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「神を見てしまった。」ということにどんな意味があるのか?
「私は神を見た。」という時、それは「私は、この存在のすばらしさの面をあまりにも奥深く垣間見た。 垣間見たにすぎないことも解る。私の感覚にとって神がいないということはあまりにも不自然で納得のできないことといつしかなってしまっていた。」といった神の存在の確かさを感じているという意味合いで使われることがよくあると思う。 私の場合、上記の感性と理性と良心との融合のようなものからの神の存在の発見のようなものが脳の中に いつしか定着してはいますが、 そのこととは別に、実際に神の臨在をあまりにも深く感じたことが、十数回ほどあります。 その時の迫力はすごいもので、思考停止状態となってしまうのですが、何しろ数秒のことですし、 2、3年置きに忘れた頃に、そういう状態がやってきていた(50歳まで)ので、 いったいこれは「何なんだ?!!」という疑問を考える時間はたっぷりありました。 60歳となった今、それは「あまりにもリアルな錯覚」であり、そういう錯覚も人間の脳には存在しうるという結論となり、むしろ病的症状(完全な意味で病気だとか精神の病という意味ではないですが)に近いとう考えとはなっています。 それでもなお、 もし再びその感覚がやってきたら そのような理性で必死に構えていたとしても、 すくなくともその数秒間の間はとてもでないですけど神の存在を実際に感じているというその状態を否定することなんか出来ないような感覚です。 形は無いです。 でもそれは こんな感覚です。 視覚の根拠は 現代の科学ではたぶん網膜に映るレンズの光と神経の作用ということしか解っていないのではないかと思うのですが、 神経があるとどうして「見える」のかは解っていないはずだと思うのです。 脳があり神経があってはじめて見えるのですが、 それはなぜだか解ってないわけです。 その脳と神経に、神を感じる何かが一瞬ですが開発されたのでは??? という感じです。 そうとしか考えようの無い感覚です。 神が私を選んで訪れたとかいった感覚や思考は、それが始まった20歳の未熟な時にも私にはまったくありませんでしたが(それは、たぶん私が子供の頃何度も重い肺炎で死の床をはいずったことがあるため、さすがに未熟な青二才ながらも神を物語的には考えることは卒業していたのだと思います。)、人間の脳には神をこんなふうにキャッチする能力が隠されていてやがては、それが誰の脳の中にも開花するのではないか? という考えはありました。 最初のうちは、けっこう無邪気に その驚愕状態を楽しめました。 ほんの数秒でも 印象はあまりにも強いですから忘れることなんかできないようなインプレッションの刻まれるそれを 「何なんだろう?」と思いつつもけっこう楽しんでもいたのです。 ともかく楽しい思い出ではあるなというふうにです。 でも そのうちに、その瞬間にある疑問を聞いてみようという考えが起こってきてからは、その時が完全に思考停止状態となることが気になりだしました。 あることとは「なぜこの世にこれほどまでの苦しみがあるのですか?」ということです。 そして、一番最後の50歳の時に、その感覚がやってきたときには、わたしは最大限の恐怖で ギャーーーっ叫んでいました。 苦の存在の因果を深く深く考えたら そうなります。 でも、やがて、神は「いっさい人間を助けたりはしない」ということがようりはっきり私の理性の中に訪れた時、 神が絶対だとかいう論理も消えた時、おそらく神から自立したとき、 恐怖は消えていました。 みなさんは、この体験に どんな意味(意義でもいいです。)があると思いますか? 私の考えも、書いてしまえば、 それは自立すれば、無神論も受け入れることが出来るような信仰が生まれますよ。ということだけです。 「けんかは、もう止めよう。」とうことだけ。 それ以外にたいした意味も意義も 私にとってはですが、残念ながら何もありませんでした。 私のは たぶん錯覚(病気状態)でしょう。 しかし、もし実際に錯覚で無く「神を見た」という能力が人間に開かれたとして、 あなたならどんな意味があると思いますか? へんな質問でごめんなさい。
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- tumaritou1
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人間は常に、常時、絶え間なく神と共にいます、ただそれに気が付きません。神は自我意識に対して、無意識の中に居ます。自我意識とは出会い難くなっています。 自我意識が無意識に切り替わる時間は瞬時と云えます。その反対も同じ事です。自我意識が意識した事だけを見ているのに対して、神は、その自覚できない所を、自分を守るために監視しています。 それは、人間が意識したことしか知らない事に対して、意識して居なくても、音、振動、匂い、光、味それ以外でも知らせてくれます。 不安でも、恐怖でも、喜びでも、安心でも、人間の感じる事は全てが神の贈り物とも云えます。人間の自我意識だけでは感じる事は出来ません。感じさせるものが自分の中にいる事によって、自我意識は感じたと云う「錯覚になっています」 人間が「自我意識」だけで生きていると思うのは大きな間違いと云えます。自我意識だけでは生きてゆく事は出来ません。車を運転している時などはどうでしょうか?ハンドルもブレーキも自我意識は余り関与していません。 自転車に乗る時などはどうでしょうか、覚えるまでは自我意識が運転をしています、覚えてしまえば自我意識が関与していなくても、ちゃんと乗っています。 そのような事が数えられないほど在ります。是らは自分ではやっていないとも云えます。少なくとも自我意識が意識してやっている事では有りません。是が健常者と云われている人達です。知らないうちに「無意識」になれるという事が「健常者」と云う事です。 あべこべに、無意識に入れなくなってしまう人達が居ます。それは「意識しながら物事をやろうとしている人達です。そのやろうとしている事が「症状名」になっている人達です。 何事も前向きに明るく生きたいとする場合が「鬱」 うまく話をしようとすれば「吃音」 人とうまくやりたいと思う時に「対人恐怖」 不安にならないように安心したい場合「不安障害」 不安は嫌なものだから心から追い出そうと強く意識した場合「パニック障害」 眠る事を意識した場合「不眠症」 まだまだ数え切れないほど「症状名」は在ります。ですがこれらは皆同じ事から、発症していると云えます。それは何かと云うと「無意識」です。無意識にも意識はあります。 精神疾患と云うものは「無意識の意識」と対立と矛盾を起こしていると云えます。そのために無意識に入れなくなってしまいます。 その無意識に入れなくなったことが「辛さ、生き難さ」と云う事になります。それは右脳に在る人格を無視している事に因ります。右脳に在る人格とは「神、仏」と云っても良いものです。 その証拠を挙げてみます、禅問答ですが、是は左脳に在る自我意識では解く事が不可能と云えます。何故かと言うと、解く能力を持っていないからです。 禅問答が解けたか、どうか?と云う事を聞く時に、「生死の問題は解決したかどうか」と云う聞き方になります。 禅問答が解けた時の答えは「生死の問題が解決した。」と云う事になります。「一生の大事が」終了したと言います。 是は苦からの解放を意味しています。苦しみの多い人生の全ての苦しみからの解放を意味しています。心が言い争いをしなくなって、心に平和が戻ってきたという事を意味しています。 他の言い方をするならば「神に在って、和解する事が出来て、罪が許された」と云う事になります。それは全ての精神疾患の完治を意味しています。精神疾患と云うものは左脳と右脳の二つの人格の対立と矛盾から引き起こされたものだからです。 二元論とは人間の脳の機能の事です。人間苦と云う事は解決する機能を持っていない方の脳で、解決出来ない問題を抱えて立ち往生している事と云えます。 それは解決できない脳で禅問答を前にして立ち往生している事と、全く同じ事です。その解決には解決できる脳の出番が必要です。それは無意識の意識と云っても良いし、右脳の意識と云っても良いし、在りてあるもの、在るものでも無いし、無いものでも無い、と云っても良いと思います。その右脳の事をお釈迦様は「仏性」と云ったかも知れません、キリストは神と云ったかも知れません。 本当は誰の心も半分は宗教で出来ています。そうして神、仏と一緒に居ます。但し「精神疾患」になっていないという条件付きですが。
No.5です。arayata333さん ご返事ありがとうございました。 少し考えがまとまりましたので ここに述べて 吟味していただこうと思いました。 まづ 狐や鰐の神さんではないでしょうから 聖書の神として受け取っての話となります。 神は 表象し得ぬものと言わなければならないと思いますが 《神を見る》という表現が用いられた場合 これを どう解釈するかになるはづです。 そもそも 《預言》――神の言葉を預かる――ということは アブラハムからイエスの時の洗礼者ヨハネまで 行なわれていました。王を諌めたり 助言したり・・・。この預言なら 神を表象してもいいのかという問いが成り立ちます。 《父祖の地を去って行け》という声を聞いて アブラハム(当時はアブラム)は どこへとも聞かされずに いわば預言に従って 旅立ちました。つまり 声なら 表象してもいいのかという問題があります。 もはや端折りますが すべては 表現の問題であって さらにその解釈の問題であるということだとは考えます。言いかえると 《行け》という象に表わされることが 声をとおしてという解釈において 神とつなげられた。人間の事実として起こったことは こうだと考えられます。 それでは 《神は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語った》 (出エジプト記 33:11) とあるのは なぜか。どういうことか。そのあとには また 別様にと思われるほどに 次のように語ったともある。 《あなたは私の顔を見て 生きることは出来ないであろう。なぜなら 人間は誰も私の顔を見て 生きることはないからである》。 《私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。 私の顔はあなたに現われないであろう》。 (出エジプト記33:20-23) いま思うことは こうです。 イエスのあとには この神は ユダヤという一民族の物語であることを超えてしまった。それまでのあいだ 預言が行なわれた。その中で モーセの場合は エジプトの奴隷状態から同胞を解放し その国をも脱出するために その指導者としてのモーセに 預言のほかにも 《かれは神を見た》という言い伝えが生まれた。こういう挿話であるのではないか。 言いかえると 《人は神を見て生きることはない。ただその背面を見る》のほうが 基本的な命題であったと。 ただし イエスのあとには 少し 情況が変わったのかも知れません。まづ 預言が要らなくなったわけです。ちなみに これは 《お告げ》のようなものですが お告げが 一定の民族全体を動かすまでになった例は あまりないと思われます。言いかえると その後 特定の民族性を超えて 普遍性を持つかたちで 《お告げ》を揚棄してしまい そういうかたちでの神の物語になったことは ありません。 (イスラームが その後 《預言》をつうじて 起こりましたが これはいま 保留します。中身が どうなっているのか よく分かりません)。 そうして 預言が廃れるとともに たとえば 《心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 / 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる》という言葉とともに 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 (以上 マタイ福音 5:3-8) という新しい見方が 言葉にして表わされました。たぶん 個人個人において またその人の情況に応じて 《神を見た》という或る種の仕方で《事件》は 起こりうるのだと考えます。言いかえると この体験が 逆にモーセの場合とは異なって 直接に 民族全体を動かすような意義を持つことはなくなったのではないかというふうにです。 そしてこのことは 預言が要らなくなったこととつながっているのかも知れません。神による歴史への直接の介入は――もともと ないという人びとも 当然いるわけですが あったという場合にも―― もうなくなったと解される情況なのだと思われます。アウシュヴィッツにしろ ヒロシマ・ナガサキにしろ もはや 神との関係で歴史を解釈するのは 少数派だと考えます。 そして しかも そのようであると同時に 問題は たとえば 挙げておられるように ★ 「なぜこの世にこれほどまでの苦しみがあるのですか?」ということです。 ☆ なのだと考えます。 なかなか わたしには 難問です。前回に 《有神論と無神論との――いづれも 互いに信仰形態の異種として――同等・対等である》ことは 触れました。《けんかは 止めよう》の問題です。 《苦しみ》の問題は むつかしいです。わたしに言えることは こうです。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔* 似ても似つかない姿ではありながらも この世界としての 歴史としての〕似像(にすがた)をとおして 〔* 人によっては〕 予感することによってではあるが 神を見得るのである。まだ〔* 生身の体では〕 《顔と顔を合わせて》 神を見ることは出来ないからである。・・・ 使徒(パウロ)は このことを次のような言葉で意味表示している。 私たちは 顔蔽いなくして 主の栄光を鏡に映すようにして見 つつ 栄光から栄光へ 主と同じ似像において いわば主の霊に よって変えられるのである。(コリント後書3:18) (アウグスティヌス:三位一体論 中沢宣夫訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《苦しみ》に関しては 熟さないかたちですが いまこう思います。 (1) 《現在》というときが 大事である。 (2) その現在が 過程であり動態である。 (3) その現在において 日から日へ 《神の似像において いわば神の霊によって わたしたちが 一人ひとり 変えられる》。 (4) 人間の精神の三つの行為能力として 《記憶‐知解‐意志》が 神の似像であること。それと対応するかのように 社会は 《秩序‐生産‐共同自治》として あるいは 《司法‐立法‐行政》の分業=協業として 成り立っている。 (5) これを 自分たちのものにすること。 (6) とりわけ 《意志行為》が 重要である。最も広義の《愛》である。たとえれば《重力》が 意志の重さである。意思表示の重みを 人は 知らねばならない。重力にかんして 科学による解明がすすめられる。 (7) この意志による行為についても 個人のそれから 社会全般・世界全体にわたる意志相互の作用の関係 またその構造的な過程 これに到るまでが 解明されるならば わたしたちの犯す間違いや過ちについては 互いによく理解し合えて その種の苦しみは やわらがしめられていく。 (8) この現在において 日から日へ 《神の似像において わたしたちは 一人ひとり 変えられる》=(3)。ここに 《いわば神の霊によって》とつけ加えるのは キリスト者のくせです。いづれの場合にも 自助努力は 大前提です。 不一にて 失礼します。 * 《日から日へ 変えられる》というとき 《栄光から栄光へ》とも パウロの文章には あります。 これは いわば《怒りの子ら・滅びの子ら》の築いたこの世の秩序と繁栄も 《栄光》と見るのだと解釈します。《旧い栄光から新しい栄光へ 変えられる》です。変わろうとする努力は 人間のものですが つまり種を植え 水をやるのは われわれの努力によりますが 木に成長を与えるのは われわれの力だけではないとの考えによって 《変えられる》という受け身の表現になっていると思います。謝謝。
お礼
すみません。 ANO13の方への補足文にて その理由をかきましたが、この質問はここにて一端閉じさせていただきます。 「表象」というと、 近代俳優術の中に重要な概念として登場します。 神を演じることは誰にも出来ませんね。この論議自体はさらぬ深めてゆける対象であると思います。 でも、どうか つづきは別の場にしてゆかせてください。 よろしくおねがいいたします。 熱く、すばらしいご回答ありがとうございました。
補足
ちょっと寝込んでいたりしたもので、体力的にも この忙しい身にて 返事(コメントなど)とかが遅くなっています。 ご了承ください。 神話については、新約聖書とは中身の深さとかが違いすぎるので旧約聖書にしても 当時の知恵者が想像力を働かせて昔の時代に合わせて作った他の神話と同じように物語のようなものとだけ思っていました。 民族や世の中の秩序を守るための 神という概念を使った創作で、その「ひろい常識」をよりいっそう権威化しようとしただけだ。というふうにです。 でも、どうやら そうとのみ言えてしまうようなものでも無いのですね。 常識にも それを“おおぜいの人がおいしい魚を獲るために、いっしょに握っている網”に例えて考えるならば、実際には おいしい魚以上にその綱は重みのあるところでもあるわけで、ほんとうに大切な時と場とかがある意識存在であるわけですが、そこにさらに、だからこそわかりやすい権威化を必要としたという感じの 昔の狭い知識の中でのそれなりの道徳観とかに対して、 キリストの場合は ともかく想像力を働かせて語ったなどという時限を越えているわけです。 このこと自体については、ここでは詳しくは略して話しを進めますが、 いずれにしても、聖書にしても キリスト以前は物語と思っていたということなのです。 しかし、bragelone様の書いてくださった出エジプト記の「顔を見て生きることは人間にはありえない」「背面しかみえない」という例えが 民族の英雄が神を「見た」より重視された書き方となっている という説明を読んで、 当時の人もほんとうは 神についての厳密な哲学(思索)もしていたのだな、と思えてきました。 キリストのようにはっきりとは解っていなくても やっぱり 深くは考えていたのですね。 そこで、この補足で お聞きしたくなったのは、「表象」についてです。 私も神は表象しえない、とはっきり頭では知ってると思ってる者の一人です。 私のその体験時に「見た」と表現した神は、 それが「ぷちてんかん」によるものであろうとなかろうと、 五感以外の感覚でキャッチした何かです。 表象しえないものの 臨在(あまねく存在してるような、ともかく存在してるという感じのみ)を感じた体験であることは確かなのです。 でも、 ここが もしかしたら、今までの哲学者(哲学史という史料で探れる人間の思索の歴史)と違うところなのかもしれないのですが、 それが事実神との出会いだったとしても、 そんな体験自体は、神がすでに私たちに与えられている五感の深さ、あるいはその中の深い世界の無限の深み(気がつかないでいたらいつまでも ただの「五感」)のすばらしさや 其の価値の可能性の世界から考えたら、 意味すらないに等しい。 私たちの神との あるべき真実の出会い方は、あくまで与えられた感性と知性の世界から確実に知解することだと、私は思っているのです。 「神は表象しえない。」ということをここに問題としたいのは そのためです。 新約聖書の 「心の清い人は幸いである、其の人達は神を見る」というキリストの言葉は やはり「見る」という例えを(キリストはすべて例えを使って話してると私は思っています。ですのでこの「見る」は例外的使いかたです。)使っていますが、 あくまで、 感性の深いいつも新鮮な心でいられるようにまでなった人は、その知性が神を確実に捕らえるという“意味合い”のものであるはずです。 (この解釈はキリストの言葉の全体を哲学すれば明らかなことです。) イスラムのマホメッドにおける神のお告げも たぶん例え話(裏に深い真実がある)と思っていますが これはまったく知らないので略します。 また bragelone様、「苦しみ」とう点についても書いてくださってありがとうございます。 でも それこそ私の最も大きな関心事ですが だからこそ、いっぺんには 書いてくださったことにもコメントしきれません。 そのへんは、機会があれば また徐々にということにして、まず、 おひげの優しいおじいさんの姿とか 3大テノールよりもすばらしい声とかが聞こえてきたとかとかなら 「すべて表象しえる」ので、 それは実在の神とは一切関係ない 幻想である という点について、もうすこし、厳密に論議したくなったのですが、 宜しくお願い致します。
- michael-m
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神かどうかは判りませんが、貴重な体験には意義があると思います。でも、もう少し考えていった方がいいと思うのですが、逆にさらっと流してしまっても構わない事でもあります。なぜなら、それが直接人生に有意義に働くかは貴方次第ですから。用がないと思えば無用のものになってしまいます。 で、気になる部分だけ少し書きます。 まず、なぜ、苦があるのかという点ですが、苦を知らない人には楽を実感する事も出来ません。苦は楽との相対的なものではなく、単なる感覚の一つです。それが楽であるか苦であるかは極めて主観的な判断でしかありません。だから、苦や楽という感覚には大きな個人差があるのです。 次に、神が人を助けないという考えは基本的に肯定です。私もその結論を持っています。 願いを叶えてくれるから存在するとか、救ってくれないから信じないという判断は、神が人間の僕だという事を意味します。人間より下の召使であるならば、それは神ではありません。 喩えて言うなら、太陽は人に楽も苦も与えてはくれません。太陽は存在し、燃えているだけです。そして砂漠に住む民でも太陽に感謝でき、肥沃な土地に住む人でも旱に遭えば、太陽を恨みます。
お礼
わたしは、 中国北方の薬草のとれない大地にて、おそらくただ無心に病気の友の体をさすっているうちに、時には一緒に泣いてさすってるうちに発見していったのだろう医学の触診の知恵の世界について それが医学だけの世界を超えた心の世界にとっても大事なことに気がついたことのある者です。 そのへんの 医学の心のふるさとは、結局誰にとっても 巨大な心のふるさとと思います。 そのへんのところを、michael-m様と、もう少し発展的に哲学していきたいなと思っていました。 しかしANO13の方への補足文にて書いたのですが、 ここは一度閉じるべきと思いました。 私の質問自体に問題ありと気がついたからです。 ご了承ください。 機会があれば、また別な質問や回答の中で そのへんを発展させていけたらなと思います。 すこし以前、中国南方で 罪も無い素朴な人達が おおきな苦しみの中に巻き込まれました。 日本にも身近にも苦しんでいる人がいます。 なんとかしたくても 何もできないでいる自分がいます。 そして今も そしてこれからどうなってしまうのかわからないそういう人が 同じ大地を今 今 たった今生きています。 医学が 経済が なんとか なんとか発展して欲しいし、そして哲学がもっともっとおおくの和を実現できないのか? なんとか なんんとかできないのか、 それだけなんです。 ながながと書いてごめんなさい。 ありがとうございました。
補足
私も いまだに、神かどうかの判断は 保留しています。 幻覚でない可能性もあるということです。 しかし、であって、自分で意味やその価値なんて浅いと捕らえる理由は、ほんとうは深いです。 自分で言ってますが(^^)深いです。 私は若いから神についてはまるでキリスト教の神学者みたいな考えを持っていました。(原罪についての考えかたとかは違いますが) まず、若い頃からはっきりしていたのは、 神という存在は1、因果をすべて知っている知性。 2、偏在している存在。 とすると、神はすべてを許す とか言いますが、 因果をすべて知ってるのですから自由意志を考慮に入れても 許すもなにも 最初から神自身にとっては罪など存在しないということになります。 神の知性にとってはです。 そこがまず人間の狭い知性の世界とは違います。(そのはずだということです。) しかも神は、母性愛のような公平な愛そのものです。(この説明は 紙数の都合で略しますが) であるのに、なんで苦しんでいる人を 神は救ってくれていないのか? (そうそう、信じる人だけを救うなんていうのは、それこそ人間の作り話であるわけです。 それでは人間よりも程度が低いことになりますからね。そんなのありえないわけです。) それが私の中で いつまでも疑問だったわけなのです。 さて michael-mさんは なんとも大事なポイントを指摘してくださいました。 苦の個人差の問題です。 しかし、それはまず程度の問題です。 私はたまたま 麻酔無しに鼻の骨を削り取る手術をしたことがあるのですが、その時になって知らされたのが原因だったのか「なにくそ」という意地が出てきたため、なんと最後まで声もださないで我慢してしまいました。 すると それから10年ほどの間は こんなことがあったのです。 歯医者さんで歯を抜くときに なんとそれを思い出すとまったく痛く無いというとても便利な(^^)事がです。 十年以後は 残念ながらその神通力は消えていってしまいましたが(^^)。 この程度の痛みの程度と時間とかには その人の体験や経験による忍耐力とかによって さまざまに差があると思います。(戦争などの極限状態にはよく聞く話です。) でも深い痛み、深い苦痛の世界は、 ? という疑問は私の奥深く死の床での記憶とともに存在しています。 が、苦には 時間的にもですが、底があることも知っています。 その逆に、 人間の文化(ほかに簡単な言葉が思いつかないのでこの言葉を使っておきますが)や幸せの可能性には 天井あるいは頂上が無いことをさまざまな地点に垣間見てきています。 だからといって、苦がこの世にあっていいということはありえないのですが。 そこから私は 神は、人間を助けたりする存在ではないという結論にたっしているのです。(神の公平性の考えをここに掛け合わせてみてください。 そうすると そうなります。)( 誤解されそうですので付け加えますが、ミゼレーレと誰よりも いや宇宙大に叫んでおれれるかたご自身がそのお方であるはずだという考えもその裏にあるのです。) 最初の質問では そこまで書くと とても書ききれないので そのへんの理解をかなりはしょって質問することになってしまったところなのです。 ともかく この存在の中で唯一前に進むことの出来る人間が前に進むしかない。 ともかく、苦しみを助けることが出来るのは人間だけだ。 ともかく、文化や幸せを高めるためにも 助け合ったり前に、前に前に 前進してゆけるのは、この存在の中で 人間だけだ。 この質問は この前提があっての質問だったわけです。 その上で、他の人は、こんな珍しい体験をどう捕らえるだろうか?という質問でもあったのです。(和のためにこそ、いろいろな考えとか立場とかを知りたいのです。) 神を信じる信じない、いると思ういないと思う、いると感じるいないと感じる、 なんてことで「けんか」なんかしてないで、そんなことより 医学の進歩のために、 また、文化の進歩のために、 もっとみんなで手をとりあって前進してゆこうよという 私の考えは 隠していないわけです。 神にとっても 神を察知す能力より 人の苦しみを察知する能力のほうがはるかに意味深く、そして価値が深い。 「苦」についてだけ なぜか 書いてくださった michael-mさんに、「医学の哲学」について、お考えをお聞きしたくなり、詳しい補足を付け加えさせていただきました。 私は聴診器がなつかしい世代の人間です。肌での触診と仁の哲学、このへんの必要をどう思われますか?
A7、primeapeことポケモンのオコリザルです。 心の中はどのようにか抽象化しないと語れないから霊媒師になぞらえて表現しました。 タイプミスもあったので念のため繰り返しますが「この世」とは「あの世」とつながった世界で、現実と二重写しになった幻です。 これが苦しみのある世界。 arayata333さんはその世界の葛藤に立ち会ったのですがお礼の文章を見る限りこれ以上余計なアドバイスをしなくても自らの人生経験だけで立ち回れるでしょう。 苦悶のようなものを吐露していただければ有効な薬効を届けるつもりで居ましたが大丈夫そうです。
お礼
実は 補足文を すでに書いているのですが、 「補足を投稿する」というところを押していませんでした。 私はネット音痴、機械音痴の人間ですので、 会社でのPCが 実は最近使いづらくなってしまうこととなり、 たとえばこのOKウェブはいちいちヤフーから検索して開きなおしてますし、 一度補足を投稿したら もう一度最初からやり直すしかなくなってるのを どうすることも出来ないでいるのです。 で、「補足を投稿する」というところを押さないまま消してしまったことに気がつかないままでした。 内容は そちらの集中力のプロ性(結果を出す実力と、それへの責任性)への感動ですが、 実は この私の質問は、ANO13の方への補足コメントにて書きましたが、間違いが大きいために急いで閉じておくことにしました。 この質問とご回答の流れの中で あまりコメントとかしたくなくなりました。 それで、その補足は もう一度書く気持ちは無くなってしまったのです。 たぶん、これでちょうど良かったのかもしれません。 ともかく、気づきという点では、いちばん心に残る何か あったかいものを私に改めて気がつかせてくださったprimeape様に、 再度感謝します。 気づいた内容は、ちょうど、口では言えません。 簡単に表現なんかできない気づきです。 ですので、ちょうど、これにて失礼させていただきます。 ありがとうございました。
- tiltilmitil
- ベストアンサー率22% (1871/8250)
座禅を組んだりして瞑想してると、そのうち「仏様の姿を見た」という体験をする人は多いようです。そういう人に先輩の僧侶が与える言葉はこんなものだとか。 「よかったね。そのまま続けていれば、そのうち見えなくなるから」
お礼
そのうち、見えなくなる幻想の向こうにやがて見えてくるのは 「本当の幸せ」の青い鳥でしょうか。 チルチルミチル様(^^)。 これは、良い逸話ですね。 すてきなご回答ありがとうございました。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
さしたる意味はないように思います。 数十回とはいえ数秒間で、しかも何のお告げもないようですし。 小石につまずいて、転んで作ったかすり傷を大事に撫でさすっている、くらいに受け止めておきましょう。 あなたはまだ迷っています。 次のような受け止め方をしてみてはどうでしょうか。 神は精神世界の産物。そして人の心も精神。 悪魔、仏教的には煩悩。これも精神世界のことがら。 この世は神が作った、と考えるからいろいろと矛盾が沸き起こってくるのです。 人間は精神世界に、神(全体)の存在も悪魔(個)の存在も想定してきました。 そして人の心にも好ましい心(優しさとかの良心)があれば、好ましくない心(煩悩など)があります。 このように見れば人の心も宇宙の精神も同質、同じであると気づきます。 神がこの世界を作ったのではなく、この世界に神がいれば悪魔もいると考えるのです。 だから、この宇宙の精神の一部が我々の肉体に宿っているのだと受け止め、人の好ましい心、良心は神の心と同質であると思いましょう。 そうして、外に神を求めるのでなく、自身の良心を神の分身と見て、信じるようにすれば迷いはなくなってくるように思います。
お礼
yy8yy8az様、あなたも、ANO・7の方びような、なんらかの臨床精神科医のような方なのですか? 書いておられることが、私の文面に正確に当たってると思います。 ANO7様は、ちょっと変わっていますが (いい意味で変わっているということです。 変わっているというと、心理学者までが気がすこしはおかしいとか疑ったりしますが、変わったことを追行されつつ正常であること、それ以上に健康であることは、なおなおなおなお健康だということを意味すると考えています。) そちらも同質の方とお見受けしました。 お礼のみとさせていただきますが、 表現の仕方こそANO・7様とは違っていても 認識は同じ地点の方だと思いますので、 補足はそこに書きました文と同一内容のものとなるからです。 よろしければ是非読まれてみてください。 また いつでも何か書きたい時には、ご教示お願い致します。 知的にも、私もこの世は神が創ったというのはおかしいと思っています。 無から有を生むとい哲学的意味からはです。 最初から何かの物質も 在ったと考えるのが普通ですし、健康だと思いますし、だからと言って 無意味な物質だけの世界に突然意味が出てきたというのもおかしいですから、神も最初から存在してたに決まっています。 でもそこまで考えることが出来るという知性を、感謝こそすれ、神の知性とすこしでも同一となったという考えが起これば、 内側の良心は消えて、神を知るすべを失ってしまうと思います。 私は 実は阿頼耶識の7識と8識とは、方便のようなものと考えていますけど、9識の仏界を語る方便であるとするならなんら阿頼耶識自体に批判を持ってはいません。 仏教も いつも人間の根本的な謙虚さを諭し続けてくれている存在と思っています。 その良心の声に従っていればいいのですよね。 そちらのような文に触れると心が落ち着きます。 ありがとうございました。
私は頭を真っ白にして何も考えない状態になれる特技があります。 文字通り外界殻の刺激を遮断して何も考えない場合や極端な集中力を発揮して考えていることすら忘れる感覚も含みます。日常的に特技として自分の精神状態をコントロールします。 ちなみに質問者様のような瞬間は神秘体験といって、神に触れる、永遠を体感する、宇宙と一体になる、などの表現で語られることが多いです。 私の場合そのような感動は伴いません。 その代わり一切のご褒美はありませんが、あたかも神の意思によって働くかのような誰もが嫌がる精神上の他者への奉仕をしています。 現実で判り易いたとえなら悪霊や悪魔の類と戦う霊媒指的仕事です。 実戦の体験に基づいて今回のご質問に指摘できる箇所を取りとめもなく書いてみます。 >私の場合、上記の感性と理性と良心との融合のようなものからの神の存在の発見のようなものが脳の中に いつしか定着してはいますが、 日常的にこのようししている自覚がお有りなら煩悩や迷いのない状態、またはそれらと和解した状態です。自らの生涯(運命になぞらえると混乱すると思います)に対して合意が働いていると思います。 >そのこととは別に、実際に神の臨在をあまりにも深く感じたことが、十数回ほどあります。 神秘体験です。同じ体験をした人の手記は探せば出てきます。私の場合これとは違います。 >神を物語的には考えることは卒業 これはいいことです。物語を作ることだけでなく対話すらも拒む私です。神性または仏性は生きるもの全てが予め内包してこの世に性を受けます。誰もがずっと神のそばに居ます。人間だけが持つ神様争奪戦に私は加わりません。あくまでも生命全てにいえることです。 >現代の科学ではたぶん網膜に映るレンズの光と神経の作用ということしか解っていないのではないかと思うのですが もっと詳しく研究されていますよ。科学とは神の存在を証明するためにあるんです。これは日本人には思い当たるフシのないことですが、 >でも そのうちに、その瞬間にある疑問を聞いてみようという考えが起こってきてからは、その時が完全に思考停止状態となることが気になりだしました。 内包又は感化しうる煩悩の反逆の狼煙です。この悪魔をどうにかするのが私の仕事です。 >あることとは「なぜこの世にこれほどまでの苦しみがあるのですか?」ということです。 これは自分の考えではありません。現実をこの世と表現するのはあの世と一体にした感覚で、「死」「苦」などのある世界です。現実は本物ですが、あの世とはそれと二重写しになった幻です。 >でも、やがて、神は「いっさい人間を助けたりはしない」ということがようりはっきり私の理性の中に訪れた時、 神が絶対だとかいう論理も消えた時、おそらく神から自立したとき、 恐怖は消えていました。 悪霊の敗北を見取っただけです。この記憶は正しく理解して決別してください。本物の神は生命全てにとって面倒見のいいお母さんです。人間を助けないは、この世に住む住人が我こそは神を知る人間そのものと驕っているからです。悪霊にそそのかされたでまかせです。論理そのものを一から構築しなおしてください。そうでないと悪魔との取引と同じです。代償が魂なのか今生の人生なのかは私には計りませんが、危険すぎます。 >みなさんは、この体験に どんな意味(意義でもいいです。)があると思いますか? 人生を支える勝てとするには遅すぎる自覚であり、一つ前のコメントのようにむしろ回り道をしています。神を語れば語るほど(偽者の)新興宗教の教祖様に納まるしかなくなります。はっきりと批判的見解を述べるなら、あなたは私の天敵の幽霊を集めてしまうんです。 以上で結論らしいものは何もないのですが、一般的に神を探求したものならあなたの立ち会ったのは神そのものではなく天使と悪魔の戦場であると諭すでしょう。私はこの面では無学なのでもっと納得し易いお話は出来ません。 補足要求やお礼があれば前向きに思うところをご指摘させていただきます。
補足
「霊媒師的仕事」?というのは私にはほとんど未知の世界ですが、 失礼な言い方となってしまうかもしれませんが、 私が感じたのは 直観力とか霊能力とかいう世界ではなくて、何故かきちっとした科学的な分析です? 文章は記号ですから、哲学カテでの質問は、時として自分の人格そのものをあらわしていないときもあると思っています。 おおぜいの人にわかりやすくというあがきから へんな体験のことも、真剣に書いてしまうときもあるのです。 私がこの質問の場に書いたところの体験は 神秘体験とかの荘厳で真に感動的な体験ではなくあくまでただ単に あまりにも強烈な驚愕してしまうだけの「神がそこにいる」とうだけの圧倒的な感覚にすぎません。 川原に長い間ねそべって、小川のせせらぎの音をせめて静かに聴く体験のほうが、はるかにそちらの言われる神秘体験に近いことだと思われます。 しかし、この体験手記の文章には、かなり正確に名医のような臨床感覚が反映されていると感じたのです。 そちらは、例えとして悪霊とか悪魔とか使っておられるようですが、ことごとくその例えは現実の 私の書いた文章の事例と豊かに重なっていると思います。 霊媒なんて(これは苦しいとき偽者の霊媒師にだまされた経験からも疑いきってましたが)馬鹿にしてましたが、 そこらへん臨床心理学者よりおそらく、はるかに奥が深いものなのかもしれません。 人間が ほんの少しでも、神のように隣の人の心さへ知ることなんてできないほんとうに小さな存在であることを知り、神とはそのへん別質の知性であることを知性が発見し、謙虚になるとき、たしかに回り中のすべてが、お母さんでもありますよね。 木々の緑も 空も雲も 雨も そして苦しみの因果に対してすらそこに何かの助けが見える感じのものとなりますよね。 潜在意識の理論が、個の成功を神の道としてしまって、その神に私たちが近づけるとしてるところに、疑問を持ち、そんなふうには神は私たちを絶対助けたりはしないということを、私は暗に語りたかったのです。 なるほど、>神を語れ語るほど(偽者の)新興宗教の→(自己実現とかなんとかかんとかセミナーとかの)教祖様に納まるしかなくな るのですね。 すばらしい するどい表現ですね。 > はっきり批判的見解を述べるなら、あなたは私の天敵の幽霊を集めてしまうんです。 人間から見たら、神は絶対のようなものですが、 でも哲学で言うような「絶対」では無いことは、主張しておきます。 あくまで「面倒見のいいお母さん」と言う例えが当たっている存在です。 あまりにも奥は深い「お母さん」ですけどね。 うーむ。 こんな霊媒師の世界があったなんて知りませんでした。 私にとっても、そちらがそちらの特異能力で語ってくださったことも含めてあまりにも示唆に富んだご回答でした。 いや、これからもこれは私の今後の人生を励ましつづけ、反省点にも気がつかせてくれる貴重な文となりえていましょう >以上で結論らしいものは何もないのですが、 との文面には、もしかしたら本当の私のこともある程度解っていてすべてをはっきり書いてくださった面もあるのかとも思います。 「天使と悪魔の戦場であると諭すでしょう。」という例えも、ぴたっと的を射てますね。 ともかく「いや、おもしろい」です。 へんな言い方ですが、なんとも奥深いおもしろい世界があったのですね。 すっかり敬服もさせられました。 purimiape様、ありがとうございました。
- kigurumi
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>私のは たぶん錯覚(病気状態)でしょう。 病気・・・というより体質に近いんじゃないかと。 あくまで推測ですが、それ てんかん の一種じゃないか と。 てんかんと聞くと、口から泡吹くような 大てんかん を思い浮かべると思いますが、大てんかんの人より ぷちてんかん を起こす人の方が圧倒的に多いそうです。(脳神経系の医師 ラマ先生によると) 時には自覚があまり無い程度。 <脳の中の幽霊>って読んだことありますか? ↓ http://www.amazon.co.jp/%E8%84%B3%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AE%E5%B9%BD%E9%9C%8A-%E8%A7%92%E5%B7%9D21%E4%B8%96%E7%B4%80%E5%8F%A2%E6%9B%B8-V-S-%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3/dp/4047913200 この中の第9章。 そこに神を知覚する人がどういう感覚なのかが書かれています。 その人は、あなたがここで書いてい感覚と同じことを言っています。 一度読んでみてください。 他に http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%8B%E3%82%93 の<部分発作>のところも参考までに。 意識 はっきりしているでしょ? そう 部分だから。 で、私ごとですが、先日 このサイトに返答をしようと、再度 脳の中の幽霊を読み直して「あっ」と思いました。 質問者に「あんたのおかげや ありがとー」と書きたくなった。 私 長年 かなしばりが起こっていたんです。 昼間も起こしますが主に寝る直前になる。 意識 はっきりしているが、とても痛い うるさい 怖い。 そして 気持ちいい。 どんどん痛みが増すが、増すのと反比例して、ふわふわと心地よくなる。 長らくこれって睡眠障害だと思っていたんですね。 だって眠いが覚醒している時になるから。 とにかく痛い。 電気ショックで心臓に刺激与えるあれありますでしょ? あんな感じ。 ビリビリ。 いつか心臓発作で死ぬ と思うくらい強烈。 でも がばってひっぺがすと どっこも痛くない。 幻の痛み。 人間の脳は微弱な電気が流れている。 で、これが一部で大きく発火すると、部分的に大量の電流が流れてしまう。 てんかん。 私の場合 じわじわじわじわ ってくるので、うわっ って驚かないので、放置していたんですね。 まあ かなしばりだと思っていたので、治療方法は現在無いので、病院に行ってもしゃーないと思っていたので、何もしなかった。 ストレスもあると思っていたし、疲れているときによく起こすし。 幻音も聞えるし・・・。 幻聴じゃないですよ 幻音。 耳の側で突然 ものすごい音が聞こえだす。 音楽も聞こえだす。 おもしろいですよ。 確かに聞えるというボタンが頭の中で押されている。 でも、私は現実の音じゃないと知っている。 でも 確かに聞える 耳のすぐ側で音は鳴っている という感覚。 ついにメロディーになったか と笑ったりして、この現象を楽しんでいます。 医者に言わせると、幻音なら大丈夫らしい。 話し声とか神の声が聞える となると 統合失調症の疑いが強いので、放置するわけにはいかないですけどね。 今、<ギミー ヘブン>というドラマを見終わったところ。 共感覚にまつわるドラマ。 共感覚も、一種の・・・ 他に人には理解してもらえない感覚のズレ。 脳の感覚の配線が微妙にズレているから起こる。 脳の中の幽霊を書いた人が影響を受けた人にサックスって人がいまして、この人が共感覚についても執筆している。 ↓ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 <火星の人類学者> とか <妻と帽子を間違えた男>とか面白いです。 患者にとっては、それが現実。 脳の障害をもっていない人からみたら 奇妙なことですが、本人にとっては、それが現実。 でも これって どれもすごく稀な現象。 神はいるという人全員が、この稀な脳障害?になっているのか? 信仰する人 全員が てんかん発作を起こしているのか? てんかん発作の時 神を知覚したと認知してしまう人もいるとすれば、神はいるってことになるのか? どう思います? 彼らが認識してそうだと思えば、神はいることになります? てんかん発作を起こし 脳に異常発火が起こるときは、神が降臨しているときだと思います? 彼らがまともで、認識できない人がおかしいと思います? オウムのヘッドギアみたいな帽子を被れば、外傷なく、神を降臨させることができます。 神と会いたい人は、その帽子をかぶればいいわけです。 脳に一部だけを損傷なく刺激できるそのグッズを使って、神を認知する。 そのグッズを使って「神に会った」としたとしましょう。 崇高な思いに囚われたとしましょう。 だから なんでしょう? 他に不都合が無ければ、てんかんをとめる薬を飲む必要は無いとは思います。 だけど、勘違いして、神に出会ったと自分を高い存在のものだと思ってしまい、他の人にもそういうレベルに到達するべきだと思い込んで、「神はいる。あなたたちも精進したら出会えるようになります」「トレーニングが足らないんです。うちにいらっしゃい 1週間50万で、修行してさしあげましょう」とか商売毛出す人もいるんじゃないか と。 オウムだと全財産と引き換えで被れたようですが・・・・。 とまあ、、、脳の異常発火から新ビジネスを生み出すってのも 1つの人生かもしれませんが、、、、 ギミー ヘブンの犯人は、人と違う感覚なので、大多数の人が見える現実と、自分の現実とに差があり、とても孤独だった。 で、やっと自分と同じ感覚の人間と出合った。 孤独が癒されたわけですが、、、、、。 おっとネタバレしちゃう。 私も変な体質で、これは他人と分かち合えないと思います。 でも、他人とこの感覚(いわゆる かなしばっちゃった時に感じる感覚)を共有したいとは思わないし、他人に薦めたくない。 こんなもん いらない。 でも体質だから しゃーない。 同じような感覚の人 いるかな?と回りに聞いたけど いない。 いたら「そうそう ビリビリしてすっげー痛いんだけど 気持ちいいんだよね」ってあの体験を共有して笑えるのに。 まあ しゃーないわ。 ってことで、このなんでしょ? へんな体質 自慢できないし、自分は特異だとも人に比べて優れているとも人とは違う 抜きん出た存在とも思わない。 ふつーーーの人。 それでいい。 と思っております。 あとですね、、、、 聖人とされたヒルデガルド。 彼女はたびたび神の降臨体験をしたとされています。 サックスさんに言わせると、「それ偏頭痛が起こるときに前触れの発作」。 いやー 神の降臨の正体が偏頭痛。 でもそれだとわからない時代では、神が降臨したってなって 聖人にまでたてまつられちゃった。 頭痛持ちの人が・・・・。
お礼
むむ、「ぷちてんかん」当たっていそうです(^^)。 昔の時代に、これを書かなくて 助かりました(^^)。 ぷちてんかんの人が… たてまつられちゃったら、 はずかしくてもう「Q&A」にも顔出せなくなってしまいそうですね(^^)。 ついにメロディーになった幻音(^^)。 そちらもぷちてんかんかもと、わたしのぷちてんかんのおかげでわかったらしいですね(^^)。 私のは 2年も3年も間をおいて、たった数秒、 全部あわせても30秒いくかどうかですから、医者に行く気はしませんし、それに50歳をすぎてからは一度も無いので治った?のでしょうから(今60歳) 医者うんぬんはどうでもいいですが、 症状はたぶん、これだったのですね(^^)。 愉快な正解ありがとうございました(^^)/。 お体は大切に … … …
arayata333さん こんばんは。長くなります。 基本的には(――という意味は いわゆる常識においてということですが――) 人が神を見ることはないと思っております。 わたしは 最近の質問で《QNo.4284002 :神はなぜ自分の存在を明らかにしないのか? http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4284002.html》に対して 次のような回答を寄せました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あたかも 指の先で そおっと 触れるかのように 知らせる。 知らせたか知らせなかったか 分からないくらいの仕方で あっ 声を聞かせてくれたか と錯覚するほどの経験は 起こるのではないでしょうか。(そのANo.4) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それは――同じく その回答の中で書いたことですが―― ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神がモーセに言った。《あなたは私の顔を見て 生きることは出来ないであろう。・・・私が私の手を除けたとき あなたは私の背面を見るであろう》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ に基づきます。ということは たとえば 次のような観想にもとづき その《神の背面を見る》ことが たしかに起こるかも知れないと考えられて来ます。長いですが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 真理とは何か と問い求めてはならない。というのは そのとき直ちに物体的な似像の雲霧と虚妄の雲が君を遮るからである。 それらは 私が 神は真理にましますと言った その最初の瞬間 君を照らした清澄の光を曇らしてしまう。 真理 と語られるとき 君がいわば電光によって捉えられるその最初の瞬間に 出来るなら留まれ。しかし君は留まり得ない。そして君は再びあの習慣的な地的な表象の中へ滑り落ちるであろう。 私はたづねる。君が再び滑り落ちるのは 情欲の黐(とりもち)や異郷への巡礼の誤謬によって感染された汚辱でないなら いかなる重さによるのであろうか。(アウグスティヌス:三位一体論 8・2・3) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち 神を見るには 心が清められなければならなかったのだと推し測りました。《心の清い人はさいわいだ。神を見る》というようにです。 《無神論と有神論との――いづれも信仰としての――同等・対等》については 《QNo.4305439 :「信じる」という行為について http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4305439.html》のANo.3に書きました。 互いにまた 同等の信仰であるということは とうぜんの如く 互いが異者であっても その《異者の受容》を必然の考えと行ないとにしていることを意味します。つまり ★ 「けんかは、もう止めよう。」 ☆ というメッセージの問題です。 長くなりますが 最後にわたし自身の体験を述べます。 それは 関係として つまり人と人との関係として その《あいだ》に あたかも《神を見た》という経験が 一回だけ あります。相手が 知らない人でしたが わたしと対峙したとき そして わたしが 能天気で何も考えていなかったとき そこに あたかも鏡としてのように その人は 自分の心の様子を見たのでしょう。その心の動きが わたしに伝わってきたのでした。《神を見たぞ》という感覚がです。 これは これだけです。大したことでもありません。そういう体験があったということだけが 問題です。それによって arayata333さんのご体験に 少しでも 迫ることができると思いますから。
お礼
>arayata333さんのご体験に少しでも迫れると思いますから なんてとんでもないです。 恥ずかしいことです。 それにも関わらず、 真剣なご回答をくださり、感激のいたりです。 ありがとうございました。
補足
bragelone様、ごめんなさい。 ここに書いた私の体験は、やはり今の私にしてやっと解ってきたという感じでもあるお恥ずかしい話なのですが、 たとえ、その実在感がいかに迫力のあるものであれ、なんともばかばかしい体験でしかありません。 それを、それと知りつつ書いたのは、ただ単に、存在の謎や神秘(不思議)について解りやすく考えられるような布石になったらなという考えからの志向性もあってのことです。 よりおおぜいの人にとっての、関心とかわかり易さとかがそこに追求されていなければ、へたすれば質問も空回りするだけ 価値もまた生まれません。 いつも、どうやったらわかりやすい表現が出来るかという哲学も必須哲学のうちとして考えているため、そのためのひとつのあがきのようなもので、ともかく体験はしたのですから、まずおおぜいの方がどのようにこれを考えるかを質問としたわけです。 おそらく この体験の馬鹿馬鹿しさは、QNO428802:神は何故自分の存在を明らかにしないのか? という質問のかなり端的は回答にもなりえる質問だったろうと思います。 聖書の中で「背面を見る」とか「顔と顔を突き合わせるように」とか使われてる例えが どういう状態の神の確知を意味するのか解りませんが、 たとえば 海辺をドライブしてるときに、あまりにも美しい夕日がそのドライブコースに長く長く差し続けたしたときとか、 あるいはふるさとの地に何十年ぶりかで訪れてみて、 あれ?ここは、たしかに妹と海に向かって駆け抜けた道だとか、 ここですべったりしてあそんだんだなといった子供の頃の新鮮な大地とのふれあいをおもいだしつつ、海の砂とかにどさっと寝そべったりしたときに、 流れ行く雲とか、それがやがて赤くそまりそして、一番星なんて始めて見るのかもとか気がついたり、とかとか あるいは あるいは、と大自然とのふれあいの感動的な場面を想像するだけでも、 そんなのが、死とともに消えてしまうと言うのが存在という私たち人間が感じる意味の世界なのか?と いうふうに始まってゆくだろう神の確知のほうが、まさに「そっと触れるかのように」ですが、よほど荘厳で美しく意味のある神との出会いの世界ですよね。 それこそ、その向こうに >人と人との関係として その≪あいだ≫に あたかも≪神を見た≫という経験 のほうが、よほど奥深く意味のある「神を見た」という体験であり経験になるものだと思います。 しかし、そのような神を見たという体験(異常さとか病気と何らかのかかわりも考えられないことも無い体験ではない しかもけしてばかばかしくなど無い体験)にしても、 それを「けんかの対象」にする必要は このへんに関しては哲学的にもまったく無いのではと私は 今思っています。 といういのは、たとえば たぶん解りにくさから誤解につながったのだろうそちらの最新の質問で消されてしまった「復活」についてですが、 それも同じく、 もし静寂で新鮮な命のなんらかをこの存在の中に見出せれば、今の命の時点でもそれは自然なこととして受け入れられるところ、一般には永遠とかは飽きてしまう命でしかないですし、その時が来ればどうせ信じたり、感じたりしなくても、説得なんてまったく必要なく、誰でもわかることであるわけですし、 なら、今大事なのは何かというと、質問者でありつつ、掲げたところのやはり「寛容」とか「和」とかに通じる「けんかは もう止めよう。」ということとなるかと思います。 協力しあってもっともっともっとすばらしい世界を築いてゆくことのほうが先です。 そうしたことの前に、神の知自体はそれだけでは、いかにばかばかしいことに過ぎないかということを、もし神のほうからこの体験をわたしに開いてくれたのだとしたら、そのことを教えてくれたことであり、 こちらが なんらかの脳力を開くことになったとい現象であっても、そこにのみ意味があったとしかいいようのない体験でしたね。 この質問こそ、人に聞くのはおかしかったかもしれません。 ただ、いろいろな人がどう考えるかを知りたかったことは事実です。 こんな質問につき合わせてしまったことをお詫びいたします。 これから、時間的にはまだ忙しくても、本格的に「Q&A」に打ち込める体制が自然に出来てきました。 長い目でみてください。 またおつきあいください。 よろしくお願い致します。
解明されてない事をあるとも無いとも断定できないですよね。 それを断定するのは賢明な意見ではないというより分けがまずなされなければならないと思われますね。そうして、断定的で否定的で攻撃的な意見は無視しなければ、喧嘩になっちゃいますよね。私も嫌です。「けんか云々」ってそんな意味なのかな? 簡単に質問者様の経験が何だと断定する事は出来ないと思いますよ。 視覚神経から伝達された光の情報は、一体何に映っているんでしょう? それはあくまで神経信号ですよねぇ?神経信号は電気的な波って事ですよねぇ?電気的な波がいつ心になるんでしょうねぇ?今の科学なんて分かった振りしても全然そこら辺が分からないんじゃないでしょうか? だから心の正体を何だという根拠なんて無いですし、心が魂ではないと否定する根拠も無いですし、ましてや神が無いかどうかなんて分かりませんよねぇ。 結局自分の前向きな時の感性を信じて生きるしかないですよねぇ。 今はもう、そこを問題にしてもらちは明かないと思うんですよ。 それよりも、神は自分を助けたりしないと分かった瞬間恐怖が消えたというくだりは興味深いものがありますね。神は絶対ではない。神からの自立ですか。 そうですね。恐れとか依存心は未熟な心の現われかも知れませんね。自分がいかにして向上するか、精神的自立を保っていられるか、それを願う方が大事ですし、結局自分の成長にも良い事になりますよね。 人間死ぬまでは生きるのだから、どうせならめいっぱい向上してから死にたいですね。向上自体が人生の喜びであり、向上した事が苦だという人は居ないでしょう。 「向上したって死んだら意味は無いのさ」 という人も居ますが、そんなの関係ないですよねぇ。人生が楽しいかどうかは、自分の好きな向上が出来るかどうかだと思いますよ。 神の存在云々よりもその認識を持つことが大事なんじゃないかと思うんです。
お礼
誠実なご回答ほんとにありがとうございました。
補足
オバマ氏は、妥協の技術とその弁論術が得意なのだそうですが、政治の世界では、全面的にはともかく部分的にはその技術は必須ともなってきますよね。 しかし、哲学の対話においては、あくまで全面的にも、喧嘩はできうる限りは避けつつも(争いの感情になるようなことは特に避けつつも)、妥協ではなくて少しでも共通の認識の場を求めつづけて それを拡大しさらに追及しつづけてついには徹底的な「和」に到達することを求めるのが必然だと私はですが思っています。 妥協の技術も その過程の一部として必要ならば 妥協しつつ取り入れることもあっていいのですが、目標は 最後はどんな相手の攻撃敵意見も無視はしないのがその本質だと思っています。 繰り返しますが、できるだけ争いはさけつつ、 です。 そのためならば、時には無視も必要でしょう。 >解明されていない事をあるとも無いとも断定できないですよね。 私も、そう思いますけれども、科学が多くを解明してきたのですから、解明されてないものは無いという感覚を多くの人が持っていることは その論議の中でわかってあげておく必要はあると思っています。 五感にしろ感性の根拠のあたりは、解明されてないところがたくさんあったり、これって人間に解明なんてできるのかな?と思えてしまうことろがあったりしますが、 でも、神経信号って電気的な波以外の細胞内の物質の動きとかにも影響されているようですし、それは扁逃帯とかいう快楽と関わる(したがって逆の苦痛とも関わる)感じたものが通過する部分とかがあって海馬とかいう記憶の領域を生き生きと活動させていたりする点とかが、おそらくこれから芸術の世界の本当の感受性の世界と 体の中の科学との関わりを明らかにしていくのでは、 という推理が私の中にはあったりしますが、 そうすると明るい心とか 力強い心とかいう抽象的な概念とかも、かなり体の科学の中でも 動きとして解明できるようになっていくと私は思ってもいます。 そして、その観点からなのですが、 そちらのご回答には、次の文が私の中で引っかかるのです。 真ん中の、すこし上のあたりの >心が魂ではないと否定する根拠も … というところの、 「魂」についてです。 私の場合は 主に「魂」という言葉を使う時には、2つの使い分けをしています。 1、 何かに全身全精神で打ち込む時に、心のすべてをそこに注ぎ込んでいる状態となりますが、 その集中された心の凝縮体のようなものを魂として、「魂をこめて」とか「全魂を傾けて」とかいったふうに使うのと 2、これが哲学的にむずかしい概念だとも思うのですが、自分だと感じることの出来る、あるいは「自分」を自分と認識できる記憶帯、 それを「魂」と呼ぶ形で 「魂は死後存在するのか、?」とかいうふうな使い方でそう呼んだりもすることがあります。 体の中の動きと 心(意識)は、たぶんとことん生きてる間は結びついているのではないかと私は思っています。 スピリチュアルな人の話ですと、死後はその意識が生物の体から開放されるという表現を使いますが、 そちらの文面からすると、 心はそのような死後も存在する意識という事としても推理されるところがあるのです。 解明されていないことは断定しないのは、私も同じですから、そういう魂が死後存在しないとは断定はしない者なのですが、この場合は わたしという意識あるいは生物は なんら確信の持てるような知識をどうやって学習できるのか? そのへんが 今のところは、皆目わかっていません。 ところが、そのスピリチュアルの学習者であるある方が私に教えてくれた死後の世界のある精神状態は、たしかに人間の成長の仕方のとても大事な点をしっかり捉えているものでしたし、 謙虚な気持ちにはなれるところがあるのです。 どうなのでしょう? そちらの魂についての考えは そのスピリット(永遠に消えない自己)ということなのでしょうか? そのへん 私と同じで確信は無いけれど、それも否定はできないという感じなのでしょうか? ただし、死後に「その精神状態」になるだけでは生きてるこの宇宙の世界内の意義や意味には通じないという考えは、崩れていません。 たぶん、そこもそちらの結論と同じです。 この生きてる間に個人的にも成長し、まわりも、文化も出来るだけ進化すべく一歩でも一ミリでも前進してゆくことが、 神が存在するかどうかよりも 明らかに神の望む事態だと思うという点においてです。 その一歩前進することにつながるならば、 何かそちらの考えはスピリチュアルな人たちとも違うような気もしますが、もし何か知っていましたらスピリチュアルな世界についてのnande11jiさんの考えも知りたいなと思って補足しました。 誠実なご回答ほんとにありがとうございました。
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お礼
ありがとうございました。
補足
この質問は 神をめぐる論議をわかりやすくして、では私たち人間にとってその論議の中の何が必要なのかをも解りやすくなるような答えが出てくると思い書いた体験の世界ですが、 質問自体が中途半端にしか書けませんでしたし(「見た」という表現は正確ではないわけですから。 例えでそうとしか簡単には言いようが無かったのですから。)、 おそらくかえって左脳の餌食のような質問となりかねないところでした。 神について考えるならば、現代人にとって、そちらのご回答のような考えがまず基本として必要ですね。 もし、一言で言うと「仏性」とは、感性の無限性の可能性を意味していると私は思っています。 どこまで進んでもなおより新鮮で奥深い感性の世界がひろがっているということへの謙虚さが 其の「仏性」への信仰ということになります。 神とはというと、これも一言で言えば、人間存在の意味の根拠となるような最初から存在した何か(物質だって最初から存在してなかったらおかしいですけど、意味という存在だって、「仏性」のような深みは 最初から存在してなかったらおかしいのですから)であり、 偏在知をもった存在(そういう知性であることは人間にも推理できる存在)ですから、 だから創造主として例えられもする存在。 というふうに思っています。 でも、それはそれを知らなければ人間が成長しないという存在ではなくて、肝心なことはキリスト教にしても仏教にしても、そのもともとからあくまで人間がもっと強くなることをこそ説いておられるわけです。 神のことは、成長していけば自然に考えられるようにもなっていく 後から考えればそれで充分な世界だったわけです。 この質問は かえって自我意識にのみ引っかかってしまう可能性の大きな質問だったと思います。 そちらのご回答の内容は 私たち文明人にとっては特に、そしてこれからの世界にとってももっとも大事な思考概念を語ってくれています。 ですので、だからこそ、再質問したい点が 実はたくさんあります。 でも、この質問自体は、一度 閉じるべきかと思いました。 質問したいことというのは、具体的にいうなら、 例えばこういうことです。 むかし、ある職場でまったく無表情の青年がいました。 完全なまでに何を話しかけてもまったく反応が出来ない人でした。 「おはよう」と言ってもニコッと目ざしを向けても ??、という人だったのです。 さて、その青年の心には確かに そちらの言われるように、ほんとうは誰よりも表情豊かでありたいとう強い気持ちが隠されていたとして、 まわりの人達は、もうそれどころの騒ぎではありません。 だれもこの青年がまともな知性を持ってるひとりであることさへ気がつきません。 すると、そこには集団催眠のようなことが起こってしまい、いよいよ其の青年の表情はさらに彫刻のかたまった仮面のようになってしまいます。 このように、現実には ではどうすればいいのかということをつぶさに「見つめてあげられる」ような指導者たちが必要ということになります。 たまたま私は 彼の知性がふつうであることを見抜くことができました。 それを信じることができました。 そして たったそれだけで 其の青年自身が変わってゆくのを見ることができました。 其のことの詳しいことは ここでは略しますが、 そちらのお考えは 私たち今を生きるすべての大きな価値ある気づきの最高の発火点になる考えかただと思います。 だからこそ、このように個々現実に対応したより豊かな臨床の結果を求めての、リーダー論等の話し合いがしたくなったのです。 その考えをより生かすための さまざまな観点、思索、改革案、組織、リーダー論、教育方法論、いくらでもあります。 すべてが真剣な論議へとさらに発展してゆくと思います。 ともあれ、最後にまとめますが、 「神を見る」ということ自体には、自分でいってしまいますが、やっぱり意味は無いということです。 それよりも このご回答で言えば 神とともにともかく生きる!ということのほうが大事だということです。 いや、神はともかく「よりよく生きる」ということのほうが!!! といことです。 私の補足文にて、再質問をして再びご回答をお願いした方は 何人かいますが、(特にburagelone様との議論の間には「表象」という課題が残っていますが、) それも、、別な場にて、其の続きとなるような論議をしていきたい旨ご了承お願いいたします。 よろしくおねがいいたします。 ほんとにへんな質問でしたが、 それにもかかわらず、みなさんからの真剣なご回答、 ここにて、再度お礼を言います。 みなさま、ありがとうございました。 tumaritou1様にも、感謝でいっぱいです。 ありがとうごさいました。