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”美”はどこからくるの?
人は何故”美”を感じるのでしょうか? 人はどんなところに”美”を見出すのでしょうか? ”美”にはどんな意味があるのでしょうか? 真・善・美といった何かに集約される”美”というのはあるのでしょうか? 広く皆様の意見を聞かせてください。
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こんにちは。 「美」といいますのは身体内外の「環境の変化」に対して我々の脳内に発生する反応のうち、「報酬刺激」と判定される要素に対応する概念です。そして、それは我々がどちらかを選択し、より価値の高い報酬行動を実現するためにあります。 我々の脳内には環境から得られる様々な知覚入力対し、以下のような「利益・不利益の価値判断」を行うための判定基準が設けられています。 「利益:報酬刺激:接近行動」 「不利益:嫌悪刺激:回避行動」 この判定に従い、我々動物は神経系の覚醒状態や身体の生理反応を変化させ、何らかの行動を選択します。つまり、与えられた知覚情報に対してこのような価値判断が下されなければ、我々は如何なる行動も選択することはできないということです。従いまして、まず「美しさ」といいますのは、我々動物が与えられた環境の変化に対応した適切な行動を選択するための判定基準であり、これが即ち「美の生物学的意義」ということになります。 そして、与えられた環境の変化に対し、このようにして身体に発生した反応の結果を知覚することによって、 「自分は今、いったい何に対してその反応を発生させたのか」 我々はそこで初めてその原因を認識することができます。 では、これが自覚されることにより、我々はその原因や結果をあれこれと分類することが可能になるわけです。従いまして、我々が扱う「美の概念」といいますのは、それは環境に存在する反応の原因や要素、あるいはその結果に対する「分類」ということになります。 このように、「美」といいますのは様々な要因によって我々の身体に発生する生理的反応の結果を元に作られた概念です。では、これが「美」と分類されるためには生命中枢や大脳辺縁系に発生した反応の結果が大脳皮質に知覚され、認知されなければなりません。ですがそれ以前に、そもそもこれが「美」として分類可能であるということは、取りも直さず無意識の領域に発生するその反応の結果には、既に「人類共通の判定基準」が存在するということになります。 「食欲」や「性欲」といった生得的反応に従って判定される「報酬刺激」といいますのは、これは無条件で全人類に共通です。これに対しまして、大脳辺縁系の「情動反応」といいますのは生後学習によって獲得される判定基準に基づくものであるため、こちらには「個人の好み」、あるいは生まれた社会や時代の価値観といったものが「個人差」として反映します。 美しいものに対する我々の感情といいますのは、この大脳辺縁系の情動反応によって生み出されるものですが、これは学習行動であるため、必ずしも本能行動のような人類共通という決まりはありません。ですが、基本的には学習といいますのは生得的に定められた反応の基準に従って積み重ねられるものでありますから、例えば「苦痛が利益」といった全く正反対の結果が学習されてしまうということはまずありません。そして、そこには生まれ育った社会の慣習や道徳観といったものが根強く介入しますので、その判定結果といいますのは人類に共通の生得的な反応と、多くのひとに共通の文化的価値観により、必然的に一貫した方向性を持つことになります。 中には、美しいと感じられたり、そうでないというひともいます。ですが、只今申し上げました通り、我々の脳の反応といいますのはみな生得的な規準と社会的な認識といった極めて一貫した共通性を持っています。この共通性があるからこそ、それを「美の概念」として分類することができるわけです。 さて、「色彩と色覚」には陸上生物の進化の歴史上、極めて明確な転換期があり、色鮮やかな花々に美しいと感じられるのは、これは我々の祖先がその時代に獲得した人類共通の反応と考えてほぼ間違いないと思います。 現在からおよそ7千万年前、地上に被子植物が登場しました。それまでの裸子植物は動物に食べられないようにするため、棘を身に付けたり、毒を持つなどしてひたすら自分の身を守っていました。これに対しまして、裸子植物は動物に食べられることによって受粉をしたり、種子を運んでもらうという、それまでとは全く正反対の生命戦略を選択しました。そのためには色とりどりの美しい花や果実を身に纏うことによって動物たちの目を惹かなければなりません。これと同時に、我々の祖先を含め、当時の動物たちはその「色覚」を一斉に発達させました。これは、美味しい蜜や果物を確実に獲得するためです。 このように、花の美しさというのは、元を辿れば食欲に対する報酬であり、それは人類を始め多くの動物に共通の反応です。同様に、女性の美しさといいますのは男性の性欲に対する報酬であります。ですから、最初に申し上げました通り、「美とは何か」といいますならば、それは「報酬刺激」に対して発生した反応に対する分類ということになるわけです。 本質的には、「美」とはこのようなものであります。では、「より強いもの」「より永遠なるもの」、我々はこのような具体的な報酬の得られないものに対し、どのようにしてそれを「美」と分類しているのでしょうか。 「より強い」 「より永遠」 この二つの概念が共に「比較形」であることは一目瞭然です。つまり、物理的・生理的に具体的な報酬がないものに対して利益・不利益の判定を下すためには、それには必ずや複数の対象による「比較」という作業が必要になるわけです。 食欲や性欲、あるいは大脳辺縁系の情動反応といいますのは、入力に対する反応の結果が予め決まっています。このため、入力がひとつであってもそれに対して利益・不利益の判定を下すことができます。では、複数の情報を比較するということになりますと、これはやはり大脳皮質の認知機能を使わなければ難しくなります。ですから、我々がこのようなものを「美」と分類することができるのは、ひとつには、人間の大脳皮質が発達しているからだと理由を付けることができます。 ですが、大脳皮質がそれを行なうにしましても、全く同じもの、何の変化もないもの、このような対象がいくら複数だとしても、それに対して比較を行い、判定を下すということはどうしてもできません。これがどういうことかと申しますと、果たして比較とは「変化」に対して行なわれるものであるということです。ですから、価値判断を行うための知覚情報とは、必ずや「環境の変化」として入力されなければなりません。従いまして、「美」とは我々動物が与えられた「環境の変化」に対応するための重要な判定規準であり、それはより価値の高い反応結果に対して宛がわれる概念ということになります。 美しいと感じる気持ちとは、それは与えられた状況に対して我々の脳内に発生する「心の動き」であります。 空腹よりも満腹。 満腹よりも魅力的な異性。 魅力的な異性よりも自分の恋人。 そして、自分にとって最も美しい者と永遠に暮らすこと。 我々は、より高い報酬に対してその価値を見出し、それを「美しい」と分類しています。
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kaitara1です。数学は素人ですが永遠は無限の時間軸(数学で言えば直線でしょうか)一方刹那というのは限りなくゼロに近づいていく時間(無限小の)というのは素朴な解釈だと思います。これが永遠なる美と移ろいやすい美という二面に相当しているとは考えられないでしょうか。
お礼
永遠性は現象と無限の時間軸の関連においてどのように結びつくのでしょう。一寸先は闇の中にあって何を以って人は永遠性という認識が得られるのでしょう。未来のことなど誰にも解らない。明日という日が確実に来るという保証は何もない。 (理)とか(知)を過去または歴史の中からの抽出し(行)を一致させることによって一瞬、一瞬の時の連続の中で永遠性を夫々の内に見出しながら在ることなのではないか。一瞬一瞬の生が移ろいやすいのは糸の切れた凧のように歴史や過去に学ばないことや、もしくは学んでも行に反映されないからなのではないかと思いました。 人においても組織集団においてもいえることで、今の日本という国家もそういうものを失っていて漂流する日本丸という感じです。 美しい日本と提示された指針も沈没しそうだし。。。 どうなるのでしょうね。 これからの日本は 永遠性を感じますか。。。。。。。。。。 ここでしめたいと思います。 皆様回答ありがとうございました。 お陰様で参考になりました。
ズレたかもしれないと申したのは貴方の疑問の趣旨を的確に把握できているか自信がなかったからです。 時間を超越するということが永遠という概念の意味ではないでしょうか。つまり時間の流れと共に変化しないという意味です。人間は自分の存在の有限性を克服する為にいろいろ試行錯誤せざるを得ないものだと思います。永遠(性)という概念を作ったのも刹那主義を発明したのも同じ動機からだと思います。ただし時間を超越することが時間をとめることだとすればそれは日常茶飯の生活を否定することになるので人間は永遠性を有する記号をおそれもすると思います。言霊とか護符とかありますね。
お礼
永遠性という言葉を無限という言葉を使って言い表すとどうなるのでしょう? 瞬間という概念もまた無限という言葉を使って表現するのではないでしょうか。
- GG0911
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皆様熱心で、難しいこともご存知で、勉強になります。 人間が、どんなところに価値を感じるのか、環境や状況によって左右されると思います。 「美」の役割は、多様化した人の価値観を同じ方向に促す役割があると思います。 「美はどこから来るのか」→「色々なところから来る」、色々なところから来るにもかかわらず、たくさんの人を「心の豊かさ」という点で集約する。 現金に憧れる人もいれば、1人の男に憧れる人もいれば、ビジネスでたくさんの人を自分の力で動かす事に満足する人もいます。 1人の男に憧れていても、週末に美術館に行けば、1つの作品にも見とれますし、人を動かすことに満足している人でも、川原で川の流れを見て心に何か感じるかもしれません。 (残念ながら現金が好きな人の心と、美への憧れをつなげる想像力が私にはありません。) 1人の男に憧れている人間と、たくさんの人間を動かすことに満足している人間が、「美」の前では無条件に「美」という価値の前で共感できる可能性をはらんでいるのだと思います。 同じものを見て、2人が心を動かされても、それぞれ理由は違うところから来ていることもしばしばだと思います。 その「美」を感じる対象物が、人間の根本的な価値観に直結しやすいものであれば、「美」を感じる理由は2人の間で一致しやすいでしょう。逆だと、「美」を感じた理由が違っていたり、 一方の人は「美」を感じ、もう一方の人は「美」を感じない、、、といったことが起こってきます。 >>真・善・美といった何かに集約される”美”というのはあるのでしょうか? 美術では、たくさんの人を「美」という価値観に導くことができる作品を、傑作といわれます。 『真・善・美といった、何かに集約される「美」』を含んだ作品なのだと思います。 「美」はやってくるものというより、むしろ皆が向かっていくものだと思います。
お礼
>人間が、どんなところに価値を感じるのか、環境や状況によって左右されると思います。「美」の役割は、多様化した人の価値観を同じ方向に促す役割があると思います。 谷崎潤一郎の言葉も価値を集約するという意味において環境に利用されたとも考えられますね。もしくは利用した。 美に対する対し方も物事の2面性を思わせます。 >「美」はやってくるものというより、むしろ皆が向かっていくものだと思います。 美とは創造というより佇まいであることを思わせ、そういう意味では”美”に対する憧れというのはありますね。 回答ありがとうございます。
- kigurumi
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No.4です。 カッコーの習性 ご存知ですね。 それで「その生態を知る前までは別に何とも思わなかったのですが、知ってからはどうも嫌悪感が前面にでてしまいます。」とおっしゃった。 では何故 カッコーと同じような特徴を持つラフレシアに対して、あなたは好意的というか、擁護したような言葉を書いているのでしょう。 花だからですか? >聖戦であったという言い方は耳にすることはありますが、戦争が美しいといった表現は僕は聞いたことがありません。 私も「知のモラル」で紹介されるたものを読むまでは、戦争を美しいと表現する人がいるなんて知りませんでした。 言った人は、谷崎潤一郎。 はかなさ 荘厳さ そのようなものを美だと谷崎はとらえたのでしょうか。 地獄の黙示録という映画があります。 そこで、爆撃機が浜辺を襲って地獄のような有様になって緊迫した空気になっている中、アメリカ軍を指揮するリーダーは「今からサーフィンをする」って言うんです。 はぁ? です。 いつ爆弾にやられるかわからない情況で、どっかんどっかん爆弾が落ちているさなかに、サーフィンはじめたんですよ、その指揮官は。 そのシーンに使われていた音楽は、、、よく聞く音楽でしたが名前失念。 交響曲でした。 狂気はかくも美しきかな。と思いました。 自分は怖いものが大嫌いなんですが、稀に狂気に出会うと、ゾクっとする。 狂気をぶちまけられるとビリビリする。 花火を見ているみたいに見とれてしまう。 普通は怖いと思うでしょうし、私の怖いと思います。 頭の中で赤信号点滅し、サイレン鳴り響く。 逃げろ 危険だって。 だけど 目をそらそうとせず見つめてしまう。 見とれてしまう。 そういうことありません? 谷崎が何故、爆撃機が上空に現れた時、美しいと感じたのか。 到底かなわない巨大なものが現れた。 それが死を伴うものだった。 だからじゃないかと、私は思うんですね。 大量の爆撃機=死神。 で、地獄の黙示録で監督が何故戦争のさなか、指揮官に戦闘配置に着くよう指令を出さず、サーフィンをやらせたのか。 死の拒絶を表しているんじゃないかと思います。 最後の方の場面では、森の王を主人公が倒す。 そのシーンが牛の生贄の儀式とダブらせ、聖贖のような表現になっており、スローモーションで描かれているんですね。 返り血を浴びた主人公は、新しい森の王になった。 狂気づくしの映画ですが、これ神殺し、王殺しの比喩でもある。 狂気の世界ですが、現実 この思想が西洋の主流になっているんですね。 この思想には賛成できませんが、そういう思想にしがみつくしかないもろい人間のはかなさに、深い悲しみを覚えます。 かなしいことは 美しいことなのでしょうか。 >腹も自分は腹黒くないという証として自らが腹を切ってみせた在り方が”美学”として捉えられるだけで、 私の切腹に対するイメージと違います。 生き恥をさらして生きるより、潔く腹を切って死ぬことが、美しい散り方というのが昔はあったと、切腹をそのように捉えているんです。 代表者がみんなを代表して死ぬ。 政治家は全部の責任を自分で背負って辞任しますよね。 現代の切腹。 他のものが生き延びるために、自己犠牲を払うみたいなもの。 ただし、政治家やめても長老になって、天国? 長老会?みたいなところから、政治に強い影響力を与えていますが。 >そして切腹するときの心はどんな状態だと思いますか。 悔しい? 自分の潔さを最後に誇示して、自分の身の潔白であることを証明してやる? 私なら、祟ってやる。 相手が死ぬまで祟ってやる。でしょうか。 で、昔の人は冤罪を着せて殺したり切腹させた人は祟るって思っていたんですね。 それで塚を作って奉ったりして、「どうか祟らないでね」って丁重に扱ったりもした。 私なら、どんなに格上げされても、「祟ってやる!」です。笑。 実際死んだら終わりなんですが、死ぬ間際にこう叫ぶと、フラシーボ効果により、そういわれた人 自分から不幸になってくれる。 だから、冤罪着せられて殺されそうになったら、死ぬ間際に呪いの言葉をぶつけてやります。笑 >和を尊ぶ精神を産みだす根底にはその心の在り方、日本人がよしとしたあり方があるのではないでしょうか。 和って足し算ですよね。 ある勢力とある勢力。 どっちか勝った方のみが生き残る。 勝ち抜き戦をやっていたら、一時的に勝っても、別の勢力に滅ぼされるわけじゃないですか。 倭国と日本って勢力があって、どっちかがどっちかを倒してサル山のボスになるか。 それとも合併し、両方の代表者による 新政権を樹立するか。 合併した方が巨大化するので、他の勢力を威嚇できますよね。 アメリカがイラク戦争で暴走して止められなかったのを引き金に、EUが急速にできあがったと思えるんですね。 一見ヨーロッパの人が仲良く暮らそうって美しい和の精神のようですが、サメのアメリカに教われないためには、小魚が群れを成し一体化し、巨大魚になるほうがいいってことじゃないかと。 だから、アジアも和になり巨大魚になった方がいいが、日本ってサメの小判だから。。。。ねぇ。 和をもって尊しの美しい精神 どこいったんでしょうね。
お礼
>では何故 カッコーと同じような特徴を持つラフレシアに対して、あ>なたは好意的というか、擁護したような言葉を書いているのでしょう。 >花だからですか? ラフレシアというものを知らないからです。
補足
余談ですが、 川柳がむいているのかも知れませんが、 一応、美をテーマにした質問なので。。。 短歌とか俳句をやってみたらどうでしょう?
kaitara1です。私は人間の頭がなければ美というものは存在しないと思っています。その意味で感じるものであろうと思います。永遠性といったのは時間を超越しないと美は成立しないだろうと言うことです。美は移ろいやすいと言う嘆きは実は美が永遠性によって支えられているからだと思います。この永遠性というものは人間の脳があって始めて存在できる「記号」であると思っています。この意味で醜いものもやはり永遠性を持っていると思います。あなたのおっしゃる対語としての刹那というのは又有限の時間を分子とし、限りなく短い刹那という分母で割った結果としてあたかもつかの間が長い時間と感じられるという様に考えています。実は記号はすべて永遠性をもっているので、有限の存在である人間にとってはどこか恐怖をもたらすものだと考えています。ずれてしまったでしょうか。
お礼
茶道で 炭は湯が沸くように 花は野にあるように 。。。 というのがあります。 全て背後に突き詰められた理と感性がそこにあります。 理と所作の一致。そして今貴方と共に時を共有することが茶道の美であると思います。 無駄をぎりぎりまで省きながら一点、華を添える心情も。 美を全身全霊を持って表現しようとしそれを感じ取ろうとします。 そこに生の集約された宇宙、心の反映が生まれるような気がするのです。 生ききるという精神と 生かしきるという精神と。。。 人間が他の生命を無駄に使うことこそ生の堕落なのかも知れない。 無駄こそ人生の楽しみと言う人もいるけれど。。。 時間を超越するすることが何故永遠性に結びつくのでしょうか。 永遠性と記号とが結びつく固定思考があるのでしょうか。 永遠性とは神を、記号とはそれを連想させる抽象的な言葉という意味で使っておられるのでしょうが、安易にその言葉を使わないと意識することが思考の脈絡を途切れさせないでそれにアプローチする方法だと思っているからだと思うのですが、かえって変に回りくどく読むものにそのものの理解から離れさせているのではと感じることもあります。 記号はすべて永遠性をもっている? ズレは好みではありません。 好んで意識的にズレることも。 周りに目を向けすぎるあまり自分の身の回りの文化に対して異邦人になる。 >ずれてしまったでしょうか。 とは回答においてどういう意味において発せられた言葉でしょう?
補足
思考を敢えてカオスにしているのでしょうか。
- kigurumi
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No.4です。 答えやすいものからいきます。 >何故そのような感覚が起こるのだと思いますか? <この何故>の<この>が<花は花でもジャングルに咲くラフレシアという花は、僕は美しいと思いません。>に対するものだとしたら、ラフレシアは、原色でどきつい色をしている。 そして人間の臭覚において知覚すると、 と て も 臭 い。 「働かず風呂にも入らない人と暮らしたいか?」と聞かれて、「美しい。是非そのような人間と暮らしたい」と言う人がいないのと一緒。 イメージしただけでも不快感が出ますよね。 ラフレシアを実際に観たことが無い人でも、ラフレシア と聞いただけで、そのイメージによりひいてしまうわけです。 >ドラマで俳優さんが役で自分の故郷の方言をしゃべるのを聞く時のに何か違和感を感じます。 書いてある通り、異なる雑音が耳障りだから。 映画で日本人という設定の人で外見がアジア人なのに、その人の発音が中国人が日本語を喋るようなものだと、どんなにすばらしい内容の映画でも「違う」と映画そのものの価値がうすっぺらいものに感じてしまうようなもの。 「監督 いい仕事してないなぁ。 中国人に育てられ日本に帰化した日本人という設定なら、この発音で問題なくなるが、そういう設定にこの映画でする意味もないし、完璧に監督の手抜き」って ねぇ。 >外国の映画に描かれる武士の感じは、日本人の思い描く武士とどこか違和感があります。 日本人の武士のイメージは、日本で放映されているテレビなどから作られている。 これを基準に我々の武士のイメージができあがっているので、それ以外だと(外国の人が単発的に感じる武士のイメージ)違和感があるわけです。 でも、中世の武士がタイムトラベルでやってきたら、西洋人がへんな日本語を喋っているような そんな違和感を持つと思います。 前、祖母が日本人で、自分は日本人の血がまざっているといって、日本食レストランに働いていたアジアの人いたんですね。 どこにも日本人らしさを感じない。 こちらが日本人だとわかると、ちょっと引いた顔になった。 にこにこしていたら話しかけてきて、自分の祖母は日本人だと言ってきて、たまに「アリガト」とか言うが、その単語すら日本の発音ではない。 話をするとき、やたらとぺこぺこ頭を下げていましたが、恐らく彼女の日本人に対するイメージがそうだかだったのでしょう。 「あの・・・日本人はそのようなしぐさしません」って言えませんでした。 着物の前ははだけているは、右前だわ 裾乱れているわで、帯はベルトじゃないんだから、もうちょっと上じゃないと、、、と外見も発音も仕草すらどこにも日本らしさのかけらも無い。 すごい違和感でした。 日本の美とは程遠い、外国人の日本に対するイメージを目のあたりにしました。 逆に日本の美を再発見しましたが。 このように固定されたものとの相違がイライラの原因。 >空間に浮かぶ土星の姿は美しいと感じますが、芸術的ないわゆる”味”といったものは感じられません。 映像でしかみたことありませんが、この光のイメージを私は 怖い というか シュール だと感じます。 しかし、「今見ている星たちは、長い旅をして地球にやってきて、今はもう存在しないかもしれない」と思うと、はかなさ という部分で美しいと感じることもあります。 これが味でしょうか。 >また国や文化圏によって美的感覚は異なるものでしょうか。 育った土壌(時代も含めて)により、美的感覚は異なると思います。 切腹は今では自殺ですが、昔は美しい(いさぎよい)死に方だった。 >審美眼には根源的な共通認識性というようなものはあるのでしょうか。 >審美眼は年齢によって、あるいは何かの深度によって違いがあると思いますか? 審美眼、、、難しい言葉ですが、光を捉えて心地よいとだけ人は感じるわけじゃない。 例えば黄金比を持つ自然界の不思議に「自然が想像した美」だと感じたりする。 そこに規則の存在を見出したので、「すばらしい」ってなるわけです。 骨董品の価値。 これは職人技で、他の人が真似のできない作り方をしていると、審美眼のある人はその特徴を見抜き、「価値の非常に高い●●時代の△△の作品で、彼の現存する作品は、博物館にしかなかった。売ったら500万はする」って言ったりする。 希少価値を美だと捕らえるわけです。 で、その価値の固定は、長年いろいろな作品を見て決めていくわけで、バイヤーがいくらなら出すかという基準で、つまり貨幣で測られる。 買い手も贋作か本物か見抜ける眼力がいるんですね。 だから、骨董品屋は年配の人が多くなるのだと思います。 また 転売を目的としないコレクターなら、年配者が多い。 贋作をつかまされ、無価値なものに大金を払いたくないので、目を肥やさなければいけないわけです。 それには年月がいる。 昔テレビ番組で「いい仕事してますね」って言う人いましたが、いい仕事が美なわけです、その世界の人からすれば。 >心・技・体という言葉があり、人はその三つが磨かれ渾然一体となって現れるときに美的な創造がなされるといわれます。 回答の内容は技に秀でることに重きを置いていて、心の部分に対する言及はないと思うのですが、そのあたりギリシャ人はどう考えていたと考えますか。 切腹が美だとされた美しい時代はあったし、特攻隊が飛び立つその姿を美しいと感じる時代があったし、戦争を美しいと感じる時代もあった。 私は何故だろうと思ったのですが、その根底には死があるからじゃないかと思えるんですね。 人は無意識のうちにこの死を認識し、生の尊さを実感し、その生の終わりにもっとも心を打つ生き物だからじゃないでしょうか。 ギリシャ人にとっての美の表現、、、、ギリシャ悲劇でしょうか。 例えば、オデッセイアの中だったと思いますが、自由意志について古代の人の表現があります。 オデッセウスは航海中、セイレーンが住む地域を通過するんです。 セイレーンの歌声は<美しく>、誰しも聞きほれる。 でもその歌声を聴いたものは、残らず海に引きづりこまれる。 美しさに触れた者には、その代償に死が与えられる。 オデッセウスは、セイレーンの歌声を是非とも聞きたい。 そしてそれでも是非とも生きて帰りたい。 両方ともかなえるにはどうすればいいか。 (自由意志に従順であり、かつ死なずに済むにはどうすればいいか) 彼はマストに体をグルグル巻きにしてもらい、舟をこぐ人の耳に蝋を入れた。 セイレーンの海に入ると、美しい歌声が聞えて、オデッセイウスは「その方角に進路を取れ」と叫ぶわけです。 ところが、船乗りたちは耳が聞えないので、その方角に漕いでいかない。 そしてオデッセウスは、セイレーンのこの世のものと思えぬ美しい歌声を聴いたが、死なず無事港に着くことがができた。 体をマストにしばりつけなかったら、たちまち自由意志のまま、船をセイレーンの方角に向かわせるため、船乗りたちの耳栓を外して、命令が通るようにしたでしょう。 オイデプスの悲劇。 人には運命というものがあり、究極的には万人の共通は死ですよね。 ところが人は悲劇の運命を受け入れず拒否したがる。 ここに不幸になる原因があると古代の人は考えた。 オイデプスの物語は、予言者によりオイデプスが生まれて辿る出来事が予言されていた。 生まれてくる子供に殺されると父親は予言され、それを回避しようとして、息子を殺させた。 しかし、実際は殺されず、運命通りに成長した息子に殺された。 そして実の母親と知らず、オイデプスは結婚してしまった。 それら全ては、自分が生まれる前に既に予言されていたと後で聞かされるわけです。 じゃあ 運命を回避しようと努力することは全くもって無駄なことなのか。 究極的には万人は死ぬ運命にあり、どうせ人は死ぬなら生きていることは無駄なのか。 オイデプスは晩年 悲劇(運命)を受け入ることで、安らぎをやっと得たんですね。 人は死を否定する瞬間が一番苦しむ。 永遠の生を臨む瞬間が一番輝く。 ですが、両方は裏表で一体。 片方だけ、はできないんですね。 その悲劇が舞台で演じられ、古代のギリシャ人たちは、美しい生と死を見つめ、心をわななかせた、美を堪能した。と。
お礼
>切腹が美だとされた美しい時代はあったし、特攻隊が飛び立つその姿を美しいと感じる時代があったし、戦争を美しいと感じる時代もあった。 そうなのですか? 聖戦であったという言い方は耳にすることはありますが、戦争が美しいといった表現は僕は聞いたことがありません。 切腹も自分は腹黒くないという証として自らが腹を切ってみせた在り方が”美学”として捉えられるだけで、詰め腹を切らされるような死に至らしめる手段としての切腹が美として語られるようなことではないかと思います。 切腹という自害の方法をとる背後にある心のあり方というものはどんなものであったと思いますか? 何を重んじるがゆえの在り方だったのでしょうか。 そして切腹するときの心はどんな状態だと思いますか。 和を尊ぶ精神を産みだす根底にはその心の在り方、日本人がよしとしたあり方があるのではないでしょうか。
補足
ラフレシアが何故美しいと感じないか。 その形態によって種を維持、存続させてこられたからにはその形態に意義があるのかも知れません。 何故そのような進化を遂げたか。 ただ我々が接触する期間が少なくラフレシアを理解していないだけである。といえるかもしれないのですね。。。 カッコウという鳥は托卵しますが、その生態を知る前までは別に何とも思わなかったのですが、知ってからはどうも嫌悪感が前面にでてしまいます。多分人間の生態に重ね合わせるからだとい思うのですが。。。
- kigurumi
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ギリシャ人の考えた美って別な言葉で表すと、優秀性のことだと思います。 馬の美は早く走ること。 石の美は壊れにくいこと。 オリンピックの出場者の美は? 走ることにおいては、早く走れるのが美で、槍投げは遠くに飛ばせることが美。 勇敢さも美だし、演劇で人を感動させるのも美。 非凡な才能が美。
お礼
確かに陶器でも芸術的な”味”を感じさせるものとそうでないものというのはあると思います。 芸術においては美の反対は”駄”であるようにおもうのですが。 その時の美と駄の境目はどこにあるとおもいますか。 心・技・体という言葉があり、人はその三つが磨かれ渾然一体となって現れるときに美的な創造がなされるといわれます。 回答の内容は技に秀でることに重きを置いていて、心の部分に対する言及はないと思うのですが、そのあたりギリシャ人はどう考えていたと考えますか。 また国や文化圏によって美的感覚は異なるものでしょうか。 審美眼には根源的な共通認識性というようなものはあるのでしょうか。 審美眼は年齢によって、あるいは何かの深度によって違いがあると思いますか? 空間に浮かぶ土星の姿は美しいと感じますが、芸術的ないわゆる”味”といったものは感じられません。 外国の映画に描かれる武士の感じは、日本人の思い描く武士とどこか違和感があります。 ドラマで俳優さんが役で自分の故郷の方言をしゃべるのを聞く時のに何か違和感を感じます。 花は花でもジャングルに咲くラフレシアという花は、僕は美しいと思いません。 貴方はどう思われますか? 何故そのような感覚が起こるのだと思いますか?
真実の愛への憧憬です。
お礼
”美”=真実の愛への憧憬 憧憬することが美であるということでしょうか。 美そのものであることとの違いはなんでしょう? 美そのものであるとき、美は何に憧れるのでしょう。 自分自身であること。それがそのものである時に、そのものにはそのものでありたいという憧憬はあるのでしょうか。
真も善も同じですが永遠性に裏づけられているものだと思います。言い換えると永遠性なる概念を感じない人には感じられないものだと思います。しかし永遠性というものはパスカルが言っているように怖ろしいものでもあります。特に美は人間の寿命が有限であることを浮かび上がらせます。美とは何かといえば永遠なるものといえるのではないでしょうか。
お礼
>美とは何かといえば永遠なるものといえるのではないでしょうか。 永遠なるものとはいったいなんですか? 永遠性の反対は刹那的でいいでしょうか。 ”美”の反対は”醜い”でいいでしょうか。 刹那的は醜いは成り立ちますか? 刹那またはこの一瞬の時の刻 あひみての のちのこころにくらぶれば むかしはものを おもはざりけり 植物は不思議だと思いませんか?腐ったヘドロの中からでも綺麗な花は咲かせます。 蓮の花のように。 蓮の花はやがて萎れてしまいます。 その蓮の花そのものが”美”なのでしょうか? それとも蓮の花というものが”美”なのでしょうか? そしてそこに見出す永遠性とはなんでしょう?
補足
それと永遠性は感じるものなのですか? 感じるは確信ではない。 流動的なものである。 とは思いませんか? 永遠性は流動的なものである 川の流れのように?
- pack1129
- ベストアンサー率29% (26/87)
「今までの人生」そのものなんじゃないでしょうか? 一般的に「美人」といわれる方って努力を惜しまない人が多いですよね。 料理やら、歩き方やら全てにおいて高レベルなんです。 でもそれって、初めからできた訳でもないし生まれてすぐに知識があった訳でもないんですよ。 小さいうちから努力して、頑張ってやっと得たものが「美人」という称号だと思うんです。 いわば、 “真”は自分を貫き通す心 “善”は人のために尽くす心 そして“美”というのは、努力を惜しまない心 なんじゃないでしょうか。 自分を曲げず、人のために動き、努力を惜しまず精進する人は 何事においても、素晴らしい人ですよね^^ 偏った持論で申し訳ないですが・・・^^; お役に立てれば幸いです。
お礼
回答ありがとうございます。 精進していった先に与えられる称号としての美。 芸術的ですよね。 仰ることはよく解ります。 >“真”は自分を貫き通す心 >“善”は人のために尽くす心 >そして“美”というのは、努力を惜しまない心 この三つはセットではじめて真であり善であり美であるということなのでしょうか? 例えば花は美しいと感じます。 植物は自分を貫き通し、決して種と違った花を咲かそうとはしない。 植物は花を咲かせて人のために尽くしている。 植物は花を咲かすことに努力を惜しまない。 ということになるのでしょうか。
補足
中学生のころ土星の輪をはじめて望遠鏡で見たときとても美しく思いました。 土星は自分を貫き通している 土星は人のために尽くしている。 土星は美しくありたいと努力を惜しまない。 美に対する意識は加齢と共に変化することはあると思いますか? ある時期美であると思っていたものが美でなくなるというようなこと。
お礼
人間の生物学的な見地からの<利益:報酬刺激:接近行動>と芸術的な美は直接結びつかないのではないかと思います。 どちらかといえば芸術としての美はそれと対称的な関係にあるとさえ思えるくらいです。 ストイック性とでも言えばいいのでしょうか。生物学的見地からの<「利益:報酬刺激:接近行動」「不利益:嫌悪刺激:回避行動」>のどちらかといえば回避行動的なものから生み出されるもののような。。。 その価値は結果でありそれを想定して産み出されるものでないような。。。 また比較級の美とも違うような。。。 そんな気がするのです。 そういう美、精神性は本来生物学的には回避行動を取らせるのであるが人という種の存続に必要なものなのではないか。それを生の美学という形で現されるのではないかと思ったりするのです。 >空腹よりも満腹。 >満腹よりも魅力的な異性。 >魅力的な異性よりも自分の恋人。 >そして、自分にとって最も美しい者と永遠に暮らすこと。 >我々は、より高い報酬に対してその価値を見出し、それを「美しい」>と分類しています。 といった動物的なものと違った”美”を思うのです。 循環する環境の存続を自然の意志と見られるように。 自然の一環として人類に課せられた”美”の在り方。 のような。。。
補足
生命戦略として裸子植物から被子植物へとかわった。 まるで植物に意志があるみたいですね。 <「不利益:嫌悪刺激:回避行動」><利益:報酬刺激:接近行動>の考え方からすると裸子から被子へ変わる、もしくは変わらなければならなかった原因は何かあったのでしょうか? 植物の進化に意志性を認めるならば環境において自分が循環する連鎖の中にあることを認識できる場合,わざわざ危険を冒して裸子から被子に移行しなければならない意義はどこにあったのでしょうか? またもし植物にそういう意志的なものが働くと考えられる場合、ある植物種が絶滅しようとするとき、もしくは絶滅させられそうになるとき、植物という種がまた毒素を持ち始めるということもありえるということになりますね。 植物の花から”美”を切り取ると、生きる、もしくは生き延びるということに深く関わり、相手をひきつける為に美しくあろうとする。 動物であるいるかの流線型や鳥の羽の揚力を発生させる機構は、それぞれが生きるためにそれぞれの行動様式にあわせて進化させた形態のようですが、それは相手をひきつけるためではなさそうです。 動物にとっては人間は敵対関係にあると思うのですが、動物の持つ機能美を人間は驚嘆と共に美しく感じます。 植物でも動物でもそうだと思うのですが、永遠性を思って進化するのでしょうか。むしろ今ある環境にどう適応すれば生きられるか、生き延びられるかに関心がありそれによって進化すると考える方が自然なのではないでしょうか。