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仏教でいうところの無心・無欲・無我について

心穏やかに毎日を過ごせたらいいなあ、と思います。 俗欲を捨てて、自己主張を捨てて・・・無我、無欲で・・・と ところが最近、これって「向上心」の放棄では? とか、人生を投げやり、捨て鉢、諦めてることにならないか? という疑問がわきあがってきました。 心おだやかに毎日をくらしていけるのなら、それでもOKなのですが、 「無欲」と「諦め」って似たものなのでしょうか? どなたか教えてください。

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  • men-soul
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回答No.2

無欲とか無我って、投げやりとか捨て鉢とは全然違うだろうな。でも諦めと無我は、解釈によっては近いかもね。 俺はブッダじゃないんで、彼の真意はもちろん不明。 なので以下に書くのは俺の勝手な解釈ね。 無我無欲ってのは、要するに執着しない、もっと砕いていえば「こだわらない」って事だと思うんだよな。 何かを目指すのをやめるとか、行動しないとか、そういう事ではない。 例えばさ、金が欲しいとしようか(別にイイ女とヤリたいでも何でもいいんだけど)。そう思うのは全然いいわけ。自分がどういうモノを指向しようが、それは自分の自由だから。 で、カタギに稼ごうと思って一生懸命商売に精を出したとしますか。まあ株や先物に一生懸命になったっていいんだけど。 そこで品物があまり売れなかったり、買った株が下がったりした時にどうするかってことさ。 無我とか無欲ってのは、そういう時に事態を改善させようとして必死こくなよ、ってこと。 お客が品物を買うかどうかは、客の自由だよね。つまり俺が決めることではない。 株が上がるか下がるかも、俺が決めることではないね。 そういう、「自分にはそれを決定する何の権利もない事柄」について、その結果にこだわるな、と。 もちろん、やることはやるんだよ。 どうすれば売れるか、相場で勝てるか、それを工夫したり努力するのは必要なことさ。 ただ、結果については「俺にはそれについて口を挟む権利はない」とわきまえて、固執しちゃいけない。 他人だとか外界に対して何かを強制しようとする、言い方を変えれば「義務を負わせようとする」、そういう心の歪みが我であり欲だと思うんだよね。 無我とか無欲ってのは、その歪みを捨てろっていう事なんじゃないかな。 自分が言いたい事は言えばいいし、やりたいことはやればいいし、行きたいとこは行けばいい。それは俺の権利。 でもそれに対して相手が、あるいは外界がどう反応を返してくるかは、そりゃ今度は相手の自由なんだから、何が返ってきてもそのまま受け入れろ、と。 その反応が思った通りじゃないからって捻じ曲げようとするのはやめれ、と。そこで目を血走らせて戦うな、と。 同時に、他人から強制されたり義務を負わされたり、そういうことを許してしまうのも我であり欲なんだと思う。 大口取引先から「不正行為に協力しろ、さもなくば今後一切お前に仕事は出さん」といわれて、全然したくもないのに不正に加担したとしたら、それも欲と我に振り回されてると言えるだろうね。 義務は負わせちゃいけないし、負わされてもいけない。 そのためには、諦めるってのは大事。 「お宅と取引なくなったら、食えなくなっちゃいますよ。でも答えはノーです。やりたくないことはしません」 こう言えるためには、商売を諦めてないと無理。 したくないことを強制されたとき、いつでも誰にでも「は、そんなのヤなこった」と言えるのが無我、無欲な人だと思うし、そのためには「諦めるというかたちのこだわりのなさ」が必要なんじゃないかな。 俺は「思った通りに行動さえできれば、結果が思った通りじゃなくても、まあいいや。そこは別に強制する気ないよ」ってのが無我無欲ってことだと思ってる。 そういう境地に本当になれたら、捨て鉢どころか、むしろバイタリティーにあふれて毎日挑戦的に向上心いっぱいな人生になるんじゃないかなって気がするよ。

kennedy3
質問者

お礼

ありがとうございます。 ストライクな御回答で感激です。 諦めるのでなくてとらわれないという感じだと解釈しました。 かなり霧が晴れてきました。

その他の回答 (1)

  • yu-taro
  • ベストアンサー率39% (3209/8203)
回答No.1

  こんばんは。  仏教の教えを現実の生活の中にそのまま取り入れようというのは無理があると思います。  仏教の教えは一つの人としての理想郷を唱えていると考えられます。  無欲はそのようになれれば良いということですが、残念ながら人には欲という煩悩がいくつもうずめいています。  煩悩を取り除いて無欲になる。と言葉では簡単に表せますが、なかなかできるものではありません。    欲の中には食欲や性欲などもありますが、これらは生きて行くためには必要不可欠です。人としての本能に有るものです。  もし、これらの欲がなくなったら人として生きて行く価値もなくなってしまうものと思います。  諦めは意識して行うものです。  無欲と諦めは、こうしたことから似てて非なるものです。  俗欲を捨てて生きて行くなどは普通の生活をしている人にはできないと思いますし、余り意味がないかとも思います。  むしろ、欲を持ちながら己の心を穏やかに常に自己を見つめ、冷静になって世の中を見ていけば、無欲でなくても立派に生きていけると思います。  釈迦の教えは素晴らしいもので、尊敬していますが、私などは百八つの煩悩がいつも渦巻いていて、宝くじを当てて一攫千金を狙い、スポーツカーを乗り回し、事あれば有名になりたいし、美女や女優が好きで、うまいものをたべたいという夢を持った、安月給のうだつがあがらない万年平社員です(^^;

kennedy3
質問者

お礼

ありがとうございました。 そうなんです。私煩悩の塊です。 それで苦しむことも多く、欲を捨てれば楽になれるかな、 と次に考えました。でもそれって向上心を捨ててることに ならないか、というのが疑問だったのです。 闇は深まるばかりです。