>美は時代とともに変わります。ボードレールは、こういうことが分かっていたのか、様々な種類の美を楽しもうとしたようです。
>「死の舞踏」
「仮面」…「死の舞踏」…
今年ナショナル・ギャラリーから震災後にもかかわらず借り出しされた「オペラ座の仮面舞踏会」"Masked Ball at the Opera"は、マネの紋切型とも言える絶妙な構図に魅せられたものの、先にあまがっぱ様がご指摘の「死の不安と恐怖に対抗する感性を醸成した時代」を醸し出していたのだと、今あらためて気付かされたのでした。
そして中央に一人、黒い仮面を外して紳士と戯れる若い女性が一際目立つのですが、まだもう一枚彼女はあやかしの仮面を装着しているのではないでしょうか。
あの「仮面」の彫像、その後複数画像をあたってみたのですが、どうも視る角度によっては、官能的な美を超えてむしろ苦悶し歪んだ美?(あるいは醜?)でさえも見い出せてしまいそうな感じがしなくもないです。
"Statue allégorique dans le goût de la Renaissance"とは"偽り"とか"欺瞞"を意味するものかしら。
>骸骨の女を称賛しています。
ボードレール以前の西洋の骸骨をモチーフとした絵画のなかにも、ファタルな女性の魅力と死が分かちがたいような性的な印象を受けることがあります。
機が熟して当時の彼があらたに美的な価値を付与する役目を担ったと言えるでしょうか。
でも、だとすればなぜ彼が?
一方日本の場合、やはり九相図を真っ先に想起せざるを得ず、個人的に印象深いのは丸山応挙の描いた孤独に座禅を組む姿です。とてもユニークだなと思いました。
「波上白骨座禅図 - [作品] 大乗寺 円山派デジタルミュージアム」
また、「仮面」の作者クリストフも「死の舞踏」を製作していたようなので、これまたグロテスクな。
でも”Tu réponds, grand squelette, à mon goût le plus cher!”なのですよね。
>こうした美は、現代からすると、ちょっと認めにくいものかもしれません。
"Monument à Balzac (Rodin)"ですね。
麻袋かはたまた絹のローブか、幾度角度を変えようとその印象はあまり移ろわないような感じを受けますが、実際はどうなのでしょうね。
世が世なら、古の王侯貴族聖職者たちは地位と金銭の力でもって、自らに分不相応な理想的な美を偽って創作させていたのかもしれないのですから──もしバルザックも、かつての彼等の立場だったなら、死してなおその美の表情を湛えていたことでしょう。。。
アザラシと言うなら、それこそ上機嫌で服を脱ぎ捨て海に戻っていくダンテスをどうしても想いださずにはいられないのですが、(youtube Le comte de Monte Cristo - Episode 4 - Part 9 - HQ)
一方、カミーユ・クローデルのロダン役は彼で良かったと思っています。サイコロさんはどうお思いになったの?
>"Quand notre coeur a fait une fois sa vendange, / Vivre est un mal(私たちの心は、一度、ブドウの刈入れを済ませてしまったら、生きていることが悪となるのです)"
>最初の楽しかった印象を追憶しているに過ぎなくなるのだそうです。
>Semper Eademの私の訳です。
どうもありがとうございました。
私の独善的な解釈(Quand…)は滑稽で下世話。ボードレールなら何と辛辣に言い放ったことでしょうね、おおこわ。笑
"Laissez, laissez mon coeur s'enivrer d'un mensonge,
Plonger dans vos beaux yeux comme dans un beau songe
Et sommeiller longtemps à l'ombre de vos cils!"
このラストが特に素敵だなあと思いました(ボードレール全集の訳よりも)。
comme dans un beau songeだから、「虚妄」とか「眠る」じゃなくて「嘘」「微睡む」のほうがふさわしいと思います。
詩の題に何か拘りはおありだったの?
>彼はダンディになれないから、ダンディに関心があったのかもしれません。
ダンディにはなれないというボードレール、その大人びた苦悶と悪態、あるいは子供っぽい歓びの自惚れで周囲を困惑させる厭世観とはいったい何に由来したのですか。
そしてまた、マネも彼同様だったのでしょうか。
先にご指摘くださった荷風については私も思い浮かべたのですが、ダンディというよりやはり粋人だと思って挙げませんでした。
パリ恋しの彼の本を片手にあの街の旧市街を散策するのも乙だと思われますが、先週末だったなら街は光の仮面を着けて気取って煌びやかだったことでしょう。
>バロンも、おそらく、非キリスト教圏から来た超人に見えたことでしょうね。
はい、それに何といってもあの若さですし。
折しも最近日本で話題になったのは、ある製紙会社の三代目が100億円ほどカジノにつぎ込み(子会社からの不正借入の特別背任容疑で)逮捕された件でした。
サイコロさんはとっくにご存じでいらっしゃいましたか。
>しかし、私はお金を使いはたすことがあまり大した才能だとは思っていないのです。芸術家を見れば、こういう人はいくらでもいるのですから。
そうね、バロンもその容疑者もほぼ無駄遣いに徹したかぎりにおいては等しいのかもしれませんね。
私が読んで一番心に残ったのは、晩年ストリップ小屋でかつてのように「ドガの踊り子のように美しい…」と口説いていたというエピソードなのですよ。
私はたしかにダンディの意味をはき違えていたかもしれませんね。
バロンはKYだけどダンディを目指していなかったような気がします。
むしろ芸術家に憧れ続けて支援した同胞、若き日本人画家たちのほうこそ、自分が周囲や群衆から認められたいという強烈な自我の欲望や傲りでダンディを志向していたのかもしれないし。
それとも、彼らが現況以上に華々しく世界的評価を得ていたとしたら、パトロンとしてのバロンの評価もまた今とは異なっていたのかもしれない、なんて。
>でも、私は、職や財産を失うかもしれない時に、タナトスの衝動に飲まれて散財するとか、俗世を超えたことをしてしまうより、涙をのんで留まる詩人らが好きです。
たとえばゴーティエ、マラルメなど。ゴーティエは自分がキレて喚いたら、他の若い詩人が職を失うことをわかって、黙って泣いていたそうです。マラルメなど、結局、恋人と逃げることもできなかった。言い訳を延々と書き連ねた手紙は、情けないものですが、私はこれが好きです。
自己を律するストイックな精神性がダンディにはやはり肝要なのですね。
サイコロさんの彼らとその作品に対する愛着やら尊敬の想いが私にも伝わってきます。
好きだからより一層、深く彩豊かに味わえるのでしょう。
…なんだか、骸骨がちょっぴり怖くなくなってきた気がするような。。。(安直)
質問者
お礼
>ダンディにはなれないというボードレール、その大人びた苦悶と悪態、あるいは子供っぽい歓びの自惚れで周囲を困惑させる厭世観とはいったい何に由来したのですか。そしてまた、マネも彼同様だったのでしょうか。
ご関心を持っていただき、ありがとうございます。サルトルの評伝がクドクドとかきたてていますが、ボードレールは人生に目標があまりなかったのかもしれません。彼はエリートから落第した人です。日本でいうと東大にあたる学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)に行ける位置にいたのに、ポンと投げてしまった。成績も中の上で、クロード・ピショワの検証によれば、その学校は上位校なので、普通の学校からすると優等生にあたるのだそうです。なぜ投げたのかは、わかりません。先生と反りが合わなかったのが一番の原因でしょう。また最愛の母が、再婚したのが悲しかったのでしょう。再婚によって、彼は家族からはみ出るような形になってしまった。
ボードレールが人生に迷っていたのは確かです。これが十八歳あたり。その後、南方の旅に半ば強制的に出されますが、彼は陶片追放されたような気持ちでいたようです。彼は社会的に成功しようとは考えなかった。世俗を超えた世界で名声を獲得しようと考えたようです。でも、何か?と言われると、これもまた、答えようがなかったようです。詩を書けども、発表しませんでしたから。発表しないまま、無名で終わりたくないという気持ちはあって、三十過ぎると、しきりに夢の中で、出版された詩集をもって、知人らに配って歩く自分の姿を思い描いたようです。こういうところが、どことなく、かわいらしい。
結局、彼は、上流社会に入り損ね、下流社会の連中も嘲ってしまうし、宙ぶらりんだったのです。彼はお金持ちといっても中の上くらいで、バロン薩摩のような人ではありません。貴族でもない。結局、交流関係も、貴族の御落胤と噂されるドラクロワなどとは、完全に違ったのです。フロベールの方がまだマシな交友を持っていたくらいです。
そこでボードレールの場合、下流の女を相手にし、そこに美があるとか、なんとか、言い立てる他なかった。もし冷徹な人なら、泥の中に真珠を探しても、真珠など見つからない、と無慈悲に言い放ったかもしれません。が、彼は無い物ねだりの人なのです。無いとわかっていながら、そこに美があると言い出す。姿形が美しい女がいる。しかし、所詮は下流の女、相手は残忍で金に汚いだろうし、愚か者だろうということはわかっている。こういう時、ドラクロワなら、一度寝て、金を払って終わりです。他に理想的な美女がいますから。ボードレールは逆に、相手の容姿から「こんな人だったらいいなぁ」などと空想するようです。彼の詩にはそういうものが多いのですが、悪や醜さの中に美があると思わざるを得ないのでしょう。
イツモオナジクとは何を意味するか。詳しくは、阿部良雄の筑摩の全集に解説があって、結局、仮説がいくつか並ぶだけです。一般的には、女は誰であれ同じという解釈です。しかし阿部とすれば、師のジョルジュ・ブランの説をとりたいというところのようです。何度もこういうやりとりを女と繰り返しているという意味で、イツモオナジク。
私も、そうなのだろうと思います。ただし私の見方を付け加えれば、彼は自分の周囲について、悟りきっており、既視感に支配されていたように思えます。だから、女と話しても、もはや、相手がだれであろうと、どういうやりとりをしようと、相互理解はないと諦めてしまっている。「ブドウの刈り入れ」は、いくつか考えられますが、男性的な精力の減退(どうもそのようです。サルトルが大喜びで書きたてていますが)、強烈な感情を味わってしまったという他、もう未知のものに早々出会うことはないという倦怠感、とも思えるのです。だからこそ、彼はそこから抜け出ようと、未知なるものを求めて、あがくのです。「旅」という詩集の末尾を飾る詩は、そうやって終わっているでしょう。
ボードレールは、いわゆる、負け組みなのです。学歴、身分、財産、アカデミー落選、女は娼婦まがい――彼が生きている間は、勝つことはなかったのです。しかし、死んでから、彼を駆逐した側を奈落に落とし、大勝利を収めた口です。ランボーとの違いは何か。ボードレールは敗けを引き摺ったのに対し、ランボーも勝ちはしなかったが、文学で身をたてようなどとは思わず、ヴェルレーヌをからかい倒して、先に歩んで行った点でしょう。ランボーの方が大人であった、というべきでしょうか。しかしボードレールの場合、意地を感じるのです。
>私の独善的な解釈(Quand…)は滑稽で下世話。ボードレールなら何と辛辣に言い放ったことでしょうね、
ボードレールはプライドが高かったのです。面白い逸話を一つ紹介しましょう。彼は人を驚かすことが大好きで、ワインを頼めば、白と赤を二つ交互に並べて飲むとか、肉を食べれば「子供の肉のように柔らかいぞ」などと言って、自らを食人鬼に見せかけたそうです。そうやって、自分の殻を作っていたわけですが、傑作なのは、彼が「コーヒーでも飲みませんか?」と言う調子で、突然、「これから風呂に入りませんか?」などと口にするという癖があるということです。こうした時、彼と友達になるには、――と第一人者のピショワが書いていますが、頭がおかしいのか?と言う反応を返さず、「いいですね、私も今そう考えたところです」とアスリノーのように言うのが正しいのだとか。
こうやって、自分を神秘化して、自分を見せないようにしているのが、ボードレールです。その理由は、社会的に彼が負け組であったことが要因ではないかと、先に触れました。結局、彼の考えていることは単純なのかもしれません。が、それに土足で触れられたくないのでしょう。そういう気難しい男性は、いくらもいるでそう?――質問には順不同という形ですが、上記で、お答えになりませんか。
さて、映画のダンテスが海に入っていく場面、私もよく覚えています。最初に見たときは、原作と違うではないか?と憤慨しました。服を脱ぐと、服の形で隠していた体型が如実にわかってしまう。アザラシと言ったら、その通りです。
でも、お陰さまで再び観ましたが、あれは、あれでいいですね。私はダンテスやメルセデスの年代ではありませんが、あの歳に自分がなった時に、ああやって「僕は汚れているよ」Je me sens saleという気持ちが、海で浄化される瞬間を味わえたら、一つのロマンだろうとは思います。中高年に夢を与える役者、というと、やや皮肉に満ちた言い方でしょうか。でも、私は真面目にそう思うのですよ。あの醜い男でさえ、と思う人はいることでしょう。
こういうと、前回、私が批判したことと矛盾してしまいますが。私は怪しげな超人モンテ=クリスト伯が好きだったものですから、ああやって、ブドウをパクパク食べる食いしん坊で、精力絶倫、自らの幸福を追求する伯爵を前にすると、ロマン主義的な人物像が破壊されてしまう!と悲しくなったのでした。ロダンは中々、良い役ですね。実際、ロダンは力強く生きていくタイプですから、当たり役だと言えます。
ところで、もしボードレールの映画があったら、誰に演じさせたら、はまるでしょうね? 今のフランスでやったら、間違いなく、Gérard Depardieuがやることでしょう。原罪に苦しみをさておいて、モリモリと食事し、精力絶倫で、力強く生きていこうとするボードレール。それもまた、映画としてはサプライズがあって、新鮮かもしれません(笑)。やれるものであれば、ボードレールはそうやりたかったでしょうね。
お礼
ありがとうございます。そして徹底した態度を示した見事な回答です。 >見慣れていない、洗脳されていない、必要としない状態が生み出す奇異さ。 これが醜さの定義ですか! 美の定義かと一瞬思いましたよ。そしてこの最たるものが、ギリシア彫刻であると仰る。 確かにそうかもしれません。つまり評論家らは、ギリシア彫刻を美と思うわけでしょうが、「見慣れていない、洗脳されていない、必要としない状態が生み出す奇異」な美がある、と言うかもしれない。そのまま裏を返して、人が美と思うものを醜さと呼び換える。驚きました。この回答だけで、スレッドを作った意味があったというものです。 そして美の序列をつけるにあたっては、一人の女優を例に出す。同じ女優でも、初期の慣れない時が醜い、とは。実によいですね。 私が御回答から引き出した定義とは、 ――初々しさ、未成熟は醜さである。
補足
さて、そろそろ締めることにいたしました。約五十もの投稿、どうもありがとうございます。BAをNo1と選んだのは、おどろおどろしい質問に対して、最初に回答してくださったからであり、また、私の考えた遊戯の仕掛けを、よく理解してくださっていたと考えるからです。 一般的には、未熟や初々しさを、特に異性に対しては媚態と考える方が多いのではないかと思います。いわゆる、萌え、あるいは海外で浸透しつつある、Kawaiiという概念です。その一方、それが醜いのだとおっしゃる。まさに独自の視点がよく出ていると思いました。結局、このスレッドの課題になっていたのは、主観的な問題であって、社会的な通念としての「醜さ」とは違うのです。 なぜこのような問いのたて方をしたのか。他の投稿者からもちらほらと意見が出ていましたが、所詮、美や醜は定義できないものです。他人が美だというものが、自分にとっては醜さとなりうる。このスレッドでは、そういう愚痴をこぼし合って、和気あいあいと議論をしたいと思ったのでした。ここで私が拾い上げた醜さの定義を拾っておきます。 ――無自覚なまま、他人にオナニーを見せつけること。 ――イドラに踊らされること。 ――諍い。 ――周囲を殺して、自分が目立とうとすること。 ――他を見下すための自己顕示。 ――実存は本質に先立つ、と開き直ること。 ――作品に注ぐ愛情の欠如。 ――ナルシシズムに耽溺すること。 ――他人を不毛さに巻きこむこと。 ――飢えた虚栄心。 ――初々しさ、未成熟。 醜さとして提示しているが、もし美学に関心がある方なら、一瞬で、どれもが、とある芸術家の美意識に結び付くものだと見抜かれるでしょう。オナニーでさえも、ジュネであったら、的確な意見となるでしょう。イドラに踊らせることも、バロック期の芸術家ならば、望むところ、と言えないでしょうか。私としてはこれまで建てた問いの中でも、なかなか豊かな収穫があったと思います。 さて、美の乞食が乞食ではなくなるとはどういうことか。この身近にある醜いものに愛情を注いでみる、というのが一つの答えです。無論、私はそれを声高に主張するお節介な趣味はありません。しかし、一つの可能性として、もし醜さの中に美を見いだせるようであれたら、世界が変わって見えるだろうな、ということくらいは、言えそうなものではありませんか? 私の趣旨は非常に、単純なので、もう看破していらした方もいるかもしれませんが、こうやって敢えて定式めいたものを出すことで、心の中にある感覚を言語化し、自分からつき放してみるための契機となれば、と思ったのです(aliénationといいますか)。しかしその中でも個人的に、諍いに美があるとは、ちょっと考えたくありませんね(笑。やはりダメなものはダメか)。 最後に、このタイミングで締めることにした理由について触れておきます。その理由はいくつかありますが、議論が十分になされたということに加え、一つには、美の乞食が自分だと名乗り出たNo10の方が、未だに自分だと考えているらしいと判明し、思いこみの強さを気の毒に思い、また質問そのものが楽しいものではなくなってしまったからです。上述の醜さは、一つくらいは誰にでも身に覚えがあることだが、全部自分のことだとお考えになってしまった。そういう醜さの権化みたいな人がいるものでしょうか。いや、いないでしょう。要するに、彼が美学を何にも勉強していないから、全部、自分のことに思えるだけなのです。これはこれで哀れだと思うべきでしょうか。 しかし、私は彼に対して、まったく関係ない、と伝えたはずでした。それで、本当に自分のことだと考えているのかどうか、私は疑問に思っています。というのも、彼はこの手口で、複数回、関係ないことを関係あると言って、私を追いかけてきているからです。口実を作り、是が非でも私と議論したいのかな?と私には見えています。普通なら、「関係ない、あっそ」で終わりだし、勘違いした投稿を消してしまえばいいのだが、どうしても「関係ある、日本のためだ、議論しろ」とおっしゃる。勝手な理屈をこねた、ネットストーカーの類と私には見えています。私のアカウントは、これで様々なカテで交流ができていたため、まことに残念ですが、ストーカー対策として、私はアカウントを消してしまうことにしました。 ――というわけで、リトルキスちゃん、雨合羽さん、マシュマロさん、木造の親方、では、さようなら。良いお年を、ジョワイユーズ・フェット! (※パリだと、年末年始の挨拶が、ジョワイユー・ノエルではなく、ジョワイユーズ・フェットJoyeuses fêtes「よいお祭りの日々を!」というようです。クリスマスがキリスト教だから、多国籍に配慮して、わざと「お祭り(複数形)」というんだろうな、と感心していました)。