。 その頃は鈴木大拙の英文の禅の本が世界的に禅ブームを巻き起こしている時で、浄妙寺の座禅会にも外国から修行者が集まっていました。 座禅会はだいたい50人位。 それが方丈に壁に向かって座り、ひたすら坐禅をし、そして午後に老師との間で、いわゆる「禅問答」を行ないました。 座禅会は曹洞宗と臨済宗の折中という感じで、座禅は面壁、そして公案を用いました。 私の場合は、中国の高僧・趙州の「無字の公案」でした。 「無字の公案」というのは、姿・形の無い文字を見てきなさい、という問題です。 そのほか、日本の白隠禅師の「隻手音声」という公案もあります。 「隻手音声」というのは、片手で鳴る音を聞いてきなさい、という問題です。 方丈で25分座禅したら、5分間は立って方丈の中を「経行(きょうきん)」と言って、足慣らしのため、合掌して歩きまわります。 足がしびれるから、それを直すため。 老師と一対一の禅問答をしましたが、私の場合、初心者だったので、臨済録や無門関にあるような本格的な問答ではありませんでした。 座禅の仕方などを教えてもらいました。 先輩から、「悟り」について説明がありました。 座禅をして何年か修行をしていると「魔」というものが現れる。 一種の幻覚です。 綺麗な女の子がいっぱい現われて、誘惑するそうです。 その誘惑に乗らないようにと、注意されました。 そこを突破すれば「悟り」が近いと言われました。 でも、同僚の修行者に聞いたら、「悟り」を開くには最低でも10年間はひたすら坐禅に集中して修行する必要がある、と言われました。 中には一生かかっても、「悟り」は得られない、という人はいくらでもいる、と言われました。 それほど、「悟り」を得るのは難しい。 周りで「悟り」を体験した修行者に「悟るとどういう感じがしますか?」と聞いたことがあります。 そしたら、突然、周りがバァーと光に包まれて、明るくなり、世界が開かれてくる感じがした、と言われました。 体内に力が満ちてきて、何とも言えない、幸福な感じがした、と。 死に対する恐れがなくなった、とも言っていました。 キリスト教の「回心」とか、「啓示」に近いものなんでしょうか? 体験していない、私には分かりませんでした。 しかし、曹洞宗の道元は、「悟り」を求める風潮に反発して「悟り」の存在を否定しています。 道元は「只管打坐」といって、座る姿がそのまま「悟り」だと言いました。 道元は言います、「目が横に、鼻がタテについている。それを知ることが悟りである」と。 つまり日常の起臥・生活がそのまま「悟り」なのであって、どこか別の世界に「悟り」があるわけではない、ということです。 道元は中国に留学しているときに如浄禅師から「身心脱落」を悟ったとされています。 私も、それを何となく分かります。 座禅をしていると、自分の身体、自分の心が抜け落ちた感じがします。 自分がどこか宙空に浮かんでいるように感じることがあります。 たぶん、道元もそれを感じたのでしょう。 自分の身体も、自分の心も、そんなモノは存在しないのだ、と悟ったのかもしれません。 「悟り」というのはきわめて個人的な体験なので、それを説明することは困難です。 それを知りたかったら、自分で座禅するしかありません。 長い年月が必要です。 かつて、鎌倉でブッダの死んだ12月6日をはさんで1週間、ひたすら寝るのも惜しんで「接心」が行なわれていた、と聞いたことがあります。 今でもやっているかどうか知りません。 全国から修行者が集まって、悟りを求めて、1週間ぶっ通しで座り、何百人の修行者の中で、一人か二人が「悟り」を啓くそうです。 もし、今でも開催されているとしたら、あなたも参加してやってみたら?

noname#206731
noname#206731
回答No.2

悟らないから趣味が無くなるのです・・ 完全に悟る前に 必ず その前の段階で「悟った」と勘違いさせる出来事が起こるのです・・ だから 今までの賢者は 悟ったと勘違いしてたので 現在でも 世界平和が訪れてないのです・・ しかし これからの時代は 全て明かされ 苦行なんかしなくても 誰もが悟る事が出来るのです・・

  • Key_A
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回答No.1

因みにどんな悟り? それって単に冷めただけちゃうの? ここの哲学カテには思い込みや思いつきを唯一の哲学と勘違いしている病人が多数います。 したがって参考にはならないと思いますよ。