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自由意志
絶対的な確実性をもって未来全体を知っている一群の生物を想定して、それらの生物に自由意志と呼ばなければならないような何かが備わっていることが可能であるでしょうか。
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ご質問の命題が成立するためには、ふたつの前提が必要であると思います。 まず、「未来」なる「なにものか」が存在すること。 言葉を換えれば、未来を知るためには、未来のt-x時において、すでに何ごとかが起こっており、そうしてそれはどこかに保存されていて、人ないしは件のその生物がそこに向かって歩いていく、そういう情況がなくては、 > 絶対的な確実性をもって未来全体を知っている という前提は成立しません。 そうして、この仮定が明らかにおかしいように、「未来」なるものは現実にはどこにも「ない」とわたしは思っています。この「ない」は、たとえば大森さんが言うような「過去が存在しない」という意味での「ない」とは性質のちがう「ない」です。 この説明が一番よくまとまっていてわかりやすいのは中島義道さんの説明でしょう。 ---- われわれは…実現した状態から振り返って、実現されていなかった状態を想い起こす。そして、実現されなかった時(すなわち過去)において、実現されることになる時(すなわちその過去における未来)を了解する。つまり、ある過去の時点から見ますと、その後に実現されたことはすべてその過去における「未来だった」ことになります。 そして、その過去系列の最先端に「現在」が位置している。現在とはあらゆる過去から見て「未来だった」時でもあるのです。 本当はこれだけなのですが、さらにわれわれはこの関係を完全な不在である未来に延ばし、現在と未来とのあいだに幻想の関係をつくり出してしまう。いわば、未来の出来事を舞台の袖で呼吸を整え出番を待っている役者のようなものとみなし、それがやがて舞台の中央に躍り出るように「来る」という(誤った)イメージを形成してしまうのです。 (p.183『時間を哲学する』講談社現代新書) ----- わたしたちは過去と現在の関係を、そのまま現在と、どこにもない未来の関係に当てはめ、「未来」なるものを想定しているだけに過ぎません。「未来」なるものはないし、まだ起こっていない何ごとについても、わたしたちは、というか、いかなる生物も「知る」ことは不可能でしょう。 もうひとつは「自由意志」と呼ばれる「なにものか」が存在していなくてはなりません。 「自由意志」が昔から問題になってきたのは、クワインの言葉を借りると「賞賛と非難の問題のおかげ」(『哲学事典』)ということになります。「賞賛と非難の対象」は「自由な行為に限られる」からです。スピノザもカントも、倫理の観点から「自由意志」を必要としてきました。 一方、ベルクソンは『意識に直接与えられているものについての試論』のなかで、かの有名な図をつかって、あらゆる行為が「自由」なものであるということを説明しました。 せっかく画像が貼れるようになったので、これを使って見てみましょう(ええ、この回答をしたのは、一度画像が貼ってみたかったからです。うまく貼れるといいのだけれど)。 Mから始まって波打っているのは、わたしたちがふたつの可能な行動XとYとのあいだで、ためらい、ゆれていることを示しています。Xに寄ったり、Yに寄ったり。やがてOのところで決断し、XまたはYの道を選択する。やがて、XまたはYに進んで、ああ、あのときもうひとつの方向を選択したらどうなっていたのだろう、と考える……。 けれども、このモデルは「行われつつある行動ではなく、なしとげられた行動を示している」とベルクソンは言います。「線MOも、点Oも、道OXも、方向OYも存在しない」。 わたしたちはすでにことが起こったあと、振り返って、自分の意識を空間化します。そうして遡行的に原因を特定し「こうしかなかったのだ」「先行条件によってあらかじめ決定されていたのだ」とか、逆に「別の方法でもあり得たが、自分は自由意志によってOXを選択したのだ」と考える。 「じっさいは二つの傾向も、二つの方向さえもあるわけではなく、たしかにあるのは熟しすぎた果実が落ちるように、自由行動が自我からあらわれ出るまで、ためらいそのものの効果によって生き、発展する自我だということは、依然としてわかりきったことであろう」(p.144 市川浩『ベルクソン』) ベルクソンの言うように、わたしたちのあらゆる行為、「われわれの人格のしるしを帯びている行為は真に自由である」と考えると、自由意志、つまり地点OでXへ行くかYへ行くか決定するような「自由意志」なるものは意味をなさなくなってくる。 以上より > 絶対的な確実性をもって未来全体を知っている一群の生物 はありえません。 > 自由意志と呼ばなければならないような何か は存在しません。 けれども、自他の行為の責任を問うとき、この「自由意志」ということはふたたび問題になってくるのですが、ご質問とは少しずれてきますので、この回答はここで終えたいと思います。 (※なお、回答について、質問者さんからの追加質問、問題点のご指摘はお受けしますが、ほかの回答者の方からのご質問・ご感想・ご意見はご遠慮くださるようお願いします。)
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- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
>絶対的な確実性をもって未来全体を知っている一群の生物を想定して、 生物は物理学で言う散逸構造の具体的な例ですから、この文章は自己矛盾に陥っていますね。質問者さんもご存知のように、散逸構造が存在できる必要条件は未来が不確定で確率論的すなわち非決定論的にきり与えられていないことですから。 数千年前の人間が持っていた世界に関する情報量よりも、現在の人類の手に入れた情報量は桁違いに増えております。人類の総体としての知的レベルは確実に進歩しているのです。質問者さんも、西洋と呼ばれるこの地球上のほんの一部に偶然に現れた連中が、情報量が桁違いに少ない数百年も前に考えたことに拘泥するばかりでなく、先人達の苦悩と努力の積み重ねで現在までに手に入れて来たいろいろな知的宝物も咀嚼し味わって下さることを期待致します。 蛇足ですが、人類の歴史を振り返ると、まるで意味もないことに何世代もかかわって、膨大な書物を残して来たようなことを幾つも見いだせますね。西洋中世の星占いや中国や日本の方位学などがそのほんの一例です。現在でもその汚濁の滓が所々に残っており、テレビに出てその汚濁で金儲けをしようという連中はいるにはいますが、民俗学を研究している方を除いて、星占いや方位学を本気で研究している研究者は最早いないでしょう。私は個人的には、人類の多様な世界観のなかの、特殊なほんの一例に過ぎないユダヤ=キリスト教という一神教の世界観を持った連中が、その世界観の中に内在している自己矛盾に気が付いて、何が何だか分からなくなってしまい、言葉を弄して途轍もなく複雑な論理で、何とか分かった気になろうとしている概念が「自由意志」と言う概念だと思っております。自然科学の鉄則ですが、正しい主張である条件は、それを進歩させれば進歩させるほど、その主張が簡単に説明できるようになることです。進歩すれば進歩するほど複雑な説明が必要になる場合には、その主張が間違っているよと言う信号をその進歩が教えてくれているのです。 先日ノーベル賞を頂いた益川さんが「あるとき私は風呂の中で、皆が当たり前だと主張し続けて来た四元説は駄目だと『決めた』のです。そう決めたら急に思考法の呪縛から解放されて、自由に世界が見えて来たのです。その結果、四元ではなくて、六元で考えるべきであることが判るようになったのです。」と言う趣旨のことを述べていました。私は「気が付いた」とは言わずに「決めた」という言葉を聞いて、この方は、ものを創りあげてくる人達のみができる経験を体験した本物の方だと確信しました。自由意志の概念は、この四元説と同じ役割を演じる概念ではないかという印象を持っています。
お礼
どうもありがとうございました。 たいへん参考になりました。
補足
まあそう堅苦しくお考えになることも無いのででは。 どうせ暇つぶしなんですから。
ラプラスの悪魔wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%82%AA%E9%AD%94 これのことです。 自らの運命を了解しうると天使でさえこのような悪魔の側面を帯びます。(緻密な知性のなせる業) 自由意志になぞらえる以前の、(問題外な)自らの主体が不明の状態では、天使のささやきは悪魔の勧誘にも見える錯覚を起こします。
お礼
どうもありがとうございました。 たいへん参考になりました。
- 相談 蟻(@soudan-ari)
- ベストアンサー率19% (40/208)
>絶対的な確実性をもって未来全体を知っている一群の生物を想定して、それらの生物に自由意志と呼ばなければならないような何かが備わっていることが可能であるでしょうか。 未来と生物に関してですが⇒(1)未来と言う範囲が分かりません。その生物の未来なのか、質問している人(質問者:貴方やわたし)の未来なのか、地球や人類の未来なのかなどの範囲が特定できません。(2)この場合の意思とは? その生物の意思でしょうか?意思をどのように判断するのでしょうか?判断方法は不明です。又、その前に意思の定義付けも必要になるかも知れませんね。動いているから意思があると言えません。人間の自律神経の動きは意思とは言えないでしょう。微生物に意思があるか否かの判断をどうされますか? (3)知っている⇒知っていたとしても其れを表現できなければ、認識できません。意思とコミュニケーションは別とすれば、どうして認識できるのか? なまずは地震を予測できるとか言いますが、なまず同士なら会話になってるかもしれませんが? その他として、宇宙全体が生物と仮定する事も出来ますが、現段階では人間は認識できません。 人間の場合、意思は脳のある部分の活動による身体的な活動と言えます。感情も意思の表れと言えるでしょうが、何処までが感情で、何処から意思なのか?之もまた不確定です。などから、現時点では無いと言えるでしょう。生物・医療・宇宙・宗教などの領域でも未知の領域でしょう。言葉の定義として仮定できても、現代社会において絶対的な確実性を持って未来全体を知りうる生物は・・・・ 在り得なでしょう、逆にselbst33さんはどう思いますか? 有効な時間利用のチャンスを感謝します。以上
お礼
>有効な時間利用のチャンスを感謝します。以上 いえ、いえ、どういたしまして。 どうもご回答いただき誠にありがとうございました。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
<<絶対的な確実性をもって未来全体を知っている一群の生物を想定して>> 物質と心の因果法則の全てを過去現在未来について確実に知るものが有るなら、この瞬間に何を感じ・考え・言うか、するかもしっていることになりますね。そのように知っていることを確認すること自体も知っていると。ただ知っていてその知っているままに流されている生命一群になりますね。 <<それらの生物に自由意志と呼ばなければならないような何かが備わっていることが可能であるでしょうか。>> 決まっていて知っているどおりにこの瞬間に何を感じ・考え・するのですから自由、つまり選択できると言うことは無いでしょう。流されるだけのものでしょう。 選択したと言っても選択項目をどのように出すかそしてどのような思いももってどれを選択することになると知っているのですから。 意思すら知らねば「絶対的な確実性をもって未来全体を知っている」とはいえないでしょうね。 想定した「絶対的な確実性をもって未来全体を知っている」にも違和感を感じます。 一つ「未来はあるのか」です。 「変化消滅する今・現在・この瞬間の連続しかない」のではないかと言う考え方もあります。今現在を如実に知る物は全てを知る者。と。 「絶対的な確実性をもった未来」があるならばすべての選択の余地はなくなりますが、現実選択して生命は生きていますね。 その選択自体を決まったものとするなら先に述べたように自由意志は成り立たないと考えます。しかも生命がどのような状態になっても決まっていること殺しも盗みも皆決まっていることとなり、道徳が根底から崩れ落ちる論理にも感じます。 このように感じました。 お役に立てば幸いです。
お礼
maggaさん、ご回答ありがとうございます。 種類が回答となっているんで、あらためて悩み相談のカテに来たんじゃないなと認識した次第です。 この思考実験には私も突っ込みたいところが山ほどあるのですが、とりあえずこの実験者の主張を述べてみます。 (1)知識が、それによって分かることを強制するのではない。 (2)記憶によって過去がつくりだされないのと同様に、予見が未来を創造するのではない。 (3)単に過去における意志を記憶できるという理由だけで、過去において自由でなかったと考える必要は無い。同様に、将来私たちの意志がどうなるかということをいまの時点で予見できるとしても、私たちは、未来において自由でありうるのである。 (4)したがって、自由意志は、ただ一つの形式において成り立つのだ。 要するに、自由がなんらかの価値をもつ限り、私たちの意志は(まさに私たちの願望の結果ではあるが)、私たちが望まないようなことを無理矢理に望ませるような外のからの力ではないということが、こういった自由によって要求されるに過ぎないのである。 後ほどゆっくりと補足したいと思います。
- hikaru0705
- ベストアンサー率11% (2/18)
あなたの言っている事は私も常々考えました。 絶対的な確実性をもって未来全体を知っている生物がもし自分の未来を予測しえたなら。その物の未来は決まっており、自由は存在しないではないか。そう考え矛盾に苦しんだものです。 しかし僕の入っている宗教の本にはこの答えが書いてありました。私たちの宗教ですべでのことにおいて全能の神エホバは完全な予知能力を有しているかということです。結果から言うと神は完全な予知能力をもっています。しかし、神は自分の予知能力を選択的に用いるという説明です。もし神がずっと先々のことばかり考えて予知能力を使っていたら創造の身技は行われなかったでしょう。つまり神は予知能力を選択的に行使するので、その他の事も出来るのです。
お礼
知識の乏しい私のようなものにもちゃんと分かるようにアドバイスいただき本当にありがとう御座いました。 ここのサイトは本当に良きアドバイザーが多いので感謝しています。 本当に素晴らしいアドバイスばかりで感激です。 心よりお礼申し上げます。
補足
そういえば高校生の頃、エホバの方がいらっしゃって、その頃読みたてのニーチェの話をしたらひどく興奮した様子で帰っていかれました。 その後二度とその方がお見えになることはありませんでした。
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お礼
ghostbusterさん、ご回答ありがとうございます。 >けれども、自他の行為の責任を問うとき、この「自由意志」ということはふたたび問題になってくるのですがご質問とは少しずれてきますので、この回答はここで終えたいと思います。 本当のこと言いますと全然ずれていなくて「責任の有無と人格の要求、主意主義」あたりを問題にしたかったのですが、やっぱりこの質問からそこまで想像を働かせるのは難しいようですね。 (ダイレクトに質問した方がよかった。) ということであらためて質問を立てたいと思います。 いまベルクソンの「道徳と宗教の二つの源泉」を読んでいるのですが、中島さんの舞台の話はゼノンの二分法の問題点だと言っていたような気がします。 あと過去系列の最先端の例についてなんですが、ラッセルがカントの第一のアンチノミーの反定立の証明に批判を加えているのですがこれが面白そうなのでまた質問を立ててrみたいと思います。 ※あまりこの質問を覗く人もいないでしょうし、書き込みがあってもケチみたいなものだけだろうなというのは過去の経験と推理から想像できますできます(笑。