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自由意志ってなんですか?

「人間のすべての行動は、資質と環境と、体験の結果、行動は決まる」 故に、人間に自由意志なんてのはないっ!! これは純然たる事実である。 の問題点ってなんですかね? 個人的には、この事実は誤解されやすいので、公言しづらいというのはあるかと。

みんなの回答

noname#210533
noname#210533
回答No.17

自由意志があたかも存在しているように見えるその訳を、 全く説明できていない、ということでしょうかしらん。 貝殻を指さして、「これはネジではない!」と力説するような 滑稽な虚しさは・・・それ自体完結してしまって何も引き受けず、 何ももたらさない、ということは問題点ではないかな? つまり・・・ 「で?」 って感じかな。 どうせなら、人類の共通無意識、位にまでは風呂敷を広げて 欲しいと思うのはイマーゴ故かも知れませぬ。w

  • dropyork
  • ベストアンサー率15% (13/85)
回答No.16

「人間のすべての行動は、資質と環境と、体験の結果、行動は決まる」と、言える人はいます。 問題点は、そう言えない人がいること。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.15

問題点は、認識でしょうね。 認識論・認知論・認知心理学・認知行動学あたりを勉強されたほうがいいかと。 ○HKのアイエンガー教授の「選択の科学」の授業あたりもいいかと思います。

noname#195146
noname#195146
回答No.14

 もしそうであれば、とっくの昔に人工知能の作り方は、技術的な問題はさて置き、原理は解明されてしまっているはずだ、ということです。あくまでもたとえば、ですが。  人間の知能を人間が再現できるなら、人間が人間の感情を含む思考を完璧に推論できるということです。自分の外に、機械を使って再現するのは技術的な壁がありますが、その自分は人間ですから、少なくとも自分がどういうときに何をするかは分かるはず。  ところが実際の経験では真逆なわけです。慈悲深い心境でいたのに、一瞬にして激怒に変わるなんてことは、創作の題材として古くから尽きないものとなっています。もう少し平和なもので、世の中にありふれているものの例なら、一目ぼれがあります。既にパートナーがいても、別の人に一目ぼれなんてことはよくある。  さらに別の例としては、ある数学者が経験として語っているのですが、間違うことができるから新たな発見ができる、とものがあります。そう簡潔にまとめた理解をしていなくとも、類似の事を経験した人は多い。  少し突っ込んだことを考えるなら、自由意思は自我ということと不即不離です。誰でも自分が確かに存在していることは感じている。何かを理解するのも自我に存している。  そう感じているのが自我ですが、その自我というのがどこにどう存在しているかは未だに不明です。強いAIの主要な研究対象でもあります。もし自由意思の有無を問うなら、自我を解明しなければならない。しかし、本当に自我があって、そこに自由意思が存しているのか。疑問でもあります。数学でいえば、変数同士が互いに絡み合う微分方程式のようなものかもしれない。  分からないことだらけです。解明できるかどうかすら分からない。数学の不完全性定理のように、分からないということが証明される可能性すらある。  自由意思だけ取り出して、その有無を論じても何も得られませんよ。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.13

それが事実なら、「刑法」なんて成り立たない 資質はしょうがないのかもしれないですが、 環境と体験は、どうなんでしょうか。 「自由意志なんてない」のほうがラク、というのは、あるんでしょうね。 (刑法には「不作為犯」というのもあります。)

回答No.12

他人を見ていると、宇宙の因果律の中に囚われており、 自由意志などないように思えます。 しかし、この宇宙そのものがあなたの意識の中の産物 に過ぎない時、その意識が、意識の外のものに支配 されているという考えは成り立ちません。 そうした決定論的な考えは、不確定性原理において 否定されたし、そこにおける「位置(S)と運動量(St)と 時点(T)と質量(Ts)の2対において、その一方を確定 化しようとすると他方が無限不確定化(=無)する」という 本質は、「時間軸(T)=自我仮説=記憶=過去=超光速」 と「空間軸(S)=時空仮説=予測=未来=光速下」の相補 分化(超弦の原理的光速性に還元される本質の階層 現象の表面的定性化による非光速性に付随した)として、 “自我成立のための必要”として環境は与えられている と言えるのです。 全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づ いており、無限につめ込むと存在確率の山が平らになり、 無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇 に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に 無の風は光となり、認識体はその光(量子相互作用パタ ーン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての 宇宙を認識するのです。

回答No.11

 こんにちは。  ★ ~~~~~~~~~~~  「人間のすべての行動は、資質と環境と、体験の結果、行動は決まる」  故に、人間に自由意志なんてのはないっ!!  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり このうち  ★ 体験の結果、行動は決まる  ☆ とあります。  つまり   ○ 行動を決める前に 体験をおこなっている。  つまり   ○ 体験をおこなったときには 自由意志ははたらかなかったのか?  という問い返しがとうぜん出て来ます。それについては どうなのでしょう?

回答No.10

>「人間のすべての行動は、資質と環境と、体験の結果、行動は決まる」 >故に、人間に自由意志なんてのはないっ!! >これは純然たる事実である。  資質も、環境も、人間も全体としてカオス。  行動のあらゆる可能性の全てが存在(存在確率として)しており、過去を振り返るなら体験したと記憶するのはその1通りのように認識されるだけ。  人間には自由意思などないことに変わりはないが、その行動の実行直前はゆらいでいるのであって決まっているわけではない。  つまり、前提条件が全て揃っても、結果は曖昧だということ。

  • larme001
  • ベストアンサー率44% (271/608)
回答No.9

 問題点という表現がイマイチはっきりしないような気もしますが、一般的ないみでの「自由意思」というのは「言論・思想信仰の自由」のことを指すと思いますので、つまりそれは法律的な意味での選択肢があるということに過ぎないかと思います。そう言う意味では、質問者さんの文章に仮に自分を含む全ての回答者が反対して弾圧したとしても別に「本当の自由意思なんてない」と信じることを社会的に否定することも抹殺することもできないというだけであります。  一方で、その質問文に挙げられる「本当の意味での自由意思はない」というのは人の思考における境界線のようなものに対する哲学的解釈なわけであって先に述べたような「自由意思」と同じようで議論している次元が異なるでしょう。まあ、極端な例を上げると例えば天気予報で「明日100%雨だから明日は絶対雨だ」といったとすると、ここでこの天気予報は100%正しいという思考の境界があるわけです。実際100%天気予報で雨といったって翌日晴れることだってごくたまにならあるでしょうし、別にそれを否定するわけではありませんし、それを言い出すと「天気予報が100%正しくない以上本当の天気予報など存在しない=天気予報など無意味」といったよくわかない理論展開が生じることだって可能になってしまいます。すなわち「言論の自由」を一般的に言う場合、一方的な価値観に対する社会的圧力によって反対の価値を信じることを否定しない環境あるいは条件下において、当人に選択権をあたえるといった意味が成立すればよくて、この際当人の生まれた環境とか学歴とかその他もろもろによる意思の偏りうんぬんについて述べるのは妥当ではないと言えるでしょう。 おっしゃるような「自由意思」が「自由意思」でなくなるような実は難しいケースってのは、例えばねずみ講とかカルト宗教が信者を引き込むのに使う手段として有名な話です。また、受けてが言論統制されている意識がなくてもマスメディアを使った方法によって自由意思を偏った方向にもってくことはある程度可能であることが証明されている以上、結局マスコミなんかに対しては特定の宗教や政党に対して偏った報道をすることを禁止されていると言えるでしょう。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.8

科学的に証明されていないことが問題点です。 資質も、環境も、とてつもなく膨大で、複雑過ぎて、 自由意思があるかないかを証明するなんてことは 人間の手に余ります。 証明できないのだから、自由意思がある、とも、無い、とも 自由に言えます。 なお、これはキリスト教の一派であるカルヴァン派が 主張するところでないですか。 キリスト教の神は全知全能ですから、総ての事象は 予め決定されている、という主張と整合性がある 訳です。 つまり、これは神話の一種です。 純然たる事実であると俺は思っている、 それ以上の意味は持ちません。 尚、参考までに。 一卵性双生児の研究というのがあります。 その研究で、片方が常習的犯罪者になっている場合には、 もう片方も、殆ど例外なく常習的犯罪者になっている という調査結果があります。 これは、育成環境が違っていても、同じだそうです。 つまり、この場合は遺伝で決まる、ということです。 しかし、これも年齢を重ねていくに従い、相関性が 薄れて行きます。 従って、この限度で遺伝よりも環境や自由意思の方が 強くなって行くわけです。 永山則夫、という犯罪者がいました。 無知の涙、という書物で有名になった死刑囚です。 彼は、俺の犯罪は、環境が劣悪だったからであり 俺に責任は無い、と主張しました。 しかし、裁判官は、兄弟も同じような環境に育った のに、みな真面目にやっている、として彼の主張を 退け、死刑判決を下しました。 大久保清という犯罪者がいました。 彼は女性8人をレイプして殺して死刑になった男 でしたが、彼の父親も、祖父も同じような犯罪を 侵しています。 米国の研究ですが、常習犯罪者の95%に、染色体異常が 認められた、という報告があります。

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