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悟りを開かずに人生を全うする人の幸せ
- 悟りを求める人は自分に弱いところがあるから悟りを求める。
- 人生を幸せに歩んでいたら悟りなど求めない。
- 悟りを求めるのは自分が不幸だと感じた人だけ追い求める。
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質問者が選んだベストアンサー
悟りなど求めないでそのままで良い人もいる。 そして本当は悟りを得るべきなのに全く見向きもしない人もいる。 そして悟りとはその具体的な個人その人がなすものであり、既成の服を着たり同じ電車に乗るようなものではない。 言葉にすれば同じ表現として理解されるかもしれないが、人は自分で悟っていく。 その悟りを他人にお分けすることも、見倣わすこともすべきでもなくできるわけがない。 大師やGuru,गुरुは別として。
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- 雪中庵(@psytex)
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「悟り」など、権威主義を捨て、 一つ一つの認識の深まりを重ねよ。 ゴールは、自らの死であり、真の 成果は頂きではなく、一歩一歩の 喜びにしかず。
- oteramairisuki
- ベストアンサー率34% (511/1475)
で、質問は?
- koosaka
- ベストアンサー率43% (78/179)
私は昔、鎌倉の禅宗寺院・浄妙寺で禅の修業をしたことがあります。 師家は故・安谷白雲老師、その座禅会に参加して半年間でしたが、毎日朝から晩まで座禅して、そして昼食後、老師から提唱があり、臨済禅師の「臨済録」をテキストに講義を受けました。 また、その間、参禅があり、老師と一対一で、いわゆる禅問答を行ないました。 老師の禅風は曹洞宗と臨済宗の折衷という感じで、座るときは曹洞宗と同じ面壁、そして「公案」を用いるところは臨済宗と同じでした。 私の場合、中国の高僧・趙州禅師の「無字の公案」をいただきました。 「無字の公案」とは、姿・形のない、文字を見て来なさい、という問題です。 それが解けたら「悟り」だと言われました。 でも、姿・形のない文字を見て来なさいと言われても、どうしたらよいのか、サッパリ! そして同僚の僧侶に聞いたら、「出家して、ちゃんとした師家について、少なくと10年間は毎日座禅して、参禅しないでは、悟りは到底得られません」と言われました。 でも、私は出家するわけにはゆかないし、しかも10年間も毎日・毎日座禅するのは難しいと思って、修行を諦めました。 このように「悟り」を開くことはひじょうに難しいものです。 あなたは、悟りを開くのは簡単のように言いますが・・・・・ 「悟りを開かずに人生をまっとうする人の方が幸せだ」 ・・・・・というんだったら、それでもいいんじゃないですか? 別に禅宗は、あなたに、ぜひとも悟りを開いてもらいたいとは言っていませんから。 来る者は拒まず、去る者は追わず、ですから。 そして道元は悟りとは、目がヨコに、鼻がタテについていることを知ることである、と言っているように、悟りとはどこか別のところにあるのではなく、私たちの日常にあるんです。 だからあなたのいう「結婚して子供を作って死んでゆく」というのが、悟りです。 「これに悟りなど不要」と言っていますが、だったら「結婚して子供を作って死んでゆく」のも不要ですか? そしてあなたは「悟りの答えは、自分の経験によって決まるので、他人に答えを聞いても答えが出ない」 ・・・・・と言っていますが、悟りというのは、本人には分からないもんなんです。 老師と一対一で禅問答をして、その対話の中で、老師が、この人間は悟った、と判断するもので、本人には悟ったことが分かりません。 だから、あなたの言っていることとは逆です。 悟りの答えは自分の経験によって決まるのではなく、他人に聞いて知るものです。 老師が判断して決めるものです。 そして日本人が1億2680万人いようとも、悟りの経験は一つです。 二つとありません。 ウソだと思ったら、ぜひ、禅の修業をしてみてください。
- kurinal
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posttruth2017様、こんばんは。 「坊主が、屏風に絵を描いた」 人間は弱いと思います。 >「答えは自分自身の経験で決まる。」 「出来るだけ、優しくしなきゃいけないんだよ」
お礼
みなさん回答ありがとうございます