幕末の会津藩のことを考えるならば、世にほとんど知られていない藩祖保科正之を紐解かなければなりません。この人、間違いなく日本史上最高の名宰相です。
どのくらい名宰相なのかというと、そのエピソードには事欠きませんが、ひとつ挙げると歴史に残る大火、いわゆる振袖火事のときに「これは国家の危機であり、合戦と同じだ」と江戸城にある備蓄米を庶民に無償で解放しました。17世紀頃に、災害が発生したときに国家や政府が民衆を救う施しをするなんて皆無といってもいいほどです。このときの先例に従い、江戸では大火や地震などの災害が発生すると江戸城の備蓄米が解放されることになりました。
この保科正之が、「会津藩はどんなことがあっても徳川家に忠義を尽くすように」という教えを残したのです。そしてその教えは会津では脈々と、それこそ21世紀の現代でも引き継がれています。
なんでそんなに保科正之が尊敬を集めているのかというと、伊達政宗が黒川家から征服して、それを秀吉にボッシュートされて以降、保科正之までが来るまでの会津の大名というのは超がつくほどの武闘派で、税金は過酷な上に経済発展にはまるで興味がなく、武力には自信があるものだから「一揆でも起こしたら村民全員なで斬りにしてやる」というような人たちばっかりだったんですよ。それが保科正之がやってきて以降、税率は下がるわ、産業振興で国は豊かになるわ、福祉政策(なんと年金制度や無料医療制度がありました)も充実するわになったんですわ。そりゃ、300年経っても尊敬されるってもんでしょ。
んで、幕末の歴史を理解しますとね、薩長を始め討幕派のほうがもうムチャクチャですよ。薩摩なんか会津と一緒に長州藩と戦ったことがあったし(蛤御門の変)、攘夷だったと思ったら開国派になったり、もう思想に主体性がない・笑。長州藩なんか、藩主は同じ人なのに、討幕派と恭順派で政策がコロコロ変わるから何が何だか混乱するんですよ。
薩長のメチャクチャさを現すこんなエピソードがあります。錦の御旗を手に入れて戊辰戦争に突き進む薩長ですが、問題となったのがお金がないということです。江戸に軍隊を派遣したくても、そのお金がなかった。結局なんとか捻出したのですが、その中で資金源として提案されたのが「徳川家にお金を借りてみてはどうか」でした。どこの国の戦争に敵から金を借りるってのがあるかと思うのですが、まあそういうアホな話が真剣に出てきてしまうほどだったのですよ。
それに比べれば、佐幕派の大名たちの方がはるかに筋が通っています。ある千葉あたりの小藩の大名は「どいつもこいつも裏切りやがって。それでも武士か。俺は武士だ」といってなんと藩主自らが脱藩して有志を率いて薩長と戦ったほどです。
ちなみに面白いのは、これって武士の本分としては筋が通った話なので、薩長といえども武士は武士なのでそれを否定すると自己否定になってしまうんですね。で、その藩の領民たちが「私たちにはいい殿様だったので、なんとか許してやってください」と嘆願運動が起きて、結局そのお殿様は許されることとなりました。
会津藩においても、多分に明治政府によってスケープゴートにはされたのですが(他にスケープゴートにすべき存在がなかったというのもあるのですが)、藩主松平容保も殺されることはもちろん切腹もせず、嫡男は華族になってるんですから、じゃあ朝敵ってなんなのって思います(ちなみに容保は明治時代に官位を賜っています)。
お礼
まったくそう思います。回答ありがとうございます