• ベストアンサー

現在時における《復活》について

 おしえを乞います。  次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。   ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~  そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。   ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は 決    して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇く    ことがない。     しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている    のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたしの    ところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い出    さない。     わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わたし    をお遣わしになった方の意志を行なうためである。     わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えにな    った人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させることで    ある。     わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命を受    け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだからで    ある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。  きわめて横着に 《終わりから始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。  しかるべく 正してください。  なお 《QNo.4367998 :復活とは? 不死の境地とは? = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4367998.html》の続編になります。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#117439
noname#117439
回答No.29

オコリザルです。 まづ、 >家畜として共生する中で感情移入するして心象において擬人化する理解の試みから生まれた悪夢です。(この点は神話性のない私独自の解釈) この部分は私自身が理解するためのこじ付けがましい解釈で要するに寝言です。 変身と表現したbrageloneさんの解釈のほうがより忠実であるとわかりました。 このように表現するならです。  ☆ この《世界の変化》とは何ぞや 個々の精神世界がつながっていく過程と考えます。 自然史過程に関してはbrageloneさんの表現に謎かけめいた物を感じて思いが空回りしました。 このような場合brageloneさんの主張に私の理解が負けているはずです。 個人としてどのように係わるかなら世界に光が増して行くのを見取るだけとなりましょうか。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《世界の変化》とは何ぞや  ★ 個々の精神世界がつながっていく過程と考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。わかりやすいですね。いい表現ですね。  ★ 個人としてどのように係わるかなら世界に光が増して行くのを見取るだけとなりましょうか。  ☆ これが――上でのわかりやすい情況とかかわって―― 一方では 《特に 人は 何もしない自然史過程として光が増す》のか それとも 《光が増すのは 人の目覚め(ブッダになること)とともに 起こる》ことなのか。・・・というところなのですが。  けっきょく  ★ 鬼から牛への変身  ☆ にしても ある日起きたら そうなっていたというのか。それとも 涙ぐましい努力のあとに成就することなのか。と なお 思います。

その他の回答 (29)

noname#117439
noname#117439
回答No.9

オコリザルです。 A7、 >ここまでの説明で、brageloneさんは消滅たる「死」を宣告された霊体に対する感情移入が可能でしょうか。(有限の世界と言う幻想) 信じるものの立場としての、brageloneさんの見解に特に関心のあるコメントです。 「死とは終末である」この見解にはいくらでも反論できるでしょう。 そんな信じるものの光を知りたいです。 思えばわたしは暗闇ばかりを潜り抜けてきました。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん 一連のご回答ですが あらためて ありがとうございます。  ★ 消滅たる「死」を宣告された霊体に対する感情移入  ☆ たしかに おおきな主題ですね。あらためて 掲げます。  ☆☆ (No.7補足欄)~~~~~~~~~~~~~~  ★ brageloneさんは消滅たる「死」を宣告された霊体に対する感情移入が可能でしょうか。(有限の世界と言う幻想)  ☆ 互いに対話を交わした人――架空の対話としてでも よいのですが そのように意思疎通を行なって よく知っている人―― この場合には 気持ちが分かることがあるかも知れません。とは思いました。あまり そういうふうに考えたことがありませんでした。  ★ 要するに私の場合、閉じていく世界を見守るだけで、手を差し伸べない、無意識的に由来する、強い衝動に対する抑制が働いています。  ☆ わたしの場合には おそらく 理論として――出来るだけ 理論化して―― その気持ちを 代理して表現しようとするかも知れません。《手を差し伸べる》ことからは わたしも――と言っても 事と次第によると思いますが―― 〔引き〕下がっているかも知れません。《「死」を宣告された》というその事情と情況とが 問題になるとも考えますが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 当たり前の答えになりますが 問題は 《事と次第による》と思います。つまりは その人との関係のあり方 また その互いの交通の深度によるのではないでしょうか。  ★ 「死」を宣告された  ☆ ということの内容も もうひとつ はっきりしません。  たとえば イエスも そのような事例に入るでしょうか。それだと このように 出来るだけ かれの立ち場に立って いろんなことを語っているというのが わたしの実際ですし。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「死とは終末である」この見解にはいくらでも反論できるでしょう。  そんな信じるものの光を知りたいです。  思えばわたしは暗闇ばかりを潜り抜けてきました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。おそらく この言葉には かんたんに受けとめただけでは 応答がむつかしい内容があるように感じます。  逆に かんたんに応えるのならば 次の言葉が思い浮かびます。  ▲  あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 (エペソ書5:8)  ☆ けっきょく 自己満足です。ところが この自己満足は つまづきを知りません。つまづくのですが 行き止まりにはなりません。  ▲ (ローマ書7:1~6)~~~~~~~~~~~~  それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法〔* つまり アマテラス普遍人格語による道徳規範〕とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。  ・・・  ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。  わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。  しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字(* アマテラス語規範や教科書)に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《霊》は スサノヲ人間語に宿ると知ったからです。  まだ 自己満足の文章ですが 現在では このようです。  * 《罪》の問題は 過去のわれわれ人類の歴史を思えば この二十一世紀に入ったあたりの現在でも 話題としては 出てくると思います。さらに つっこみを入れてください。

noname#117439
noname#117439
回答No.8

オコリザルです。 A7、 >大霊界は愛は無償であると語っています。(係わりがない) 高次元の霊体はこれを、「愛は恵みである。」と、解釈しました。 受け入れる準備が出来たそぶりですが、私はだまされません。 ボーダーライン未満です。 今回の回答は独り言でありギャグです。

noname#80116
質問者

お礼

 No.7につづきます。  むつかしい問題かと思っていましたが――かと言って 小さな問題でもありませんが―― 詰まるところは 《金づく》の問題なのでしょうか? 言いかえると 《世の中 すべて 金次第》をうまく包み込むための《道徳規範》の問題でしょうか?    ★ 高次元の霊体はこれを、「愛は恵みである。」と、解釈しました。  ☆ わたしの解釈と用語では 《スサノヲ人間語》に対する・そしてそれのやんちゃぶりを克服しようとする《アマテラス普遍人格語》の問題であるように感じます。後者は とても口がうまいですし 表と裏とを とても上手に使い分けます。おそらく  ★ ボーダーライン  ☆ ? そんなものなど ないのだよと言うでしょう。《表と裏》の一組をタテマエとして ホンネは さらに裏にあるのだよと言うでしょう。なにしろ 悪魔をも手なづける老練・老獪・魑魅魍魎だと思います。竹下・金丸あるいは小沢一郎 こんなイメージです。石原伸晃も 若い感じだったのに そうなりつつあります。  でも もっと うまい殺し文句もあります。《わたしは ちっぽけな人間です。》と言ったりします。切りがないようです。・・・

noname#117439
noname#117439
回答No.7

オコリザルです。 直球で1つのことを論議する集中力に乏しいので今回は話題づくりです。 >イエスは 一たん すべての人びとから見放されるという経過をたどります。完全に見捨てられたあと 《〈おばけ〉として 弟子たちを初めとして 人びとに 現われた》というわけです。 ここで「お化け」と表現した以上、私が引き合いに出した大霊界の構造も言葉に出来ないだけでご存知なのでしょう。 この「おばけ」とは、何もしないにもかかわらず見事に入滅をはたしたお釈迦様とおんなじなのでしょう。(あの形での人間性の体現は仏と言う幻想を招いた) かつて私自身の質問の補足に脳独自の空間を初めとする認識能力で「宇宙観」に等しい心の世界が広がっていることを説明しました。 (この部分で確認したいことがあればお願いします) 「この世」とは「あの世」とつながる世界で、ニセモノの生であり、現実に誤解がある場合認識する心象です。 私は冗談混じりに、ここを大霊界と表現しています。 それらは、現実の認識が不十分であるため生と死に関しても誤解のある世界です。 ちなみに死に様に対しての(生き様に対しての)誤解を解くことが供養です。 ここで語られたイエスさんのおばけは、存命中に彼に接した人々にその心の内面にある間違った彼へのイメージを修正するために現れたんでしょう。 苦しみから解き放たれて始めて出来るメッセージでもありまして、脳の「宇宙観」(世界に対する認識)の軌道修正のための受け取り手の(脳の)自然回復力と一致します。 私の場合、この様な自然回復力ないし自然治癒能力が、(この場合死者ですが)関係者とは無縁に、ごく個人的な自らの生命力に基づいて、死者と縁の切れた状態で行われていると錯覚しておりましたが、どうやら霊体というのは認識可能(存在は現時点では疑わしい)(錯覚の可能性あり)なことが了解できたので死者、又は存命中の場合他者と、(要するに槍玉に上がった本人と)係わりがあるらしいと認識しています。 「霊」又は「霊体」は信じないことが現実的に生きるコツでありまして、だからこその幽霊を信じない霊媒師であり、「無に返る」ことが消滅を意味する幽霊に対する殺人鬼でした。 振り返ってみてこの行いは正しかったと認識しています。 ここまでの説明で、brageloneさんは消滅たる「死」を宣告された霊体に対する感情移入が可能でしょうか。(有限の世界と言う幻想) 私の場合は、それが出来ていないことが欠点といいますか弱みです。 要するに私の場合、閉じていく世界を見守るだけで、手を差し伸べない、無意識的に由来する、強い衝動に対する抑制が働いています。 蛇足ですがギャグです。 大霊界は愛は無償であると語っています。(係わりがない) 閉じていく世界を支えるために大霊界の住人はいくら(お金を)払ってくれるのでしょうか? そして愛情はお金で納得して奉仕するのでしょうか? 幽霊はお金に目がくらんでいまして、この辺がちぐはぐです。 根源的な問題はさておき、豊かさの象徴たる現金に対する動物的?な、錯覚は(衝動でもある)文明社会では顕著です。 この辺はbrageloneさんも質問形式で投げかけておられましたね。

noname#80116
質問者

お礼

 ★ 要するに私の場合、閉じていく世界を見守るだけで、手を差し伸べない、無意識的に由来する、強い衝動に対する抑制が働いています。  ☆ わたしの場合には おそらく 理論として――出来るだけ 理論化して―― その気持ちを 代理して表現しようとするかも知れません。《手を差し伸べる》ことからは わたしも――と言っても 事と次第によると思いますが―― 下がっているかも知れません。《「死」を宣告された》というその事情と情況とが 問題になるとも考えますが。  ★ 大霊界は愛は無償であると語っています。(係わりがない)  ☆ うんぬんについては 次のご回答にて 応答させていただきます。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  別の意味でだと感じていますが 今回も むつかしいですね。そしてご投稿は 補足要求なのですね。  次のご回答で  ★ 今回の回答は独り言でありギャグです。  ☆ とあるのを受け取って むつかしさに納得したような恰好です。それがなければ どのように むつかしいのかと首をひねっていたと思います。  と言っても きちんと尋ねるかたちで 問いかけてもおられます。そして この問いかけにお答えするのも かなりむつかしいように感じています。  まづ 一点 補足があります。イエスが死後に復活したとき 《おばけとして〔現われた〕》と表現したのは その前のアブラハムらについて 《神のお告げ》だとか《神がかり》だとかという言い方を して来ていたので その系統からでした。  ただし これに primeapeさんは 反応されましたね。  もう一度 まづ 《大霊界》とは 次の定義に従うのが いいのですね?  ★ 「この世」とは「あの世」とつながる世界で、ニセモノの生であり、現実に誤解がある場合認識する心象です。 / 私は冗談混じりに、ここを大霊界と表現しています。  ☆ つまり むしろ《この世》のことなのでしょうか? ま 要するに 《なぞ》があったり 《誤解》があったりするときに言うのでしょうね。  ただ イエスの場合には 生前にすでに はっきりと何度も 弟子たちや世間に向けても 《死んだあと 三日すれば 復活する》と言っていましたので なぞではなく また 誤解でもなく むしろ 言っていたとおりだったということになります。(そして よく分かりませんが ブッダの場合とも違っているかも知れません)。  ★ 脳内の宇宙観  ☆ については まだ どういうふうに質問をすればよいかが 分かりかねています。  ▲ (マタイ福音16:20~21)~~~~~~~~  それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。  このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。  ▲(マタイ27:39~43)~~~~~~~~~~~  〔イエスが十字架にはりつけにされたあと〕 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。  「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」  同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。  「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。  神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに たぶん イエスの場合は 《おばけ》ないし《大霊界》のあり方とは 違っているように思いますが どうでしょう?   * 詳しくは 人間としてのイエスと 神の子としてのキリストとが 同時に あって 簡単ではありません。イエスは あたかも泣きながら このような定めに自分があるというその盃を去らせたまえと 神に祈っています。キリストとしては ユダの裏切りに到るまで 分かっていたようです。はりつけになるのも すべて 分かっていたようです。望んで 死地に就いたとのことです。  このイエスを離れれば 大霊界についておっしゃっていることは おおむね そのとおりに思います。つまり 一般に 名誉回復なり誤解を解くなりであるとか 自然治癒の力ですとか そういう課題が 死者にも生者にも まとわりついているとは思います。  ★ brageloneさんは消滅たる「死」を宣告された霊体に対する感情移入が可能でしょうか。(有限の世界と言う幻想)  ☆ 互いに対話を交わした人――架空の対話としてでも よいのですが そのように意思疎通を行なって よく知っている人―― この場合には 気持ちが分かることがあるかも知れません。とは思いました。あまり そういうふうに考えたことがありませんでした。

回答No.6

わたしも、 前回の続編として回答します。 今、風邪で熱にうだされてる感じなので、知性は働いてないかもしれないですが、前回の記憶はあります。 (いろいろあって、このワーキングプアーの筆のペース遅くなってます。) 人間は人間となった時点でその存在は善と認めうるものか? といった質問が最後にされていたかと思います。  間違いでしたらすみません。 まず、善と言える意味が生じたのは人間以前には無いというのはそのまま事実だったと思います。 動物の行動や心理、感情は、すべて本能であり、「善」と呼べる意味は、そこに助け合いがあっても無かったはずです。    やがて、悪が出てきて余計な「善」の強調(ともかく複雑な「善」の概念)の世界とかも出てきましたが、それは無しにしても、もともと人間は「善」なる存在だったということは言えます。(詳しい理屈は略します。) というのは「自他を見つめる」脳となった時点で その意味と呼べる「善」の世界が宇宙に生じたのですから、 それは単に反省し、進歩できる能力を得たというだけではなくて、すでに人間を仲間という概念を越えて理解した状態を得たということになるんです。 脳がです。      私たちの脳と言える その私たちの脳がです。(うまく言えてないでしょうか?) 私たちという 存在してるだけで仲間である存在同志として、言葉以前に私たちのその脳は認識し始め、 その時点で私たちは人間と呼べる存在として宇宙に誕生したということです。 でも、其の言葉が やがて文明を作ると同時に、心の乱れをも生み出してしまいます。(詳しく書こうとすると、右脳とか左脳とかの話ともなるところでしょうが) また、ことへんが旧約のもう古い神話の中では知恵の木の実を食べたとなったりするのでしょうが、 その意味では、もともとは「善」だったわけです。 まさに尊い命と其の「意味」自体が最初から誕生していたのです。  長くなってしまうと思いますので、これを現代のかくされた巨大悪のひとつである「薬漬け」と言えるような医学の世界における善と悪を描写して論じなおすならば、 もともとの生物の設定では、私たちの体は、風邪を引けば治す物質がすぐ今でも出てくるのですから(それが薬を飲めば直ちに其の物質は消滅します。) もともとはかなり人間も頑丈だったし、何よりも痛みにもっと強かったようなのです。   しかも寿命がくれば、苦しくなく衰弱してゆく状態でも今よりはるかに楽に死ねたところ、 今はなんで延命のもと薬の中で苦しむことが倫理の極の正しい行為とかされてるのでしょう、 うううひどいじゃないですか、、l、 でも、これ じゃあ神の責任じゃないというのは もし、神が私たちを創った絶対創造力の主とかいうのであれば、 実は自由意志もなにもすべて神だけの責任です。   自由意志ったって私たち人間は弱い状況に「状況」に置かれてますから。  つまり神こそ悪魔となってしまうのです。  地獄に落ちるのなら落とせです! 私は人間としてそういい続けます。 でも、ほんとうに苦しんでるのは人間ですが、同時に神でもあるじゃないですか?  これわかりますでしょうか?  神もまた絶対じゃないです。   相対そのものの中にいます。 たった今もです。 たった現在時もです。 私たちには、たしかに他人の苦しみは想像からの類推でしか解りません。ならば神こそ 今の苦しみのゼンタイでもあるというか、       人間そのものというか、      すみません、あの神学の人たちって、意味を見つけたから神を見つけたのでしょ?  だったら言いたいこと解ると思うのですが、   神でも言いし存在でもいいですが、   叫びを知り怒りや涙と知るその良心が発見する世界ですよね。          ここでは理論は 私の方から詳しく書きたくないです。 終わりからはじめると言うことはその信仰からはじめるということですよね。 存在してるってなんてすごいんだという存在への畏敬、リスペクトから始めるということですよね。 それはおそらく存在を生きる過程で 其の発見とともに相互的総合的にそれは自覚され さらに其の上ではさらにさらに総合的な思索の中で深めてゆける世界、それが信仰なのだと思うのですが、 終わりからも 「今」からも、初めからも 同じ重みで今思索死闘い行動し思索しなおし、前に進んでいく人間の魂のありかたこそ、 信じることだということになりませんか? それとも信仰とは その知の一地点のとどまることなのですか? せっかく発見したその地点は そこに人を押し込めてしまうためのものですか? キリストという 《神を当時にてすべて理解しきった上でさりげなくも たとえ話で語ったような人》は 知性も感性もたぶん普通の人じゃないです。  ひれ伏さざるえないような気持ちになってしまいます。  そういう人の役割の世界は、これも私の論じることのできるような世界じゃないです。 たしかにすごすぎますが、  結局彼の説いた教えは 愛でしょ。 愛に実際に生きるのが信仰と思います。 そして、それは、たった今この水のある星で息をしてる どう感じどのように考えてるからはわからない 人たちの苦悩や苦痛と、それでも それでもじつは存在の中には消えない「希望」の世界とに対応して、     動くこと、それが信仰からはじめることですよね。 思索し行動し思索し行動し動いてゆこと。   むしろ、表現としては神などいないと言ったほうがいいのかもしれません。 人間的であろうと人間が努力するしかないのですから。 あるいは神はいるけれどもいないに等しいことを理解するべき時でなないのかということです。 あれ、なんかおかしいですね。 これは信じてるから言えるのでしょう。やっぱし、そうだとは思います。 でも 人間が人間的に動かなかったら「希望」も キリストの力強い言葉も消えてしまうじゃないですか?    なんとかしなきゃ、今 今呼吸してる命に対して何かしなきゃ    問題群を解決していかなければ、 すこしでも何も出来なくてもそう行動していかなければ、     復活って 絶対やって来たりしませんから。 だって意味から生まれたのに それって意味ないですから。 はやく一刻もはやく、自分ももっと強くなりたいし、多くの人にも強くなって欲しいと思いますし、  キリストだってその祈りから彼の役割を果たした人ですよね。 愛ということ自体、自分は復活しなくてもいいからみんなが永久の安らかであって欲しいという心だと思います。   二律背反というのはここにも当てはまるのかもしれませんね。 (とある感性からのメッセージです。)

noname#80116
質問者

補足

  arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  前編の前回 たとえば こういうお応えを返していました。  ☆☆ (No.71お礼欄)・・・したがって 自然本性なる《わたし》に自己還帰すれば 浄福であり 復活につながる。という見解です。手放しの楽観論です。至高の能天気です。《ただ 霊の息吹きを受け取りなさい》というのみだというわけです。  ☆ 《したがって》の前文 つまりこの文章の理由づけが 分からないかたちの引用ですが 最初のところでその点について 触れていただきました。つまり 《自然本性》なる存在は そのまま 《善》だと想定するといった内容のことです。  そう考えるなら このわたしのコメントは そのまま 《現在時における復活》のことを 言おうとしていましたね。《手放しの楽観論》として。《至高の能天気》として。  自分の田に水を引き過ぎてはいけませんが そのあたりの議論を その内奥から 基礎から 敷衍し 展開するかたちで 今回 ご回答をいただいたのではないかと思います。特に気持ちとして伝わって来ます。  自由意志を与えたなら その自由意志によって 存在のしかるべきあり方から逸れてしまうという自由をも許容したのだから その神は 悪の元締めになるではないかとか。――あるいは そうは言っても そのような人間の・自己を頼み自己を誇示し自己の能力に溺れてゆく姿に ともに苦悩するのも 神であるとか。――あるいは その試練のような人生と社会的な共同生活の中で 思索を絶やさず思索し尽くし死闘を繰り広げる道に ほのかな希望をも見出しているはづだとか。・・・  その基軸その起動力は 愛であるのではないか。  愛をとおしてはたらく信仰という動態もあるはづだ。  そこに 祈りも あるはづだ。  かくして  ★ 愛ということ自体、自分は復活しなくてもいいからみんなが永久の安らかであって欲しいという心だと思います。  ☆ という結語に到る。・・・  たぶん 表現の仕方としては わたしの場合 反対になってしまうと思います。わたしは自分が復活するかたちを生活において現わす。その道の原動力なる愛を愛してゆく。人については そのかれを かのじょを わたしは その自己の愛の 試練の道の上に・中に 見出している。・・・  井戸端会議として このように応じさせていただきました。さらに展開を期します。

  • masa2211
  • ベストアンサー率43% (178/411)
回答No.5

>聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に 持って来て解釈しています。 質問内容を字句どおりに解釈します。 すなわち、《終わりの日》が現在 (2008年11月1日現在)起こっている(起こりつつある)かどうかの意味に解釈します。 危険思想と見ます。ですので、私はこういう思考をとりません。 これって、 1.《終わりの日》が(たとえば)2009/1/1と判っていれば、本日(2008/11/1)現在何をするか。 2.《終わりの日》がいつなのか判っていなければ、本日(2008/11/1)現在何をするか。 において、1.と割り切って行動様式を決めるということですよね?  ※問題を一般化すれば上記のような解釈となります。  ※※終末イコール現在という立場なら、こういう問題から逃げないでほしいな。 1.2.で、私ならどう行動するかはまるで異なります。 2.なら、犯罪行為をする気は無いし、1.なら、犯罪行為する気は大アリ。  (「あの世」を信じていないと、ほとんど必然的にこうなります。) なお、私が2.と解釈する理由(哲学的な理由。) 《終わりの日》までに何が起きるかは、「黙示録」に書かれているため。 つまり、ありとあらゆる天変地異が起こり現世に生き残るのは144000人。 2008年現在、どうみても人口は144000人より多いです。 このような事態は生じていないため、《終わりの日》は、それなりの未来の現象であり、 現在起こっている現象とはみなせない。 ですので、信仰(=キリスト教の信仰)から考えれば、 《終わりの日》が現在だというのは、キリスト教の教義に矛盾しているとしか言いようがないです。 「キリスト教以外の何か」を信じているのであれば、キリスト教の文献を引用して何かを主張するのは反則です。 もしくは、 ・ヨハネ福音は信じてもヨハネ黙示録は信じない。 こういう可能性もありますが、それはそれで、こういう肝心な部分は質問文で明記してもらわないと.... 結論。 《終わりの日》を 現在時に持ってくると 聖書と矛盾しまくりだし、 一般道徳に矛盾する行為を許容してしまうから、そういう立場を私ならとりません。

noname#80116
質問者

お礼

 masa2211さん ご回答をありがとうございます。  ★ 信仰(=キリスト教の信仰)から考えれば、 /  《終わりの日》が現在だというのは、キリスト教の教義に矛盾しているとしか言いようがないです。  ☆ まったく このようには考えませんでした。浅はかなのかも知れませんが 要するに 考えたことは  △ 《終わりの日》が この現在にやって来ている。  ☆ のではなく そうではなく  ○ 《〈終わりの日〉に復活させられる》ことが すでに 現在 イエスの復活のあとという時点から 始まっている。  ☆ という意味です。《終わりの日》自体にかんする事柄は 問わないというかたちにしています。そういう観想のあり方です。  ○ 現在時における《復活》について  ☆ おしえを乞うています。いかがでしょうか?  ○ 復活とは どういう事態か?  ☆ こういう問いに対する答えとしても おしえて欲しいと思います。  また 前編の《QNo.4367998 :復活とは? 不死の境地とは? http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4367998.html》において  ○ 永遠の生命とは何か?  ☆ について いくつかの回答を寄せていただいています。これらを総合して 復活にかんして ご見解を寄せていただければさいわいです。  もし 復活は 《終わりの日》と切り放しては 捉えることが出来ないというご見解でしたら そのようなご回答として 受け取らせていただきたいと思います。この場合には わたしとしましては 《文字は殺し 霊は生かす》という聖句が ひっかかっています。異言のままではなくて 預言する つまり 解釈をしたほうがよいと 考えていますので この設問のような方向を思ったのでした。このような事情になると思いますが いかがでしょうか?

noname#80116
質問者

補足

 お礼欄を書いたあと 補足します。  アウグスティヌスに 《二重の復活》という議論があることを見出しました。《終わりの日》における復活とともに 《いま・ここ》における復活も その解釈において 明らかにしていました。  ただし わたしのここでの質問趣旨は じつは――お礼欄での言い草とは違って―― 復活は 《いま・ここ》での現在過程におけるものだけを言おうとしていました。なぜなら そうでなければ 《終わりから始める》ことにならないからです。一重の復活しか考えていませんでした。  このような情況を踏まえて あらためて ご回答をお寄せいただければ ありがたいです。みなさんにも お伝えし お願いいたします。  アウグスティヌスの文章を引きます。  ▲ ~~~(『ヨハネによる福音書講解説教』 第25〔・19〕 金子晴勇訳)~~~~~~~~~~  見たまえ ここにあの二重の復活についてイエスがどのように描写しているかを。  《わたしのもとに来ている者》はわたしの肢体の内にあって謙虚にされ すぐにも復活する。しかし 肉によれば 《終わりの日に彼を復活させるであろう》。《わたしをお遣わしになった父の御心は 子を見て信じる者が皆 永遠の命を得ることである。わたしはその人を終わりの日に復活させるであろう》(6:40)。  イエスは前に《わたしのことばを聞いて わたしをお遣わしなったかたを信じる者》(5:24)と言っていたが 今は《子を信じる者》と言う。彼は子を見て父を信じるとは言っていない。なぜなら 子を信じることは父を信じることと同じであるから。  そのわけは 《父はご自身の内に命をもっておられるように 子にも自分の内に命をもつようにしてくださった》(5:26)からであり それは《子を見て信じる者が皆 永遠の命を得るためである》。  これは 例の最初の復活のように 信じて命に移り行くことにより生じている。しかし これだけが復活ではないので イエスは言いたもう 《そして終わりの日にわたしは彼を復活させるであろう》と。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#117439
noname#117439
回答No.4

オコリザルです。 A3のご返答と言うか反応を読んで了解可能でした。 今回はbrageloneさんと論議がかみ合っているのを感じます。 私が今までに、無意識を語るのに終始した心の奥底について、brageloneさんは自らの信仰心の自己主張ではなく普遍的な神話で答えています。 この面ですり合わせが出来たと言いますか、了解できました。 「復活」の、神話といいますか物語について教えてください。

noname#80116
質問者

お礼

 訂正です。  中ほど イザヤのくだりで    ・・・    貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。    打ち砕かれた ≫ 心 ≪を包み    捕らわれ人には自由を    ・・・    (『イザヤ書』61:1) というように 《心》を抜かしました。失礼しました。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  《原罪》の問題にかかわっていたということで よろしいのですね。  聖書の物語は 《存在》の思想だと考えます。存在が存在であるための信仰でもあります。最終的に 《復活》に行き着くのだと思います。  その昔 アブラハムという人は もう七十歳を過ぎているのに 《その父祖の土地を離れ去って 行け》という声(お告げ?)を聞いたそうです。じゃあ どこへかとも定まらないまま これに従ったそうです。たいていは 《神がかり》と見なすでしょうね。  次に この《神がかり》が 昂じてと言いますか 或る人は――仮りにダヰ゛デとしますが ダヰ゛デは―― こう表現したと言います。つまり その神が言うには 《きょう わたしは おまえを生んだ》というのだそうです。自然の誕生のことではないらしい。そのダヰ゛デは 《〈なぞの何ものか〉によって その日 わたしは生まれた》と表現するような体験を持ったということらしい。  目覚めたというようなことでしょうか。このような自己表現をつうじて どうやら 《存在》論を 世代を超えて 展開しているようなのです。  さらに イザヤという別の人が 神がかりに遭います。つまり《存在せしめるものの霊が わたしに臨んだ》とまで表現しました。そして 社会的な弱者を 自分のこととして 受け取ったのでしょう こう表現します。    主はわたしに油を注ぎ    主なる神の霊がわたしをとらえた。    わたしを遣わして    貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。    打ち砕かれたを包み    捕らわれ人には自由を    つながれている人には解放を告知させるために。     (『イザヤ書』61:1)  さらに時は飛んで イエスの話になります。かれが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り これらアブラハムやダヰ゛デの詩編やイザヤを書いた書物を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。    すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い   てある箇所が目に留まった。     《主の霊がわたしの上におられる。      貧しい人に福音を告げ知らせるために      主がわたしに油をわたしに注がれたからである。      主がわたしを遣わされたのは       捕らわれている人に解放を      目の見えない人に視力の回復を告げ      圧迫されている人を自由にし      主の恵みの年を告げるためである。》     (=つまり『イザヤ書』61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人   びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは       ――この書物のことばは 今日 耳を傾けているあなたたち       に実現した。   と話し始めた。      (ルカ4:17-21) という《存在》をめぐる歴史物語です。つまり 自己到来としての存在の誕生が めぐりめぐって 社会的に 先に目覚めた人が お節介を焼くというところまで来たようです。  ただし イエスの時に到って 物語は一筋縄では行かなくなりました。No.2のkigurumi さんへのお応えにも書きましたように イエスは 一たん すべての人びとから見放されるという経過をたどります。完全に見捨てられたあと 《〈おばけ〉として 弟子たちを初めとして 人びとに 現われた》というわけです。  これを解説して パウロという人は こう書きました。  ▲ (コリント前書15:51~56)~~~~~~~~  わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。  最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。  この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。  この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。    死は勝利にのみ込まれた。    死よ、お前の勝利はどこにあるのか。    死よ、お前のとげはどこにあるのか。    (イザヤ書 25:8〔意訳〕)  死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とげが抜かれ 原罪が克服されたからには このいま・ここで 復活は実現するのではないか。というのが この質問趣旨です。  ちなみに 《律法》とは すべての倫理規範のことです。墓だけを立派に きれいにしているその心だと思います。

noname#117439
noname#117439
回答No.3

オコリザルです。 今回のご質問には問題意識を感じる点や克服する課題がないので発言しにくさを感じます。 脱線にならないようにとっつきを増やそうかと思います。 罪の意識の見地に立てば、許されることが終末です。 それはさておき、 >《終わりから始める》 これに思い当たることがありました。 心の中で繰り広げたチキンレースです。 マイナス感情を王様に仕立てて徹底的に服従してみる。 そんな危険な試行錯誤です。 かつての鬼神の言葉にそんな記憶がありました。 >《もはや共感の必要のないほどに すでに〈終わりから始める〉ところの思考と生活とを実践する段階に入った》 これに関しては(過ち又は試行錯誤を)「繰り返すことをやめる」そんな終末の予感を感じます。 静かな時間をすごすという意味ならば実感しています。 そしてまだ何も始めない。 ですから私は(人類的な)将来や未来について語るのが苦手です。 なんといいますか現在進行形の静かな時間から未来を展望することをしないんです。 話題を変えて、この辺は個人的な悩み相談室なんですが、 日常の人間関係において危険な考えに基づく言動を他者に発見することがあります。 その場合、悪だ罪だと答えるのではなく、ひたすらに何も答えない、従わない、そのような行いをとるしか無く、その人の本質的で、陽性の自らの行いの意味を知る「答え」を、その人自身が気が付くまで待つ中で、べったりとした依存心を持ちかけられて身動きが取れなくもあります。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  今回は むつかしい感じです。  ★ 今回のご質問には問題意識を感じる点や克服する課題がないので発言しにくさを感じます。  ☆ ここです。ここに むつかしさを感じました。  たとえば アダムとエワとが そもそもの人間存在のあり方を その基本的な自由ゆえに 別のあり方へと持って行こうとしたその自由 つまり いわゆる原罪ですね。そのように 原罪を提出して そのあと この罪を贖(あがな)うという方程式になっています。いました。  たとえば 無明(煩悩)を提出して そのあと それの消滅(涅槃)を説くやり方。  こういう方程式を primeapeさんは 嫌っておられる(と言いますか 基本的に 否定しておられる)のだと思いますが 原罪のほうは もうすっかり 消えてしまったわけです。あざか そばかす程度には 残っているかも知れませんが とげは すでに抜かれて あとは 患部の癒えるのを 待てばよいことになっています。  だったら 復活は すでに 成就しているではないか。というよりも わざわざ 現在過程としての復活というような主題を 持ち出してくることが おかしい。こういう見方をしておられるのでしょうか?  ううーん。たぶん――わたしは 後ろ向きに前へ進むあゆみをしておりますので―― そういう力強い新しい生き方も この二千年を経て やっと 出来るようになったのではないか。こうも考えます。自分独りにおいて 満ち足りているのでないとすれば です。  ★ 静かな時間をすごすという意味ならば実感しています。 / そしてまだ何も始めない。  ☆ これに対して わたくしの場合には とげを抜く仕事に 二十年三十年とたずさわって来て やっと あたらしい作業を始めた段階です。あたらしい作業 それは 何もしないたたかい です。それが 井戸端会議です。  というふうに応答してくると 動きが 互いに 錯綜しているようでもあるのですが どうなんでしょうかねぇ。そこが むつかしいと感じたところです。まだ 先が見えません。  悩みだそうですが。  ★ 日常の人間関係において危険な考えに基づく言動を他者に発見することがあります。  ☆ この場合というのは わたしの反応は 決まっています。信頼関係を築くのが 第一。築けたなら ただちに その危険な思想を 中身を説明しうるまでに分析しつつ それを表現して 指摘することをします。そういうふうに《待つ》姿勢を採っています。  必ずしも 信頼関係を築けるものではないようですが。つまり その場合には 相手は 去って行くはづです。  ★ べったりとした依存心を持ちかけられて身動きが取れなくもあります。  ☆ ここまで待たなくともよいと考えます。言いかえると 柔軟で自由な思想を回復しそうにないと見えても そこに信頼を寄せていても いいと考えます。ということは 依存心が強くて ひどいとなれば それに対して こちらが ひどいと感じているというその態度を見せてもよいと考えます。つまり 自然本性を回復しうるという信頼を寄せていてもいいのだと考えます。どうでしょうか。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.2

brageloneさん がんばってますね。 以前、「イエスは何ひとつ新しいことを言ってはいないんじゃないか」と思ったことがあるんですね。 それでネットで神学者かな?と思えた人に、その疑問をぶつけてみました。 答えは「その通り、何も新しいことは言っていない」でした。 ラビ文学者は今でいえば哲学者なわけで、彼らは多くの作品を残したわけです。 それは現在旧約聖書にも残っている。 この分野の特徴は、自分の思想を表す時に、自分を主人公にせず、英雄とされた人たちを主人公にした物語を書いた。 例えば、モーセとかダビデとか。 だから、モーセやダビデの話がたくさんあるわけです。 ラビ文学は盛んになったわけですが、後に旧約聖書を作るとき、困った問題が発生した。 どれがモーセやダビデが本当にやったことなのか、哲学者の思想であり史実ではないのかわからなくなった。 で、これは史実だろう と思えたものを旧約聖書に入れたらしい。 新約聖書もそうですよね。 200くらいあった福音書から、4つだけを史実だろうと思って新約聖書に入れた。 で、 >わたしがその生命のパンである。 イエスはベツレヘムで生まれたとなっていますが、ベツレヘムはヘブライ語でパンの家。 すなわち パンの家=おとめ座(処女宮)のことです。 イエスがたくさんの人をパンと2匹の魚で養ったという記述がありますよね。 2匹の魚は魚座のこと。 うお座のシンボルは2匹の魚ですが、この星座を見た古代の人が、視覚的に2匹の魚としたからですよね。 で、キリスト教は初期の頃、十字架じゃなく魚をシンボルとしていたと聞いたことがあるでしょう。 何故だか考えたことありません? 紀元前0から魚座の時代に入るから。 西暦2150年までは魚座の時代ってわけです。 どうして? だって地球の地軸が、魚座の方向を向いているから。 物理的な問題なわけですね。 古代の天文学者 すごいですね。 こんなこと知っていたんだから。 >しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ているのに 信じない。 前にも、確かに旧約聖書にそう書いてありますね。 疑い深いトマスを思い浮かべます。 トマスは他の神話では、、、、忘れました。すいません。 とにかく、他の神話の人物が取り込まれ、その名前をラテン語かなにかにすると、<トマス>となるそうです。 元ネタのその人物が疑う特徴を持っていたことから、聖書では疑う深いトマスとして採用されたってわけですね。 >《終わりの日》に復活させることである。 AEON ラテン語だと永遠という意味だそうです。 ルカ22章10節 イエスが使徒に「次の過ぎ越しはいつか」と聞かれこう答えている。 「あなたたちが町に入れば、水がめをかついだ男が見えるでしょう。その男についていき、彼の家に入りなさい」 みずがめ座は、男が水がめを担いでいるのがシンボル。 これも古代の人が視覚的にそう見えるとして決めたこと。 魚座の時代は2150年頃までで、地球の地軸は次にみずがめ座の方角を向くから。 物理的なもんなんですね。 地球の歳差運動の結果 こうなるんです。 したがって、イエス(天文学者? 作家)は、この世の終わり とは言っていない。 モーセの時代はおうし座からおひつじ座に変わった時代であり、だから、モーセは牛の偶像を破壊したというエピソードになったわけです。 おうし座からおひつじ座に変わったからといって、この世は滅びなかったでしょ? おひつじ座から魚座の時代に変わったときも、この世は滅ばなかったでしょ? なんで、この世の終わりと人々が思ったのか? マタイ28章20節。 イエスは言った。「この世の終わりまで、あなたがたと共にいます。」 原文はAEON。 ラテン語だと永遠だそうですが、もともとは<時代>という意味だそうです。 「私は魚座の終わりの時代までは、あなたがたと共にいます」 そう イエスは魚座の時代の象徴であり、みずがめ座の時代になるまではいられるが、みずがめ座の時代になったら、去らなければならない。 「いーや 留まる!」ってなると、地球の動きを止めることになり、地球環境が劇的に変わって、本当に地球がほろんじゃうかもしれない。 だから、止めずに素直に座を明け渡し去るのがよろしい。 まあ 要するに、この世の終わり ではなく、「魚座の時代が終わるまではいますよ」って意味。 で、終わりの時代に復活させるという概念が、どこから来たのかはまだわかっていません。 イエスは西暦2150年には去るわけですが、また戻ってきますよ。 一周するのに25,765年かかるから。 地球がその頃滅んでいたら、地球から観察する人はおらず、「魚座の時代がまた来た」と思う人もいないわけで。 ましては北半球からみた星座であり、南半球だとそうはならない。 将来科学が発達して、土に戻った人が、DNAから再び人間になるか というと、、、 仮にジュラシックパークのようにDNAから再び誕生させる技術が開発されたとしても、もう別人格だと思うんですね。 例えば一卵性双生児。 二人はまったく同じ遺伝子を持っていますが、別人ですよね? 最後の審判という概念はエジプトから来てると思います。 10戒に書かれていることは、すべてエジプトの死者の書に書かれていること。 死者の書では、人は死ぬと40以上のことに違反しなかったと証言しなければならない。(そのうちの10が、10戒としてイスラエル人が保持することになった) マアトは「法」「真理」「正義」を司る神とされた。 マアトの天秤に心臓が乗せられ、もう片方にマアトの羽が置かれ裁かれるわけです。 で、マアトの羽より重かったら、ワニに食われる。 『エジプト神話において、人間は肉体、バー(Ba,云わば魂)、カー(Ka,云わば魄)の3つの要素から成り立っていた。 人が死ぬとバーは肉体から離れ冥界へ行くが、肉体がそのままであればカーがバーと肉体の仲立ちをして再び此岸に戻ってくることができるとされた。そのため肉体の保存が必要となり、ミイラ作りが盛んに行われた。』 エジプト宗教がギリシャ方面に影響を与え、ユダヤ教の概念に、エジプト宗教をミックスし、キリスト教のあの概念ができあがったってことですね。 で、ラー 復活したでしょうか? グレートイヤーで、またその星座の方角に地球が向いたとしても、復活しそうもないですね。 DNAが同じでも、いろいろな要素がその人に影響を与え、人格を形成していく。 確かに一卵性双生児を比べると、身長などは同じになる。 病気も一卵性双生児の方が、兄弟に比べて、発症率が高いことはわかっている。 だけど、性格を詳細に調べると、DNAが大きく性格に影響を与えていないことがわかった。 別人格ですよね。 別人格なら、自分が復活した(取り戻した)と感じることは無いんじゃないかと。 アイランドって映画があり、クローンは元の人間のために培養され、飼育されていて、元の人間がクローンの臓器を取り、永遠に生きようとしたことに対して、クローンは「そうですか」と臓器の提供をし、死ぬことを承諾するかというと、逃げまくりましたよね。 クローンであっても一人の人間。 ひとつの個性なわけです。 過程で、DNAから復活したとしても、記憶が無ければ、再生したから前の人生の続きをやりなさい って言われても、、、、、 言語から習得して、集団内の考え方とか掟とか習得しなおさないといけないじゃないですか。 これは再生したというより、別の人が生まれたとし、前の人生はキリスト教だったから、キリスト教をやるかというと、別の宗教にはまるかもしれないじゃないですか。 第一、キリスト教は魚座の時代であり、この法則でいけば、イエスは新しいヒーローに破壊されねばならず、キリスト教徒は、新しい主とともにみずがめ座時代に共に入っていき、新しい宗教をすることになるわけですから。

noname#80116
質問者

補足

 親愛なる kigurumi さん ご回答をありがとうございます。  ただ 惜しむらくは 見解が互いに あまりにも ちがっているということですね。  イエスは 聖書の登場人物の中でさえも まったく特別なひとであるわけです。アブラハムやモーセやダヰ゛デその他その他から かけ離れています。  今回は いつものような 実在の人物ではないというご主張ではなく 想定としてだけでも そしてまた 一定の期間としてでも イエスの力が 人類史上に はたらくという物語にもとづいてのご投稿です。  その特異な事柄は 弟子たちからも裏切られ 人びとすべてから見放されたという点にあります。  ▲ (ペテロ第一書簡2:4~8)~~~~~~~~~~~  主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。  あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。  聖書にこう書いてあるからです。     見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。     これを信じる者は、決して失望することはない。     (イザヤ書28:16)  従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、     家を建てる者の捨てた石、     これが隅の親石となった     (詩編118:22) のであり、 また、     つまずきの石、妨げの岩     (イザヤ書8:14) なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまづくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 最後の一節 すなわち 《そうなるように以前から定められているのです》というような言い方は あとからそう言えるとしても ずるいやり方であるように思います。  とは言うものの 《つまづいた人 / つまづかなかった人》 それぞれいるでしょうが イエスが 官憲に捕らえられ はりつけの刑に処せられるに際しては ペテロをはじめとして 弟子たち皆が 背きました。   喩えとして 石工たちが 家の土台のための隅の親石に これはだめだ・使えないと言って 選ばなかった石・そして人びとも こぞって捨てた石 その石が じつは かなめ石だったという存在論上の変容 つまり あたかも蛹から蝶へと変態するかのような人間存在としての復活 これが ほかの人物の場合とはちがって イエスの場合には 人類全体にとって 起こったのだと考えます。  そして もうこのイエス一人で じゅうぶんでしょう。  ですから たとえば DNAがどうだこうだで《生まれ変わること》と いまここでの《復活》とは 似ても似つかない主題になっていると考えるのですが いかがでしょう。イエスのあとは ひとりの犠牲も要らないというのが ここでの見方です。二千年のあとにですが それを問うております。  * 補足欄とお礼欄とは 字数の多寡によって 使い分けています。いづれも 感謝しつつ ご返答申し上げます。

noname#117439
noname#117439
回答No.1

お久しぶりです。 primeapeことポケモンのオコリザルです。 信仰については門外漢ですが思うところがありました。 > わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命を受    け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだからで    ある。 SF的にですが、人類が受け取るのは神からの承認ではなく、生命体としての全宇宙からの祝福と解釈しています。 >永遠の生命を受け(復活する) これは、死なないことや、不老長寿を表しているのではなくて、永遠を理解して自らの存在の本質に触れることなんだろうと思います。 もしかしてこの2000年の間ずっとそうであったように、いつか果たされる予言や約束の類でなく、現在も進行中の事柄なんだろうと思います。(誰もが当事者) このところ、私は「罪」もまた「悪」と同じく概念であり、実体のないファンタジーであることを知りました。これらは個人として(世の中というよりは)世界とのかかわりの中で生まれる解釈で、実体のない空論です。犬が欲望に翻弄される様を見たことがありますから、別に人間だけが持ち合わせているものではないようです。そのような意味でも自然界から離れて文明を築きあげた人間は無罪です。むしろ霊長として地球を救いつつあります。 罪の問題が解決したので、 >《終わりから始める》 これが共感不能です。 ほんの2~3日前ならケンケンガクガクの話題を振りまいたりもしたのでしょうが、もはや取っ掛かりがありません。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん しばらくですね。ご回答をありがとうございます。  今回は 《現在 日常に生きているわたしたちのすがた》に 焦点をしぼっております。どうぞよろしくご教示ください。  げんみつに できるだけ理論として捉えることができるように進めたいとも考えます。  ★ SF的にですが、人類が受け取るのは神からの承認ではなく、生命体としての全宇宙からの祝福と解釈しています。  ☆ ここで 《げんみつ》を期そうとおもえば こうなるでしょう。  ★ 神からの承認 あるいは 生命体としての全宇宙からの祝福  ☆ これらは いづれも 修辞学ないし文学の問題です。想定ないし飾りとしてのことばです。あるいは と言うよりも   ★ 神からの承認  ☆ は 《神は神である》と想定したとき いの一番に ひとは 受けています。それ以外に 存在のあり方は ありません。(げんみつであろうとしていますでしょう?) そのことを いささか現代風にかつ文学的に表現すれば  ★ 生命体としての全宇宙からの祝福  ☆ となります。  そこで その《祝福》の内容にかんしてです。あたかもただ自然に生まれ いくばくかの時を経て 朽ちてゆく人生の中にも 何がしかの栄光を著わしたか または その栄誉に参加しつつ浴したか そのような光としての祝福のほかに つまり あらためてまとめて言えば ひとの知恵の展開過程なる歴史を享受し得たという栄光のほかに さらにかがやく光を浴びることが出来るのか これです。  神からの承認とその祝福は どこまで ひとにおよび得るのか これです。《栄光から栄光へ》とも言われていますから。  〔 ▲ (コリント後書3:18) わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。〕  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  これは、死なないことや、不老長寿を表しているのではなくて、永遠を理解して自らの存在の本質に触れることなんだろうと思います。  もしかしてこの2000年の間ずっとそうであったように、いつか果たされる予言や約束の類でなく、現在も進行中の事柄なんだろうと思います。(誰もが当事者) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 観想からのことばの表出として得られたのだと お受け取りします。また わたくしの解釈の方向を うべなってくださる結果となっています。  一般に 観想(テオーリア)が 理論(テオリ)になるわけですが さらに理論化を問い求めていきたい こう思います。《現在進行形》でまいりたいと思うのですが どうぞおつきあいください。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  このところ、私は「罪」もまた「悪」と同じく概念であり、実体のないファンタジーであることを知りました。これらは個人として(世の中というよりは)世界とのかかわりの中で生まれる解釈で、実体のない空論です。犬が欲望に翻弄される様を見たことがありますから、別に人間だけが持ち合わせているものではないようです。そのような意味でも自然界から離れて文明を築きあげた人間は無罪です。むしろ霊長として地球を救いつつあります。  罪の問題が解決したので、 >《終わりから始める》 これが共感不能です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 同感します。とともに 世間一般の議論としても また できれば 理論としても この内容をさらにわかりやすい言葉で表現し 互いに吟味していきたい こう念願するところです。第一回答として 糸口をつけていただいたのだと思います。  《共感不能》というよりは 《もはや共感の必要のないほどに すでに〈終わりから始める〉ところの思考と生活とを実践する段階に入った》とおっしゃっていると理解しましたが いかがでしょうか?  じっさい その趣旨を基調とした井戸端会議を推し進めていけるなら  ★ 罪の問題も解決して われわれは 地球を救いつつあります。  ☆ と言えるのではないかと考えます。たしかにわたしたちは 悪の問題や罪の問題に振り回されてもいましたから。――まえから言っておりますが とげが抜かれたのと その患部が癒えていくのとは 別だとも見なければならないとは思いますが。    かくしてまたおしえを乞い始めましたので よろしくどうぞお願いいたします。

関連するQ&A