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書き損じた原稿の問題点を添削してください
- 自我論、自我説は宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。自我とは自己の核心の研究だ。人は他者と共感したり、心を通わせることができる。その明白な各個人の体験を論理的に裏付けるための、過去の仮説が自我論だ。
- 自己の核質たる自我と別に構成する人格の全容は社会性ある人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは一人で生きていない巖然たる事実の前に避けられない。この自我論は、論理的たたき台としての「自我仮説」同然だ。
- 無我は自我が無いという意味ではない。人格として総括した「我」という自己のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我の流布の前に、それを仏性という特別な言い回しで表現して、我=人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調なのだ。
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以下のとおりお答えします。あまり愉快でないことばかりかも知れませんが、真剣に考えた結果です。もし、お気に障るような場合は、どうぞ無視なさってください。 >書き損じた原稿の問題点を添削してください。 ⇒個々の「問題点を添削」することはできませんが、お書きの原稿に見られる問題点そのものを2,3申しあげることはできます。 まず、「AはBだ」という類の表現が多いですね。この種の表現は、本来異質のものを結びつけているわけですから、それなりの意味説明が必要です。それがなければ、読者にとっては、単なる無意味な文字の羅列に過ぎません。表現を敷衍したり、言い換えをしたりしながら内容を説明し、場合によっては、関連する先行研究の紹介や比較検討などが必要でしょう。 お書きの論題に関連する先哲としては、ソクラテス、アリストテレス、デカルト、ヒューム、カント、フィヒテ、フロイトらがいますね。あなたが掲げている論題からすれば、これらの先哲の所説、少なくとも、その立場などについて言及する必要がありそうですね。また、「先験的自我論と経験的自我論との間の関係の弁証法的歴史的経緯」などについても言及する必要があるでしょう。たとえ、紙幅等の関係から言及できないとしても、予備知識として背景に持った上での論述でなければ、「自我論という名の独り言」と見られ、一顧だにされない代物として無視されるのが関の山ということになります。 形式面でも問題があります。内容のまとまりごとにひとつの「段落」とし、その段落内では文章をぶつ切りにしません。(各文を個別に見れば、それなりにしっかりした文だと思いますが)一文ごとに改行するようなことをせずに、段落内ではすべての文をつなげます。そしてそのつなぎ目に接続詞を入れます。実際にいちいち接続詞を書く必要はありませんが、少なくとも、前後の文の関係(順接か逆接か)は意識しておきましょう。 また、原稿(章)全体について、「起承転結」をつけましょう。すなわち、 起:導入部として話題を提示する部分(節)。 承:その話題を受けてさらに内容を補充する部分(節)。 転:その話題を別の角度から見る部分(節)。 結:その話題の提示部と別視点から見たものとを結び合わせて結論とする部分(節)。 といった章句づけや構成が必要です。 「起」では、当該論題における問題点やそれを論じることの必要性・動機などについて言及することも導入として求められます。そして、「承」や「転」で複数の角度から論じたあと、「結」では文字通り結論を述べますが、同時に全体をまとめる結語で締め括ると、疎漏のない首尾一貫した論述であることを印象づけることができます。 ――ということで、否定的なことばかり連ねましたが、以上のような形式・内容を満たしていなければ、おっしゃるような「哲学研究ノートの原稿」として、あるいは、掲げられた表題の論稿として評価されることは難しいと思います。ご健闘をお祈りします。
お礼
具体的にありがとう。 傾向的にあなたが指摘したようなところがあることは何となく知っていたよ。 それで放棄することにしたんだ。 具体的な点をいくつかお勧めしてくれたのは大助かりだ。 「話しかけるような文章」コレでやらないとスッキリ理解できる文章にできないようで、まじめ腐った文章だととても駄目だと思ったんだ。