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自由意志は錯覚か?
脳科学者の間では、自由意志(自分の行動を自分自身が決定しているという感覚)は錯覚であるという考えが広まりつつあるようです。 私は、次のような実験が将来技術的に可能になるだろうと予想しています。 被験者の脳に機械を取り付け、外部から「右足を上げろ」という信号を送り、その通りに右足を上げさせる。しかも被験者に自分の自由意志でそれを行ったと錯覚させる。 もし本当にこのような実験が実現したとしたら、皆さんは自由意志が錯覚だということを認めますか? それとも飽くまで「いや、今のは機械で操作されて騙されたが、普段はこんな機械つけていない。普段俺が感じているのは本物の自由意志だ」と主張されますか?
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やっていることは、 脳の特定部位を電気的刺激を与えるなどすると、ホニャララの反応が起きるということと基本的に同じでしょう。 この電気的な刺激が信号に置き換わっただけ。 このような実験で分かるのは、あくまで刺激とその刺激に対する反応の経路と過程です。 「右の手をあげる」という意志決定のプロセスとは何の関係もありません。 自由意志の議論で大切なのは、この意志決定のプロセスです。 もし意志決定が原因→結果という因果律にのみしたがっているのであれば、 「右手を上げる」という意志の決定は、先行する事象によってなされるのであり、その意志決定は必然的なもので、そこに自由はない、となります。 極論をするならば、宇宙誕生の瞬間に、その人がその時に「右手を上げる」ということが決定されている、と言ってもいい。 ───こういう考え方を「かたい決定論」といいます─── あるいは、こう言ってもいいでしょうね。 この実験の被験者はただの物理的対象で、装置に過ぎない。 そして、 自由意志で問題になるのは、「何故、被験者の右手をあげさせよう」と、その実験を行う人が考えたか? 左手でもよかったのに、なぜ、右手なのか? ───このとき「左手を上げさせる」という選択の余地があってはいけない。絶対に右手でなければならない。このことを証明しなければならない─── そもそも、なぜ、この様な実験を行おうと思ったのか? このような実験を行うことは、この実験を行なうはるか以前に決定されていた(orもしくはこのことは完全に予測できる、予言でできた)のか? である。
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- a_hona
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人間と言えど本能に支配されているのだと私は見ます。少し複雑な精神を持ち合わせていますが、基本的には自由意思は見られないと思います。みな自分、個体に縛られており、その枠組みを脱するのは難しいのではないでしょうか。
#6です。 >>の二択にしてしまうのも無意味です。 >私が思いついた反論があれだったというだけで、他の回答をくださってもけっこうです。 それについては既述です。何がどう既述なのかは、回答を読んでください。 >二択から選択するのではなく、質問文をたたき台に議論を展開していただくことを期待していました。(哲学トピを見ていますと多くがそういうケースのようですので) 私の認識では(そして運営からの情報を見る限り)、ここは議論の場ではありません。分からないことを質問し、それについて回答を書くだけが趣旨とされ、許されています。私もその趣旨に応じてここを利用しています。議論なら議論前提の場所を選ぶべきでしょう。 >「手あかのついた」であるなら、その議論がまとまった本などを紹介して頂ければ助かります。 意思という知能は人工知能研究として進められていますが、人工知能研究が始まったのは遅くとも17世紀です。何百年もやっていて紛糾、迷走を続けており、未だにゲーム程度、クイズ解き程度までしか言うに足るものができていない。 そして自由意思は自由意思だけで扱うことはできない。少なくとも現在まででは、問題の切り分けですらやれていない。そんなことが、何冊であれ本にまとまるはずもありません。やはり、質問しようとした問題を甘く見過ぎておられるようです。
- kurinal
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こんばんは。 >「脳科学者の間では、自由意志(自分の行動を自分自身が決定しているという感覚)は錯覚であるという考えが広まりつつあるようです。」 環境から自由ではありえない、ということでは。
- hiak123
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人間は馬鹿なのに自由意志もしくはあれこれというものが必要ではありませんか。 それを得たいもしくは得たくない。これを判断できるまでは自由意志もしくはあれこれというものが必要なのです。 私は馬鹿にわかるように言いません。
お礼
ご回答ありがとうございます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 錯覚だろうが虚構であろうが 自由意志は ひとの生まれつきそなえた自然本性の内の行為能力のひとつであると捉えられています。いわば公理として そうなっています。 さもなければ 意志による自由な選択が成らない・あり得ないということになります。 そうすると 端的に言って 他人(ひと)の意志の自由を踏みにじることを基本要素とする犯罪行為は 成り立たないことになります。 物理的なちからをいくら他人に押しつけて おのれの目的を一方的に達しようとしても そのチカラをチカラで妨げられないかぎり 他人に迷惑をかけたということにはならなくなります。 人びとは そうではなく意志の自由な選択を自分はしているという基礎に立つと思っていて たとえば満員電車で急停止して からだが隣りの人に寄りかかったとき そのような不可抗力による動作であったとしても その行動をあたかも自分の自由意志によっておこなったと見なして ごめんなさいとあやまります。 そのように世の中は 個人としての人間における自由意志を中軸として成り立っていると見なされています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 公理とする立場ですね。了解しました。
#1です。どうも意図が伝わっていないようです。 >被験者の脳に機械を取り付け、外部から「右足を上げろ」という信号を送り、その通りに右足を上げさせる。しかも被験者に自分の自由意志でそれを行ったと錯覚させる。 >もし本当にこのような実験が実現したとしたら、皆さんは自由意志が錯覚だということを認めますか? この実験で証明できるのは、「自ら意思決定したように感じていることでも、自己の意思に基づかないものが存在する」ということだけです。これでは、「自らの意思による決定がある」ということを否定するものにはなりません。 さらに「自由意思に基づく意思決定があるかどうか」については、ほとんど関係がない実験でもあるわけです。強制したことを強制と感じないこともある、というだけですからね。知性が決定論的・機械論的だとしても、そうでないとしても、トリックは施せるというだけの実験では、自由意思の存在自体に関する実験にはなりません。 先ほど申した「手垢が付いた」というのは、もう行われているということ(だけ)ではないのです。むしろ主眼ではない。テーマに対して有効でない方法で証明しようとする行為が「手垢が付いている」のです。 さらに申せば、 >皆さんは自由意志が錯覚だということを認めますか? >「いや、今のは機械で操作されて騙されたが、普段はこんな機械つけていない。普段俺が感じているのは本物の自由意志だ」と主張されますか? の二択にしてしまうのも無意味です。その実験の解釈はいろいろあり得る。然るに、たった二つに恣意的に絞った選択肢のどちらかだと考えるのは、自由意思について調べようとする態度ではありません。そのことも「手垢が付いている」のです。 もしできるだけ簡潔にまとめるとするなら、例えば「学問的に行うべきことを、学問的な手法に依らずして行おうとするのはダメである」ということです(そのことも、疑似科学への入り口として「手垢が付いている」)。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >の二択にしてしまうのも無意味です。 私が思いついた反論があれだったというだけで、他の回答をくださってもけっこうです。 二択から選択するのではなく、質問文をたたき台に議論を展開していただくことを期待していました。(哲学トピを見ていますと多くがそういうケースのようですので) 「手あかのついた」であるなら、その議論がまとまった本などを紹介して頂ければ助かります。
- suzumenokox
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自然状態の「自由意志と定義しているもの」に影響を及ぼす要素(1)がいくつかあるという解釈でよさそうな気がします。 脳は環境とタイアップして精神という機能を構築します。そのハードウェアにおける環境的要素の占有率は階層構造を成しており、そうした階層構造の中のどの部分にどの程度(1)が影響を及ぼすかということだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。
- Mokuzo100nenn
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>もし本当にこのような実験が実現したとしたら、皆さんは自由意志が錯覚だということを認めますか? いいえ。このような実験の影響は受けないと思います。 >普段俺が感じているのは本物の自由意志だ」と主張されますか? いいえ。本物の自由意志などないと思っています。 人間の脳も、外界からの入力に対して、過去に蓄積した情報(=記憶)を参照しながら、一定のアルゴリズムで出力を決定しているというモデル化を考えると、「完全なる自由」はなくて、外部からの刺激と過去の記憶に制約されている「不自由な意思」というべきではないでしょうか。 ただ、人間は書物などで学習しながら、自分で実体験したことがない事象まで情報として取り組むので、入力と出力の関係が単純ではないという性質があり、あたかも自由な意思を持っているかのように見えるだけだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。
- NemurinekoNya
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強制、束縛しておいて、「自由意志は錯覚である」ですか。 それに、お示しの実験で分かるのは、 ”「右手を上げよう」と思えば、右手が上がる” という当たり前のことを示しているにすぎませんよ。 ”「右手を上げよう」と思う”ことを、ただ、脳への信号に置き換えているだけですから。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >”「右手を上げよう」と思えば、右手が上がる” >という当たり前のことを示しているにすぎませんよ。 「右手を上げよう」と意図することを自由意志とよび、そう思った結果右手が上がるかどうかは外部的な要因(拘束されている、身体が麻痺している)に依存するのではないでしょうか?
- 雪中庵(@psytex)
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「自由意志が錯覚か?」という前に、我々が感じている存在 自体が、階層現象性(個体(脳=認識)>細胞>分子>原子> 素粒子>クォーク>超弦(量子定常波))を表面的(いい加減) に捉える事で二次的に派生したものであり、錯覚だと言えます。 それは「自我仮説(時間の流れ=記憶=過去=超光速)と空間 仮説(空間の広がり=予測=未来=光速下)の相補分化」と して、自己の必要として環境は生じている=宇宙そのものが 自由意志だと言えるのです。 それが自分の思い通りにならないのは、その「相補」が物理的 根源にまで遡った相補性であるがゆえに、現象表面的な肉体的 自覚による思い通りにはならないのです。 即ち、自己に対置される外的存在性とは、“肉体(物質)とし ての自己”と“宇宙(心)としての自己”のギャップに由来する、 自己矛盾として“自己にぶつかる”のです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 機械によって存在しないものを目に見せることもできるわけで、視覚は全て錯覚、五感もすべて錯覚。そのなかで多数の人が共通に錯覚しているものが実在とされている(しかし結局は錯覚)、という理解でよろしいでしょうか?
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お礼
ご回答ありがとうございます。