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論理の間違いを説明する文の内容が、理解できません。どなたかもっと簡単に説明してもらえませんか?

論理の間違いを説明する文 「大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず  大食いしてはならぬかどうかを知るためにも大食いしてみなくてはならぬ。したがって、いずれにせよ、(ひとは)大食いしなくてはならぬ」 上記の文は、すべてを網羅していないのに、網羅したと考えて結論を導く間違いの単純な例ということです。 {AのためにはBをしなければならない。CのためにはBをしなければ ならない。したがって、いずれにしてもBをしなければならない}が論理的に正しいためには、 「Aのため」と「Cのため」ですべての「~のため」を網羅していなければなりませんが、例文の場合では網羅されていないからです。←と説明されていました。 質問(1) すべてを網羅しなければならない、とありますが上記、大食いの例文での「すべて」とは何を指すのでしょうか? 質問(2) 「Aのため」と「Cのため」ですべての「~のため」を網羅していなければなりません←この文の意味が理解できません。 では「Aのため」と「Cのため」ですべての「~のため」を網羅する、としたらいったいどうなるのでしょうか? 説明できる方は、ぜひ詳しく教えてくだされば嬉しいです。 よろしくお願いします。

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  • hakobulu
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回答No.13

#7です。 あくまで一素人の考えですが、 「大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず」 が正しいか否か、ということとはまた別の問題であるように思います。 これは#7でも触れたように、 「大食いすべきかどうかを【身をもって】知るためには大食いしてみなければならず」 と書くべきところのケアレスミスであろうと捉えます。 大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず 大食いしてはならぬかどうかを知るためにも大食いしてみなくてはならぬ。 したがって、 いずれにせよ、(ひとは)大食いしなくてはならぬ。 これを、次のような例に置き換えて考えてみました。 あの世があるかどうかを知るためには、死んでみなければならず、 あの世が無いかどうかを知るためにも、死んでみなければならない。 したがって、 いずれにせよ、(ひとは)死んでみなくてはならぬ。 この場合、 「あの世があるかどうかを知るため」と「あの世が無いかどうかを知るため」で、 『すべての「~のため」を網羅』していることになると思います。 「ある」と「無い」が正反対の意味であることが明白だからです。 「全ての色は赤であるか赤でないかのどちらかである」が正しい命題である(と思うのですが)、 と同じ理屈で、 「あの世はあるか無いかのどちらか」でしょうから。 しかし、 あの世があるかどうかを知るためには、死んでみなければならず、 あの世が【楽しいかどうかを知るため】にも、死んでみなければならない。 したがって、 いずれにせよ、(ひとは)死んでみなくてはならぬ。 という場合は、たとえば「あの世がつまらないかどうかを知るため」が考慮されていないことになります。 すべての「~のため」を網羅していません。 この論理では、たとえ死んでも、「(あの世が)つまらないかどうかを知ることができる」という保証はしていないわけです。 それであるのに、「いずれにせよ、(ひとは)死んでみなくてはならぬ。」 と言うのは筋が通りません。 は結論として偽だったことになります。 それで、論理的ではない文である、ということになるのだと思います。 これを論理的にするためには、 あの世がつまらないかどうかを知るためには、死んでみなければならず、 あの世が【つまらなくないかどうかを知るため】にも、死んでみなければならない。 したがって、 いずれにせよ、(ひとは)死んでみなくてはならぬ。 のように表現しなければならないでしょう。    

aaww5523
質問者

お礼

hakobulu様  はじめまして、質問者のaaww5523と申します。 私の質問に丁寧に答えてくださって、ありがとうございました。 hakobulu様の意見は、とてもわかり易く、参考になりました。 誰もきちんと答えてくらないだろうな~、と私は考えていたので とても嬉しかったです^^ おかげさまで多分ですが、私にも誤りが理解できました。 お礼をいわせてください。 本当にありがとうございました。

その他の回答 (14)

回答No.4

 ‘理論の間違いを説明する文’を「大食いすべきか、すべきでないかは、大食いしてみなければならぬ」としたら、意味が違ってしまうのでしょうか。    「すべて」とは、何なのでしょうね。  回答でなく、‘疑問’でした。

  • old_sho
  • ベストアンサー率38% (20/52)
回答No.3

その説明を取りあえず受け取ると、 「大食いすべき」の否定が「大食いしてはならぬ」と思ってしまうので、「すべてを網羅」しているかに思う間違いを冒す、という話でしょう。 ご質問のように、「すべて」を考えるのは無理からぬ点はありますが、「すべて」なんてもともと無理っぽいですよね。Aの否定がCであるか否かではないですか。そうであるなら、A+Cですべてということになる、ということでしょう。そうすれば「論理的に正しい」と。しかし、Aの否定がCではないので、他にDもEもあるのだから、DについてもEについてもその結論が出るか示さなければならない、と。それでは、Dとして何があるか?分かりませんね。 さて、これからが私にとっての本論ですが、 その「例」なるものは、話がおかしい。「大食い」が曖昧である点には目をつむって考えてもです。「大食いすべきかどうか」が、「大食いすべきか否か」であると思えるのです。そして、「大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず」は、間違っています。大食いすべきか否かを知る為には、「必ず大食いすべき」という訳ではありません。したがって私の解釈は、間違った前提からはどんな結論を出してもその真偽は不明、という例題文である、というものです。 回答ではなく、疑問になりましたが悪しからず。

noname#141297
noname#141297
回答No.2

「大食いしなければならない」かどうかが欠けている。

回答No.1

質問(1)知ること 質問(2)知るためだから大食いする以外にも方法があるはずです。 自信なし。。。

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