- 締切済み
松平容保について
松平容保について 意見を聞きたいです (1)松平容保は、家臣たちが反対したのに京都守護職についた。東北の藩が、わざわざ京都に行き、莫大なお金がかかり、武士たちも必要になって、藩が貧乏になるのは分かっているのに、藩主なのに、なぜ断らなかったのか? (2)容保は、当時京都の町に吹き荒れていた天誅の嵐を食い止め、とても過激な行動をしていた長州藩を京都から追い出したりして公家や孝明天皇からは絶大な信頼を得ていたと思う。信頼を得るために、京都守護職についたのか? (3)孝明天皇が死んでから、倒幕の動きになる長州藩を中心に敵視され、でも将軍家に格別な忠誠心を持っていて最後まで抵抗し続けたわけを知りたい。(家訓以外で) (4)容保は、時代の流れを読めていなかったという見方もできるが、主君をとても真っ直ぐに思っている人だとおもう。 (5)この人は、幕府をどう思っていたのか? (6)この人は、何がしたかったのか? いろいろな人の意見聞きたいです。よろしくお願いします。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
みんなの回答
歴史ものはさして詳しくはありませんが、 幕末の会津藩主のメンタリティを語るには 藩祖の保科正之から考えるのがいいのでは。 こちらは藩の家訓です。 http://www.tsurugajo.com/history/kakin.htm 第一条は幕府というか宗家に対する忠義をあげています。 保科正之について http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B 三代将軍家光の異母弟で家光の母が死ぬまでその存在は秘されてきました。 弟がいることを知った家光はさっそくこれを呼び、手厚く遇したそうです。 日陰の身であった正之の感激はひとしおで、それが上の家訓になった。。 などと歴史ものの本などをみるとよく記されています。 それが容保の時代までめんめんと引き継がれたと考えるのが順当でしょう。 つまり、損得勘定は抜きにして幕府に準じた。。というところでは。 水戸藩とは対照的ですね。