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古文が専門の方、教えてください!
聖徳太子伝暦で、 “平氏が聖徳太子伝暦に曰く、「太子みたび御陵を回り、墓工に勅して曰く、汝四路(よものみち)を断て。朕が意趣に有り。1は、大行道の煩ひなからしめん為、2は、我が子孫日本の相続なからしめん為也」と。” この意味は、 “平氏が「聖徳太子伝暦」に書かれているように、「太子が三度御陵を回り、墓の工事を命令されたように行ったように、おまえ四路(?)を断て。朕(?)はお考え(OR理由?)がある。1は、大道行の煩いをなくすため(?)、2は、我が子孫日本の相続なくすため(?)なり」と言った。” この(?)の部分がわかりません。
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>平氏聖徳太子伝暦日。 平氏の「聖徳太子伝暦」に曰く、 =平氏の「聖徳太子伝暦」によれば、 >太子三回御陵。勅墓工日。 太子三たび御陵を回る。墓工に勅して曰く、 =太子は三度御陵を回り、墓の工事職人に命令していうには、 ※絵描きを「画工」というように、「墓工」は工事をする人を指すでしょう。 >汝断四路朕意趣有二。 汝は四路を断て。 ※ここも漢文としては違和感が残ります。一まとめに読めば、 汝四路を断つは、朕が意趣二つ有り。 となるのですが文意が通りません。もし、 汝をして四路を断たしむるは、朕が意趣二つ有り。 なら、「お前に四路を断たせたのには、私の考えが二つあったからだ」となりますが。 ※「四路」は文字通り「四本」か、「四方すべて」の「通路」か。「よもの」と訓読した方は「四方すべて」と解釈したものと思われます。 >朕意趣有二。 朕が意趣は二つ有り。 =私の考えは二つある。 >一者為令無大行道之煩。 一は、大行の道の煩を無からしむるがためなり。 =第一に、前の天皇の道のわずらいをなくすためである。 ※大行(たいこう)は先帝または諡のついていない天皇をいう「大行天皇」の略と思われます。 「道の煩」は正直何をさすか分かりません。 大行=太子自らの死後のことか? とすれば、超訳ですが、「(死後ふつうなら大行天皇といわれるのだが)私に対する祀りをする手間を省いてもらいたいからだ」という意味でしょうか。 >二者我子孫為也令無日本之相続 二は、我子孫、日本の相続を無からしむるがためなり。 ※やはり相談者さんと同じ読みになりますが、ここが読みにくいです。 一はA、二はB、というのは対句表現ですので、同じ文型をとることが多く、ここでも、為令無~(なからしむるがためなり)は全く同じですね。 ところが、そこに突然「我子孫」が入っているので、文が通らないように感じます。 また、「相続」は名詞ではあっても、「~を相続する」であれば、目的語の「日本」は後に来ないと漢文としてはおかしいです。 これが、 為也令無我子孫之相続日本(我子孫の日本を相続するをなからしむるがためなり=私の子孫が日本を相続することがないようにするためである) なら通りが良いように思われます。 あるいは、 二は、我、子孫の、日本の相続を無からしむるがためなり。 =第二は、私は、子孫が日本を相続することがないようにするためである。 と読むか。そうなると、主語が朕から我に変わるのが不自然ですね。 解答にならなくてすみません。
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- kzsIV
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平氏聖徳太子伝暦日。 訓読 平氏が聖徳太子伝暦に日く 訳解 平の某の聖徳太子伝暦には、次のような記事があります。 太子三回御陵。 訓読 太子、三たび御陵を回る。 訳解 聖徳太子は、生前から営まれたご自分の墓地を三回お見回りになられました。 勅墓工日。 訓読 墓工に勅して日く。 訳解 その時に墓地を造営する役人に、次のようにおっしゃいました。 汝断四路。 字義 「汝」とあるので「断四路」が命令表現だとわかる。 訓読 汝、四路を断て。 訳解 墓の四方からの通路は造らないでください。(なるべく簡素な墓地にしてください) 朕意趣有二。 訓読 朕が意趣に、二つ有り。 訳解 皇統としての私には、そのようにする思惑が二つあります。 一者為令無大行道之煩。 訓読 一つには、大いなる行道(ぎやうだう)の煩しきこと、無からしめむが為なり。 訳解 それは、葬礼・回忌のたびごとに、大袈裟な法会が無いようにするためです。 二者我子孫為也令無日本之相続。 構文 「二者我子孫為也令無……」 とあるべきか。「我子孫」を強調するために文頭にしたもの。「無日本之相続」は「無相続日本」を変換したもの。常態文は「為令無相続日本(日本を相続すること無からしめむが為なり)」 訓読 二つには、我が子孫や、日本の相続、無からしめむが為なり。 訳解 そして、私の子孫たちが皇統を継ぐほどに繁栄しないようにするためです。 解説 聖徳太子は推古女帝のときの皇太子で摂政の宮です。推古帝に先立って無くなったたため皇統を継げませんでした。太子の子の山背大兄(やましろのおほえ)も皇統を継ぐと目されながら非業の最後となります。後世、太子信仰が深まると、この悲劇は美談に転換します。太子は子孫が繁栄して専横することを嫌い、大兄もその意趣を継いで従容として死地に赴いた、と……
お礼
ありがとうございます。実は放送大学の試験の「古典」の科目で試験勉強をしていました。そしてこの話に出会い難しく舌を巻いてここでお聞きしてアップアップ状態で試験を受けました。たぶんダメでした。もっと勉強して受けないと落ちます(><)貴殿のお答えこれから参考にさせていただきます。
- LTCM1998
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こんばんは。 >聖徳太子伝暦に曰く、 とあるので、出典は聖徳太子伝暦ではないですよね。 もとは古文というよりも漢文だったものと推測しますが、書き下す前の原文はありませんか。 >朕が意趣に有り この「が」は、「の」と訳すところだと思います。 >我が子孫日本の相続なからしめん為也 確かに、?の残るところですね。漢文の常識からいえば、AをしてBしむ、の「使」があるはずなのですが、これではどうも違和感が残ります。
補足
漢文は、 平氏聖徳太子伝暦日。太子三回御陵。勅墓工日。汝断四路朕意趣有二。一者為令無大行道之煩。二者我子孫為也令無日本之相続。 です。
お礼
お答えありがとうございます。かなり勉強になります。