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「悟り」とは何か。
悟りの状態とはどのような状態になることでしょうか? また悟りとは何か? 哲学はもちろん、生物的や物理的など、また個人的な体験(主観や直感、確信的)様々な分野、観点から、お聞かせくださいると幸いです。
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- crow2222
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全てを平気と感じる境地 恐怖を感じないよう平気になる心ではなく 平気に恐怖する心 怒りを押さえるのではなく 平気に怒る心 痛みを感じなくするのではなく 平気に痛みを感じる心 死ぬその時まで平気で死に恐怖し生きる心 全てを平気に! ごまかすのではなく 全てを平気に受け入れる
- leaf0064
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補足です。 「絶対性」という言葉が出てきましたので、それについても一言(個人的見解ですよ)。 物事は、絶対でもなく、相対でもない。 絶対性とか相対性という概念(思想?)にもよらない。いわば、偏らないことです。偏りは淀みを生みます。滞るというべきでしょうか、そう、流れて止まぬのが悟りだと思います。
お礼
お礼が遅くなりすみません。 >物事は、絶対でもなく、相対でもない。 確かに事物や象徴などの概念の世界は二律背反で一貫、統一された法則があります。 確かに事象ではなく「ものごと」と捉えるとき、そうしたスタンスが必要なのでしょう。 たとえば21世紀の心の病といわれている境界例の特徴として「白黒はっきりさせること」がゆがんだ概念を占めています。このオセロのような表と裏とその色の相反が思考や認知に反映させ、現実をも歪んだものにさせてしまう不幸な病なのですが・・・ >偏りは淀みを生みます ゆえにそれは概念だけの世界にとどめておきましょう。 社会をしなやかに生きるには中庸(もこの相反するひとつのものから成立しますが)のスタンスと、思考と人に対する態度の柔らかい強さが必要なのでしょうね。 >流れて止まぬのが悟りだと思います 偏り(偏見)は悟りからほど遠いのでしょうね。
- leaf0064
- ベストアンサー率27% (8/29)
あくまで個人的見解と申し上げます。 一言で言えば、「流れて止まぬ」境地だと思っています。 #1の方が回答されているように、万物流転ということです。 流されていると言えば、そうだし、そうでもない。 流されているけれども、しかし、流れにそのまま委ねているわけではなく、固執しているのでもない。 自分という意識もあるけれども、だからといって、自分が自分がと張っているわけでもない(我執の否定)。 ということだと思っています。
お礼
>「流れて止まぬ」境地 確かに川は流れが滞れば淀みます。血液も流れが順調ではないと健康も悪化しますよね(笑)。 >自分が自分がと張っているわけでもない(我執の否定) 我を張れば人間関係も滞りますし。となれば絶対性というのはもしかしたら悟りから遠い場所にあるのかもしれません。流転は単に流されることとは違います。流れに逆らわず、ということもひとつの意志です。つまりこの真実を受け入れるということ、それは「強さ」の証しになるでしょう。
- hakobulu
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遅ればせながら参加させていただきます。 >悟りとは何か? の方から。 これは一種の(というか単なる)『処世術の名称』であろうと考えます。 ただ、悟りの価値が無いという認識を述べたわけではありません。 手元の辞書によると「心の迷いが解けて真理を会得すること」などという解説が載っています。 しかし、一体、【真理が会得されるという状況】が『真に』訪れるものでしょうか。 知識がないので正確なところはわかりませんが、現在の様々な宗教においても真理に関する認識は千差万別と言えるように思います。 現在がそうだから真実もそうだ、と言うつもりはありませんが、 つまり、真理というのは求め続けることに意味があるのであって、結論というもの自体がそもそも存在するのだろうかという疑問があるわけです。 最終的には、「わかったような気になる」ということでしか「真理」の定義づけは出来ないというのが真理ではないでしょうか。 「真理」とは、「何人も認めなければならない普遍妥当的な知識」ということらしいですね。 「普遍妥当」なるもの、しかも何人もが一致する解釈。 そのようなものが存在すると言うこと自体が(厳密に言うと)非論理的でしょう。 少なくとも、現在想像できる範囲での人間という生き物の能力においては。 無論、逆説的には、であるからこそ真理は探究される価値がある、ということもまた矛盾のない真理であろうと思います。 神にそれを見る方もいらっしゃるでしょう。 体感として獲得される方も、論理として納得する人もいることでしょう。 みな共通しているのは、各々が『納得している』ということのはずです。 そして、納得することで人は安堵を得ることができます。 つまり、悟りとは 『安堵を得るために自分を納得させるための理論』と言えると思います。 ただ、自分を納得させると同時に他者全てを納得させることができる、という理論は恐らく普遍性を持たないと考えます。 なぜなら、人間の精神が(無論、肉体が受ける影響によって生じる心理作用も含めて)同一の世界を経験することはないからです。 わかりやすくするために極端な例を挙げると、 親から虐待を受け続けて瀕死の状況をかろうじて乗り越えて生き延びた記憶を持つ人間と、何不自由なく愛にくるまれるように生きてきた記憶よりない人間との間に、全てとは言えないまでも共通の価値観が生まれるはずはなく、それどころか敵対し、お互いを否定し合うことでしか生きることができないような精神が形成されるのは極めて自然な成り行きであるということが言えるのではないかと思います。 これが、悟りは処世術のひとつ、とした理由です。 人間のキャパシティを上回るような理不尽で圧倒的な力が他者に対して横行するのが人の世の常です。 何億年かかるかして格段の進歩が遂げられない限り、絶対的で普遍的な悟りというものは存在し得ないでしょう。 現段階においては、 人によっては真理を神に求める方もいらっしゃるでしょうし、 体感として獲得したとお考えになる方もいらっしゃるでしょう。 私は、どれもみなある意味では(処世術として)間違った方法ではないだろうと思います。 ただ、崩れる可能性のなるべく少ないものでなければ意味をなさないだろう、と考えるので極力科学的で論理的なものである必要はあるのではないか、と思います。 さらに言うと、論理性が証明できなければあえて(絶対的な)真理などは無いのかもしれない、という仮定を想起するだけの勇気を維持することが逆に真理へ近づく一歩になるような気もします。 >悟りの状態とはどのような状態になることでしょうか? :自分なりの真理を発見したと納得することによって、精神的な自然体を得られた状態でしょう。 精神的な自然体とは、内部・外部を問わず、あらゆる刺激に対して神経の過度の興奮をもたらさずに対処する準備、というほどの意味で使いました。 基本的には「自信」ということにつながりますから、強いエネルギーも付与されることになるように思います。 具体的には、人間は(自分は)特別な存在ではなく、単なる何かの現象にすぎない。 何ほどのものでもない。 しかし、その何ほどのものでもないものが、今現在このようにして自らの生命を行き続けているということもまた紛れもない事実だ。 といったようなことを理屈ではなく感得できれば、自分なりの悟りという気持ちになれるのかなあ、などと愚考することはあります。
補足
お礼が遅くなりすみません。以前書き込んだのですが、操作ミスでぶっとびました(苦笑)。字数が多くなってしまったのでこちらにお礼をさせていただきました。 なので改めて悟りについて色々と考えました。 いきなり思い出したのですが邦画で「サトラレ」って映画がありますよね(原作は漫画だったような・・・)。人の思っていることがすべて分かってしまう能力を持った人のお話でしたが、孤島に住むことを選び自ら世間を隔離した彼の仲間がいるのですが、もしすべての人がそういう能力を持ってしまったら、また自分の気持ちを知られることになってしまったら人類はすでに破滅しているでしょうね。 神のうちなる心もそうなのではないでしょうか。「サトラレたくない」。つまり彼は孤独なのです。自分と同じ形を作ったのが人間というなら、「個」というものを作り、互いの心を肉体というベールで隠し、それについて悶絶させた。次元は違いますが人のそれも神のそれも悟りとは、恐れるにたるかもしれません。 人生の課題は知らないことについて知ろうとすること、相手や社会という至近距離から遠距離に至る、予測とそれらへの交渉と向作用や自己調整であると考えます。 >安堵を得るために自分を納得させるための理論 賛成です。「思い過ごしも恋のうち」ではないけれど、これが悟りだと自分の苦痛に対して安堵(プチ涅槃状態)できたらそれは幸福なことだと思います。 少々気になったのですが「違う環境にいた者同士は分かりあえない」とは一概にいえないかと・・・。肉体も心も分離している以上、相手とすべて同じ心境になることはできないかもしれないが、共感のスタンスをみせることで、相手の心が力動的に変化することもまた現実です(カウンセリングの効果)。プライベートな愛(主観)ともいうのではなく、フォーマルな愛(博愛)ではなく、インフォーマルな愛のなせるわざというか・・・。(また共感はその実感ではなく、態度こそもっとも重要なものだと思うのですが) >悟りは処世術のひとつ そのとおりだと思います。肉体的苦痛の果てに快楽物質が放出されるのと同様、心にももし同じ作用があるとしたら、その状態というのはいつでもどこでも精神安定剤を服用しているようなものと同じです。人によってはそれを宗教という対外的なものや成文律的なものに求めるのでしょうね。 >崩れる可能性のなるべく少ないものでなければ意味をなさない 普遍ということでしょうか。鍛え上げてそれでも生き残るのが普遍や真実なるものの証かもしれません。 ですが「>極力科学的」なるもので立証できるかもしれませんが、理論や思考の力はをそれと相互作用させるものかもしれません(私は意志や思考の力はそれを凌駕するものであると信じていますが)。それは固さや融通のなさを感じさせる公式の世界ですから。哲学は言葉の理論性を問うものですが、一見同じように固さがみられても実は水のようなもので岩をすべり、長い時間をかければ岩を食むような力を内在させているのではないでしょうか。 哲学の土壌に科学は成立してきたそうですが、やはりカテゴリの境界線上で互いの作用や反作用が生じ、先へ進むのではないでしょうか。科学は哲学の反復であり、哲学もまた科学への反証であると思っています。 >勇気を維持することが逆に真理へ近づく一歩になる 同感です。人間がもつ「意志の力」の尊さです。 >人間は(自分は)特別な存在ではなく、単なる何かの現象にすぎない これぞ悟りだと思います。そのとき一瞬重力から放たれた気がする、ような気がします。肉体の感覚をしばし忘れるときが実体験できる「その気なった気」がするときなのかもしれません。
以前は、さとりというものが、とても特別なことであると、私は考えていました。しかし今は、さとりとは、とても特別なことではないと、考えるようになっています。もう一声付け加えれば、特別であったり、なかったりしないと思っています。 何か、さとりに関して、重荷を降ろしたような気分がいたします。ご参考までに。
お礼
>さとりとは、とても特別なことではない あるとき私は「人は皆自らの内に宇宙を持っている」と思いました。だって臓器ひとつひとつの働きを考えてみれば、これはひとつの現実であり不可分であり、可能性であり、神秘であり聖域であるのではないかと。だから私は肉体軽視する者を許せません。物質的な「モノ」に関してもそうです。 >特別であったり、なかったりしない そうですね、悟っても実質的なものには結びつかない。あくまでも心や魂という形而上を必要とするときに必要となる。でもそれって霊性をもつ存在において最も重要なことと思います。 >さとりに関して、重荷を降ろしたような気分がいたします。 これもひとつの「悟り」なのではないでしょうか。 ご回答ありがとうございます。
私の、前アドバイスの訂正です。 三毒が、「三学」に転ずる(三戒ではなく)であったかもしれません。曖昧、いい加減な記述で申し訳ありません。
お礼
補足ありがとうございました。
- echo-sun
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どんな回答でもということなので、簡単に言えば「悟り」・・「気づき」「ひらめき」ではないでしょうか?ですから、本人の体験のみで感じるものかと思います。他人は、ヒント、アドバイスは出来ても体験まではカバーできません。 仏教的には、眠っている仏性が目覚める→覚醒するのが悟りでしょうか? ・・お経典・・・「このようにお聞きしましたが・・道に迷っていないか正しい修行の道か尋ねる。」「仏になるために(悟りを得るため)方法、順をおっての形式・・・○○を知るためには××を知る・・××を知るためには△△を知る△△を知るためには□□・・・・・・・」みたいに本人が悟るために順をおってのヒント・アドバイス。なのかと。
お礼
お礼が遅くなりすみません。 >「気づき」「ひらめき」 宗教的な悟りも、芸術家が求めるインスピレーション的なものも、あと直感といった身近なものも、すべてはいつでもそこにある、そして誰も読めることができることだと思います。特別なものではないかも知れませんが、やはり特別な人のためのものなのではないでしょうか。 >順をおってのヒント・アドバイス それを体系にしたのが、哲学や宗教学なのでしょうね。 ご回答ありがとうございます。
花に習えば、人間の持つ仏性が開花した状態といえるのでしょうか。どこかのページに、悟りの状態について坦々と語られた文言がありました。 六祖慧能の言う、三毒が三戒に転じた状態を言うそうです。 また、ある人が覚った人かどうかの判断は、他者からも下されることがあると思います。 現に、釈迦は覚った人として、現代まで語り継がれています。ということは、釈迦は、自分勝手に覚ったと言っているのではない、自他共に認める覚者であったとなります。 そして、私の体験からすれば、仏は存在するし、またしうるものだということです。彼は覚っている、はっきりと、そのように分かるものです。その場合、覚者の言葉は、正しい言葉として、聞こえてきます。 覚者の言葉には乱れがなく、またあまることなく言うべき事を全部語ります。 ただ、一般的なものの見方をすれば、それ(正しいと思った判断)が、洗脳であるという可能性も、見込めるでしょう。 取り留めなく、又、思い違いも含んだ稚拙な文章ですが、ご容赦ください。 PS。人間が覚者になるのは、自然、またはメタ自然(究極の自然)なことだと私は思います。 花だって咲くでしょう。それは、開花しようという意思、咲くことに意味があるからだと思います。しかし、全ての種子が開花するわけではない。鮭の卵だって、全部が成魚になるわけじゃない。 人間も、全ての人が仏になりうるが、自然界と同じように、皆がそうなるわけではない。しかしまた、時間を超越した所、メタ自然にニルヴァーナがあるというのなら、今と言う時を以って、人は解脱に至るのだと思います。故にそれは平等でしょう。覚者と凡夫は平等でしょう。 生きる、死ぬも、人間の概念であり、本来性(仏性)というのは不生不滅であると思われます。 また、うろ覚えかもしれませんが、覚者の言葉を借りるなら、「人と世の真実を知ろうと熱望すること、それしかない。」 そう言えるようです。 仏に成ろうとして成るのではなく、知ろうとした結果、仏に成るのかなと、私は思っています。
お礼
お礼が遅くなりすみません。 >自他共に認める覚者 >正しい言葉として、聞こえてきます 悟りというのが「添削」のように客観性をもって示唆されるというのは不可能なのかもしれません。人の意識というのは唯一絶対的なものですが、同時に相対的なものでもあります。 しかし悟ったという直感と、森羅万象における普遍的なものというのは符号しているのではないかと考えました。 また、お釈迦様のような覚者と称される方々は、そのすべてを知った者であり、後に体系的に整理されたものが宗教や哲学という形ではないかと思います。 >洗脳 確かにそうですね。洗脳というのはアイデンティティが確立されていないほど、洗脳に対してモロいわけですが(もちろん洗脳に対して何らかの高度な技術で自我さえも凌駕してしまう方法があるかもしれませんが)、全ての自我が洗脳に陥ってしまうとはどうも考えられません。言葉遊びをすれば、強烈な自我もまた洗脳された状態なのでしょうが・・・。たとえば「教祖」と呼ばれるところに集まる信者は、奥深いところで不安を持っていると思われます。不安なら安定を求めたくなる。言葉という安堵感を与えられれば、それに対しての懐疑すらもたないもが不安な人間の人情でしょう(という意味で「しつけ」ということは初めて関わる強力な洗脳なのではないでしょうか)。 洗脳に容易に影響されないということは、悟りに近いような何かの意志があるのではないでしょうか・・・。案外「運命」というものは脆弱なようでいて強力な意志ひとつに関わる主体的なものではないかと思いました。 >全ての種子が開花するわけではない 徒花(笑)。だからこそ人生というのは意義があると思います。実を結ぶために。開花したらさらに足りず、もっと上の目標「実を結ぶ」ことを目指すのがエライ人(笑)でしょうね。 >覚者と凡夫は平等でしょう そう思います。悟りを得る可能性は誰にでも平等に与えられていると思います。しかし質量共に同じ経験をしたからといって悟りを得られるわけではない。そこは素地的なものが関わってくる。それが「種」という個性というものであるのではないかと。 ご回答ありがとうございました。
- a6524
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悟りの状態とは、眠りに入る状態と似ていると思います。 眠りに入る瞬間を意識をしていては、 けして眠りに入ることは出来ません。 悟りたいと言う意識を強く持ちすぎていると、 逆に悟りからどんどんと心が離れていく、そう言うものだと思います。 では、悟りの境地とはどんなものなのか、 これは、正直私は悟ったことがありませんので、想像でしか言えませんが、 究極は、生きながらにして肉体からの意識の離脱(幽体離脱とは違います) ができた時だと思っています。 無常である己の肉体に意識や未練がある限り、煩悩はいつもまでも心に宿り、 常に欲や病気、老いなどに悩まされ続けます。 この世で一番大事である己の肉体から意識の離脱をし、 未練がなくなれば、心は煩悩から開放されて、 人はどんな時でも幸せになれると思っています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 いかにこの煩悩から離れれば・・・ 理性や文明や科学の進歩は「いかに煩悩せよ」、と進呈しているように感じます。だから現代人は解脱から最も遠い場所にいるのですね。 肉体自体神秘的で流動的で、不可抗力、そして「病」の不安に死ぬまで束縛されていますが(「肉体の悪魔」?)、心や魂の束縛もそれと同義です。 >眠りに入る状態 確かにこの状態って幽界が自分を包んでいるそうです。私も眠りのカオスの世界の方がよりリアルな皮膚感覚で迫ってくる、といえばよいのでしょうか、現実の方が夢の中のようで・・・といったらキケンでしょうか(笑)。 しかし無意識の世界は過去も現在もそして未来も包括している無限の可能性の世界です。つまり様々なメッセージを内包しているのは科学としても証明されているところ・・・。それが「悟り」に通じるとは、あ、やはり他の方がおっしゃるように「悟り」とは科学なのですね。
- tokytime
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frau様がもっと個人的な意見を・・というご要望ですので、初めてのことに挑戦します。 私の場合ですが、 「瞑想」といっても常に対話をします。 自分の迷い、個人的な悩み、さらにもっと向上するために自分にとって何が必要か・・などなどを相談します。 すると、必ず答えが返ってきます。 心の中で想念、又は想念がそのまま言葉となって湧き上がってきます。 たまに観念だけが浮かぶこともありますが・・ その観念、想念、言葉は、平常の私が持ち得ない崇高なものであることが多く、納得や合点がいくものです。 こんなことを話すと、大分気のオカシイ人だ・・と判断されそうですので、今まで人には殆んど明かしていません。 瞑想状態ではなくても、はっきり音声としてインスピレーションを受け取ることもあります。 それは慰めの言葉だったこともあれば、亡くなった先祖(祖母と伯父だとなぜかわかりました。伯父の場合は声と話し方からはっきりわかりましたが、祖母は記憶に無いのに内容からわかりました。)からのメッセージであることもありました。(お礼を言われたり、頼みごとなどをされた様な気がしました) 誰でも常に色々な存在からメッセージを受け取っていると思います。 ただ、気が付かないだけです。 ふっと心に湧くアイデアなどは殆んどその可能性が高いと思います。 特に、心の中でささやくような何かを感じ取ったならば、十中八九そうだと思います。 ただ、同じインスピレーションでも、ポジティブなものとネガティブなものがあるので気を付けなければなりません。 けっしてネガティブなものに自分の感情の舵取りを任せてしまわない様に、心して細心の注意を払わなくてはいけないと思います。 だれでも何かに対して憎悪を感じるとき、自分でセーブしなければその憎悪がどんどん膨らんで、そのまま放任すれば、破滅的になるまで膨張していく予感を感じたことはあるのではないですか? 自分の心の中に負の感情が湧きおこっったときは、用心してそれをコントロールしながら、自分又は他者への許しと慈愛の感情を掻き立てることによって、鎮めなければならないと思います。 私は勿論悟ってなど居りませんが、自由自在に自己の感情をコントロールして、もう負の感情を作る必要から解放されたとき、何かを悟れると思っています。 それまで修行の長い旅が続きそうです。 こんなところでご希望に添えましたか? あらぬことを色々書いてしまいました。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 よく自分と会話をする、といいますよね。私が思うにそれは神との対話だと思っています。肉体ひとつ鑑みても、あまりにも複雑で神秘的なシステムはひとつの宇宙です。その宇宙の支配者の声が、宇宙(そら)から聞こえても不思議ではない。私達は独りではないし、宇宙の破片なのだと感じています。そして神の声はその海に身を投じたとき(しばし「無心」という無意識の状態に落ち着いている状態のときなどに)、いつも傍にいる彼の声を聴くことがあります。 >大分気のオカシイ人だ・・と判断されそうですので だからそんなことないです!!!聞こえない人のほうがある意味煉獄にいるのではないかと思います。 身近な人のメッセージというのは瞑想状態でなくとも、例えばスピリチュアルナ体験をしているとき、またはそれに近いところにいるような状態(例えば気孔など)のときにそれを受け取るという体験を聞くこともあります。その真偽ではなく本人が感じたこと、そしてそれをどう捉えていくか、が課題なのだと思います。 つい理性で考えてしまいがちでその真偽を問うこと自体に陥ってしまいますが、送信する側よりも感受する側の主体性の方がリアルな問題なのではないかと。 でもネガティブなささやきも「声」として捉えているのには感じ入りました。それは感情と捉えてしまえば、人は客観性でさえもって、その原始的なパワーにしばし、身を投じることを許すこともあるからです。 >負の感情 私事で恐縮ですが、ある意味「自己犠牲」を強いられているこの人生において、「自己犠牲」から四苦八苦していかに免れるかに苦心してましたが、くるりと振り向き、あえて挑めば、というよりも呑み込まれてしまえばそれもひとつの修行、カルマの解消、そして悟りとなるのかな、などと思うに至る心境になりました。これを俗的に「投げやり」というのですかね(笑)。
お礼
お礼が遅くなりすみません。 「平気」ということは中庸ですよね。 >ごまかすのではなく 全てを平気に受け入れる 納得です。 それが実存ということなのでしょう。 極端から極端を行き来した者の最後に到達する場所が中庸ということなのでしょうか。 ご回答ありがとうございました。