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戊辰戦争と会津について
お世話になります。 私は福島出身ですが、小さい頃から父や祖母に、 「戊辰戦争」について聞かされていました。 会津では新幕府軍に攻め入られて、かなり酷い目にあった、と。その後も、あまりいい扱いは受けず、強姦、強盗、など理不尽な目にあったのだ、と。 それを聞いて幼い私は恐くなり、会津の地にあえて足を運ばなかった節があります。 そして、あまり歴史にも触れませんでしたが、最近、本当のところはどうなのだろう?と興味が湧いてきました。 <質問> ・会津は和平を訴えた(と聞きましたが)のに、なぜ新政府は攻めてきたのでしょうか?本当に理不尽な戦いだったのでしょうか? ・新撰組との関係について 新撰組も会津藩について闘ったと聞きますが、土方は結局、怪我のため会津では戦ってはいないのですよね?(曖昧です) 函館で亡くなり、遺体は見つかっていないと聞きますが、本当でしょうか? ・近藤勇の墓について 会津にありますが、これは本物??板橋は京都にも近藤の墓があった気がしますが、本当の首塚の場所はやはり謎? ごめんなさい・・歴史的背景も少ししかわからず質問しております。上記について、お答えいただけたら幸いです。
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◎『会津は和平を訴えた(と聞きましたが)のに、なぜ新政府は攻めてきたのでしょうか?本当に理不尽な戦いだったのでしょうか? 』 ●戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いに敗れ、会津藩主「松平容保」は十五代将軍「徳川慶喜」と江戸に戻り、松平容保は徳川慶喜に"徹底抗戦"を訴えますが、慶喜は新政府に従い「江戸城の無血開城」に繋がります。 ●新政府に徹底抗戦の態度を示した会津藩に対し、東北諸藩に対しても新政府は会津攻撃の命令を下していました。 ●しかしながら、東北諸藩は新政府に嘆願し「会津藩に対する寛大な処分を求めました」が、聞き入れられずより高圧的になっていく新政府に対し、仙台藩・米沢藩を中心として『会津藩の為とも云える』東北47諸藩によって【奥羽越列藩同盟】が組織されます。 ●後にこの奥羽越列藩同盟が、新撰組や土方の北進の経路にも繋がります。 ◎『土方は結局、怪我のため会津では戦ってはいないのですよね?』 ●宇都宮城の攻防で怪我をした土方歳三は会津・七日町「清水屋」で療養していたとの事です。 ●勿論、新撰組の再編には土方も携わったのですが、怪我の為この再編された「新撰組」の隊長は斉藤一でした。 その後、猪苗代(福良)に新撰組・会津藩が転戦した時には、土方歳三も復帰合流しています。 逸話としては、この時「白虎隊」の少年達に土方が言葉をかけたとの話しが残っています。 ◎『函館で亡くなり、遺体は見つかっていないと聞きますが、本当でしょうか?』 ●諸説が有りますが、小生は「馬上で銃弾に倒れ、奇しくも近藤と同じ享年35歳で逝った土方の遺体は、部下・安富才輔らが五稜郭へ搬送し、五稜郭内に葬った」との説を信じたいと思っています。 ◎『近藤勇の墓について会津にありますが、これは本物??板橋は京都にも近藤の墓があった気がしますが』 ●これも諸説がありますが・・・。 ●会津・東山の天寧寺に在る墓は、近藤勇の処刑を知った「松平容保」が建てた墓所です。 ●東京・板橋の墓は、明治9年5月「永倉新八(当時は改名し、杉村義衛)」が発起人となり建立したものです。 ●切腹も許されず、七言絶句の漢詩を最期まで付き添った・野村利三郎に託し、処刑・斬首されたのは、板橋の刑場で無く、近くの「馬の始末場(捨て場)」とされる説も有ります。 ●近藤勇の首は塩付けにして運ばれ、京都・三条河原に3日間(その後、大阪でも?)晒されて、その後は不明です。京都・粟田口の刑場に埋葬との説も有る。 ●逸話では、「京都から土方が奪い会津の墓に埋葬」「板橋に永倉が・・」等々有りますが・・・。 ●後世、土方歳三の義兄・佐藤彦五郎の長男・俊宣が京都を訪ね、新撰組ゆかりの人々(島田魁ら)に近藤勇の首について聞いて歩いたそうであるが、行方知れずとして終わったとの事です。 ◎真意は解りませんが、ご参考まで・・・・。
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- tosiki
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お返事ありがとうございます。 追記です。 幕府が大政奉還しても、江戸は幕府様様で実質民衆は何も変わらなかったのです。 そこでやむを得ず京を江戸に移し、幕府の影響を完全に消滅させねばなりませんでした。 更に、東北連合を放っておくと、日本の国が南北に分断する恐れが高かったのです。 更に、フランスの援助が極めて脅威でした。 職を失った武士が東北に移動して決起する可能性もあり、早急に手を打つ(徹底的に叩き潰す)必要がありました。 幕府をかくまい、話し合いで解決しようと要求しましたが、全く聞き入れてもらえなかったのはこういう理由です。
お礼
tosikiさま 再度お答えいただき恐縮です。ありがとうございます。 なるほど! 以前、五稜郭に行ったときに「フランス人」も写真(絵?)に写っていたので、「なぜ!?」と思っていたのですが、 フランスからの援助もあったわけですね。 幕末の世、仲間を裏切る裏切られるの表裏一体の世界で、 話合いで解決! は、確かに信じられませんよね。 徹底的に潰そうと企てたことも、時代の流れ上必然的だったのかもしれませんね。 新政府軍にしろ、幕府軍にしろ、日本の未来のために命を落とした人たちに対しては、悲しみとともに感謝の気持ちが溢れてきます。
- tosiki
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皆さんお詳しいようなので軽く。 明治に元号が変わっても幕府の軍艦や東北諸藩は幕府派でした。(東北連合) 肝心要の会津藩を叩き潰し、幕府派の切り崩しを狙ったのです。(避けられない戦争でした) 利害関係でフランスは幕府の援護をしていました。 土方ですが、函館戦争にて、五稜郭に逃げ込んだ者は切り殺すと門に陣を張っていたそうです。 敵銃弾のはるか後方で戦死なされています。 ある学者は無謀な作戦を立てる土方を味方が撃ち殺し、五稜郭に逃げ込み篭城戦に入ったと見ています。 おっと、最後まで忠義を貫き通した誠の武士でしたね。^^ 近藤さんの墓は全く知りません。^^;
お礼
回答ありがとうございます 函館戦争では味方が土方を・・。 確かに考えられますよね 新選組内でも分裂もあったようですし。 敵地に向かっている途中に亡くなった、 と言われていますが、 土方を打った人というのは、その後「オレが打った!」と報酬はもらえなかったのでしょうか?? 謎が多いですね・・。
- yahuna
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こんにちは。 会津藩の背景について少し補足します。 その前に、話しは戦国時代まで遡りますが、長州藩と徳川幕府の関係について。 周知の通り、長州藩は藩祖元就により、室町時代には名もない地侍の頭目から戦国の風雲に乗じて中国地方全般を治める戦国大名にのし上がりました。しかしながら、関ヶ原で西軍の頭に押し立てられ、東軍に破れたため領土は1/3にされてしまいました。 一説によると、以後長州藩は元旦には家老が藩主に「今年こそは江戸攻めしますか」と伺い、藩主が家老に「まだ早い」と応えることを続けたとか・・・臥薪嘗胆ですね。 一方、会津藩は徳川譜代中の譜代大名で、藩祖の家訓は徳川家に絶対服従を説き、当代の容保公は養子ながら忠実に守っていたそうです。 幕末の両藩の激突は、歴史の必然だったのかもしれませんし、敗軍にはそれなりの痛手をもらうことは仕方のないことかもしれません。 ただ、それでも(ここからは私見ですが)新政府の旧幕府側への報復については理不尽に過ぎると感じます。 まず降伏を許さない戦争の仕方はただの殺人ではないかと思います。また、後々まで根に持ち、例えば、福島県もそうでしょうが、現在の都道府県と県庁所在地の関係が、当時の幕軍側の藩都を避けたこと(地域の繁閑に関わらず:三重の桑名などは交通の要衝でもありますが、他にも米沢や長岡)をはじめ、インフラ整備の放置は全て陰湿な報復を感じます。 幕末から戊辰、西南戦争に新政府側の逸材が倒れ、3流の人材が為政者となり官位を独占したため、更に無謀な太平洋戦争へ突入したのでしょうか。だとしたら誠に残念な我が国の近代・現代と言わざるを得ません。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに、歴史的流れとして必然的な争いだったのかもしれませんね。 ペリーが来航し、開国する、しないからどんどん発展してゆく幕末は、調べれば調べるほどおもしろいですね。 確かに、新政府軍は「和平」目的よりも、血の気盛んだったようですね・・。 日本国内にも攻め入って、周辺外国、太平洋戦争・・。 「日本らしさって何?」といわれる現代につづくわけですね。よかったのか、悪かったのかは解かりませんが、幕府が勝ってしまっても、もしかして同じような事態になっていたかもしれませんね・・。
- machanori_46
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分かる範囲でお答えします。 >会津は和平を訴えた(と聞きましたが)のに、なぜ新政府は攻めてきたのでしょうか?本当に理不尽な戦いだっ>たのでしょうか? 会津は京都で佐幕派の中心として攘夷派(主に長州)を徹底的に攻撃した為に、会津攻撃の際官軍の長州勢が恨みを果たす為に徹底的に攻撃するよう主張した為です。理不尽かどうかは、その立場で変わると思います。 >新撰組との関係について >新撰組も会津藩について闘ったと聞きますが、土方は結局、怪我のため会津では戦ってはいないのです>よね?(曖昧です) 函館で亡くなり、遺体は見つかっていないと聞きま>すが、本当でしょうか? 新撰組は会津藩の指揮下にありました。ただ、たしか新撰組は鳥羽・伏見の戦いの後位にバラバラになった為(この辺り時期については自信なし)何人かは戦ったと思いますが、土方が戦ったかどうかは分かりません。土方自身は函館戦争で榎本武揚と共に戦って戦死しており、遺体も見つかっておりません。 >近藤勇の墓について >会津にありますが、これは本物??板橋は京都にも>近藤の墓があった気がしますが、本当の首塚の場所>はやはり謎? 本物かどうかは分かりませんが、近藤自身は会津攻撃の前に千葉県の流山という所で官軍に捕まり、板橋で斬首刑にされていますので、多分板橋の墓が本物かと思われます。
お礼
ご回答いただき光栄です。ありがとうございます。 なるほど・・、そうだったのですね 新撰組については父や祖母も語ってはいなかったので、 そう大々的な話ではないのかも? 最近大河ドラマの影響もあって書物が出ていたので、あたらめて勉強してみたいと思います。
お礼
わかりやすいご回答ありがとうございます。 そういえば会津には七日町に斉藤一のお墓がありますね 会津を見捨てることは出来ない、と土方とぶつかり、そのまま残った、 との話は聞いたことがあります。 やはり土方の死亡は、諸説に過ぎないのですね・・。 近藤勇のお墓についてもそうですが、 こういう場合、歴史研究者は 掘り起こしてちゃんと本人の遺体があるか、 なんて調べたりはしないのでしょうかね(^^; 本人鑑定もできないから、無理でしょうけれど・・。