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美は社会に強力な作用を起こしえるでしょうか?
美といってもさまざまな定義があると思います。 すでにあなたが美に対して持っている概念でお答えください。 強力な作用ではなくても社会に何かしら与えるであろうと思うことがあればぜひお答えください。
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>ん~、難しいですね、鈍くてすみません。 確かに反作用はないですが、どうもしっくりこない…。 もしかしたらあなたの価値観なので僕には少し解し難いようです> 反作用というのは結果相対的というより相対比に近くてただの相対とは訳が違うわけです、ただの相対は認識だったりするわけですがなにかの優劣を比べるということによって美を形成する場合反作用ですよね? そうでない場合ということだと思ってください。 テストの例で言うと100点取った人が2人居たとしましょう その100点を取ることに対して独りは周りとの相対比で価値を見出す人ともう独りは自分の得意教科で100点が取れたことに幸福を感じるのとの違いだと思ってください。 >少し僕が絶対的な美を買い被り過ぎているかもしれませんが。 ぜひどのようなものがありますでしょうか?> これは個人と外界との連動によって発生しますので僕が述べたところで「そんなこと無い」と言われればそれまでなのでなんともいえません。
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NO2です、またおじゃまします。 前回は区分化から発生する悪的美を表現しました。 なので今回は善悪関係ない区分化を有しない美とは何かを説明します。 結論から言いますと善悪関係ない美は醜を差別しない美だと思います つまり区分化しない美だということです 区分化して境界線を作るというよりか醜を認める悪がない美であるということです。 これはNO2とは違い相手を差別することで自分が美であるという確信を得ようという心構図ではないと思います。 なので美でありながら親近感がある美だということです。 前回は差別をするので心の空間が狭くなるのですが、今回は区分化をしないので無束縛でしょう。 なので社会性としてはごく当然の無差別ということになるでしょう。 なのでそのような美は意識して作ったのではないと考えられます。 つまり自然に作られたものだということです なので醜を差別することがないということになると思います。 自然に作られたものというのはまったく意識しないという意味ではなく「これは【醜】だからやめておこう」みたいな【醜】を侮辱するようなことを考えて物を買わないという意味です。
お礼
再びの回答、ありがとうございます。 美でもあり醜でもある美、もう美というのかわからないですが…。 >なので美でありながら親近感がある美だということです。 親近感がある、ということは有名どころだとピカソの作品あたりがこれに該当するんでしょうかね。一見、子供のラクガキともとれるような奔放さ。 条件に縛られない奔放な美、何かありますねコレは。 なるほどそれに無差別ということはやっぱり何か影響は社会や人に与えていますね。 しかし、ここで次に問題となってくるのはそれが強力なものか?それがどんな作用を引き起こすか?です。 これはかなり難しそうですがお時間ありましたらでいいのでお答えください。
ペテロが書いたと言われる書簡の中に 次のような一節があります。 なかで 《神》が 《絶対的な美》を表わし 《主=キリスト・イエス》は その人間版です。前者は 人間に表象し得ないのですが 後者は 美意識として 感覚的にも 持ち得るという設定です。 ▲ (ペテロ第一書簡2:4~8)~~~~~~~~~~~ 主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。 聖書にこう書いてあるからです。 見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。 これを信じる者は、決して失望することはない。 (イザヤ書28:16) 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、 家を建てる者の捨てた石、 これが隅の親石となった (詩編118:22) のであり、 また、 つまずきの石、妨げの岩 (イザヤ書8:14) なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ けれども この最後の一節 すなわち 《そうなるように以前から定められているのです》というような言い方は あとからそう言えるとしても ずるいやり方であるように思います。 つまり 何が言いたいかと言いますと 美ないし美意識は 人びとに共通の内容や判断基準を決めることは むつかしいということです。(文章にして決めつけることが むつかしい。また それでも 何が美ではないかを決めることは 出来るかも知れない)。 つまり 《つまづいた人 / つまづかなかった人》 それぞれいるでしょうが ということは だから 言おうとすれば 絶対的な美やその意識がありうるかも知れないのですが それが 人間に 規定するかたちで わかるものではない。こう思います。はりつけの刑に際しては ペテロをはじめとして 弟子たち皆が 背いた過去があるのです。 石工たちが 隅の親石に これはだめだと言って 選ばなかった石・そして人びとも こぞって捨てた石 その石が かなめ石だったという美意識上の変容および人間存在上の《わたし》の変態が 人類に起こったのだと思います。 やや図式的な回答でした。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに存在するかもわからない絶対美を説明するということはいうまでもなく難しいです。 それはもう文字とか形とか普通の情報を超えてますよね、いわば超情報、説明できないが凄い。 多分絶対美があるとしたら、普通の情報を超えているので相当強力なんでしょうね。
- bananasand
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No4です。 歴史的で象徴的例はビートルズが良いと思うんですね。 たかだか4人の行動が音楽、ファッション、アート 思想、宗教、社会運動へとかなり強力に波及したわけです。 純粋な音楽の美が社会運動まで波及したわけでは無いでしょうけど 発信側の個性、行動や時代背景と絡み合って、 受け手側に相乗効果をもたらしていると思います。 そう考えると、発信者が表現を発する前から、潜在的な美が既に受け手側にあって、それを発信者が引き出しているという関係なのかもしれません。無論、その表現によって引き出されるものが違うことは言うまでもありませんが・・ 発信側の美の創造というのは、受け手側に潜在する美の発見なのです。
お礼
再びの回答、ありがとうございます。 受け手側がもつ潜在的な美ですか…、なるほどわかりました。
真の「美」は理性の究極の表現だと思います。 植物一つとってもその創りは数学的でかつまったく狂いのない完璧なものです。 社会が進化すればそれだけ「美」に向かっていくことになります。 より理に適った生活へ進歩するからです。 フラクタルのように次々に新しい美のパターンを様々な次元で形作っているのだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 社会が進化することで「美」に向かい、それが人の理にかなう生活に進歩するとのことですが、近年私は合理性を追求するあまり人が部品的になりさまざまな問題がおきていると思います。 しかし、新しい美のパターンを形作るというのはわかるような気がします。
- kigurumi
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>すでにあなたが美に対して持っている概念でお答えください。 私が???って思ったのに、英語圏の人は食事がおいしいと「beautiful」って言うんですね。 首を左右にふりながら、わなわなとしながら言う人もいる。 そりゃあ フランス料理なら 美しい味 という表現がマッチするかもしれない。 でも、トンカツですよ。 トンカツ食べても言うんです。 で、日本人は おいしい っていいますが、「美味しい」って書きますよね。 beautiful? おお 英語のおいしいと同じだ! と気づいた時 ちょっと感動しました。 で、例えば何か役割を与えられてやるとき「これはおいしい」とか言うことがある。 例えばイジラレキャラで、テレビで他の出演者にさんざん馬鹿にされて、笑われている人。 それに怒って、「いじめじゃないか!」と憤慨してた人がいた。 すると、とたんにイジられていた当の本人は、いじめだと講義した人に「やめてください おいしいんですから。これでいいんです」って・・・・。 イジられている当の本人は、イジられて悲鳴をあげながら、実は心の中で「美味しい役割」だと思っていたと。 イジラれるのはかっこよく無い役どころ。 だけど、その誰もがやりたがらない役をすることで、番組が成り立ち、イジられキャラとして、出演依頼が殺到する。 常にテレビに出て顔が売れる。 おいしい。 ということは、味にしろ行為にしろ、<心がおいしい>と感じることを、<美味しい>ということだとわかってくる。 で、 >強力な作用ではなくても社会に何かしら与えるであろうと思うことがあればぜひお答えください。 <強力な作用>、<社会に対して与える>ということで思い出したこと。 (強力な作用でなくても、と今回書いらっしゃいますがあえて、強力な作用で、、、、) アメリカのイラク攻撃。 人が善でありたいという気持ちを、太鼓をたたいて喚起させ、目的に人々を誘導することに成功した事例。 アメリカは9.11があった数年前の、ビル爆弾とか炭素菌騒動とかあって、長期にわたり社会不穏があった。 「ビル爆破はイスラムの攻撃だ」、「炭素菌はイスラムがアメリカを攻撃しているのだ」と言う風潮が巷に流れた。 そして政府は「イラクは核兵器を隠している」と言い放ち、「核兵器で次に攻撃されたら」と国民のおびえは頂点に達した。 正義の名の下に、キリストの名の下に悪をくじく、「これは聖戦だ」とボスが言うと、抑圧された国民は一気に心を奮い立たせ、善を求め、戦争を支持した。 ちなみにビル爆弾の犯人はイスラムとはまったく関係いアメリカ国民だった。 炭素菌の犯人も確か、イスラムとは関係の無いアメリカ国民ということがほぼ確実となるはずだったとき、それを調べていたFBIのあるグループは調査の終了を告げられた。 それ以上調べるな って言われたわけです。 で、真犯人とほぼ確定されている資料は残っており、どこにあったかというと、あの崩壊した貿易センタービル。 永久に証拠隠滅。 そして、9・11の真犯人もイスラムじゃない可能性が高い。 だがそんな真相など関係ない。 ある特定の団体が 美味しい思いをすればいいのだから。 というわけで、誰が本当に一番おいしいところを食べているのか ってことですね。 湾岸戦争でおいしいところを食べたのは、ブッシュら兵器商人たちだった。 (パパブッシュは、その兵器会社の役員。) イラク戦争の映像は放映され、正義は必ず勝つ と正義が勝つことこそ美しいと国民が感じるその部分だけ、テレビで流した。 人々はその作られた光のショーを見て美味しいと感じた。 閃光が派手なほど 幻の美味しさに酔いしれた。 というわけで、これが成功するのに欠くことのできなかったものは、TVだと思うんですね。 テレビでおいしい部分だけ流すことで、人の心に影響を与え、太鼓をたたいて、国民を自分が望む場所に連れていける。 カーメルンの笛吹きの現代版。 ふと思ったのが、9・11がもしアルカイダではなかったら、アルカイダは自分たちじゃない と言うはず。 でも、自分たちじゃなくても、自分たちだってことになっていた方が美味しいと思うのなら、言わないだろう。 パパブッシュは、飛行機が激突するのを、あるビルの中で、ビンラディンの親族とモニターで見ていたという事実を認めている。 どうしてビルの激突する前から、モニターを設置して、激突するのをビンラディンの親族と待っていたのか。 ビンラディンは元CIAの工作員だったという噂がある。 謎はいくつもあるが、とにかく国民がおいしいと感じるように誘導することに成功できたら、美味しい部分はいただけるわけだ。 漁夫の利。 人は弱点をくすぐられると弱い。 義人でありたいと思う人は、その部分をくすぐられると、すぐ動く。 人にいい人だと思われたいという欲望が強い人ほど、簡単に操作されてしまう。 あとは平和でありたいと願わない人は少ないと思うが、平和を乱されたら怒る。 それは当然の反応だが、作られた偽りの不穏だと気づかないと、幻に恐怖に触発され、誤った行動を取らされるんですよね。 平和は美しい。 だが、それだけでは満足しない人は、故意に操作して平和を壊し、自分が望む世界を作り上げるんでしょうね。
お礼
回答ありがとうございます。 美意識を逆手にとることで社会をゆるがす、なるほどわかりました。
- magga
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「美」に人は惹かれますし導かれますね。 その美が持つ性質によって人間の役に立つものにもなれば逆にもなりえるでしょうね。 人格向上・理性・慈悲喜捨を「美」とし、逆を「不浄」なものと印象を与えるように工夫することが出来れば、人はそれに惹かれ現実で幸福に導かれる可能性も見出せますね。
お礼
回答ありがとうございます。 >その美が持つ性質によって人間の役に立つものにもなれば逆にもなりえるでしょうね。 この文から美自体の性質は時代や場所に限定される相対的なものであるから人によって害にもなりうるという意見を私は読み取りました。 美に対する思い込みによる害が残忍と思われる事件を引き起こす、ANo.2で出して頂いた意見です。 なるほど確かに影響を与えている思います。 しかし醜悪美という言葉がありますよね?これは醜いのに美しいという本来は矛盾した意味あいです。 じゃあ逆に美しいのに醜い、これも矛盾してますが実際こういう事例ありそうですよね。 醜いのに美しいも、美しいのに醜いも、最初の醜いのに…や美しいのに…の部分は外見や時代の条件に縛られた感じ方であり、でも何か美しかったり醜い、この最後のほうのは条件に縛られない絶対的なものだという感じ方があるような気がします。 そしてこれが強力に人に作用すると思うのですがこの絶対的な美はあると思いますか?そして、それは強力に社会に影響を及ぼすでしょうか? 絶対的というのは誰に対してもということです。 少し難しいかもしれませんがお時間がありましたらお答えください。
補足
ANo.2で出して頂いた意見は相対的な美意識が引き起こす有害性です。 そうではなくて絶対的な美意識についてあるのかないのかということを頭に入れて考えてみてください。
- michan555
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まず、生命の維持が第一目標ですから食べる、住むが確保されないと この段階では美はただの浪費だと思います。 十分に社会文明が成熟した段階では美は心を豊かにしてくれます。 その段階では、美は活力になって生産効率もかえって高まるんじゃないでしょうか? 風呂に入るとすっきりしてやる気がでるなど、これは科学的にいっても 活力となるような神経伝達物質が脳から放出されると思います。 ですが、文明が進みすぎると今度はエネルギーの総量が足りなくなりますので、その段階では利便性を逆に緩めてやる必要が出てくると思います。 現代がその段階でITが進んでエネルギーの消費が著しくなったため 環境破壊が進んで食糧難、水不足に陥ってきています。 その場合は、エコに努める必要がでてきますが それを邪魔するのが美ではないでしょうか? 今後の社会において美容業界は一番自重するべき産業になってくると思います。 なんせ貴重な電力や水などを美容のために使わなければならないのですから
お礼
回答ありがとうございます。 まともな生活のうえでしか美は成り立たず、その上では活力になると解釈させていただきます。
- bananasand
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まず、発信側の美と受信側の美があると思うのですね。その他、自然の美、意図しない機能美等あるのでしょうけど・・・ 美があるのは、どちら側なのでしょう? 発信側に美が存在するから、受信側が美を受け取る? 発信側に美があろうがなかろうが、受信側が美を受信すれば美であるのだから、をある意味美創造しているのは受信側? このあたりはよく分かりませんけど、 そんな関係から、美は、高度なコミュニケーションと捉え得る面はあると思うんですね。 発信側のメッセージを受信側が受け取るだけではなくて、 受信側に表象された美をもって、発信側の意図が達成されますからね。 ということで、そういった活動全てが社会性を当然に有しているし、 各方面へ影響を与えているのは間違いないですね。
お礼
回答ありがとうございます。 受ける側を社会全体としましょう、発する側は個人でも複数でもかまわないですが価値の転換など強力な変革はもたらすことができると思います?お時間がありましたらもう一度お答えください。
合理性が生活では必要最低限に欠かせないものでして、美の探究は二の次です。 美の探究又は才能の開花と発揮を求めるのは社会人の仲間入りがうまくいかない場合起こりがちです。 心理的には一種の逃避です。 生産活動に携わるのが社会活動として他者とかかわりを持つために必要でして芸術家も職業として生産活動の一種です。 キレイ事だけで霞を食べて生きていくのは長続きしません。 したがってやはり逃避傾向のある衝動が美の探究です。 芸術に無理解であると誤解を受けたくないので補足しますが、私自身は芸術的見地から写真をたしなんだり油絵をかけたりもして、それらの技術はまだ未熟ですが、美術館に行って本物を見分けてそのよさを同伴者に解説することが出来るくらいには芸術に理解があります。 それでもこれらの才能は趣味ではなく特技と解釈しています。 美の実践でこの「特技」とする心象は大切です。 金銭目的で美の体現はままなりません。 そうすると書き出しのことばに戻って、(生活者として)合理性を優先することだろうと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 現在の社会は利便性や安全性など合理性を求める意見が圧倒的に強いですね。 現在の社会ではすでに美に対してもそのような生産的であり功利的な視点をもっているので、美はあくまで二の次の生産であり現在の社会には強力には変革を起こさないであろうと解釈させて頂きます。
引き起こすと思うね。 社会構造はともかく、社会性には大いに引き起こすと思いますね。 美といってもメディアや美そのものを職にしている人は別として 社会一般にあふれるカジュアルな美というものには大いに影響が あると思います。 それによって待遇が大いに違ってくるだろうと思います。 心理的作用を引き起こす美というのは受けて側を安らかにさせる作用が 周りからの評価が上がるという印象効果は心理学では認められていて 統計ではじき出されているはずです。 なので仕事がやりやすかったり、奉仕が発生したりすると思いますね、これが度を行き過ぎると差別や民法違反等に当たる行為を引き起こす可能性もありますね つまり平たく言うと迎合作用がプラスに働くということになると思います。 次に【現在における美】と言うものについてどの程度作用しているかというのを個人的な見解で述べてみたいと思います。 現在の美はいわば区分化傾向にあって【美】と【醜】という区分化へほぼ移行しているという感じを受けます、例えばセレブというくくりで言うと【美】は必須であり、【醜】がセレブというイメージは少ないと思いますし「イケテル」という言葉にしても【醜】は問題外でそれ以外というある種の規制があるように思います、また企業戦略も「美になれる」を売りにしている企業もあります、それに加えマニアックな領域でも「萌」だとかいう現象にしても【醜ではない】が必須条件になっていてもはや洗脳状態まできていると思いますね、なのでひょっとして美ということで人を操って国家権力化が可能なほどまでに来ていると思います。 またこのことで差別など苦しむことにもなり、もはや人種差別より酷い状況なのではないかと思います。 -洗脳の観点から- もはや【美】は必見であり【美】を大きく言って「かっこいい」「イケテル」などの内面も含めて【美】と大きく括った場合 幼少期のころからそれが良いとメディアや青年のファシャンや言葉遣いなどから雰囲気を旗から感じ洗脳され、洗脳された人が【醜】にならないように必死なり、たまたま【醜】という奴が現れてきたらその子は貶される運命にあり、貶されたくないが故に必死にそれをカバーしだす奴があらわれ、子供だけではなく大人までも心の中で【醜】を貶すというもはや人権侵害の領域へ踏み込んでいると言って間違いないでしょう それほど【美】というものに囚われ、洗脳され人生を翻弄させられているということでしょう。 また恐ろしいのはそれが犯罪性や差別などの悪へ傾くという行為が至極当然かのようになってしまっていることでしょう、もはやこうなってしまうと手のつけようがなく【美】に国民がもはやコントロールされており、それが悪に傾くかどうかなどということにまったく気がついていないということになるでしょう。 -美におけるニュース-秋葉原事件における驚きの国民の反応- この事件はまさしく自分の【醜】における嫉みである、この事件が美と醜から来ているとは誰もが思っていない筈である、共感できるのはごく一部の国民である 残りは【美】が得をすることが当然だと思っているのである! これは驚きである!もはやここまで国民は洗脳されているとは僕は知る由もなかったのである?!このニュースを見て初めて知った事実である さあここまで来てしまった付けをどのように覆すのだろうか?この先なにが起こってもおかしくないと考えていい! 養老さんが新書で語っていたが「このままだととんでもないことが起きる」と語っていたがもはやそれが現実になったのだと僕は思った。
お礼
回答ありがとうございます。 問題を起こすのは流行的な美と解釈してもよろしいですよね、つまり時代や場所に限定された美か時代や場所が限定した美かはわからないですがTENNTENNSEVENOKさんの回答を読ませて頂きますと美とは相対的なものであり安らぎの美の心理的作用は社会が評価する、しかし反面美は洗脳を引き起こす場合があり、それがさらに社会に悪影響を及ぼすと、わかりました。
お礼
今回の説明で納得しました。 確かに自分の得意科目で100点とってうれしいのって絶対的といえますね、相対的ではないですね。