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最後に問う 社会の「美」とはなにか?
ボクは今 大いなる決断をした。 およそこの瞬間に実在する個々は 愚であり鈍であり醜である かもしれない。しかし全体としては それが「美」であることを 認めたのだ。たとえ非倫理的な道であろうと 砂漠の中に新しい 倫理を求め 彷徨う哲学者の姿もまた「美」であると認めたのだ。 ボクは最後に問いたいのです。社会の「美」とはなにか? べつに困ってはいませんけど (´ω`;)
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真が、自己の補完としての環境の原理的相補性としての物理性、 善が、生命の組織化における自己中心性の補完としての他律的社会性、 美が、個人の感覚の蓄積における充足的方向の総和としての直感性、 である時、社会の美とは、善に対する直感的志向であり、元来生理的な 充足感の総和の中に生じる=個体性(生理、遺伝)に由来する美に於て、 社会的行動における充足感が付加されるものであろう。
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- ふじ-さん おたま-さん(@OtamaFJWR)
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逆に考えたら面白いかもよ。 「美しくない社会」て何よ? そりゃ、我々の周囲にあふれている、自己チュー化(意識の上の社会性の低下)した社会。これは美しくないです。素直にそう思う。我々はね、誰しも自己チュー化しやすい環境ていうか、脳内の基礎が洗脳されてる状態。戦後教育の失敗が、自己チュー化社会を生んだ。もちろん、教育だけでなく、アメリカ至上主義の政治もあるが、何より最近感じるのは、70才代の人間の、世代間の相互の思いやりが欠けている点で、彼らは、経済成長期の家族的企業風土の中で育成されたので、自分がまさか「世代間の自己チュー化」を起こしているとは思ってもおらず「社会性がある」と“勘違い”している「世代間自己チュー化アラ70」が多いことだ。 世代間、てのは、育ち働き=そうした背景が全く異なるのに、自分世代を基準にしてしか考えられない、ショートサイトな、自己チュー化人間が増えている。これは、3次元的自己チューから、時間軸を足して4次元になったようなものだ。この4次元的自己チュー化社会は、非常に美しくない。あまりに醜い。
お礼
うーん 逆から見た場合は 特に注意しなければいけないんですよ。 それは 観測選択効果といって 変な癖のある観測に陥ることが予測されてます。 観測選択効果(かんそくせんたくこうか、observation selection effects)とは、科学哲学の世界で使われる言葉で 、何らかの現象の観察が行われる際に、観察者の性質や能力によって、観測される対象の層に偏りが生まれてしまう現象のことを言う。 例えば地震の強さと回数についてのデータを取る場合、計測器の精度が悪ければ微弱な地震は少なく見積もられ、 逆に強い地震の占める割合は相対的に大きく見積もられてしまう。人間原理について議論するさいによく参照される概念。 あとはP様に習ってくださいね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 賢愚を超えて善悪をも超えてその彼岸を その人を思い浮かべればその姿をあたかも鏡としてのように しかもその鏡の奥に 見ることができるというそんな人物の存在によって 社会にとっての美が成ると思います。 人物が実際にはいないとしても 人びとのクウキが そのように成っているなら それは 社会としてうつくしいと見ます。 ところが 物質的豊かさよりは精神的充足を――排他的に――えらぶべきだとか あるいは 人間の生活について 他律的か自律的かの二者択一をうったえるとか そういう思想に出会うと 〔さすがの〕わたくしも 頭に全身の血がのぼって このうつくしさとしての善悪の彼岸がかすんで来てしまいます。 ちょうどよいので お借りして: ★ べつに困ってはいませんけど (´ω`;) 精神の崇拝あるいは規範による自律の一辺倒 この思想は 醜いと言って・言い続けて・どこまでも指摘し続けて 対話をもとめるべきでしょうね。
お礼
確かに 一遍の見方にこだわれば それは醜を生み出します。 ありがとうございました。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
ボクは最後に問いたいのです。社会の「美」とはなにか? ○ 風景画を観て「美しい」と思われるように、人間の社会も多くの人間がかもし出す風景があるのですね。 人間社会の風景画ですね。それが社会の美に見えるということですね。 自然の風景画も全体としての美ですね。個々の草花や木々、山々、河はそれぞれに個性的ですが、全体を鳥瞰した時に初めて風景画となりますね。人間の社会も同じですね、浮浪者から大臣、哲学者に到るまでそれぞれは個性的であるが、全体として一つの風景画をなしているのですね。社会や国によって異なる風景画となっているのです。その風景が美であるか醜であるかは社会を構成する各人が輝いているかどうかで決まりますね。秋の紅葉の風景はおのおのの山川草木の努力の結果ですね。自然界に四季があるように個人にも四季があり、社会にも四季がありますね。一方、ケシ畑も花々の群生の様は美しいものです、しかしそのような毒を隠した美しさは真の美しさではありません。社会も同じですね。正しき者が互いに切磋琢磨する世界が本当の美の世界ですね。そのような美の世界を創るために正しき宗教家も哲学者も存在するのですね。
お礼
やはりあなたは超人であった。すでに人智を超えていると思われます。 あまりに人間的なボクとしては まだまだ とどかないわけであります。 ありがとうございました。
- ふじ-さん おたま-さん(@OtamaFJWR)
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「社会の美」ですよね? この“社会の”てとこがテーマだと思います。 社会を1個の生命としてとらえることを「社会生命」と言われます。 社会生命とは、例えば、脳の細胞と、足の裏の細胞、が平等な栄養を必要としないように、つまり、悪平等でない=社会生命全体のパフォーマンスが高い、のが理想と言えます。よって、「社会の美」とは「社会生命のパフォーマンスが高いこと」を意味すると思います。要するに、適材適所な人材で、かつ個体の精神的充足の総和の最大化に準ずるところに、「社会の美」が見いだせると感じます。 結局、自律的社会性=短絡的な利己性を自制した遠慮や思いやりのある社会、という認識と、個体における「社会生命性の自覚化」により、社会生命は最大のパフォーマンスを得て、それを客観視したときに「美」と写る、ていう。
お礼
>「社会の美」ですよね? ○その通りです。【 社会の「美」 】です。大かっこで括るのを忘れてました。 オタマさんは良く気がつきますねえ。哲学よりも数学に向いてるかもしれませんよ。 >社会生命のパフォーマンス ○確かにそれも因果関係になりますね。やっぱ数学の方がいいかも。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
命(めい) 全体は措定にすぎず措定であることをみとめながら、その全体の約束の地平から逆に照射してはじめて、出来事が存在として把握可能な形を取る。つまり間身体性でいえばみずからの尺寸がわかるという感覚をもつことができると思います。 そうした、幻のように繋留のない把握の形式において、フィードバックして全体の認識を措定するということはまた、情報の集積であるだけではなく夢や希望を反映した約束を描くということにほかならないと思います。 あなたが美と呼ぶのがもしこのようなことなら、東洋で宿命や運命に用いられる、命という言葉が、わたしにはよく適合しているように思われます。
お礼
美しき回答を ありがとうございます。 個が個にして美を認められたことが あるだろうか。 もし個が美を得たとしても 生きるが故に その美は失われ 個が永遠の美を求めるならば それは理性の死である。 個が社会で生きるならばどうだろう 美は愚となり醜となる。 しかしすでに個は個ではなく全である。全は なんとしても美 であるのだから 全としての個は なんとしても美である。 それは真理から派生した理性を背景に持つ全だからである。 では全としての個に於いて 死とはいかに。 それは真理から派生した理性を失うときである。 ならば永遠に理性を失わない個はどうだろう それはすなわち 永遠の美であることを認めざるをえない。 老若男女を問わず その美は永遠に輝くのだ。 ここに 生きる事はなんとしても美しいことであると宣言する ものであります。
お礼
>元来生理的な充足感の総和の中に生じる=個体性(生理、遺伝)に由来する美に於て・・・ ○やっと本気出して回答して下さいましたね。 理性は認識の深まりを以て 直観 充足感を包括します。 最近 手抜きの回答が多いなあって思ったので。 いっそ 文字数を気にせずに もっとレヴェルを下げて (一次元下げて)回答されたら 皆さんにウケるかもしれませんよ。 更なるご活躍を期待しております。 ありがとうございました。