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なぜ私は神に愛されるのか

今までの人生を振り返っても自分はずいぶん恵まれているなあと感じます。 もちろん私はお金持ちのスーパースターではありませんが、特別大きな病気 や怪我もないし、生活面でも貧困ということはありませんでした。 神の定義は別にして、客観的に見て恵まれた人生を送れる理由とは何でしょうか。 或いは、コツでも結構です。 この質問を読んで不快に思う方もいると思いますが、それは自分の人生がそうではないと感じるからだと思います。 その場合、神の気持ちになって自分はどのような人間を愛するのかご回答ください。

みんなの回答

回答No.21

>自分の人生がそうではない(不幸ではない)と感じるからだと思います。 自分で答え書いてますよ。質問文を客観的に見てみました。 それと私は神様も会って話もしたことはないんで神様の気持ちは わからないし、愛し方もしらないです。聖書によれば分け隔てなく 愛しているらしいので、受け手の受け取り方次第じゃないんでしょうか。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >受け手の受け取り方次第じゃないんでしょうか。 まさにですね。

noname#122427
noname#122427
回答No.20

#5です。 うーーーん。。。神様はそんな風に考えているのでしょうか。。。 いえ。。。私は特定の信仰を持たない者なのですが。。。 第一、人間自身が傍から見てトンデモナイって人を愛しちゃったりする事もあります。 愛するにも愛されるにも「資質」も「資格」も要らないのじゃないのですか? 。。。うーーーん。。。 「愛する」って、何かを与えたり与えられたり恵んだり恵まれたり。。。そんな行為よりももっと前に存在している心なのではないでしょうか。。。 トンデモナイ人。。。質問者様のおっしゃる「人に対してお前は呪われているぞなどという人」も、そんな「トンデモナイ部分を恵まれている」訳であって、そんな事を言わない人はそう言わないような性質を与えられている、只そんな「違い」だけなのではないでしょうか? 有る人には「有る」と言う事を、無い人には「無い」と言う事を、同じように与えられている、と思うのです。 マザーテレサもカジノに行く人も、 あの人は神様に愛されているねと思える人も、 この人はきっと神様はお嫌いだねと思える人も、 「存在している」のだからその存在を認める。。。 神様ってそんな感じかしら。。。と私は考えております。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 yukkinn66さんの神のイメージはどちらかというと一神教で言う万物創造主のイメージでしょうか。 私にとっては「人生」という名の神なのです。そういう意味では八百万の神の一人でしょうか。 だから神に愛されるとは人生に愛されると置き換わるのですがこれは私の感覚でしかないので神の名前を借りた次第です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3919849.html

noname#96756
noname#96756
回答No.19

こんにちは。 わたくしがもし「恵まれた人生を送ってきた」理由を想定するならば。 まず何よりも「自分は自分の人生に関わってきた両親をはじめとする家族や知人といった他者によって有難いことに支えられてきて、だからここまで客観的に見て恵まれた人生を送れたのだ。」と考えます。 そして、神の愛は・・・あくまで不作為の愛、というのはいかがでしょう。 善悪の区別なく、短視的に陥らず、生誕から天寿全うまで、静かに温かく質問者様を「ただ見守っている」と。 神といっても、「墓場からゆりかごまで」といった社会福祉政策的意味合いでもなく、また、決してどこぞの警備会社のリモート・システムのように、24h個人「監視」でもなく。 もっと、何か、おおらかな何かといいますか。 で、そう考えるとですね、 >あいつは神に呪われていると考えるような人は、神には愛されないのです。 >そこら辺はうまくできているので心配無用ですよ。 ちょっと質問者様の神はかなりキビシー気がするのです。なんとなく。 どうして「そこら辺はうまくできているので心配無用」と言えるのですか。 この文だけ見るとですね、神がキビシーのではなくて、質問者様のお考えがキビシーように思えてくるのです。 ごめんなさいね、辛口で。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >人生に関わってきた両親をはじめとする家族や知人といった他者によって有難いことに支えられてきて そう、どうも私にはこの感覚が薄いため神などというものを持ち出してしまいがちなのですが、ひとりで生きているわけではないのですからまず感謝すべきは周りの人たちにでしょうね。 >どうして「そこら辺はうまくできているので心配無用」と言えるのですか 例えるなら、マザーテレサはカジノには行きませんよね。 人は全的な存在だと思うのです。人助けをするマザーテレサがカジノでポーカーをしてはいけない理由はないですが実際にはしません。 だから、人に対してお前は呪われているぞなどという人は、恐らく神に愛されるような資質は持ち合わせていないので結果的に神には愛されないと思うのです。

noname#91067
noname#91067
回答No.18

>恵まれた人生を送れる理由とは 人間に神を定義することも、神の本質は分からないものと思います。 神が人間のみに与えた自然に対した権利や義務はないようなもので、人間が勝手に人間の間で土地や食料の所有権の約束事を作って欺瞞してるだけですね。 不幸が人間を選別したりせず、幸運も個人的な心情、感性によって判断もそれぞれになります。人間に許されていることは不幸や安全の確立を探ることだけで、人間同士で約束事を網のように張り巡らせ築いたのが「社会」ですね。 なので神への冒涜ともなるかもしれませんが、神でさえ作れない社会をご先祖様が心血注いだ情熱を感謝せずにいられません。 意志や交通の疎通が簡易になったこと、水道や電気や便利な乗り物を利用できること、美味しい食事がたやすく得られること、保存や貯蓄が利くようになったこと等など、現代の先進国に生まれたことは神が人間を愛してくれているお陰、というより 「人間が智恵を絞って多くの犠牲を払って協力努力し、自然物を上手く加工したり社会の関係を整理してきたから」なんだと思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かに神の本質は理解できないかもしれませんが、ここでは私に恩恵を与えてくれた存在を便宜的に神と呼びました。 人間の努力を否定するわけではないのですが、個人(私)のレベルにおいてこの不思議な現象には理由があるだろうと思うのです。 すべては因果であるといえばそれまでなのですが、何かプラスアルファな力を感じるのです。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.17

うーん 結構 ヤバイ思想かも。 「身体障害者や精神障害者や大病をわずらっている人は、神に憎まれたからだ。 神から悪行の報いを受けたからそうなったんだ。 俺はそこそこ善人だ。何故ならお前らのような目にはあわされていないのがその証拠だ。」 って思想が根底にあるわけですよね。 ヒトラーも根底の思想はあなたと同じで、だからあれだけのことができたわけです。 では、本当に精神障害者、身体障害者、不治の病の人、それで働けなくなり貧乏になった人は神から呪われているのか。 当然 違うって誰でもわかりますよね。 これがわからないようじゃあ かなりヤバイ人です。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 kigurumiさんの言わんとすることはわかるのですが、 あいつは神に呪われていると考えるような人は、神には愛されないのです。 そこら辺はうまくできているので心配無用ですよ。 逆にご回答の論調だと、 お前の病気はすべて自己責任だから他人である私の知ったことではない となるんじゃないかと心配します。

  • Zohar
  • ベストアンサー率0% (0/4)
回答No.16

>存在しているという事実のみをひたすら愛する。 そうですね。 存在している。 存在を愛し愛される。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 愛されていることを知ったら一人でも寂しくはないでしょう?

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.15

神にとっては、人間が幸福だろうが不幸だろうがおそらく関係ないのではないでしょうか。 存在しているという事実のみをひたすら愛する。 つまり、存在の重みだけは神によって保障されている。 「そこから先は良きに計らえ。そのために意志を付与してあげたでしょ?それ以上の細かいことはわしゃ知らんよ。」 ということのように思います。  

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうかもしれませんね。 すると、私に恩恵を与えているのは神以外の存在かもしれません。

  • Zohar
  • ベストアンサー率0% (0/4)
回答No.14

どうしたんだ今日の私は。。。 >私なら一人で生きていくことに喜びを感じますね。 あ、shift-2007さんと価値観が違いますね。 私は二人で生きていくことに喜びを感じます。 ひとりよりもふたりが良い。 これもコヘレトの言葉です。 それから存在は贈与されているらしいです。 それと、ヨブ記も結末は幸せになってます。 みんなのおかげです。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 己が光とならなければならない。 これが私の師の言葉です。

  • Zohar
  • ベストアンサー率0% (0/4)
回答No.13

さて、コヘレトの言葉のように、全てが空しく ヨブ記のヨブのように悲惨な状態になったとして。 人々は彼を見捨て、さらに神は沈黙していた。 この場合、宗教とはなんなのかってことにもなると思います。 神が必要ない宗教もあるけど 今回の質問は、 >なぜ私は神に愛されるのか 全てが空しいのだから行為によっても救われず 沈黙しているから恩寵もなく。 かといって神がいない世界観ではない。 何も反応してくれない相手に対して、何も効果のないことをする。 こんな設定で、愛されるとはどういうことかな、と。 どんな綺麗ごとを言っても現世利益なんだろうか。。。? それか、ただ相手が存在してくれていること。 存在そのものが感謝や愛の対象になるのか。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私にとっては神の恩恵はリアルであり空想の産物ではないのです。 神の姿が見えなくとも現世利益という結果があるならそれで可ではないでしょうか。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.12

#7です。 ほろ酔い気分なのでまた投稿します。 >幸福とは何かという問題 :生まれてきたこと自体が幸福ではないかと思います。 仮に(色々な意味で)不幸になるとすれば、その後(あらゆる意味で)関わる人間や環境が原因でしょう。 今が幸福と思えるのであれば、それはそのような不幸な人間や環境に遭遇しなかったか、あるいは不幸に遭遇しても乗り越えられるだけの力を、その不幸に遭遇するまでに身につけられていたということになるでしょうから、その意味で、 >個人的に感じるのは私がすすむべき道を用意してくれたと思うことが多々あるのです。 :というご感想は全く妥当なものなのでしょう。 その場合は、神というか、どちらでも大差ないかもしれませんが、運に愛されていたといっても同じことになるように思います。 運が良かっただけなのだから運が悪かった人のことを多少想像してみても罰は当たらない。 こういうことにもつながってくるのでしょう。 そのこととは別ですが、私としては、むしろ、 >もちろん用意されたものをどう使うかは私にかかっている :とおっしゃった点のほうを重視します。 でないと、(将来的にせよ)不幸と感じるようになった場合、他の誰かのせいにしなければならなくなりますから。 ただ、「(不幸の)要因を検証する」ということと「せいにする」ということはまた別の問題ではありますけどね。 不幸感に苛まれる状況から脱却するには、前者は必須の手順であると思われます。 ご質問の趣旨からは逸れるかもしれませんが、神に愛されてても愛されていなくてもいずれ道は開けている、ということになるように思います。  

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 要約すると「人事を尽くして天命を待つ」になりそうですね。 まぁ普通はそんなこと考えなくてもなるようになるのですが知りたがり屋なものですから。

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