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自由意志について
自由に論じてください。 ウィキペディアの《自由意志》です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97 わたしは 責任との関係および神学との関係に関心があります。 たとえば こうです。約束をしたとき それを果たせなかったとします。事情を説明し――多少の償いをしつつ―― 詫びて治まると思いますが ここには 自由意志がからんでいるのではないでしょうか。意志の自由な選択によって 約束をしたのであるからには それを違えたことについて 何らかの責任が発生するという具合いです。 一般に表現の自由を言うからには その言動責任ないし文章責任が生じていると考えられるのだと思いますが いかがでしょうか。つまり 自由意志が ほんとうに存在するか否か これは 分からないかも知れないのだけれど 社会的な取り決めとして 上のような事態にかんして 自由意志はあると想定されていると考えるのですが そのあたりについて 自由な見解をおしえてください。
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bragelone様 ここ2日程あまりに忙しなく投稿出来ずに居りました。投稿が遅くなり大変失礼致しました。また、 bragelone様のHNも意味を履き違え誠にお恥ずかしい限りです(大汗)、どうぞお許し下さい。それでは今回も宜しくお願い申し上げます。 > 一点 こう感じたところがあります。つまり 【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】の《体験・認識・感得》につきましては これまでお伺いした限りでは けっきょく 行きっぱなしではないだろうかと。 むろんその実践じたいがよくないというものでは毛頭なく 往きと還りがあるという記憶を思い起こしたのですが。 わたしのかつて習ったところでは 往相・還相があって たとえ彼岸に実際に到達していないとしても あたかも一たん達したとして そこから還ってくる・還って来たという姿(還相)でさらに修行に励むのであるし また 人にも接するのでもあるというふうに覚えているのですが いかがでしょうか。 ○まず「行きっぱなしではないだろうか」につきまして、「彼岸」への片道切符的(笑)感覚で捉えられているとしたら、それは全くもって私の本望ではありません。振り返りますに、これまでの投稿はどちらかと言うと【「個」と「全」の構造認識(「関係性の側面⇔独立性の側面」の双方向性を含有する大宇宙である自分自身)】に対する「認識論」的内容が濃かったと思います。誤解を恐れず申し上げれば、 bragelone様は「大乗的衆生救済」無くてして何の悟りか?!…と仰せではないかと思います。私は過去の投稿(> 理解不能な自分を愛する事が総てを愛する事に繋がります。それが「自分が良くなる為に人を良くする」(抹香臭く申せば所謂「自利利他」)に発展して来ると思います。… / bonnnou03 )で申しました通り、この現実世界に於いて自分の映し絵である現象を整える事(例:困っている人への人助け 及び 導き)は恐らく bragelone様の仰る「往相・還相」と近い、若しくは ほぼ同意ではないか?…と思います。私が知る言葉としては「 上求菩提 下化衆生 」がこれにあたります。論点が自由意志に始まる「意識の構造認識(略)」から「現実世界の処し方」にシフトするのであればそのように致しますし、私が申しました「肉体を全うする」は当然 bragelone様の仰る「往相・還相」を包摂するものとお考え頂いて結構でございます。 > 気概の現われを抑えることができないという限りで この信仰は わたしが選んで持ったのではなく 与えられたものであるということになります。そこから 《人間(現実)が変わる》という表現をも得てしまったという事情です。 ○『信仰』に付きましては個々人の自由だと思いますので、他人様の『信仰』に対し とやかく口を出す筋合い物ではないと思いますが、先日来の私の投稿で「信じる」(…「信じる」と言う打算的期待で自己を成り立たせなければ成らなくなります… 等々 )と言う語句の見解が遠因してご不快な思いをさせてしまっているようであれば、恐らく誤解であり 伏してお詫び申し上げます。本意は盲目的に「信じる(信じすぎる)」と言う行為から「依存症」や「マインドコントロール」を生み、結果 人の心を「自己喪失」状態に追いやり人生の歩みを阻害するのを憎むものであります。決して純粋な信仰(心)を揶揄したものではありません。どうぞご理解頂きとうございます。 > 焦点は結びました。このわたしの法螺吹きが 法螺吹きでどうもすみませんと言わなければならないというのは 往相還相の問題が 唯識にはないという場合だということになりますが いかがでしょうか。 ○「法螺吹き」について …完全な誤解です。自らの不徳の致すところです。この箇所【 …常に自らの体験を持って語る事を旨として参りたいと思いますし、そうでなければただの大法螺吹きになってしまいます。… 】は私 bonnnou03 自身の投稿にあたっての決意として挿入した文言でした。それ以上の文意はありませんし、私には bragelone様を「法螺吹き」呼ばわりする理由が毛頭見当たりません。どうぞご理解頂きまして、お許し願えればと思います。 また『往相還相』については上述の通りです。因みに『唯識』も仏教の中の学問としてある以上「 上求菩提 下化衆生 」の一面を離れないと思いますが、(意識の)上下間の双方向性の説明は『大乗起信論』(ちとマイナーですが!)がより詳しいと思います。内容はさほど理解が深くないため割愛します(失礼)。 > これは 大乗であるべきか 上座部のままにとどまるべきかという主題にもなるのでしょうか。 ○いいえ、そうは思いません。この場合、私は「密教(特に真言密教)」を提示させて頂きます。この理由については様々在るのですが、大きくは2つです。1つはこの身このまま仏になる『即身成仏』(≠「即身仏」入滅してミイラになる)(参考:多くの大乗仏教では悟りまでに大変時間の掛かる「三劫成仏」と言われています)と『現世利益』の【(結果を出す)実践哲学】と言う事。もう1つは教義の面で亜細亜に於ける【統合宗教】(儒教・道教・上座部・大乗・バラモン教・ヒンドゥー教・ゾロアスター教・インド哲学…等々を包含している。想像ですが恐らく「景教」= キリスト教 の影響も受けていると思われます)であると言う事からです。 > 面白いとも思われることは 信仰〔なる賭け〕による希望派が あくまでこの《いま・ここ》に立っていて 前世・来世を気にしていないことであり それに対するに 修行による希望派は 逆に 《【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】》といった表現も持たれてくるということのように感じられる。 ○【(仮に)信仰〔なる賭け〕による希望派】が『前世・来世』をどのように捉えているか?についての統計は恐らく「無い」と思いますので、コメント控えさせて頂きます。他方【修行による希望派】に付きましては、一先ず… 決して「乱暴な賭けではない」と申し添えておきます。 以上です。 最後までお読み下さり、ありがとうございます。あくまで私の認識(体験)に基づく投稿です。徒然なる文面です。お役に立てればと思いますが、ご参考程度にされてください。どうぞご自愛下さい。
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- bonnnou03
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「(了)」などと書きましたものですから、度重なる投稿で恥も外聞もありません(失笑)。実は『アウグスティヌス:三位一体論』を私は読んだ事がございませんでした。また「不条理なる現象」が bragelone(様)を意味するとは…恥ずかしながら知りませんでした(大汗)。HNとは言え bragelone様のニヒリズムの超克と真理探究の気概を感じる次第です。それに比べ 私なぞは「煩悩03」です…(苦笑)。 さて、これより先は「自由意志」決定論の蛇足として徒然なるままに投稿させて頂きますことお許し下さい。無論、正誤は定かではなく、あくまで個人的見解を離れません。宜しくお願い申し上げます。 > わたしの欲深だましいは この《今は決してあり得ないこと》が この世で・肉の身体においても現実となることを求めるのです。 ○現実の強烈なリアル感を(当然、私を含む)「凡夫」は なかなか突き破ることは出来ませんし、突き破る必要性と方法を認識出来ている方も少ないと思います。劇場的な切り口でその一端(興味としてのほぼ入口程度)を垣間見せたのが映画『マトリックス』シリーズだと思います。この映画では現実と認識している世界が実はコンピューターが描き出した人類【共通の夢】(!)だった…と言うのが前提です。映画の中での事実(「所詮は総てプログラムだ!」…と言う構造認識)を如何に突き破るかが第1作のテーマの一つです。ここに先ず、我々は自らの人生に於いてそれを「突き破るぞ!」と宣言した方が良いように思います(あぁ~ぁ 新興宗教の勧誘が始まったな… と、きっと幾人かの方は思われた筈… まぁ、そのような事はございませんのでご安心下さい 笑)。 > 不条理のままでは――つまりもっと露骨に言うならば 犬死にではつまらないゆえ―― 《人間(現実)が変わる》という表現までも得てしまいました。生物種としてヒトが変わるという意味です。《恩恵が自由意志を立てる》という表現からでした。(百尺竿頭に一歩を・・・といううごめきも そこらあたりからだったのだと思います)。 ○人生を真理を知らずして「犬死」と終えるかどうか…。これに付きましては上記との関連で、やはり(あまり用いたくは無いのですが)『魂』と言う言葉を使用せずには厳しくなるやも知れません。これを『意識』としても良いのでしょうが、『意識』はあまりに守備範囲が広く『意識』の一発露としての『魂』としてある程度限定したほうが良いと思います。理由としては先の投稿に於ける【「個」と「全」の構造認識(「関係性の側面⇔独立性の側面」の双方向性を含有する大宇宙である自分自身)】の「関係性の側面と独立性の側面」をより滑着させ、自己の存在に一定の一貫性を持たせずには論点が先に進まなくなると思うからです。つまり【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】…と言う事になろうかと思います。この認識に立てば自分は死にませんのでそもそも「犬死」という概念すら消え去ります。 そこで、やはりと言うか当然 重要になって来ますのが事実認識としての【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】です。巷には様々な書籍が本屋に並び「守護神」「守護霊」「背後霊」「ハイヤーセルフ」「天使」「悪魔」等々の文言が平然と取り扱われていますが、実のところ私はそのまま受け取るのはあまり好きではありません。何故なら何れも人間が意味付けした言葉に過ぎず、その言葉の又聞きの又聞き、若しくは書籍等を頼りにした『信じる』『思い込む』と言う行為が自己喪失に繋がるからです。大事な事は【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】と言う事を様々な体験を通じ事実として認識する事であって、知識による妄想世界の構築(笑)ではないと思うのです。 ならば、如何にして【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】と言う事実を体験・認識・感得するか?が問題になります。実は恥ずかしながら私の場合は「真言密教と弘法大師空海(お大師様)の教義」と(お坊様ではありませんので)「真言・読経」そして「ヨーガ」「瞑想」「気功」を行う事に依っています。私自身がこの体験・認識・感得を掴むべく日々自分と向き合い格闘して居る状態です。実に大言壮語をぶちまける程 出来上がってはおりませんし、身の程知らずとはまさにこの事です(汗)。それ故、常に自らの体験を持って語る事を旨として参りたいと思いますし、そうでなければただの大法螺吹きになってしまいます。自分の人生を大法螺吹きで終えさせるほど、無駄な時間はありません。人にどう取られようとも一言一句 真剣に投稿させて頂いています。 【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】に連なる【「個」と「全」の構造認識(「関係性の側面⇔独立性の側面」の双方向性を含有する大宇宙である自分自身)】、はたまた その【空】(消滅)と【空の揺らぎ】(再生)までを掴むこと。而してこの事実を今、この瞬間に活かすこと。『魂』に何を刻み込むか? と言う事を忘れることなく、肉体を全うしたいと思っています。回答になりましたかどうか甚だ疑問です、どうぞお許し下さい。ありがとうございました。(謝)
お礼
(字数の制限規定の関係により この欄にて続けます)。 (法螺の内容が やっぱり法螺だったと判明することと 法螺を吹くという事態が 夢幻境のしかも還相においては ありうるということとは 別だと思ったのでした。この世界に対する意味づけは 主観の範囲内で おのおの自由だというふうに。 (わからん。そんな突飛もないことは コメントできない・・・こういったコメントがいただけることを期待しておりました)。 これは 大乗であるべきか 上座部のままにとどまるべきかという主題にもなるのでしょうか。 こうなりますと 事は簡単ではありませんので 基本的なお考えや見通しについて おしえていただくとありがたいと存じます。(挑戦的・論争的になって すみません)。 なお 《恩恵は自由意志を立てる》は アウグスティヌス《霊と文字》§30(《著作集・9》)にありました。
補足
ばつの悪いお思いをさせもうしまして たいへん落ちつかない思いでおります。わたくしの至らなさにつきましては いまに始まったことではないですのでと思うことで 少しは安堵するという至らなさです。開き直りになってしまいますが――それでも 議論のほうににじり寄って行くわたしがいます―― 考えたところを伝えさせていただこうと思います。・・・ でも今回は いわゆる突っ込みどころというのでしょうか 反論が生じます。正直にお伝えいたします。 (0) その前にですが 一点 お詫びがあります。引用文の中に注釈して 《(=不条理なる現象:bragelone)》というふうに書いたとき そのコロン(:)がいけなかったのだと思います。わたしはただ 引用者であることを示すために そうしたのでした。 ただ 《不条理なる現象=bragelone(つまり わたし)》だという解釈は その後で 《(不可思議な自分を愛する:br) / (恩恵:br)》とも書いていますので これらを合わせると 生きてくるようにも思いました。 なお bragelone(もしくは bragelonne)は ダルタニャンの親友となった《三銃士》の内の一人アトスの息子の名です。(ちゃんばら時代劇です)。 ――この事情もお汲み取りいただいて 議論のほうへ入らせていただければと思います。 (1)《先ず、我々は自らの人生に於いてそれを「突き破るぞ!」と宣言した方が良い》につきましては わたしに関する限り その《気概》が有り余って苦労しているというのが 実情です。ということで――皆さんには 不案内のかたちとなりますが―― 次へ進みます。 (2)【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】――これにつきましては ここでも触れたと思いますが わたしの場合には 《〈不在なものの現在〉を受け留めての〈永遠の現在〉に立つ》という表現になります。 死後つまり来世あるいは前世 これは 無記としています。いま現在の時空間において 《真理がすべてにおいて すべてである》の中にいると前提しているかたちです。いまの実現の程度は かすかに予感するというものです。 そしてこの《現在》に立脚すれば 〔単なる〕《自己表出・自己表現》として〔という意味ですが〕 《人類は 生物種として 変わる》という見通しを得たということになっています。 (3)ここまでは 反論でも何でもないのですが 一点 こう感じたところがあります。つまり 【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】の《体験・認識・感得》につきましては これまでお伺いした限りでは けっきょく 行きっぱなしではないだろうかと。 むろんその実践じたいがよくないというものでは毛頭なく 往きと還りがあるという記憶を思い起こしたのですが。 わたしのかつて習ったところでは 往相・還相があって たとえ彼岸に実際に到達していないとしても あたかも一たん達したとして そこから還ってくる・還って来たという姿(還相)でさらに修行に励むのであるし また 人にも接するのでもあるというふうに覚えているのですが いかがでしょうか。 《【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】に連なる【「個」と「全」の構造認識(「関係性の側面⇔独立性の側面」の双方向性を含有する大宇宙である自分自身)】、はたまた その【空】(消滅)と【空の揺らぎ】(再生)までを掴むこと》――すなわち 《【空の揺らぎ】(再生)》 これが 還相かと思ったのですが いづれかの時点で一たんその境地に立ち直して 往きを還りに向き直して この《肉体を全うする》というようには まだおっしゃっていないと感じました。もしそうだとしたら 問題は次のようだと思います。 《魂は死んでも 〈真理がすべてにおいてすべてである〉は 生きている。しかも いまこの現在の時空間においてである》という有り余る気概が わたしには出て来てしまうという問題です。ちなみに この表現の意味することが 実現はしていないわけですから 人は その原動力として《神》を立てます。その恩恵によって〔のみ〕実現すると。そして 経験合理性では理解できないこの神の力を信じるというかたちで《信仰》という言い方もします。言い表わせないので 《霊》とも代理表現しています。 気概の現われを抑えることができないという限りで この信仰は わたしが選んで持ったのではなく 与えられたものであるということになります。そこから 《人間(現実)が変わる》という表現をも得てしまったという事情です。 ですから 焦点は結びました。このわたしの法螺吹きが 法螺吹きでどうもすみませんと言わなければならないというのは 往相還相の問題が 唯識にはないという場合だということになりますが いかがでしょうか。 (次のお礼欄に続きます)。
- bonnnou03
- ベストアンサー率42% (3/7)
補足を頂戴し致しました、いつもありがとうございます。下記投稿は文意の構成上、補足の順序と替えております。どうぞご了承ください。それでは宜しくお願い申し上げます。 > (恩恵・つまり無償で与えられた自然本性・つまりそこに宿る自由意志 これは 先行する恩恵に勝てなかった)。 ○よく巷でも「我々は生かされている」と言う言葉を耳にしますが、なるほど「関係性の側面」から眺めますと、神様(サムシンググレート・創造主・宇宙意識…何でも構いません)にこの肉体を生かさせて頂いていると思います。実はふと、現実世界の過去に於いて「我々は幸か不幸か自由意志を持たされている存在なんだな…」と友人と話した事があるのを思い出しました。本来、我々はただ在りて在るだけの存在で良かったのに、意図せずとも自由意志を持たされてしまったのです(苦笑)。まるで禁断の果実(知恵の実)を食べたアダムとエバです。ですので bragelone様の文面も頷けますし【自由意志】を持つ我々の身の程が解ると言うものです。 > 《不可思議を――つまり経験合理性で解けない現象を――愛せ》という命題を つねにたずさえているという理解になったのですが いかが あいなりますでしょうか。 ○同感します。過去幾度となく bragelone様と遣り取りをさせて頂いた中に、私の言いたい事の多くは詰まっています。頂戴しました「不可思議を愛せ」…で宜しいと思います。もし俗っぽく言葉を付加させて頂くとすれば「不可思議な自分を愛せ」とでも致しましょうか?理解不能な自分を愛する事が総てを愛する事に繋がります。それが「自分が良くなる為に人を良くする」(抹香臭く申せば所謂「自利利他」)に発展して来ると思います。お釈迦様も仰せの通り【天上天下唯我独尊】なのです。この言葉は決して「世界中で私一人が偉いんだ!(笑)」ではありません。私は「宇宙なる唯一なる我を尊べ」(勝手な意訳です…失敬)だと思います。【「個」と「全」の構造認識(「関係性の側面⇔独立性の側面」の双方向性を含有する大宇宙である自分自身)】に基づけば、なおご理解頂けると思います。 結局「自分探し」とは正に『青い鳥』ですね!今回までの投稿で概ね私が申し上げたい大意は書き尽くしてございます。細かな点は様々ございいますが、スレッドのお題(質問)からも離れると思いますし、もう宜しいと思います。 bragelone様とのご縁に感謝致しつつ、ご活躍を期待しております。本当にありがとうございました。(了)
お礼
(20070911記です)。 No.24の補足+お礼への補足ですが 交通整理のためにのみ記します。 この世界における謎は 希望につながるような不可思議と 閉塞感に追い詰めるような不条理とに分かれ 後者が 一人の人間にとって 大きな問題になる。 前者(不可思議)が 後者(不条理)を包むようであるといいのだが それには とにかく か弱い考える葦としては 納得しうる意味づけをすることになる。(それが 一般には常だ)。 一つは 見方を変えること。変えつつ(つまり 変えた見方こそが 世界観として正解なのだから) 現実の側――あるいは 自分の側――にも変化が起こるかも知れないことを見守っていく。空観である。 一つは すでに目の前の不条理の克服された世界 それが実現した状態から出発すること。ヒトに突然変異が起こる。これは 現実とのへだたりが 大きいので しばしば信仰として捉えられている。 後者は 乱暴な賭けである。前者は 謙虚な希望派である。 前者は 歴史の流れに沿って進む。後者は すでに その主観においては 歴史を断ち切った状態にある。ただし 特別に何をするということでもない。前者は 修行を積んでいくという行動を伴なう。 さらに一点 面白いとも思われることは 信仰〔なる賭け〕による希望派が あくまでこの《いま・ここ》に立っていて 前世・来世を気にしていないことであり それに対するに 修行による希望派は 逆に 《【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】》といった表現も持たれてくるということのように感じられる。
補足
鐘の音にも余韻というものがございます。余韻以上のものもあるかも知れません。 おおいなる感謝とともに さらにお考えをたまわりとうございます。自利をみすみす逃したくはありません。(ごめんなさい)。 二つほど前にお応えをいただいたときに アウグスティヌスの本を引っぱり出して来て脇に置いておきました。今回 ひもとくと こういう文章を確認しました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この問題を解決するにあたり わたしは人間の意志の自由な選択の確保のために苦労したが 神の恩恵が勝った。そうでなかったら 使徒(パウロ)が いったいあなたを偉くしているのは だれなのか。 あなたの持っているもので もらっていないものがあるか。 もしもらっているなら なぜもらっていないもののように誇るのか。 (パウロ:コリント人への第一の手紙4:7) というきわめて明白な真理を述べたとき その意味を理解することができなかったであろう。 〔アウグスティヌス:シンプリキアヌスへ(パウロの律法論および恩恵論) その再考録 :《著作集・第四巻》〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところが わたしはすでに 《恩恵は かえって自由意志を立てるであろう》という言葉を聞いています。いまその出典がなかなか見つかりません。関係する文章として 次を確認しました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかし これらの悲惨な現状(=不条理なる現象:bragelone)において忠信であり善である(=不可思議な自分を愛する:br)人が この生から幸福な生に到るであろうときは 今は決してあり得ないこと つまり人間が欲するままに生きること が真実となるであろう。 なぜなら 彼はあの祝福(恩恵:br)において悪しく生きることを欲しないし また欠如するであろうものを欲しないし さらに欲するものは欠如しないであろうからである。愛されるものはすべて現在するであろう。現在しないものは欲求されないであろう。・・・ (アウグスティヌス:三位一体論 vol.13・ch.6〔10〕中沢宣夫訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これをめぐっては こうです。つまり わたしの欲深だましいは この《今は決してあり得ないこと》が この世で・肉の身体においても現実となることを求めるのです。 不条理のままでは――つまりもっと露骨に言うならば 犬死にではつまらないゆえ―― 《人間(現実)が変わる》という表現までも得てしまいました。生物種としてヒトが変わるという意味です。《恩恵が自由意志を立てる》という表現からでした。(百尺竿頭に一歩を・・・といううごめきも そこらあたりからだったのだと思います)。 (ちなみに そもそも この質問のほうは 決定論というのでしょうか 自由意志の否定論の方の意見について学びたいという意図からでした)。 このおおばかものの夢幻境について ぜひ お考えをわずらわせもうしたく 伏して お願い致します。
- bonnnou03
- ベストアンサー率42% (3/7)
お世話になります。性懲りも無く投稿させて頂きます(笑)。今回も一私個人の見解にて決して自論を強制する物ではありません。また、少々長い(汗)のでサラリとお読み頂けたらと存じます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。 さて、過去の私の投稿と bragelone様の補足との遣り取りの中である程度の共通の【「個」と「全」の構造認識(「関係性の側面⇔独立性の側面」の双方向性を含有する大宇宙である自分自身)】はさせて頂けたように解釈しました(2人だけの世界かもしれませんね…笑)。そして、この大前提(広義)の内に、我々1人1人の「個」が在り在りと認識する【共通の夢(※下記参照)】である現実世界の諸問題(無理・理不尽・不条理な「縁」と現象としての「社会悪」が明らかに人為による行為であった場合)に如何に対峙し対処するか?…この解決の為の思惟をどう説明し理解を頂くか?…とのご質問と承りました。 …が、所詮 私の「思索」如きで とても万能薬的・特効薬的方法論を出せるとは思っては居りません。まして誠に不可思議な【縁】を詳らかにし、相手に理解を求める所業は並大抵では無いと思います。 強いて申せば【真理】としての【因果律】をそれぞれがキチンと認識・自覚する事ではないかと…。それが可能であれば「現象」が自分の現状を伝えている事に感謝も湧きますし、自らの「現象」に対する細かな観察と深い洞察に依る気付きと反省とに基づき、意識の質量を更に増大させるべく、新たな【因】を自らが引き起こす(能動的な因果律への働き)重要性と必要性を改めて説く必要は無いのです。実に私はココが重要でこの事実を如何に知るべきか…、如何に伝えるべきや?…と思っています。この気付きには身を持った体験が必須です。自らの体験は否定できません(この否定は自己否定に繋がり、早晩 自己喪失に変化するのでは?と危惧します)。反対に頭だけの理解は段々に現実感が薄れ、机上の空論を重ね、何れは「信じる」と言う打算的期待で自己を成り立たせなければ成らなくなります。この「信じる」と言う行為は実のところ「期待と事実との乖離」で大変厄介だと思います(←あくまでも個人的見解です、お聞き苦しければお許し下さい)。 > 自分においては 自己に起因する現象だと受けとめつつ 一般に人びとに向けては この社会悪に対して どう説明し できるものならば どう対処しうるか… ○思いますに如何なる状況においても「私は生きている」と言う事実は変え様がありません。しかし、仮に同じ現象を幾人かで共有したとして人により受け取り方が違うのは、先の投稿にも述べさせて頂いたとおりです。この受け取り方の違いはそのまま各人の意味付けの違いに依ると思います。この時の意味付けと恐らく同時に湧き起るであろう感覚の相違も含め、各人に於いて「善」か「悪」か決めているに過ぎないと…。因って私は【「個」と「全」の構造認識(「関係性の側面⇔独立性の側面」の双方向性を含有する大宇宙である自分自身)】を認識するのであれば、如何なる状況であろうとも総て自己責任に於いて人生を処して行くべきだと思います。それは【覚悟】に等しく、それが如何に無理・不条理・理不尽な事であろうとも…です。 但し、総てを自己で責任を背負う事に変わりはありませんが、無理・不条理・理不尽により蒙った物理的損失及び心傷を埋め合わせを求める反作用が発生するのも事実です。そして、その反作用は【道理】と当事者の【納得】とにより事の終息を向えると思います。この反作用まで含めた総ての【因果関係】から当事者及びその関係者が総て自己の内なる現象として自己認識を深め、全体の幸せ(「全」から観れば自己を整える作業)に寄与出来るような事後の行動に繋げる事が肝要ではないかと思います。そして全体の幸せ(「全」から観れば自己を整える作業)へのベクトルとそのエネルギーが終焉を迎える時【涅槃寂静】そして究極【空】に帰すのではないか?と想像するのです…。 さらに申し添えれば私の中では【空】とは【「個」と「全」の構造認識(「関係性の側面⇔独立性の側面」の双方向性を含有する大宇宙である自分自身)】すら消滅した状態では無いかと想像しております。正に【在りて在るだけ】、名称すらも付与できないと…(【空】を【空】と名付けば【空】で無し)。 ※【共通の夢】…広義に於いてそもそもが総ては「幻」であると言う事を前提に、本来は「幻」である「個」の事実認識不足による「幻」の強烈な現実感と分別感(例:私は私、あなたはあなた)が、存在しない筈の相手の「個」を強烈な存在感を持って現実として受け入れ認める時、二義的なこの自他の関係性を【共通の】とするが、それでも広義に於いて総てが「幻」であることに変わりは無いので、二義的な自他が強烈に認識する「幻」な現実を、情感を込めて【夢】とした。因みに【1人1宇宙】で完結していればそれが複数在るのは不自然に感じるが【関係性の側面】から観た場合、相手の存在を容認するので、結果相手の【1人1宇宙】をも認める事になり、広義の自己からの視点も踏まえこの状況を言い回す際、方便的に【「1人1宇宙」が集まり眺めている「共通の夢(我々の言う現実世界)」】と言う表現を用いた。 本当に長々、失礼致しました。最後までお読み下さり 本当にありがとうございます。(謝)
お礼
唯識恐るべしかな!!!(日中は 出かけていました)。 bonnnou03さん たしかに唯識は一貫しているのですね。 現実世界つまりは特には 他者の存在ですら すでに 互いの一人一宇宙どうしが眺めている現実の夢幻境であるのだと。 最後(??)の質問になりますかどうか 一言でお尋ねできるように思います。 《不可思議を――つまり経験合理性で解けない現象を――愛せ》という命題を つねにたずさえているという理解になったのですが いかが あいなりますでしょうか。 (恩恵・つまり無償で与えられた自然本性・つまりそこに宿る自由意志 これは 先行する恩恵に勝てなかった)。
- bonnnou03
- ベストアンサー率42% (3/7)
本当に息切れして参りましたので、ギアを少し下げて投稿させて頂きます(笑)。少し緩めの内容になると思いますので、大目に見て頂けたらと存じます。どうぞ宜しくお願いいたします。それでは… > 無理Aに対して なんらかの無理Bが 自然史過程であれ 人為的な行為であれ とにかく 事実として起こる〔場合がある〕ということ自体は 認めておられる。そうですよね? ○仰られる通りです。事実顕現までの起因(自らを原因とする)とプロセスが解らないだけですので、解らないからと言って事実を否定することは出来ないと思います(兎に角、それは起きた!…と)。一時的に無理に無理が高じ破滅的な状況に陥ったとしても、所詮【真理】【道理】の範疇を超えることは出来ないでしょう…と申したいのです。結果、そのプロセスや起因(原因)を自らの意味付け(事実認識による因果律の解きほぐしが望ましいですが、仮に事実から離れ自らの現実・真実に依ったとしても)により自己認識の気付きを得て、その後の自己(人生)を整える事(反省と事後の行動)が肝要ではないかと…。 > 今度は その事実の認識と解釈の問題になります。認識行為には 各自の主観が介在して 皆に共通の(同一の)内容が捉えられるとは限らない… ○その通りです。認識とその解釈は人により人生経験や対象への認識度、思い方の癖(ポジティブ、ネガティブ等)、本人も気付かないトラウマの影響により異なると思います。厳密に言えば「目で見る」「耳で聞く」「鼻で嗅ぐ」「舌で味わう」「触れて感じる」と言う基本的感覚もそれぞれの身体的状況(人種・性差を含め)により違いますので認識とその解釈を100%同一の内容に…とは実のところ不可能ではないかと思います。その意味で本当の事実を認識するのは甚だ難しいですね。そして「関係性の側面」から観る、共通の認識(せめてもの他者との接点)とは 私の解釈ですと先の投稿の「1人1宇宙」が集まり眺めている「共通の夢(我々の言う現実世界)」と言うことになります。 > 解釈は 一人ひとりが とうぜん相対的な見方なのだから その主観真実としての解釈に それほどの意味はない。もしくは あっても 各自がそれぞれの意味を付与しているにすぎないということ。 ○そう思います。上記の理由及び過去の投稿により、 bragelone様の見解(上記文章)と同じくします。 > 問題は つまりそれでも重要となることは 一人ひとりの見方の違い・各自の境位であると。境位によって この世界における縁起の連鎖は――勝手な用語ですが大きくは―― 悪循環か好循環かに分かれるであろうと。 ○悪循環か好循環かは紙一重です(例:人間万事塞翁が馬)。寧ろそれは肉体が醸し出す刹那的感覚に過ぎませんので差ほど問題では無いと思います。 bragelone様にも補足に於きまして後述頂きましたように(> 現象は 悪循環であっても 主観の内の小宇宙では すでに捉え方において 好循環でありうると。)に尽きます。 > ただ・・・やはり 人びととの対話 いや ふつうの会話では 最小限にでも 共通の基盤に立つ必要があると思われ そのときには このご自身のワールドのままには 意志疎通することは難しいように思えるのですが。 ○同感です(爆笑)。実際、形而上学的な内容を口頭で申し上げる機会は甚だ少ないです(妻にも話せません!キチガイ(失敬)扱いされるぅ~)。それ故このような場所を頂いている次第です。意識の質量と焦点は人により様々ですので、平素は やはり会話にはバランスが肝心!と考えています。 ただ、常に出来うる限り事実認識の上に立ち理解を深めたいと思って居りますし、実のところ所謂 チャネリングや啓示等 自分が認識出来ない話はあまり好きではありません。しかし、何故私がこのような投稿をさせて頂いてるかと申しますと、(どちら様かの投稿にもございましたが)実は私にも【神秘体験】に近い体験(私の【現実】故、内容は秘します。動機付けの話ですのでお聞きになられてもきっと意味は無いです。)があり、不可思議の扉を叩いてしまったのです(笑)。 さらに先の投稿に引き続き申し添えます(クドイ…)と『大事なことは事実と因果律に基づき、現象の不可思議を詳らかにする事』(「関係性の側面⇔独立性の側面」の双方向性を含有する大宇宙である自分自身を知る事)…かと。そして如何に自分(個)に実態が無いとは言え、また無意味な存在(大宇宙だって無意味な存在だし…笑)だとしても、この人生の喜怒哀楽を通じ、それでも「こんなにも自分は素晴らしい存在なんだ!」と気付くことではないかと思うのです。つまり『汝を知れ!』です…ねっ! 【自由意志】の話題よりどれ程乖離しているか解りません(笑)、手前勝手な見解にお付き合い下さいまして、ただただ恐縮でございます。 本来、互いの見解に整合性を持たせる必要性も無いとは思うのですが bragelone様とお話していますと私自身がブラッシュアップされると申しましょうか、改めて自己認識を深めることが出来、純粋にありがたく思って居ります。感謝申し上げます。ありがとうございます。
お礼
お二人の講師による唯識連続講義を開いていただき 感謝こそすれ 恐縮に思われては こちらが 恐恐縮縮してしまいます。 なかなか楽しいレクチャーです。そのつど びっくりしたり途方に暮れたりしながらも ついてまいりました。これからも どんなかたちにせよ 進んでまいりたいと存じます。 《汝自身を知れ》という・表現としてはよく知られた主題として 要約されることも 当然だろうとも思うと同時に もしブッディスムだとすれば 変わったかたちのようにも感じました。 ただし 《「関係性の側面⇔独立性の側面」の双方向性を含有する大宇宙である自分自身》というご説明に わたしの解釈がせせこましかったと反省しつつ さもありなんと納得している自分がいます。 さらに同じ主題の内容として 《現象の不可思議を詳らかにする事》とも説明されています。つまり むしろ《法や真理・道理》を会得するというより 《不可思議を詳らかにする》のだと。 そうしますと わたしの議論好きの性格からは 不可思議さと無理・不条理とのあいだの違いの問題 これに 焦点が向かうようです。一般に不可思議は おそらく 人の自由意志を 妨げないと思われます。不条理としてのあるいは悪とも言うべき思議すべからざることは 意志の自由を妨げ萎えさせる要因となりがちです。つまりこの理不尽が 明らかに人為による行為であった場合です。 自分においては 自己に起因する現象だと受けとめつつ 一般に人びとに向けては この社会悪に対して どう説明し できるものならば どう対処しうるか ここに 当面の課題は 帰着するように考えます。(質問のほうに 話を持って行っていますね)。 ま これは 拙速すべき問題ではないので まづはあらためて確認しておきたいと思います。 なお 《「1人1宇宙」が集まり眺めている「共通の夢(我々の言う現実世界)」》――この表現の意味するところを 必ずしもきちんと捉えていなかったとも気づきました。もし誤解しやすい要素などあるのでしたら 註解をお願いしたいと存じます。(むしろ夢という概念から 現実を眺める・捉えるといった解釈でよろしいでしょうか)。 (最後まで とりとめなく 述べきたってしまいました)。
補足
自由意志の有効性 これが 自由意志の問題として わたしの中の関心の在りかだと あらためて認識しました。 端折った言い方になりますが たしかに人為的な意志行為としての不条理に突き当たって 人はどう考えどう行動するか(しないか)です。 有効な意志行為どうしの差異であれば 問題はないと思います。どこまでも話し合いを続ければよいわけです。 社会的に有力であること つまり 既成の・それとしての秩序をもたらしているその有力性 これが 無効でありえます。つまり 不条理の問題です。 有力の無効性 無効の有力 これをどう捉え どう対処するかです。〔これまでのここでの互いの習練から言っても〕一般には 決まっています。無力だが 自己の同一性を保ち 有効でありつづけること。有効だが 無力 これでよいとすることです。 さらに一歩があるとしたら どうか。・・・・・・・百尺竿頭に一歩を進めうるか。さらに蜀を望むのは だいそれたおこないであるか。・・・ (戦争 あるいは それへの後方支援 この意志行為は 有効であるか。重婚は 有効な意志行為か。・・・) この場を借りて覚え書きのごとくになりましたが。(20070908記)
- bonnnou03
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まるで放火犯が自ら点けた火災現場に再び来るような心境です…(笑)。息切れ後の再スタートゆえ、暴言・失言がありましたらお許しください。初めにお許しを請わせて頂きます。どうぞ宜しくお願い致します。 さて、天罰や報復と言うのは私は恐らく自然界には存在しないと思います。何故なら、それは人間が勝手に理由(意味)付けしたからに過ぎないと思うからです。自然は何もしないと思います、ただ【在りて在るだけ】でしょう。また「全」から観た「個(自己と自己を構成する要素総て)」は幻です(「全」に帰一すれば「個」は消滅する故)。つまり「個」が眺めている世界自体に本来意味がない…と私は思うのです。翻って「全」にも意味は無いと思いますし、さらに究極と言うか当然(!)私の存在自体に意味が無い(笑)。 ココまで来ますと気狂い(失敬)かと思われるかもしれませんね。何が言いたいか?と申しますと… 繰り返しになりますが、所詮『目の前に引き起こされる現象(「全」も含め)を結局は自らの都合の良いように理由(意味)付けをしているに過ぎない』…と言う事です。そして人は知らず知らず自分で決め付けた理由(意味)で自らを縛り苦しんでいるのではないかと…。 多数の人が似たような理由(意味)付けを共有すれば、それが当事者間の【真実】を築き上げるでしょう(例:郷に入っては郷に従え)。しかしその【真実】は残念ながら【事実】とは違う事も多いでしょう(例:過去の定説は覆される)。【事実】は純粋に過去に起きた現象その物です。因みに【現実】とは当人が観ている世界その物を指すと思います。夢や幻覚も含まれるかもしれません。何故なら脳内の認知状態によりますので…。依って下記の通りに私は認識しています。 【真実】≠【事実】≠【現実】 ( 100歩譲って⇒ ) 【真実】≒【事実】≒【現実】 少し逸れましたが、…お尋ねの箇所(> 自然史の過程(天罰?)でなければ 誰か人が報復としての無理を起こす以外…)に付きまして、私は天罰など無いと思いますし、誰かに報復すると言うことは自分に報復(具体的には「感情」の垂れ流し的行動)すると同じだと思います。 しかし、そこで動かさざる物が一つあることに気付きます。それは【因果律】と言う【真理】(仮に「道理」と表現しても良いかも知れません)です。ですから物事の見方として発生の原因やプロセスが解らなくても【結果(現象)】を否定することは出来ません。ただ解らないだけなのです。もしその【結果(現象)】を否定するなら自らを否定するに等しいとさえ私は思います(寂しい人生です)。言えるのは「起きた事は起きた事、兎に角そうすればそうなるのよ。風が吹けば桶屋が儲かるんだよ(笑)」です。この意味付けはお好きにどうぞ!…です。而して、結局はこの意味の無い【結果(現象)】と自分がどう向き合うか?に人生は尽きるのではないでしょうか…。 長々、様々戯言を述べさせて頂きまして、ありがとうございました。自分でも何を書いているやら段々意味不明(総てに意味が無いと言っておきながら!)に成りそうです(失笑)。況や、それ程人間の「脳」で考えられる世界は宇宙に対して極小なのだと思います。所詮解らない事だらけです。先の投稿に引き続きまして申し添えれば『大事なことは意識の焦点を何処に当てるか?当てているか?』…ではないか思います。次元や周波数が違えば観える世界が違うのです。コメントはその世界に応じた【真実】に基づいて交わさないと一方通行になります。ですから目に見えない世界を論じるのは難しいのだと思います。それ程に宇宙は広いですし、しかも我々の理解を嘲笑うかのように厳然と在り在りとココに横たわっているのです(くそぉ~)。 総て因果律により必然であり、且つ無意味。 ホント自然は不可思議で素晴らしいと思います。 …と言うことで自論を述べさせて頂きました。正誤は定かではありませんので、悪しからずご容赦願います。どうもありがとうございました。(謝)
補足
bonnnou03さん おしえてくださってありがとうございます。 ちょっと整理がついていませんが これを知っているかいないかで また 受け取りが変わってくるように思う内容のように感じています。 ううぅーーんとふたたび 一息ついて考えてみますに。・・・ みなさんも 議論にくわわっていただきたいという気持ちです。ほかの回答に言い及ぶのは良くないでしょうから 論点をここに掲げるかたちとさせていただきたいと思います。 このように書き出して 何度か読み直してみていると やっと少しは取り付く島を見つけました。次の箇所です。(上の前書きは そのままにして お応えとします)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ お尋ねの箇所(> 自然史の過程(天罰?)でなければ 誰か人が報復としての無理を起こす以外〔にない〕…)に付きまして、私は天罰など無いと思いますし、誰かに報復すると言うことは自分に報復(具体的には「感情」の垂れ流し的行動)すると同じだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり 無理Aに対して なんらかの無理Bが 自然史過程であれ 人為的な行為であれ とにかく 事実として起こる〔場合がある〕ということ自体は 認めておられる。そうですよね? ということは 今度は その事実の認識と解釈の問題になります。認識行為には 各自の主観が介在して 皆に共通の(同一の)内容が捉えられるとは限らないということが 一点。 もう一点は 解釈は 一人ひとりが とうぜん相対的な見方なのだから その主観真実としての解釈に それほどの意味はない。もしくは あっても 各自がそれぞれの意味を付与しているにすぎないということ。 よって 問題は つまりそれでも重要となることは 一人ひとりの見方の違い・各自の境位であると。境位によって この世界における縁起の連鎖は――勝手な用語ですが大きくは―― 悪循環か好循環かに分かれるであろうと。 それであれば すでに聞いた文章が なるほどと よく分かります。 ・《「現象は自分自身を教えてくれている」…、「今の自分にはそういう部分があるんだよ」と現象〔を〕通じて自分を知るのです。》 ――現象は 悪循環であっても 主観の内の小宇宙では すでに捉え方において 好循環でありうると。 ・《私は他人様の「暗いニュース」に一人で謝ったことあります(苦笑)。結果、大事なことは自分自身を調える事ではないかと思います。》 ――好循環に入れば 《ホント自然は不可思議で素晴らしいと思います。》と。 かなり 《bonnnou03ワールド》に馴染んで来ました。と思いますが いかがでしょうか。 ただ・・・やはり 人びととの対話 いや ふつうの会話では 最小限にでも 共通の基盤に立つ必要があると思われ そのときには このご自身のワールドのままには 意志疎通することは難しいように思えるのですが。 あるいは たとえば 感化するという務めが 自然に起こってきているはづですが。(この場で なさっていますが)。(もうひと方の場合 それを 《情報流出事故》と呼んでおられるのでしょうか)。 ううぅーーん!!
NO18の補足です。 >悪意には本質的に自己との同一性が無く、嘘、間違いや迷いの種など、をばら撒いて脳内に矛盾を生じさせることで自己の同一性の無さを補っています。 詳しく説明すると発生するのは矛盾ではなくコンプレックス(本来の、観念の複合体の意味)です。根拠や動機の異なった思考を難しい言葉でひとくくりりにした思考や複雑な感情で、哲学とはこのコンプレックスを解きほぐすために使うと有益です。 このコンプレックスに依存して健康な無意識におんぶしているのが悪意です。 コンプレックスがガラクタのことです。 このガラクタを片付けるとどのような結論が出るかは誰でも知っています。 一言で「愛」です。 「私は生きている」と言う実感でもあります。 乱暴にこのコンプレックスをほぐすと悪意は自己の同一性の無さを自覚してしまい統合失調症になります。 上手に悪意を制御するコツは真実の愛でがんじがらめにして、逆さ磔の刑にするイメージです。 無心に至った私の悪意の制御方は、逆さ磔の刑から市中引き回しの刑に移行しました。 悪意がお笑い種になっています。 おかげで面白いジョーダンを思いついては一人で噴出す癖があります。 時々人にそんなギャグをお披露目して笑いを誘うのがひそかな楽しみです。 当方のはらんだ悪意は以前にチラッとお話した前代未聞の恥さらしぶりを実践しています。
補足
補足をありがとうございます。 アラヤ識が根本識で すべての縁起は ここから発しているという考えでよいでしょうか。そして しかも 善い循環へと回転したときには この善いアラヤ識から やはり出発していくというふうに。つまり 愛という彼岸に到達し そこから 還相と言ったでしょうか あらたなブッダの道を歩むと。 つまり おっしゃっているように 悪のコンプレックスの解きほぐしが 大きな課題だと存じます。生涯の内に 彼岸に達して 戻ってくるのだと思います。(即身成仏?)。戻って来た人が 往相の人のお手伝いをするのだと。 このガラクタの解きほぐしにも やり方があるのですね。 わたしの場合は 過去の意志行為の径程を どこまでも遡り どんなことでも拾い上げて 自分がこれを解きほぐすという見方です。(精神分析のようでもあります。自分一人でおこなうのが 基本だと思います。その基本の周りに 意図せずとも 人間関係がかかわっているとも言えるようです。つまりは精神分析の治療というよりは 《哲学とはこのコンプレックスを解きほぐすために使うと有益です。》に同感です)。 《上手に悪意を制御するコツは 真実の愛でがんじがらめにして、逆さ磔の刑にするイメージです》――わたしの場合は もし哲学的な思索に他人としてからむ場合には 《真実の愛でがんじがらめにして》 あとは 自己申告に俟つというイメージです。 No.18での《覚醒前は思考はマナ識、記憶はアラヤ識の仕事でしたが・・・》という実態について わたしの場合 精神の三つの行為能力を設定していますので これが分かるといいなと思いました。 社会の次元としては司法もしくは社会組織かつ秩序に喩えられる《記憶》 同じく立法もしくは生産活動に喩えられる《知解》 そして行政もしくは経営に喩えられる《意思・愛》 これら三つの能力行為の源泉が分かるといいなと感じました。 《愛・意思》は マナ識やアラヤ識をも超えて 無の状態じたいが それであるでしょうか。あるいは 不在なものの現在 もしくは 《現在する不在》が 基盤なのでしょうか。(にわかには分かりませんが。無意識とは かんたんには 言いたくないように感じています。《絆》でしょうか)。 ほかにも 脳内の活動領域にかかわる内容のところですとか 述べていただいていますが そのあたりは 適切にお応えできる状態にはないようです。 今後 しっかりと 学として構想するくらいに 進めていきたいところです。
NO8.9.10です。 唯識が話題なのでちょっとお邪魔しました。 私の場合は知識の前にまず神秘体験がありましてその体験について振り返った場合唯識的な体験に符合するものと後になって自覚したしだいです。 私の場合学問と言うよりは唯脳に近く、体験に基づいていて身体的かつ科学的です。 思考は脳の中に閉じ込められていますがこの脳の思考には、存在するかしないかという点では実にデジタルに出来ていまして、迷いですら根拠の無いものは発生しません。迷いを生む原因は煩悩といわれていますが、科学的かつ体感可能な煩悩の正体と言うか根源は悪意です。 欲望も悪意の眷属でして、キリスト教的な神への信仰心にたとえるなら悪魔と呼んでも良いでしょう。事実私は他の方に回答を寄せるとき、わかりやすければ悪意を悪魔と呼びます。悪意には本質的に自己との同一性が無く、嘘、間違いや迷いの種など、をばら撒いて脳内に矛盾を生じさせることで自己の同一性の無さを補っています。 自己の同一性とは「絆」のことです。 この悪意の嫌がらせは脳内分泌物の異常な志向性となって本心と裏腹な心の動きを呼びます。ちなみに脳細胞はほぼ無傷です。(同一性が無いゆえアクセス不能) ちなみに私の中に潜む悪意はもはやガラクタ(雑念)発生装置としてのむき出しの攻撃力は無く、一方的に片付けられていくだけの状態です。 私の健康な無意識は掃除をして心を清潔に保つのが好きです。 この悪意が同一性を持たないまま居座っているゆえに、魂のレベルでは魂の身体的な欠損となります。独自の霊視の結果、この欠損は死後および来世にも持ち込まれましていわゆる業の正体です。 ちなみに悪意の脳内でのテリトリーは大脳表面での伝達異常のみで覚醒の無い状態で目分量で表面積の3パーセント以下。脳の大半は健康です。煩悩の大きさを考えると大抵の人はもっとひどいと考えているかもしれませんが、主観的存在への責任能力が無いまま衝動を発生させ続けているので被害が拡大しているだけです。 まだ道すがらで無心の身ですが、どうやらこの魂の欠損が無ければ健康な無意識たちは主観的存在と確固たる絆を結ぶことが出来、自己の存在を強固に自覚できるらしいです。それまでは自分自身の存在に根源的な疑問がわきます。自らが生きていることは主観的存在にとって本来明白で、言い知れぬ不安程度ならば私は無意識世界の抱えた矛盾の情報流出事故と捉えています。哲学的に疑問点を整理したのが今回の質問の発端だろうと捉えています。これは存在そのものの疑問ですから実感してもらう、信じてもらう、などの幸福な体験でしか解決できません。悪意の知性は借り物なので、説得では簡単には追い出せません。 この「実感してもらう」方の確信を無意識に実感してもらったのが私の神秘体験の内容です。煩悩を抱えた身ですら確信といえる実感が可能です。そうすると無意識は自らが無であると自覚します。 悪意の煩悩の中でもっとも厄介だったのは、生命へのありのままへの無理解で、これを言葉にすると「愛への裏切り」です。身体的現象としては性欲を発生します。 それからマナ識とは感情を自ら生み出して生命に活力を与える無意識の事で脳の前頭葉、身体的にはおでこに住んでいます。西洋で天使にたとえられるイメージ(ビジョン)はこのマナ識の自己紹介です。 アラヤ識とは感情を原動力にして身体的活動に携わる無意識の事で、おでこ以外の部分のうち主に大脳で連合野と呼ばれる部分です。こちらは甘えん坊な幼い子供のイメージで、自己の同一性についてはマナ識よりも強い確信を抱いており、自らの子ども時代そのままに近いイメージです。 ちなみに覚醒前は思考はマナ識、記憶はアラヤ識の仕事でしたが、最近では思考は脳を効率よく使いながら両方の識で分担しています。記憶に関しては阿頼耶識の専売特許で真実を忠実かつありのままに写し取る鏡として、本来の才能を開花させつつあります。 最後になりますがNO8の返答のうち >いまはもっぱら自転車に乗っていますが 一昔前には わたしも 二>時間くらい郊外へ歩きに行っていました。無目的に目標地も無しに歩>いていました。頭の中を真っ白にするというわざではなかったですが。 このコメントには思い当たるふしがあります。 たぶん天使たる健康なマナ識が自分の意思で主観的存在に働きかけた新婚旅行のような体験ではないかと思います。
補足
相当深く掘り下げていただきました。primeapeさん ありがとうございます。 (1) 唯識論にはやはり歴史があって 脳細胞などの解剖学も神経学も発達するとなると さらによく分かってくるというところでしょうか。 (2)それにしても 《神秘体験 / 独自の霊視》とおっしゃっています。ヨガのような実践を伴なうものなのでしょうか。――そこのところを じつを申せば わたしなどは ただ思弁的に読書をとおして考えていくだけであるとは白状しなくてはならないようです。――つまりは じつは たとえば ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 悪意には本質的に自己との同一性が無く、嘘、間違いや迷いの種など、をばら撒いて脳内に矛盾を生じさせることで自己の同一性の無さを補っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ という同じことを 次のように表現しています。(アウグスティヌスの私的解釈)。 ___________________________ 悪は存在しない。ただ 善=すなわち自己の同一性なる存在(自然本性とも言えるもの)が損傷を受け 部分的に欠如したその状態である。 この生命存在なる善の損傷である悪は それ自身・すなわち経験的にして可変的で相対的な善ゆえに備えられた自由意志によって 過ちうる判断をした結果である。 この悪が 悪として存在するという錯覚が生じる。独自の存在であると思いあやまる。相対性の世界ゆえだと思われる。 この錯覚からは あたかも想像力を駆使するかのように しかもますます想像を豊かにするかに感じられるようにもなって 言ってみれば 悪の世界が そこには 欲しいものが何でも揃っているというように 描かれ持たれていく。・・・ ついに帝国を築き 帝王として 悪魔が君臨する。悪魔は 死の制作者である。想像において 善の欠如の親玉であるゆえ。・・・ ____________________________ ちょうどこれを書いているとき ANo.19として補足をいただきました。いまのこの箇所でした。 《矛盾》の代わりとしての《コンプレックス=観念の複合体》は わたしの表現では 《時間複合》です。時間的・可変的な意志決定の結果 理解内容(簡単には建て前)と意志内容(本音。あるいは 両者が逆)とに喰い違いが生じ この齟齬が重なっていく。悪にかかわる判断であったときには その複合は 《嘘、間違いや迷いの種など》を混ぜ合わして 練られてゆくようです。 いまは 発展的にもう一つの課題として 自由意志の源泉の発見・つまり普遍的な主観存在の回復といった議論にも入ったようです。共同主観を形成しうる自然本性(その中核は 愛・意思)。 No.19のほうで あらためて述べさせていただくこととします。 ちなみに――早く言っておきたいのですが―― もうひと方の唯識では 極北の独立主体の視点に立って その存在の中核なる愛(つまり その場合 全一宇宙)の中に 他者の意志行為も入ってしまうといったところでしょうか。
- bonnnou03
- ベストアンサー率42% (3/7)
もう息切れ寸前(笑)…ですが、幾つかご質問を頂いているようなので性懲りも無く投稿させて頂きます。実は返信を頂くたびに私自身の中に捉え方の変化が現れ始め、内容によっては過去の投稿との整合性が無い箇所もあると思われます。最新の投稿に依って私の解釈にして頂きます様、伏してお願い申し上げます(ずるい~)。また手前勝手な自論、且つ末筆ゆえご笑納ください。 ■先の投稿と bragelone様から頂戴した返信を踏まえた私の見解… ○意思 … 全一的な存在からの直感的な働きかけとその「発露の瞬間」的意識状態。(所謂、ファーストインスピレーションを掴んだ状態。) ○意志 … 意思に内在する志向性が発現し、選択を伴い具体化しようとする意識状態、およびその顕現。 上記は唯識で言う「阿頼耶識>末那識」に強引ですが凡そ充当出来るのでは?と思いました。それから「意識」につきましては実のところ私も bragelone様と解釈を同じく(> 精神が捉えたとすれば それが 自動的にすべて 意識内容となるように思う…)しました。つまり総てに意識(=存在)がある、この世界は八百万の神(意識)で埋め尽くされている(笑)と…。 さて「国譲り」のお話ですが「無理が通れば道理引っ込む」の格言は私も好きです。さらに言えば「無理は通っても無理(!)」も好きです。つまり因果律に則り「無理」を通したと言う【因】が無理を引き起こし【果】、結果「道理」が通ると…。そこで問題となるのが現実 身に降りかかる「無理・不条理・理不尽」の捉え方、そして処し方です。捉え方に関しては bragelone様の仰る独立性の側面から【総て自己に起因する】で私は変わりません。お尋ねは処し方についてと思いますので今暫く投稿致します。 先(ANo.16)の投稿に【1人1宇宙】と【「縁」と言う不可思議な相互作用による自己認識】を述べさせて頂きました。現象は総て自内証の顕現ですが、その因果関係・プロセスを総て詳らかに出来ない私は「自己に起因した自己の投影なる不条理」な現象とその「縁」及び自らの「業」に対し感謝を持って対峙します。つまり「現象は自分自身を教えてくれている」と…、「今の自分にはそういう部分があるんだよ」と現象通じて自分を知るのです…。このように謙虚になり現象を自分自身の投影として肯定するならば、常に自分への気付きは眼前にゴロゴロ転がっています(笑)。否定すれば気付きの少ない自己喪失状態を長く享受するのではないかと思います。話は逸れますが以前とあるお坊様に「暗いニュースは見なさんな。」と説法を頂きました。その時はフンフン…と聞いていたのですが、上記の見解によると「暗いニュース」は自分が引き起こしていることになります(驚)。ですからニュースは見ないのです。ニュースを見ようとする意志はどこから来るか?概ね肉体を守るためですね。その肉体は幻です。意志は自由ですのでお好きな世界(暗く辛い世界でも、明るく楽しい世界でも)に自身を赴かせ、自分自身を認識しながら人生を楽しめば良いのだと思います…。 行き過ぎかもしれませんが、上記のような理由から私は他人様の「暗いニュース」に一人で謝ったことあります(苦笑)。結果、大事なことは自分自身を調える事ではないかと思います。泣こうが喚こうが総てが自己に起因した自己の投影です。人を観れば相手と自分が解ります。 【自由意志】とは掛け離れてしまいました…。(謝)
お礼
ありがとうございます。けっこう しつこい返しで おゆるしください。 いま 今回は 一・二度読んで そのままの感想を述べますと まづ 《お見事!!》が口をついて出て来ました。 そして 《ええっ?》――つまり わたし自身は そのようには振る舞えないなというエエッです。 ご自身も触れておられますが 行き過ぎのように やはり思ってしまいます。《全一》の宇宙というのでしょうか その自己(無我というのでしょうか)の状態 これですと そうなりますと けっきょく 見る見ないにかかわらず 世界には 何もかも起こっていますので そのすべてが 自己に起因するものだというふうになるように思われて来ます。・・・ まあ でも 《大事なことは自分自身を調える事ではないかと思います》とおっしゃるわけですから この立ち場も 〔わたしなどから見れば〕一つの思想であるように捉えます。 (ただ 自由意志を 社会的な行為関係の場で どのように捉えて 取り決め合っておくかについては 現状では 少数派のようです)。 おもしろい楽しいお考えをお聞きしました。ありがとうございました。またお会いできるといいですね。 * 縁・縁起は たしかに不思議で 自由意志をめぐって理論としても もっと的確に捉えて行ければいいなとは思います。あるいは その偶有性を おのおの主観ごとに 必然視しうるかなどです。(《自己に起因する》までは行かないのですが)。
補足
見落としだったでしょうか。(20070907記) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さらに言えば「無理は通っても無理(!)」も好きです。つまり因果律に則り「無理」を通したと言う【因】が無理を引き起こし【果】、結果「道理」が通ると…。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《無理が無理を引き起こし》という部分です。これは 自然史の過程(天罰?)でなければ 誰か人が報復としての無理を起こす以外にないと思われるのですが いかがでしょうか。もし 重要だとお思いでしたら 再度お応えいただくのもよいかと存じます。 《目には目を 歯には歯を》にかかわるのでしょうか。そういうわけではないとおっしゃっていますし。・・・天罰のように理解すればよいでしょうか。(しつこくて あらかじめ ごめんなさい)。
- bonnnou03
- ベストアンサー率42% (3/7)
早々の補足ありがとうございます。正直、無学ガリガリ君(笑)の私としては始めの投稿でかなり目一杯ですが、今しばらくお邪魔させて頂きます。先の投稿より更に観念的となりそうなので、所謂「私はこう思う…」の範疇で正誤は定かではない(!)と言う事を前提に投稿致します。 確かに私の考え方は仏教(ナンチャッテな…笑)に依るところが大きいと思います。相手が存在するか?相手の意思表示とは?との事ですが、客観的現実としては相手は存在しますし、意思表示もすると思います。ただ、先の投稿も踏まえた上で補足して申し上げますと、私の解釈では「1人1宇宙」であると言う事とこの「1人1宇宙」が集まり眺めている「共通の夢(我々の言う現実世界)」と言う枠の中で「縁」と言う不可思議な相互作用による自己認識が先ずあると言う事。そして、さらに次元(視点)を変えて申しますとその自己認識を突き詰めると自己が消滅(空観と唯識に依る「全一」)すると言う事。「全一」の側から眺めたときには総てが自己の範疇ですので、この場合相手は幻であるし、意思表示として感じ取っている(錯覚している)物は因果関係による自己の投影(自己のアクションによる反響)に過ぎないと思う訳です。ですから私はその意味において「相手は存在し、存在しない」し、意思表示は自己の投影と観る訳です。ココに責任の所在を求めますし、総ては自分に起因すると申したいのです。 先の投稿後、補足を頂戴しまして参考になりましたのは恐らく bragelone様の仰る「意志」を私は「意識」と解釈していることです。志向性を持たせたていると思われる「意思」を私は「意志」と…。少しズレますが思いますに「思う」と「考える」は微妙に違うと思います。「思う」はインスピレーションのように感じます。「考える」は対象のある「想い」と同義語で「思い」≠「想い」であろうと。この場合「意志」の方が「意思」よりも対象への方向性を含んでいるように思います。私の中では「意思」とは「意識」の発露(直感・インスピレーション)であろうと…。翻って考えますと「意思決定」は直感を掴むことで、「意志決定」は考えて考えた挙句に決めた方向性では無いかと思います。あわせて「選択」は「意志決定」に組み込まれる物だとも思います。つまり「意思」は選択しないと…。言葉遊びに言われるかもしれませんが定義をしっかりする事は重要だと思います。 「私はこう思う…」の範疇で自由に書かさせて頂きました。ご無礼がありましたらお許しください。
お礼
ご回答をありがとうございます。 用語についてこの欄に扱って あとは補足欄に述べるというかたちにさせていただきます。 内実としておっしゃるとおりの内容を確認しました(大野晋説)。 《おもひ(思)》は 《こころ・こころざし(志)》が《外に向けて活動する》のとちがって 基本的に《内にとどまる》ものだと言います。また 《か(処)むかへ(向き合へ)=比較考量》ゆえ《考へ》であって これも やはり外に出かけています。 《 will / Wille / volonte =意志》という慣用に従っていましたが 個々の働きをむしろこの意志に当て 心の内面における基本的な思いを 《意思》としたほうがよさそうです。つまり逆です。 わたしの整理としましては 《「意思」は選択しない》が おそらくすでに《志向性》を宿しており それが具体化したものを《意志》と言う。 霊感・直観・観想に近い《思い・意思》から いくらか具体的に《想い・想像》が――まさに《像を想う》がごとく――生まれ さらに志向性を持ったなら 選択肢を認識し それらを突き合わせ《考え・思考し》つつ判断する・つまり《意志決定》する。 (慣用との折り合いを取ろうと思えば 即物的に《意志〔なる個物の〕決定》であり つまりは 人格的な存在のあり方として《意思〔にもとづく意志の選択・決定・〕表示》であるとなるでしょうか)。 《意識》は どうでしょうか。わたしのやはり感触になりますが これらの意思・想像・思考・意志決定その他その他 つまりは いわゆる現実もしくは世界 これらのいづれにしても 精神が捉えたとすれば それが 自動的にすべて 意識内容となるように思うのですが。
補足
ご回答をありがとうございます。(お礼欄を書いたあとに書きます)。 あえて通俗的に表現を言いかえるとしますと 次のようになると思うのですが 添削をお願いできますか。 すべては――もし 修行のことを措いておいてよいとのゆるしを得られますならば―― 《ゆづる(謙譲)》の問題であると捉えます。互いに譲り合えるならば もう問題も発生しませんし もし一方が まだ譲り得ないという場合には 昔の物語における《国譲り》の例になると考えます。 つまり 後者の場合というのは 早い話が(余計に通俗的になりますが) 《無理が通れば道理が引っ込む》という事例だと思われます。 (物理的な力 もしくは 社会的な権威なる力に屈していますので その場合の意志には 《長いものには巻かれろ》という側面がありますが 基本的には《国をさえ 譲っている》というのが 実際であろうと考えます。つまり 基本的な意思――自己の同一性とも言うべきもの――は とうぜんのごとく自己のもとに保持しています)。 ここから 見解が分かれることになるのでしたが それは 《無理》なる意志に対して これをどう捉えどう対処するかだと思います。 《無理・不条理・理不尽》も 《わたしの意思表示であり 自己の投影である》という極北の立ち場を bonnnou03さんは表明しておられるのだと。宇宙大の唯識空観の中に納められた縁起関係にあっては たとえただちに経験合理性によって判明するような因果関係が曖昧のままであったとしても――というよりも それらすべてが むしろ幻なのだから しかもその幻じたいが 自己の投影だということになるのだから―― すべては 自己の意思の内にあり 《自己に起因する》のであると。責任問題は自明であると。 わたしの立ち場を 端折ったかたちで結論だけを述べますと この《無理なる意志》に対しては 一方で 自分は決してこの《不条理なる志向性》を持たないと覚悟する。(欠陥を憎み内的に捨てる)。 他方では その意志の主体(つまり相手)に対しては 以後 その相手が心ないし意思を入れ替えない限り ただ事務的にのみ付き合っていく。(欠陥ゆえに人を憎むものではないが その考えとしての意志行為については疑問を持ち続ける。公けに表明された文章などについては 批判をしてゆく)。といったことになります。 おそらく こうではないでしょうか。まづ人間は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在だと思うのですが わたしは 関係性の側面に重きをおいて考えている。bonnnou03さんは 独立性の側面からものごとを見る。しかも こちらの立ち場は その立ち場を 究極の次元で捉えてこそ 現実となるというような性格を帯びていると。 (性格の問題ではなく 本質のそれだということなのだとは思うのですが いま わたし自身が それになじむには 別の行き方を採ってきた時間が長いように感じています)。 さらに ミーちゃんハーちゃんになりますが 無理なる意志行為を被ってその後 その相手に対しては 唯識の立ち場では どのように受け留めているのか 知りたいところです。何ごともなかったように振る舞うということでしょうか。すべてが 自己に起因した自己の投影なる不条理であるならば そうなる・・・ということでしょうか。ううぅーーん!! 皆さんからも ご意見をいただきたいところですね。
- bonnnou03
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自由意思・・・ですか。難しいですね。怖いもの知らずで思いのまま書いて見ようと思います。失礼がありましたらお許しください。 【自由と責任】人間社会において「自由」とは欲望のままに何をしても良いと言う訳ではないと思います。一方、巷では「責任を取れ!」的な自分の事は差し置いて他者に対し懲罰的な責任の取り方を求めることが良くあると思います。現象は因果律によって成り立ちますが、自らの眼前に繰り広げられる現象には少なからず自分と関係性(「見ただけ…」「聞いただけ…」も含め)があるのは事実と思います。ココから先は観念的になりますが「責任」という言葉の本当の意味は「自らの行動に責任を持つ」と言う事だと思います。例えば「偶然、理不尽な悲惨な事故に遭った」…とします。一般的には忌み嫌われるような現象でありますが、視点を変えてみてその場に居合わせるような行動を取ったのは「自分」である…とします。この場合「責任」は自分に発生すると思います。すなわち、総ての現象は原因と結果から成り立ち、「自分」が関わった事は総て自分に起因しているのではないか?と思う訳けです。ですから私の解釈の場合「>約束をしたのであるからには それを違えたことについて 何らかの責任が発生する…」に関しましては、寧ろ約束をされた側が相手を見抜けなかった自己責任が問われるのではないかと思うのです。その際、約束をした側は「信頼を失う」と言う最大の罪を自ら蒙るのだろうと思いますし、それが約束をした側の責任の取り方だと思います。私はそう言う意味で「損失補填」と「責任」とは全く別物と考えています。 【意思】個人が何をどう思うか(意思)はそもそもが自由だと思います。それ故、私の中では「意思≒自由」と思っているくらいです。唯識に近いかどうか解りませんが「意思がある」と言う事と「存在する」と言う事も近いように感じます。「存在(≒意思)」があり、時間がある中で「因」が生じ「果」を享受する…。上記とも重なりますが総ての現象は自分に起因する…に繋がるとも思うのです。瞑想的な言い回しなのかも知れませんが、我々は究極「ただ観ている存在に過ぎない(対象と自己の合一)」のでは無いかと私は想像しています(笑)。 【自由意志】本来的には「意思」は「自由」で「存在そのもの」であるが、現代の人間社会では「他人への迷惑(相手の「生命」「時間」「財産」等の搾取)」を考えて行動(この時点で「自由意志」と呼べるかどうか疑問。)しなければ「自由意思」を発揮できない状況にある。またその行動に付随して発生する「責任」は自らのその「行動」に対して取る物であり、「懲罰」とは別の物でないか?…と言うのが私の見解です。 殆ど哲学など勉強したことがないのでガリガリの我流ですが、こんな風に私は思っています。どうぞ宜しくお願い致します。
補足
No.9の補足欄に書きました《観想と行為との理性的な結婚》という主題が――ご自身も《瞑想的な言い回しなのかも知れませんが》とおっしゃっているように―― かかわっていると考えます。その問題を掘り下げるご回答をありがとうございます。 しかも 《観想・瞑想》が それとして 主体を確固とした存在に仕上げている場合のようにお伺いしました。つまりまた他面では 《行為》を すなわちその行為関係を やはり いまの主体確立した独立存在の側から・その自己の側の問題として 捉えた場合である こう受け留めました。 自己の行動範囲をしっかり押さえ 身に納めている場合 社会的行為の関係を 一方の側つまり自己の側に重心をおいて その自己を責めることでほとんど済むのだとおっしゃっている。すなわち 相手に対しては もはやこちらが個人的に責めることはなく 社会的にも極めて限られた最小限の責めで済ますという態度になる こうおっしゃっていると解してよろしいでしょうか。 まさにニルヴァーナを思わせるご見解です。 おそらく わたしの場合 いまだに身は金平糖です。ですから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 本来的には「意思」は「自由」で「存在そのもの」であるが、現代の人間社会では「他人への迷惑(相手の「生命」「時間」「財産」等の搾取)」を考えて行動(この時点で「自由意志」と呼べるかどうか疑問。)しなければ「自由意思」を発揮できない状況にある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ とおっしゃるとき――すでに 《この時点で「自由意志」と呼べるかどうか疑問。》と註解されているので そのことと同じ内容になるのですが―― わたしの場合 こう言い替えます。 すなわち《本来的には「意思」は「自由」で「存在そのもの」である》を基礎としてになるわけですが __________________________ 人間社会では「他人への迷惑(相手の――「生命」は除きますが――「時間」「財産」等の搾取)」を考えに入れざるを得ないので 意思決定し行動するときには 互いに「自由意志」を発揮するのだという大前提に立つことを認め合った上でのこととなる。自分の差し出すサーヴィスは 瑕疵なきよう本物であるよう留意する。 __________________________ 《約束をされた側が 相手〔の約束が偽りだったこと〕を見抜けなかった自己責任》については 上手な切り抜け方を持っています。《欺かれるなら 我れあり》と。(一度目のことだと言ったほうがいいですね)。 また《損失補填》は求めないのですが その相手に生じた虚偽を 自己の内に 内的に棄てます。露骨に言えば この虚偽という欠陥を憎み その虚偽を宿す精神=身体の癒えることを愛します。人間を愛し 欠陥を徹底的に憎みます・棄てます。欠陥のゆえに人を憎むものではありませんが 人のゆえに欠陥を愛することは金輪際致しません。(金平糖の金平糖たる所以のようです)。 ただ 世に言う不条理なこと すなわち《「偶然、理不尽な悲惨な事故に遭った」…》などなどの事件 これについては むしろbonnnou03さんのおっしゃる見解の側に わたしもいます。《その場に居合わせるような行動を取ったのは「自分」である…》という見方です。 それ以後で互いに見解を分けるところは 感触としては 相手が存在するか否か また 相手が意思表示をしたか否かであるように思います。相手が存在していても 意思表示していなければ 存在していないと同じだと見なします。つまり自然災害のようだというわけです。相手が人間であって しかも意思表示したとなれば 上に述べましたお聞き苦しい考えを捨て切れていません。 いわゆる大乗仏教ということと関係ありますか。あるとすれば どちらが大乗ですか。その結果で またわたしも考え直します。大乗であるべきかを含めて。 (なお わたしの場合 《意志》は 存在そのものにかかわる広義の基礎としての全体概念を そして《意思》は 個々の具体的な内容を持った意図・心づもりを それぞれ指します。自由意志と意思表示。ただし意志決定と意思決定は どちらも使うでしょうか。意志の自由な選択そして意思の選択などなど。) 重ねてお考えを寄せてくださったことに感謝申し上げます。対話(ここでの複数の)が進展します。
補足
bonnnou03さん――時々気づきましたが この《さん付け》でとおして来てしまいました;根ががらっぱちですので 《さま》はわたしには似合いません;あしからずこれも伏してご海容のほどをお願い致したいと存じます―― 盆と正月が一緒にやって来たようです。たいへんありがとうございます。内容も これまでどおりに 納得させていただきます。 かくなる上は 勝手ながら わたし自身の問題意識にもとづいて 今後の進む方向を確認させていただければと考えました。 少し振り返ろうとしましたならば まづ 結局 わたしは――自分では 決して気が短くはなく 長いけれども 遅くもなく早いのだと・早過ぎるのだということからだと思うのですが―― 価値観からの禁欲という文章上のエチケットを 早くも 破ってしまうという事情があったのだと思います。 ですけれども 禁欲は 欲望と言いますか 端折って言いますが 恩恵もしくはダルマに従ったあとの自由意志の発現・これとしての《欲望》 があるというのも 前提になっています。《関係性の側面》だとも理解します。誰かの言葉で 《関係の絶対性》であるかと。 ですから 途中で勝手に この信仰告白に移ってしまったのがいけないと反省致します。 そこで今後の課題ですが おっしゃるところの《即身成仏》 これが鍵言葉になると存じます。わたくしの解釈では 《あくまで 永遠の現在というべき〈いま・ここ〉に立って生きる。(前世・来世については無記としている)》です。これを人に語るときには 《乱暴な賭け》だと説明します。 ブッディスム入門(《名字即》でしたか) =即 彼岸到達(《究竟即》・《出世間》)つまり卒業 =即 社会人としてのボディサトヴァ(社会的身分としての出世はしていなくとも菩薩を生きる) ――ここまでの大胆さは 持っておられると見たのですが。 なお《信仰》については 価値自由な規定を持っています。これも おっしゃるところの【統合宗教】の側面にかかわると思いますが いかがでしょうか。 _________________________ まづ人間が《絶対》に対してどういう関係にあるかという問題になると考えます。その《絶対》とは 人間が考えても 分からないことであり しかも 分かるか分からないかが 分からないことがらであるとします。 したがって それに対する人間の態度は 《考える》以外の精神および身体のあり方ということになり 一般にこの態度を 《信じる》と言うのだと。 もう少し詳しくは 《絶対》に対する人間の関係としての《信じる》には その絶対の存在を《信じる》場合と《信じない つまり 信じないと信じる》場合とがあるのではないか。 仮りに《絶対》を《神》と表わすなら 有神論と無神論とであると。どちらも じつは 信仰なのであって 神は存在すると信じる場合と 存在しないと信じる場合とになるのだと。 むろん 神にも ヤハウェー・アッラー・キリストの神としてのヤハウェーがあり その他 《絶対》としては ブッダ・ダルマ・空・無・ブラフマン・・・あるいは物質・無神などがあるはづです。 ____________________________ 一呼吸おいたほうがよいかも知れませんし あるいはまったく自由にお考えをさらに述べていただいても ありがたいと存じますし よいかとも考えます。 一たん概要を教えていただいた時点がありましたが この・とても人を喰ったような言い方になって――それこそ大汗をかきかきでの――面映い限りのこととしてながら〔この〕感化という内面からの活動といった側面にも触れずには 終わらないとは思いました。 重ねて重ねて感謝申し上げずにはいられません。感謝することじたいが楽しくなるようにさえ感じております。ですが それでも さらにさらにお考えをわずらわせ申したい気持ちもございます。一呼吸おくのもよし どうか自由にご投稿もなさってくださいますようお願いいたします。謹んで申し述べました。