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現在時における《復活》について
おしえを乞います。 次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。 ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~ そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。 ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は 決 して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇く ことがない。 しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたしの ところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い出 さない。 わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わたし をお遣わしになった方の意志を行なうためである。 わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えにな った人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させることで ある。 わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命を受 け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだからで ある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。 きわめて横着に 《終わりから始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。 しかるべく 正してください。 なお 《QNo.4367998 :復活とは? 不死の境地とは? = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4367998.html》の続編になります。
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オコリザルです。 まづ、 >家畜として共生する中で感情移入するして心象において擬人化する理解の試みから生まれた悪夢です。(この点は神話性のない私独自の解釈) この部分は私自身が理解するためのこじ付けがましい解釈で要するに寝言です。 変身と表現したbrageloneさんの解釈のほうがより忠実であるとわかりました。 このように表現するならです。 ☆ この《世界の変化》とは何ぞや 個々の精神世界がつながっていく過程と考えます。 自然史過程に関してはbrageloneさんの表現に謎かけめいた物を感じて思いが空回りしました。 このような場合brageloneさんの主張に私の理解が負けているはずです。 個人としてどのように係わるかなら世界に光が増して行くのを見取るだけとなりましょうか。
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オコリザルです。 brageloneさんは平気な事柄ですが、この世を信じてしまう人に対してのコメントです。 >主観的認識では世の中とちぐはぐであったり、まさに寝ぼけているようであったりする影響を受けるだけですが、心の奥底(無意識のような物)は深刻でして何一つ確かな物のない荒野をさまよい続けます。(存在不確定状態と一致) ドグマ「箱庭」の内情なんですが、存在不確定とは光の子が行方不明になっている状態で、若者がよくやる自分探しの放浪のたびと同じです。 ちょっと煽てて見ましたがどのような成り行きになるかは不明です。
お礼
なるほど。みづからの港が分からなくなっているのですね。 そこかしこで かろうじて 寄港地を探し当てることが出来ても 自分の帰るべき港が 分からなくなっているのですね。 ★ 荒野 ☆ であれば なおさら たいへんですね。しかも ★ 箱庭 ☆ なんですか? 狭い場所で さまようのでしょうか。 ううーん。交通つまり 対話をすれば いいのだと思うのですが だめですかねぇ。機会があっても その話しっぷりは かっこうをつけてしまって 実のある話は出来ないのでしょうか? ★ 深刻 ☆ ですかぁ。ふうーむ。ちょっと 認識不足でした。特に 若い人とは話す機会が めっきり減りました。どうしましょう。とりあえずアンテナを張っています。
オコリザルです。 A13についてですが、唯識めいて無意識を語った場合は脳の構造に関するもので無意識の本質を語ったものではないと判りました。 自分でもその点は勘違いしていました。
お礼
わたくしも 無意識について――直前のお応えにも書いたとおり―― 安易に捉えていたようです。 言いかえると 無意識だと言う相手に対しては それについて はっきり問い質せばよいと思いました。無意識を 意識の上に上らせたのか みづからの意志として承認したことになっているのか これを確認すればよいのだと 考えます。
オコリザルです。 アウトプットではなく自分でまとめた考えとして。 私は主観が不安定な状態(一般的には狂気)にさらされ続けましたが、これは神を霊化する現象となんらかの関係があります。 ただしこれを禁じ手にするのは、守れる筈のない不毛な約束で、そうせざる得ない人はやはりそうするべきでしょう。 私は感受性が鋭敏で、どこかで起きているそのような軋轢の予感にさいなまれていたようです。 要するに神殺しの犯行現場です。 もはやこの問題では受け身なだけでなくなったので平気です。 無意識からの引用に対するbrageloneさんの見解は正解ですが、経験からして寝ぼけ眼をたたき起こす場合は、そこまで追っかけなければならない場合があります。
お礼
無意識について わたしは 安易に捉えるくせがあります。 安易に捉えるという意味は 意識の上に出して来ない場合には あまり相手にしないという意味です。無視するというよりは 対話がまだ始まっていないと受け留めておくという意味です。 何でもかでも 無意識をあたまから否定するように言っているという印象をあたえてしまったとすれば 筋がちがっていました。訂正いたします。 この世という意味での大霊界の現象をめぐって そうとう 頻繁に 人びととの交通が 行き交っているという状態でいらっしゃるのでしょうか? わたしの言うデーモン現象が つづいているということでしょうか? わたしの場合には そうですね ここ数年(七・八年)前までは しきりに そうでしたが おさまって来ました。また あれっ デーモン現象が起こっていたんだなと あとで 気がつくという場合もあります。おおむね ゆるい形 浅い形に なって来ました。 わたしに エネルギが少なくなって来て 人びとも そのデーモン電磁波を わたしに向けて アースしようと思わなくなったのか それとも わたしが ただちに――それこそ 無意識のうちに――受け取った瞬間に返してしまっていて それが 内にとどまることが減って来たのか。 受け取った瞬間に わたしが 返してしまうというのは おそらく そのデーモン現象が ほんとうは 錯覚なのだから その錯視だということを 相手が すぐさま 見てとるようになったのか。 というように いろいろ思いますが そういろいろ思うということは 情況が変わってきているのかも知れません。 というようなことを考えました。
オコリザルです。 さらにアウトプットです。 人の行いとは(罪ではなく)自然界に恭順する必要の無くなった知性の自由意志ゆえの暴走である。 前にも誰かの質問への答えで似たようなことを回答していますが、より確信に近い感じです。 随分と楽の出来る世の中になりつつあります。
お礼
ううーん。 ★ 自由意志ゆえの暴走 ☆ であっても ★ 随分と楽の出来る世の中になりつつあります。 ☆ ということでしょうか? ★ (罪ではなく)自然界に恭順する必要の無くなった知性 ☆ ここに 鍵があるでしょうか。 今後とも まとめが 必要ですし その方向に進んでいけるとは思っておりますが いかがでしょうか。
オコリザルです。 今日の分の回答に対して無意識からの回答がありました。 A14の事柄はたとえば霊魂とか同一視できない事柄に対して駄洒落でなく謎かけをする事で「誘い水」とする一般的な手法でして、結果は予め心得ています。 マナ識の話が出たので今日一日は「あく」空文「罪」空文「よく」一時的軋轢と踏まえたうえで公平な采配にゆだねることが出来そうです。 無意識の発見した事柄は広く伝播します。 この現象を人知、ヴェーダ、涅槃、イデア界、大体そんな感じの物言いで観察してきましたが、全て空想の産物で無意識の作り出した伝達手段です。(今日はそのように認識しています) 自らが成したのではなく、立ち会っただけとのスタイルは崩すのは早いようですが、このように口外しても救世主扱いではなく単なるエスパー扱い程度で済む感じです。 さらに還元すればこの問題もさらに公平に采配され、誰が偉いなんて問題もなくなります。
お礼
あぁ No.10で わたしが 無意識の悪口を言ったことですね。 クリステワ゛ですとか 無意識のほうに持っていけば話がおさまるというような言い方だと思っています。あるいは と言いますか その無意識を 瞬間的に意識して あたかも光の源泉に触れるといったことが出来るし 為し得たのだと言おうとしている。そんなふうに受け取らざるを得なかった記憶があります。これは 混沌だと思いました。 問題は こうだと思います。たとえば《無意識で これこれと考えた》と言うばあい そのように言うときには すでに意識しており 意識したと見なしており みづからの意志であると承認しており すでに無意識のことは 触れることがなくなっている。と思うのですが いかがでしょうか? こういう問題ではないですか? ちがっていたら ご指摘ください。
オコリザルです。 >この世を認める物は現実と瓜二つの虚構の世界をさまよいながら生きることになります。 あくまでもこの世を認める物であり、この世を認める者の事を言ったつもりは無いのですが、この辺を万が一誤解されるともしかして随分と残酷かもしれません。 このような誤解からのろいを受けるように奈落の底に引きずり込まれる。 これが繰り返し地獄に落ちる経験の一つではないかと思い至りました。
お礼
これも むつかしいですね。ううーん。 こうでしょうか。この世は どういうわけか わたしたちが生きたいようには出来ていない。いとなみも そのようには おこなわれていない。このこの世を認めるなら 虚構にさらに虚構を加えた像を捉えて さらに そのさまよい振りを 増してしまう。 そういう意味でも 大霊界と呼ぶべき課題がある。 たぶん このようにて。
オコリザルです。 割と長く、無意識イコールアラーヤ識の認識が流行しているのでコメントです。 マナ識を表す言葉はただ一つで、 愛に基づく感情は公正に采配を振るう。 これだけわかっていれば良いだろうと思います。 マナ識は脳の前頭葉に位置して感情を采配する機能全般です。 あらゆる時系列の記憶に正しい意味を与えます。 そんなわけで内面のドグマたる箱庭の実態は、生きているか、死んでいるかではなくて、感情を伴っているかどうかに還元するのが本来は正しいのです。
お礼
ううーん。反応が いまひとつ 出難いご主張ですね。 要するに 無意識は そのことを言うのが 目的や解決策ではなく あれこれ考えるというよりも やはり自然本性のあり方からして 生き生きと生きなさい。というふうに わたしなら 受け取ります。 ただし 自然本性と言っても そのままで 筋が通るかどうかは 微妙である。何らかの目覚め また そのための言葉が 必要になるかも知れない。自然界ないし第二の自然としての社会そのものから 何かのきっかけを得られる人は さいわいである。 といったような。・・・ ちょっと乱暴なまとめであったかも知れません。次のご回答の中でも 考えてまいります。
オコリザルです。 いくつか掘り下げます。 A7の補足、 大霊界とは、 ☆ つまり むしろ《この世》のことなのでしょうか? ま 要するに 《なぞ》があったり 《誤解》があったりするときに言うのでしょうね。 私はそのように認識しており一貫してそのように主張してきたつもりです。 brageloneさんですら始めて判ってということは一般には全く難解で意味不明だったでしょうね。(専門家はともかく) その世界は、幻を見て生きる、寝ぼけた状態、又は脅し混じりに言えば、生きているのか死んでいるのかわからない様な状態です。 主観的認識では世の中とちぐはぐであったり、まさに寝ぼけているようであったりする影響を受けるだけですが、心の奥底(無意識のような物)は深刻でして何一つ確かな物のない荒野をさまよい続けます。(存在不確定状態と一致) そこが「この世」です。 この世を認める物は現実と瓜二つの虚構の世界をさまよいながら生きることになります。 注意して説明しなければいけないのは、悟った者を装ってこの世のむなしさをとくと仏教世界だからです。 「無」ってのは古臭い自己の認識方なんですよ。 既に古典なのでいまさら引用しても仕方がない。 でもわたしは仏教批判をしませんからこの点はそれだけにします。 A7、 >ここまでの説明で、brageloneさんは消滅たる「死」を宣告された霊体に対する感情移入が可能でしょうか。(有限の世界と言う幻想) その世界に対しては、 ▲ あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 (エペソ書5:8) これがもっとも正しい言葉です。 具体的除霊手法としては、それ以前の問題外のお化けも、ぞろぞろいるのですが、それはさておき。 私自身はこの聖書の言葉を、(長く続いた軋轢のため)「つげだす」又は「認識する」ことが出来ないでいました。 簡単な言葉ですがすばらしいアドバイスです。 有難うございます。 罪の問題で難しいのは本質的な(それがあるなら)「罪」はふさぎこんで閉じこもりがちなんです。 悩み相談室又は弁護すら取っ掛かりがない。 表ざたに出来れば関係の中からマナ識に由来する愛の判定で、解決、裁定する、観察の上での了解、が、可能です。 実は煩悩(的)罪はあくまでもその本質ではなく、こんなマナ識的な認識のための努力なんです。 このような戦いを自ら望むことが出来れば幸せです。 避けようとすると「苦」なんじゃないですかね。
お礼
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 ★ 煩悩(的)罪は・・・避けようとすると「苦」なんじゃないですかね。 ☆ ここらへんに 味噌があるのじゃないですかね。わたしの言い方では スサノヲ自由野生児なる自然本性に 光の源が宿るとなりますが。 エペソ書の文章が 気に入っていただけて ありがたいことです。増長するくせがあって いけないのですが こういう文章も 思い浮かべました。ご紹介します。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 愛する兄弟たちよ。だれひとりきらめく福音の光を知らず 暗闇の中にみんながじっとすわっている そういう時代が私たちにはあった。 自分の小屋を見つけられない子どものように そのころ私たちはさまよっていた。心は大きな愛を知らず 耳は神の言葉を聞くことができずにいた。 パパラギが私たちに光りを運んでくれた。彼らは私たちのところへ来て 私たちを暗闇から救い出してくれた。・・・パパラギの宣教師は 私たちにはじめて神とは何かを教えてくれた。そして 宣教師が誤れる偶像と呼んだ私たちの古い神々から 私たちを遠ざけてくれた。偶像の中に本当の神はなかったのだ。 (『パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ サモア島の 二十世紀初めの話です。もっとも これは ドイツ人の作文ではないかという説もあるにはあります。そして この酋長トイアヰ゛は 他方で 白人のほんとうの神は お金であるとも言っています。ドイツを見聞した結果です。 ★ 大霊界 ☆ は ふつう 《あの世》のほうに 重心が行きますから はっきりと《この世》であるとお聞きしたのは 初めてでした。要するに 無明・煩悩という言葉を聞いて 分かったような気持ちでいては 実際に その苦悩に出遭うと 困惑するような魂のあり方でしょうか。それを繰り返しているといったところでしょうか。 ★ 罪 ☆ は たしかに 言葉だけとしても 扱いにくいですし それがあることだけで 憂うつになりそうな言葉です。 さらに ご投稿をいただいています。
- arayata333
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ANO6です。 続けます。 言葉の考古学的な学術的豊かさも加えて、盛り上がっていますね(^^)。 言葉の資料(史料)も、真実や事実の検討の考察の中に取り入れる広さは哲学には必要な世界なのでしょう。 でも、言葉の海におぼれるために言葉の価値があるのではないと私は思っています。 これはkigurumiさんの言われる新約聖書創作論の価値の正否をうんぬんしたいからということではなく、 そのまえに、そちらのコメントの次の言葉の楽観論に私の方からも口を挟みたくなったということなのです。 >・・・したがって 自然本性なる《わたし》に自己還帰すれば 浄福であり 復活につながる。< という部分で、brageloneご自身が楽観論だと言われてるあたりのことです。 もともと森の中で暮らしていたと例えられる有史以前(歴史の史料以前)の人間のほうが、 自然本性なる《わたし》や《わたしたち感》を 其の言葉なしにも豊かに持っていたという私の人類進化観は、ある程度はもう解っていただけたとしてお話しますが、 それを破壊したのは、言葉が記録されるようになった事自体が原因ではなくて、言葉によって権力欲というものが出てきたためだと思っています。 そしてそれは、村の長老という哲学者がさらなる社会の安定のために残した法律とかによって、つぎにはそれを権力に利用しようとして制度化、形式化してしまうことが起り、これが権力欲につながっていったと考えるのです。 宗教がそれです。 仏教やキリスト教の旧約も、其の起こりはだいたい一緒だと思います。 めちゃくちゃ荒削りな論じかただと思われるかもしれませんが、 まず踊りは、それ以前は初めから現代一番高度だとされる表現表出即興舞踊を自然にみんなが踊れたのです。 そのはずなんです。 ジャズがアフロアメリカ人によって発展して やっとアフリカの音楽がけしてでたらめで野蛮なものではなく それどころか多くの感情が其の分豊かにちゃんとスイングしあってしかも軽やかにリズミカルに調和されて存在してることがわかってきましたが、 踊りはさらにまさに 自然本姓なるふるさとの香りを豊かに豊かに持っていたということです。 しかし、宗教舞踊により 形式化が始まり、自由な即興は消えていきました。 でも だからといって 宗教にはもともとの大自然の中に生きていた素朴な人たちの深く新鮮な感性を反映していないかというと、 もちろんそんなことは無いし、 仏教などでは、むしろそれをこそなんとかとりもどそうという努力の跡がそこここにあるわけですし、 新約聖書はそれが誰かの創作だとしても、また其の出所がどういう経路をたどったのだとしても まさに そちらの言われる 自然本姓への帰還を深く力強く語っている内容となっています。 イエスが創作だったとしてペトロまでは力強いその示唆に富んだ言葉の跡があり、それがちゃんと、 この歴史をつらぬいている事実は ただただ私の場合敬服してしまうだけなのです。 「たとえ話しの天才」を創作したことで、現代でもそのわかりやすさが誤解の元になり続けてたりもするでしょうけどね。 話を元に戻します。 しかしながら、素朴な人は、キリストのように強いでしょうか? 純粋なまだ何も知らない赤ちゃんや そぼくなはなっったれ小僧とかは、キリストのように強いでしょうか? 弱いですめちゃくちゃ弱いです。 鬼が島の話があればすぐそれを信じてしまいます。 他の村の人たちは鬼だという言葉が、実際それを哲学しなおしてみること無しにまず受け入れられてしまいます。 ウソが何であるかを知らないうちから ウソを使えるようにもなるでしょう。 つぶさにウソの可能性の世界とその裏の心理の世界を知り尽くしてしまえば、そんなものに影響されずに、もういちど素直な無邪気な心に戻れるのですが、しかももう誰にもだまされませんが、 素朴な人たちには、その最初の免疫すらありません。 こうして 宗教が権威と奴隷の歴史、残酷さや偽善とかの片棒をかつぐ歴史が生まれてきてしまった史実は生まれてきてしまったのだと思います。 ここには簡単に書くしかなかったですけど、言わんとしてることは解っていただけたのではないでしょうか? アフリカでは アミン大統領の残虐性とかが問題となったところですし 素朴な人どうしの争いのニュースもたくさんあったりします。 それらを越えてゆくのは、 もういちど、たしかに人間本姓の心を取り戻すことがものすごく大事な地点ではあっても、 これはもう「言葉」の世界からあともどりすることに、その道があるのではないわけです。 わたしは、 これを持って 私らしい闘いを求めて日本感性学会の方への質問へと切り替えてゆき、 しばし再びOkウェブから一応離れようと思っています。 そこで最後に、私からのメッセージをここに書いておこうと思います。 教会もアミンもヒトラーも南京の兵隊も全部、もし許せなかったら、そういう人が一人でもいたら 復活ってなんなのでしょう? という現在の人間の叫びを、提出しておきます。 心の乱れた時の状態の私が復活したって私自身だいたい私を自覚してないで笑。意味無いです。 感性の無い灰色の世界しか見えなかった時の私が復活したって、はやく死にたいだけです(笑)。 まさに 永遠に生きとし生ける私たちのすべてが永遠に幸せであってほしい心を獲得するまでは、 復活に意味は無いし、 逆にたった今 キリストのいう「御国が天に行われていますように、地にも行われますように」という主の祈りの御国に たった今入ることも確かに不可能ではないとは思いますけどね。 現在時にて復活の過程にありということでしょうかね。 太陽を送って服をみずから脱がない人はいないというイソップのいう真実の実際の社会における詳しい実現性を哲学する人が増えてほしいです。 哲学での其の闘い抜きに、今後物理学ってどのように発展してゆくのです?(へんな言い方ですけど^^)。 現時点での巨大は応用物理の世界は、日本人の器用な職人の手のうちに握られてたりします。(これも突飛な言い方ですが^^)。 日本がものづくりの時代ではないならば、其の職人技を世界に広げていけばいい時代ではないですか。 資本主義は まだまだ総合哲学がリードするならば良くなると思います。 アメリカだって苦しんでいるのならば、アメリカにもその太陽を送ればいいだけじゃないですか? 太陽だけが、アメリカのうみだす憎しみの連鎖を終わらせるのではないですか? より幅のひろい井戸端会議を期待しています。 幅の広さが重みとなり 感性教育という先端部を、大地の問題群を掘り起こす巨大な掘削機のパワーアップ源とされんことをお祈りしています。
補足
arayata333さん ご回答をありがとうございます。 どちらか一方に専念しなければならないのですか? それほど時間が忙しくなるのですか? いづれにしましても 自由なかたちが いちばん 望ましいと思いますので それは お任せになるとは思いますが。 今回は これまで対話を重ねて来ましたので 反応する箇所は 二点です。 一点は 《手放しの楽観論》について触れておられるところです。けっきょく 言語以前の生活の情況と言いますか そういう原始心性のゆたかさの問題も いま ことばを失くして 自然に還れと言って 探求するのではないとおっしゃっているわけですから 特に問題はないと思います。《わたしの霊の息吹きを受けなさい》という素朴なことば これにも ひとは 反応するのではないでしょうか。 その限りで 自然本性を 打ち出して行っても いいように考えます。 もう一点は そのように 自然本性を打ち出していくとき 手法や方法に 思案すべきものがありはしないか? こういうご提案だと思います。 要するに 互いの交通に際しては 《赦し合いなさい / あたたかく 接しなさい》というご主張です。 おおきな議論になると思いますが ここでは わたしが要点だと思うところを述べてみます。二つあって ひとつは 《人が 人のあやまちを 赦す》という能力も権限も あるいは そうとすれば 資格も 持ち合わせていないのではないか これです。もう一つは 社会的な交通に際しては 相手のあることであるからには その相手の状態や 大きな情況のあり方に応じて 対処するのも 一法ではないか これです。 前者は 誤解を招くといけませんが 《赦さないという能力も権限も ない》という意味です。この考え方に立てば 一人ひとりが 更生する・再生するということ。そのためには 或る種の仕方で 一定程度は つぐないの期間を設けることも考えられるということ。その点について 自由に 提案をし合っても よいのではないか。です。 二つ目の点については 太陽政策もあれば北風手法もあるのではないか これです。相手に応じて 情況を見て こちらの主観の考えるところによって 採ると思っています。 これからも 井戸端会議に顔を出してください。 (ただし わたしも 一たん しりぞくという考えを持ったことがありますので どうなるか 分からないのですが)。
- kigurumi
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No.2です。 >ただ 惜しむらくは 見解が互いに あまりにも ちがっているということですね。 現代の哲学者は、今までこうだと言われてきたことが、本当にそうなのか、吟味し、取り消し あるいは 修正することで成り立っている。 のだそうです。 <古代文明の謎はどこまで解けたか>という本を読んだことがあります。 Aだと言われたら、普通の人は、そのAから派生した概念をもとに、AB、ABC、ABCDと話を作って本にする。 でも、この本の作者たちは、Aだとどうして言われることになったのかを、掘って掘って探し出した。 実際調査し、分析し、検証した結果がまとめられた本です。 彼らほどじゃありませんが、私なりに掘って掘って掘りまくった。 この堀り具合の違いが、私とあなたの見解の違いかもしれないですね。 私自身も掘りつくしたとは言えませんが。 >イエスは 聖書の登場人物の中でさえも まったく特別なひとであるわけです。アブラハムやモーセやダビデその他その他から かけ離れています。 そうですね、コンスタンティヌス1世は、混乱の解決のために、イエスを神だとした。 彼がいなければ、イエスは神ということにならなかった。 彼はローマ皇帝で、人民の治安を図り、人民の統率ができなければ、失脚する立場だった。 ゆえに、必然的にキリスト教徒がローマ帝国内で起こしている騒動を鎮圧する必要があった。 > 一定の期間としてでも イエスの力が 人類史上に はたらくという物語にもとづいてのご投稿です。 イエスの力ってなんでしょう? ローマ帝国の繁栄をもたらしたのが、イエスの力の功績だというのなら、確かに<太陽>の沈まぬ国、とされたローマ帝国は、一定の期間<太陽>は繁栄した。 500年ほど前滅亡しましたが、決して<太陽>の沈まぬ国だと信じられていた。 スティーブン・スピルバーグの映画で、太陽の帝国ってものがありますが、これは日本が舞台ですね。 日本も太陽信仰があるから、国旗は太陽なんですよね。 >その特異な事柄は 弟子たちからも裏切られ 人びとすべてから見放されたという点にあります。 ヨセフは12人の<兄弟>がおり、ユダに銀貨20枚で売られた。 イエスは12人の使徒(ブラザー)がおり、ユダに銀貨30枚で売られた。 ユダや人が神を殺したという根拠を持って、ユダヤ人は2千年も迫害されたわけですが、事実無根の罪により、多くのユダヤ人が長い間迫害されてきたことに対し、ヨハネ2世は遺憾に思うと発言したことは有名ですよね。 ピラトは実在の人物ですが、政治犯と疑わしきものは、裁判無しに即処刑していたことで有名な人物。 聖書の話と実際の人物の特徴は違うんですね。 結局 彼はユダヤ人からそのやり方の汚さをローマに訴えられ、リコールされましたよね。 その当時、ローマの法律で処刑方法はいろいろあったが、は政治犯は十字刑だった。 ということは、仮にイエスのモデルになった人がいたとして、その人はピラトに政治犯だと疑われ(実際人々を煽ってローマにたてついていたゼロテ党員だったかもしれない)、裁判無しに処刑された一人ってことになりますね。 律法に違反したら石打ちの刑で、宗教に関することはローマは干渉しなかったようです。 勝手に宗教的問題は内部で解決してくれってわけです。 この宗教関係による処刑は、現代でもユニセフも手が出せない。 イエスが人々に剣を取れと煽動する発言が聖書に残っていますよね。 ユダヤの歴史では、バル・コクバが救世主と思われたとされる。 彼もはハドリアヌス帝治世下の132年から135年にかけて、ローマ帝国に蜂起した。 第二ユダヤ戦争。 これは史実ですが、イエスに関してはまったく歴史的資料が無いので推論するしかない。 聖書? いえ あれは小説であって、人口調査など実際無かったことが物語内ではあったとして記述されており、信憑性に乏しいから、歴史資料としては扱えない。 >主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 聖王のことですよね。 地面を掘ると、古代文明が出てくることがある。 ローマ市街だったか、ギリシャ市街だったか忘れましたが、その地下から遺跡が発見された。 男根信仰で、大きな岩が祭ってあった。 ダ・ビンチ・コードでもダビンチの絵画で大きな男根の絵が問題になっていますよね。 ダビンチも男根崇拝がキリスト教の元石だと知っていたのでしょうね。 ペトラ あるいはペトロの岩。 大きなものだと、ヨルダンにある世界遺産のペトラ神殿。(インディージョーンズの映画にも登場する。) 聖書ではペトロの岩が神殿を建てるとあるが、ローマ市街か、ギリシャ市街か忘れましたが、本当にその祭られた岩の上に町ができている。 紀元前のいつに男根岩が祭られたのか知りませんが、町の繁栄を願った信仰があったことは間違えない。 この概念が後に新約聖書作家も知っており、作品を作るとき、多神教のこの豊穣祈願の概念を採用したのではないかと。 話はぐっとさかのぼり、旧約聖書作家も採用したバビロン神話では、全ての神々を生み出したティアマトと、ティアマトが生んだ神々との戦いがある。 この戦いが、世紀末、神と神に反逆しサタン側についた天使たちとの最終戦争として現代では語られている。 ティアマトはたくさんの神々を生み出した。 その結果世の中が騒がしくなったため、夫のアプスーは「安息日が無い! 気が休まらない!」として、騒ぐ神々を殺そうとティアマトにもちかけた。 しかし、慈悲深いティアマトは「そんなことをしては駄目」と反対した。 ところが息子のエアは父親のアプスーが自分たちを殺そうとしていると知り、逆に父親のアプスーを殺してしまうんです。 そしてそれだけにとどまらず、全てを生み出した初源のティアマトに「その最高地位をくれ」と使者を送って伝えた。 夫を殺したばかりか、全てを決める権限をくれと言う息子にティアマトは激怒し、エアの送った使者を引き裂いてつきかえした。 孫のマルドクックは勇敢にも、ティアマトに戦いを挑み、苦戦したが、ティアマトがマルドゥクを飲み込み源に返そうとし口を開けたとき、暴風を吹き込み、ティアマトの口を閉じれなくして、その口に矢を射てティアマトを殺した。 そして彼女の肉体を八つ裂きにして、天と地を作った。 つまり命を生み出し、命をはぐくむ大地は、ティアマトの肉体からできているというわけです。 そうなると今まで全てティアマトが一人でやっていたことは、ティアマトを殺したため、ティアマトに反逆した神々がしなければならなくなった。 神々は大忙しになり、身の回りのことができなくなり、マルドクックに苦情を言った。 それで、マルドゥックは神々の身の回りの世話をするものを、土とティアマトの選んだ指揮官(聖王)キングーの血を混ぜ、人間を作り、人間が神との契約を忘れないために虹を空にかけた。 つまり、人間は初源の神ティアマトの肉体とティアマトが選んだ聖王キングーの血で作られているというわけです。 で、人間は負けた側の肉体と血を引くので、反逆して勝利した神々との契約により、永遠に勝った神々の奴隷としてかしずかなければならなくなった と。 キリスト教が<虹は神との契約の証>と言いますが、こういうことなわけです。 一方でそういう伝説を知っている人々は、豊穣を願い、女神に選ばれた地上の王と、女神との結婚を望むわけです。 女神によって選ばれた男は女神との聖婚の際、油を男根に塗った。 ティアマトは自らも生み出したので、永遠の処女ってわけです。 後にこの風習はユダヤ教に入ると、男根ではなく頭に油を塗る風習に変化した。 女神が選んだ男 聖王として、頭に油を塗られていたわけです。 この選ばれた男の精力が続く限り、地上は豊穣になると信じられた。 しかし、男の精力がなくなると、地上は飢饉に見舞われると信じられていた。 地上が不作になると、聖王は紫の衣を着せられ、女神に仕える巫女たち(神殿娼婦とも言われる)と交わり、その後紫の衣をはぎとられ、鞭打たれ、十字架にかけられ、槍で突かれ、血が大地に流された。 血が大地に流されたことで、女神の力も復活し地上が豊作になる と信じられていた。 この風習は結構長く保たれ、聖王とされたものは不作になると殺されてはたまらないと、自分の身代わりをたてたりもしたらしい。 みんなに見捨てられた岩 というより豊穣を願って処刑されることを受け入れる聖王ってわけです。 で、聖王を選んだ巫女たちは、聖王が殉死すると、「アレルヤ」と神殿で泣き叫んだ。 キリスト教では喜びの声として「ハレルヤ(主を褒め称えよ)と叫ぶそうですが、この言葉が発せられる時、地上は豊穣になるが聖王が死ぬ という概念が起源。 で、古代では男は子供が自分の分身だと思っており、女は男の分身をこの世に送り出すただの器だと思われてた時期があった。 ユダヤ哲学者は頭を悩ませた。 「どうして男の分身なのに、女の子が生まれるのだ?」 で、神に喜ばれなかった男には女の子が与えられるとした。 障害を持った子供が生まれた場合も、神から呪われたからと解釈した。 まあ、そういう思想があったとわかると、聖王は死ぬ間際に巫女たちと交わる理由がわかってくる。 しばらくすると妊娠する巫女もいたでしょうから、聖王は死んでもまた生まれてくるって理屈です。 卵子って視覚で見えませんし、卵子の存在は近代までわかっていませんでしたから。 したがって >彼らは御言葉を信じないのでつまづくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。 古代のキリスト教ができる前からあった概念をちゃんと理解していないキリスト教が中途半端に構築した岩に、あなたはつまづいてしまったってことじゃないでしょうか。 >《そうなるように以前から定められているのです》というような言い方は あとからそう言えるとしても ずるいやり方であるように思います。 ええ、ズルイと思います。 キリスト教幹部は各地の教会に焚書を指示したため、古代の文献が数多く燃やされたんです。 古代の貴重な遺産の喪失。 それでも各地の図書館に残っていたのですが、今度は図書館を閉鎖し 、「信者は聖書だけを読むように」と指示した。 情報が隠蔽されたため、長らく古代の思想を一般信者は知ることができず、だから信者はキリスト教神学者の中途半端な見解の言いなりになってしまうしかなかったわけです。 キリスト教の神学者が「こうだ」と言えば、「そうなんだ」と信者は思うしかなかった。 比較するものがないから。 情報操作されたら、視野が狭くなり、全体が見えず、偏った見解になるのは必然。 だけど現代では、情報操作は昔に比べるとそれほどされていないので、もっと視野を広くし、他の文明とか、古代文明とかと比較することは可能。 キリスト教は焚書したが、地下に埋もれた粘土板の神話までは見つけ破壊することができず、結果現代に出てきてびっくり。 なんだ 旧約聖書ってオリジナルじゃなかったんだって。 紀元前何千年も前から、3人に誕生を祝われ、30歳の時聖職者になり、12人と旅をして、治療し、人を復活させ、3日後に自らも復活したという人たちの神話はあって、しかも時代により主人公の名前が違い、最後がイエスの話になったんだって。 これはイエスの出現が予言されていたと解釈するより、イエスの物語を書いた人が、古代よりあった神話を主人公の名前を書き換えて再販したって解釈した方が自然。 つまり、イエス話は古代にいたとされた人のバージョンいくつ目か。 みずがめ座の時代になると、名前が違えて西暦2150年頃 聖王が3人に誕生を祝われ、30歳で聖職者になり、12人を連れて各地を布教してまわり、人々を治療し、死んだ人を蘇らせ、自らも3日後に蘇って又くるって言う神話ができるんじゃないか と。 そしてさらに2150年後にまた来る。 つまり新しいバージョンで名前が違って神話ができる。 これを神話の復活というのでしょうか。 神話の復活なら、ロードオブザリングもプラトンのギュゲスの指輪の現代版であり、プラトン主義の復活ですよね。 ちなみにプラトンは紀元前400年頃の人で、「善人だとどうやってわかるのだ。善人だと思われるため、善人らしくしているのか、本当に善人だから善をやっているのかわからないじゃないか。 その人が本当に善人かどうか確かめにには、その人からあらゆる善(徳)を奪い取り、鞭打ち、十字刑にして、槍でついても、その人が善人でありつづけたら、その人は善人だったことになる」って言っています。 プラトンの考え出したその話も、彼が古代から伝わる聖王伝説を知らなければできなかったこと。 >イエスが 官憲に捕らえられ はりつけの刑に処せられるに際しては ペテロをはじめとして 弟子たち皆が 背きました。 でもですね。 「そんなことがあってはなりません」とペトロが言うと、計画を邪魔するなと言わんばかりにイエスはペトロをサタン呼ばわりしたじゃないですか。 サタンの意味は「妨げる者」なので、計画を妨げる者だからペトロはイエスにとってサタンになるわけです。 もし、徹底的に阻止してイエスの計画の未遂物語にしたら、聖書作家は何言いたかったのかってなるじゃないですか。 聖書作家は、他の民族が古代より伝えてきた聖王の愛死をモチーフにして、物語を書いたわけですよね。 この聖王の愛死の概念は、ギリシャ方面でも盛んだったと思います。 だからその土地の神話に熟知している人は当然ギリシャ語がネイティブでしょうから、新約聖書はギリシャ語で書かれたんじゃないかと。 >石工たちが 家の土台のための隅の親石に これはだめだ・使えないと言って 選ばなかった石・そして人びとも こぞって捨てた石 その石が じつは かなめ石だったという存在論上の変容 つまり あたかも蛹から蝶へと変態するかのような人間存在としての復活 これが ほかの人物の場合とはちがって イエスの場合には 人類全体にとって 起こったのだと考えます。 でもですね。 使わなかった はい 終わり じゃなくて、使ったじゃないですか。 コンスタンティヌス1世が。 これによってローマ大帝国ができたわけですよね。 ユダヤ人はこの石を捨てたから不幸になったのではなく、キリスト教がユダヤ人が生きずらいように、ローマの法律を変えてユダヤ人を迫害したからですよね。 人為的なものです。 これが神の業? 神じゃなく人間の業。 これにより無実のユダヤ人たちが2千年も迫害され、人類史上最悪のホロコーストまで起こった。 冤罪をかけて殺すことが善だとは決して思わない。 キリスト教国は人類史上最低最悪 人間とはもはや呼べない悪事をやってしまった。 日本人から見てどうでしょうか。 これが善? ユダヤ人は神を殺した? 殺していません。 彼らがどんなひどいことを一体したというのでしょう? もし本当に神がいたら、神の民を殺したキリスト教信者は、神の怒りにより全員永遠の地獄に落ちて燃やされ苦しみ続けるでしょう。 いなくてよかったですね。 私はどうせ神話に心を寄せるなら、裏切られ体を引き裂かれても、地上に生命を生み出し、生命をはぐくみ続ける名誉も何も持たず、ただ癒しはぐくみつづけるティアマアトに深い慈愛を感じます。 ヨハネの黙示録に出てくる女神。 これ ティアマトのことだと思います。 バビロンの大淫婦とかののしられていますが。。。 キリスト教の焚書を免れたナグ・ハマディー資料にはこう書いてある。 我は最初にして最後なる者ゆえ。 我は誉れある者にして侮られし者。 我は娼婦にして聖なる者。 我は妻にて処女。。。。 我は石女にして多くの息子あり。。。。 我は把握し得ざる沈黙。。。 我は我が名の言辞。
お礼
☆☆ 《そうなる(つまづく)ように以前から定められているのです》というような言い方は・・・/// ★ ええ、ズルイと思います。 ☆ とこの箇所で kigurumi さんも 強く反応しておられますね。教会が正しいという観念が kigurumi さんにして まだ あるのではないですか? ★ ・・・3人に誕生を祝われ・・・聖職者になり・・・人を復活させ、3日後に自らも復活したという人たちの神話はあって・・・イエスの話になったんだって。 ☆ これは 初耳です。もしそうであれば 《復活》の何たるかを もっと 思索していても よかったのに。 ☆ 王は 聖王だろうが プラトンが 焼き直しの話を作ったであろうが 問題は そこでは 《絶対ないしその意味での霊》の話ではありません。肉の思いは・・・です。 ☆ 弟子たちからも背かれたというくだりについて 評言を与えておられますが 意味が取れません。聖王の愛死とかも 話がかみ合っていませんよ。 ☆ コンスタンティヌスが イエスを《使った》というお話。史実の順序の錯誤です。 ★ ユダヤ人はこの石を捨てたから不幸になった ☆ とは わたしは言っていません。捨てられたにもかかわらず 死後に なくてはならないかなめ石になったと言っているだけです。――迫害の問題は 触れました。 ★ キリスト教国は人類史上最低最悪 人間とはもはや呼べない悪事をやってしまった。 ☆ 《丸坊主になり すべての教会を解体すべし》と わたしと一緒に 言ってください。 ▲ (ヰキぺディア:ティアマトhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%88)~~~~~ 〔伴侶の〕アプスーとティアマトは多くの神々を生んだが、彼らとの生活が煩わしかったアプスーは、ティアマトに彼らを殺すよう持ちかけた。しかし、母なるティアマトはそれを拒み、逆に息子達へアプスーの企みを教えて、警告した。エアは、ティアマトの警告を聞くと、兄弟姉妹と語らってアプスーを殺してしまった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ティアマトは 息子たちが伴侶のアプスーを殺すことを阻止できなかったか? この一点だけの疑問でも 提出するに値するでしょう。
補足
kigurumiさん ご回答をありがとうございます。 kigurumiさんと わたしとの違いは まぼろしを見たとするか それこそが幻だとするかです。順序が逆でしたが。 実在の人物でないなら そして虚構だと分かっているなら それらは 歴史に影響を与えない とは わたしは見ないわけです。もちろん kigurumiさんの歴史実定主義に譲歩して言ったのですが その心は 虚構が影響を与えるのではなく そうではなく 虚構をつうじて 人間の真実に迫り それをつうじて 絶対の真理にさえ わたしたちは 触れ得たと感じるときがあるということです。 ですから kigurumi さんのお詳しい歴史的事実のほうとしても ★☆ ユダヤ人の迫害・改革者への弾圧・魔女狩り あるいは 聖職者によるふつうの人びとに対する高慢な説教等々 ☆ これらの事実について もしまぼろしの見えると言う人であるなら 《遺憾に思う》だけで 済むとは思えません。丸坊主になるだけではなく 教会じたいを解体すべきだと考えます。二百年は 謹慎しても ばちは当たらないのではないでしょうか。 ★ イエスが人々に剣を取れと煽動する発言が聖書に残っていますよね。 ☆ イエスを捕らえる大祭司の手下に対して 一人がその耳を切り落としたあとで イエスは 剣をおさめなさいと言いました。つまりそれは やっとその暴力がすでに行われたあとだったかも知れません。が そのとき 《剣を取る者は皆 剣で滅びるのだ》とも言っています(マタイ26:47~)から 《剣を取れと煽動する発言》をしたとは知らないのですが どこですか? ☆ 神話は 経験思想に毛を生やし羽を付け 想像力に任せて空を翔けさせたものです。地続きです。言いかえると 史実ではないのに 初めから 神々がいて そのあと 人間が生まれるという順序です。言いかえると 初めは 人間どうしであったのが その後 階級関係が発生したわけです。支配階級が 神々とされただけのことで 史実の順序を逆にして述べています。 民主主義の時代に いまだに国王がいますので そのぶん 神話も おもしろがられるのでしょう。 ☆ 肉の思いは せいぜいが 倫理規範(律法)までです。雁字搦めになるのが 関の山です。 ★ キリスト教が<虹は神との契約の証>と言いますが、こういうことなわけです。 ☆ 宗教としてのキリスト教が どう言おうが 関係ありません。また《虹》だろうが《割礼》だろうが 経験的なもの表象しうるものが 証しやしるしになったとしても どうでもよいことです。肉の思いは せいぜいが そのしるしにまつわる戒めによって心を殺されるだけです。《すべてが ゆるされています。すべてが 益になるわけではありませんが すべてがゆるされています》と理解してください。《水による洗礼》からさえ自由だと唱えています。 ☆ 母の存在はおおきく いまだに 女神という言葉だけでさえ反応する人もいるほどです。処女が言われるほどに 男根も ひそかに 《崇拝》されているのですかね。哲学も 象徴的に ファルスを 理論化していた時期がありましたね。無意識とやらを持ち出せば 何でも言えると思っている輩もいるわけです。 肉の思いは この地平から 徳( virtue )つまり男( vir )のちからを 義の問題であるとするに到るまで 倫理学を発達させますが せいぜいが 人間的になり これ以上はないというほど人間的になって そこで まわりを見渡すと 誰も その有徳の士はいないと分かって 絶望するという抽象的な規範の問題だったわけです。 ★ みんなに見捨てられた岩 というより豊穣を願って処刑されることを受け入れる聖王ってわけです。 ☆ この記述は イエスには当てはまりません。精確を期します。そういう神話や決まりにのっとって 人びとは はりつけの刑に処したのでも イエスがそれに甘んじたわけでも ありません。あとで わけをこじつけたとしても それは イエスの真意でもありません。豊饒を願う問題とは それを含んでもかまいませんが 次元が違います。いまの質問のごとく 永遠の生命・復活の問題であると 初めからイエスは言っていたからです。
お礼
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《世界の変化》とは何ぞや ★ 個々の精神世界がつながっていく過程と考えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。わかりやすいですね。いい表現ですね。 ★ 個人としてどのように係わるかなら世界に光が増して行くのを見取るだけとなりましょうか。 ☆ これが――上でのわかりやすい情況とかかわって―― 一方では 《特に 人は 何もしない自然史過程として光が増す》のか それとも 《光が増すのは 人の目覚め(ブッダになること)とともに 起こる》ことなのか。・・・というところなのですが。 けっきょく ★ 鬼から牛への変身 ☆ にしても ある日起きたら そうなっていたというのか。それとも 涙ぐましい努力のあとに成就することなのか。と なお 思います。