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幕末の会津藩
幕末の会津藩の行動をどう思いますか?朝敵?それとも??ご意見も頂ければうれしいです。
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会津の正当性は、天皇のご宸翰で証明された。 ということのようですが。 http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/katamorikou.htm それはなくとも、ご先祖の遺訓を守って、宗家に最後まで 忠義を残した武士の鑑という評価が妥当なところだと思います。
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- PENPENMAKKY
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会津はババを引いたとしか言い様がない そもそも朝敵とはなってないけど 会津・長岡・庄内で御家解体(復興禁止)になった家ってあるの? 萱野家だって後継者いるし、長岡の山本家は五十六が養子に入って復興してます 逆賊(朝敵)って扱いになったら御家が無くなるんです 御家復興もよほどの事が無い限り認めてはくれない 確か現在で朝敵となってるのは平将門家だけのはず ちなみにうちの母親の実家は明治初頭から昭和21年まで朝敵って扱いだった 奥羽越列藩同盟諸藩とは関係ありませんよ念のため 見廻組とか新選組と大きく関係していましたけど
お礼
ありがとうございます。確かに会津藩はそんな役回りでしたよね。
- eroero1919
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幕末の会津藩のことを考えるならば、世にほとんど知られていない藩祖保科正之を紐解かなければなりません。この人、間違いなく日本史上最高の名宰相です。 どのくらい名宰相なのかというと、そのエピソードには事欠きませんが、ひとつ挙げると歴史に残る大火、いわゆる振袖火事のときに「これは国家の危機であり、合戦と同じだ」と江戸城にある備蓄米を庶民に無償で解放しました。17世紀頃に、災害が発生したときに国家や政府が民衆を救う施しをするなんて皆無といってもいいほどです。このときの先例に従い、江戸では大火や地震などの災害が発生すると江戸城の備蓄米が解放されることになりました。 この保科正之が、「会津藩はどんなことがあっても徳川家に忠義を尽くすように」という教えを残したのです。そしてその教えは会津では脈々と、それこそ21世紀の現代でも引き継がれています。 なんでそんなに保科正之が尊敬を集めているのかというと、伊達政宗が黒川家から征服して、それを秀吉にボッシュートされて以降、保科正之までが来るまでの会津の大名というのは超がつくほどの武闘派で、税金は過酷な上に経済発展にはまるで興味がなく、武力には自信があるものだから「一揆でも起こしたら村民全員なで斬りにしてやる」というような人たちばっかりだったんですよ。それが保科正之がやってきて以降、税率は下がるわ、産業振興で国は豊かになるわ、福祉政策(なんと年金制度や無料医療制度がありました)も充実するわになったんですわ。そりゃ、300年経っても尊敬されるってもんでしょ。 んで、幕末の歴史を理解しますとね、薩長を始め討幕派のほうがもうムチャクチャですよ。薩摩なんか会津と一緒に長州藩と戦ったことがあったし(蛤御門の変)、攘夷だったと思ったら開国派になったり、もう思想に主体性がない・笑。長州藩なんか、藩主は同じ人なのに、討幕派と恭順派で政策がコロコロ変わるから何が何だか混乱するんですよ。 薩長のメチャクチャさを現すこんなエピソードがあります。錦の御旗を手に入れて戊辰戦争に突き進む薩長ですが、問題となったのがお金がないということです。江戸に軍隊を派遣したくても、そのお金がなかった。結局なんとか捻出したのですが、その中で資金源として提案されたのが「徳川家にお金を借りてみてはどうか」でした。どこの国の戦争に敵から金を借りるってのがあるかと思うのですが、まあそういうアホな話が真剣に出てきてしまうほどだったのですよ。 それに比べれば、佐幕派の大名たちの方がはるかに筋が通っています。ある千葉あたりの小藩の大名は「どいつもこいつも裏切りやがって。それでも武士か。俺は武士だ」といってなんと藩主自らが脱藩して有志を率いて薩長と戦ったほどです。 ちなみに面白いのは、これって武士の本分としては筋が通った話なので、薩長といえども武士は武士なのでそれを否定すると自己否定になってしまうんですね。で、その藩の領民たちが「私たちにはいい殿様だったので、なんとか許してやってください」と嘆願運動が起きて、結局そのお殿様は許されることとなりました。 会津藩においても、多分に明治政府によってスケープゴートにはされたのですが(他にスケープゴートにすべき存在がなかったというのもあるのですが)、藩主松平容保も殺されることはもちろん切腹もせず、嫡男は華族になってるんですから、じゃあ朝敵ってなんなのって思います(ちなみに容保は明治時代に官位を賜っています)。
お礼
僕も保科正之は好きで猪苗代の土津神社にもいきました。是非大河ドラマになって貰いたいと思っています。回答ありがとうございます。
- hekiyu
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山鹿素行が言っています。 百姓は米を作り、職人は鍬を作る。 商人はモノを動かして、世の役に 立っている。 それに比して、武士は何だ。 武士は何もしていないではないか。 武士の存在意義は、民百姓の模範と なるところにある。 信じる義の為に、平然と死ぬことができる。 こんなことは民百姓には出来ないことだ。 それをやってこそ武士である。 ということで賞賛に値すると思います。 慶喜や榎本武揚は武士ではありません。 ただの卑怯者、臆病者、裏切り者です。 朝敵云々は問題ありません。 勝てば官軍です。 あの錦旗だって大村益次郎が勝手に作成 したものに過ぎません。
お礼
僕も慶喜や榎本は卑怯者と思います。会津に行ったときつくずく会津藩の素晴らしいところ学んできました。ありがとうございます
- Nebu3
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はじめまして。NHK大河ドラマ『八重の桜』はごらんになりました? 僕はあのドラマで初めて会津藩の行動・歴史的位置の本質を学んだように 思いました。 それまでは単に幕府側の立場(佐幕)で明治政府側の薩長に徹底抗戦した 時代に乗り遅れた愚かな藩としか認識していませんでした(恥)。 貴兄がお尋ねの「朝敵」かどうかは意味がないように思います。それは どの勢力が天皇の周辺で勢力をもつかで立場が逆転したのですから。ただ、 天皇が会津藩主に「信任状」を渡していたことで天皇個人としては「朝敵」 と思っていなかったでしょう。 事の本質は次にあると思っています。 江戸幕府が幕を閉じることは幕府も討幕派も認識していました。でその後を どう構想するかで大きく2派ありました。 1つは天皇を頂点として全国の大名を議員とする合議体をつくり徳川家が、 その議長を務めるというもの。 もう一つは上記の動きを潰すために武力で佐幕派に戦いを挑み実権を握ろうと する薩摩・長州他。 幕府首脳は薩長の動きを抑えるために戦いを望まない。だから薩長は生け贄 として会津を主力とする奥州列藩同盟を攻撃した。会津は降伏の意を示したのに 生け贄にされた。 2つの動きのどちらが良かったかはわからない。欧米列強特に英仏は日本の 植民地化を狙っていた中で内紛はまずい。フランスは幕府側を応援しイギリスは 薩長側を応援した。かと言って徳川を議長とする大名会議でどこまで日本が近代化 できたか?(一般に思われているより幕府は近代化の有能な家臣を有していたけど) 先日、旧長州の山口県と旧会津の福島県が「仲直り」のセレモニーをした。 犠牲となった多くの人々には申し訳無いけれど、犠牲の上に歴史が進んだとも考える。 ただ、国は学校の歴史教科書に口をはさむのだから会津藩の悲惨な運命に少し触れても 良いのではと思う。
お礼
僕も会津に行ったとき素晴らしいと感じました。会津藩は朝敵にあらずですよね。
お礼
まったくそう思います。回答ありがとうございます