>飛びあがり宙にためらふ雀の子 羽たたきて見居りその揺るる枝を
>枝から飛び立ったのはよいが、まだ未熟なので、空中にあって、どうやって、この後、飛べばよいか、当惑し、躊躇している雀の子が、落ちないよう、ぎこちない様子で必死に羽ばたきながら、いま飛び立ったばかりで、まだ揺れている枝の方を、戻ろうか、どうしようかというように、思案ありげに見やっている。
ところで、この歌を、575・77音というような音数に分けて考えると:
>とびあがり ちうにためらふ すずめのこ はたたきてみをり そのゆるるえを
こうなって、575・87 となります。8音は、「羽たたきて見居り」の句の部分が字余りになります。「て」を外し、「羽たたき見居り」でもよいはずですが、「て」があいだに入っていることは、「て」があるのとないので、意味が少し違うからです。
「羽たたき見居り」だと、「羽ばたきながら見ている」という意味になります。この場合、「羽ばたいている」というのが、ごく自然な動作で、羽ばたくことに、鳥は何の困難も困惑も感じていないというか、日本語の表現上で、そのように読めます。
あいだに「て」を入れることで、「羽たたく」という動作と「見居り」という動作が、一旦、切られていることになります。「自由に羽ばたいて空を飛びつつ、見ている」というのとは違って、「羽ばたいている」動作と「見ている」動作のあいだに、なめらかな連続感がないのです。
いかにも「必死で羽ばたき」ながら、「枝を何か助けにならないかと、見ている」という情景の表現になっています。
「その揺るる枝を」の「その」は、現代日本語ではあまり使いませんが、うたの場合は、こいう風に、既知のものをそれと指定するのに使います。「その揺るる枝を」まで来て、もう一度、うたわれている情景全体の絵柄を思い起こして、意味を理解するという手法になっています。
「羽たたき」と「羽ばたき」の違いは、前者は、古語です。現代語ではあまり使いません。古語としては、「羽ばたき」と同じ意味ですが、「羽根をぱたぱた叩く」というような、鳥が飛ぶときの音の擬声語として出てきたものだと思います。
少し語源に違いがあるようですが、「はたはた」とか「はたたぎ」というような言葉が古語であります。「雷がはたはたと鳴った」とか、「はたはたと雹が降ってきた」などの場合に、「はたはた」を使います。これは明らかに擬声語なのです。
「羽ばたき」は、「羽たたき」から来ているのだと思いますが、「羽根をばたつかせる」というような所に、語源があるかも知れません。しかし、言葉としては、「羽ばたき」で、ばさばさと大きな鳥が飛ぶのか、ひらひらとツバメなどが優雅に飛ぶのか、いずれも「羽ばたき」で、鳥が羽を動かすことの普通の言葉になっています。
わざわざ古語の「羽たたき」を使うのは、「ばたばた」というほど大きな音ではないが、成鳥では、もっと優雅な洗練された「羽ばたき」の音であるのに、いかにもぎこちなく、「はたはた」と羽根を打って飛んでいるように見える・聞こえるという表現で、子雀の飛び方のぎこちなさを古語で表現したのだと思います。
お礼
専門的な回答、本当に感謝します。 ありがとうございました。