こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
さて、あなたの質問は、いわゆる「同和問題」に関わる「部落」のことではないでしょうか。
江戸時代には、
(1)穢多(えた)と呼ばれる人たちがいました。古くからの「仏教思想」で、鳥獣の肉を食べる、という風習は「忌(い)み嫌われて」きました。しかし、朝廷や庶民でも、やはり、鳥獣の肉(例えば、雉=きじ、や、猪=いのしし)は、ある程度一般的に食べられていました。そこで、こうした鳥獣を捕獲したり、その肉を剥いだりする者たちを集めて「部落」をつくりました。それは、農業生産に適さない山奥であったり、河川の土手であったりしました。
江戸時代になると、死んだ牛馬の処理や獣皮の加工、革製品の製造販売などををしました。
また、刑史(けいし=牢屋の見張り番)や山番、水番、祭礼の際での「お清め」の役、各種芸能者の支配、草履作りとその販売などの、現在で言うと、下級官僚などのさらに下位の下請け的役割などもしましたので「長史(ちょうし)」とも呼ばれる場合もありました。
(2)次に、非人(ひにん)が挙げられます。
「非人」とは、読んで字のごとく「人間に非ず」です。
江戸時代には、これらは、3種類に分類され、
<1>古くから「人間」として扱われてこなかった者。
<2>非人手下(ひにんてか)。これは、この後で説明しますが、江戸時代になってから「罪」を犯して、人間としての「身分」を取り上げられた者。
<3>野非人(のひにん)=無宿非人・・・勘当などで住む場所を失った者。
などに分けられますが、いずれも「非人」と総称されています。
このうち<1>と<2>は「抱非人(かかえひにん)」と呼ばれ、非人頭を頂点とした非人小屋に属する者たちです。
<3>の「野非人」または「無宿非人」は、江戸時代に入ってからの「浮浪者」で、住居の保障がされていない者を指しました。
穢多(えた)と同じように、農業や商業の邪魔にならない河川の土手などに木組みに「筵(むしろ)」をかけただけの、いわゆる、「掘っ立て小屋」に住んでいました。
仕事としては、主なところでは、死罪になった罪人の首を洗ったり、死体を寺へ運んだり、例えば、「磔刑(たっけい=はりつけの刑)」などの時、罪人を柱に縛りつけたりしました。また、地方の農村などでは、いわゆる「よそ者」が入り込んだりしないように、その監視役をさせたりしています。これを「番非人(ばんひにん)」または「非人番」「番太郎」「番太」などと呼びました。
こうした「穢多」「非人」は、身分の一番底辺と位置づけられ、特に「非人」は、明治4年(1871)に、江戸時代の「宗門改帳」を改め、全国的に統一した「戸籍簿」が始めて作成されました。その理由には、国家としての徴兵制度や徴税制度を把握しておく必要性からでした。完成したのは、明治5年(1872)で、この年が壬申(みずのえさる)年だったことから、音読みで「壬申(じんしん)戸籍」と呼ぶようになりました。
この時、「非人」は「新平民」として戸籍に記載されましたが、昭和43年まで、誰でも「取り寄せ」や「閲覧」ができたため、大企業、特に、金融関係や保険会社などでは「信用にかかわる」ということで、「採用拒否」などをしました。また、役場などでも「新平民」のページには紙を挟んだり目印を付けたりして「差別」の対象となりました。
これが、いわゆる「同和問題」り発端です。
(よもやま話)
(1)延喜5年(905)醍醐天皇の時代に編纂(へんさん)された「延喜式」という朝廷での役職を定めた本に、猪や鹿の肉を天皇が食するにあたり、先にも述べた通り、「仏教の思想」から、その猪や鹿を捕らえ屠殺(とさつ)し肉を皮から剥(は)がす仕事は「穢(けが)れ」とされ、「穢れ多い者」から次第に「穢多(えた)」と呼ばれるようになりました。
(2)しかし、前記のように「長史(ちょうし)」とも呼ばれ、役人の下請けのような仕事もしていました。そして、特異な「技能労働者」としての集団とみなされていました。
(3)「非人」の始まりは、平安時代頃の「芸能」を見せる者たちに起源を発しています。彼らは、例えば、京都でいえば「五条の橋」のたもとなどで踊りを見せて「銭」をもらい、その日暮らしの生活で、寝る場所は、その橋の下だったりしました。
(4)そして、非人の項の<1>で、古くからの「非人」とは、奈良時代などで、朝廷に対する「反逆罪」などで役職を追われ「非人」と位置づけられた者たちを指します。
(5)「非人手下(ひにんてか)」とは、江戸時代に入ってからの「罪人」を主に指します。
{1}姉妹伯母姪と密通した者。
{2}男女の心中(相対死=あいたいし)で、女が生き残った場合。その女は「非人頭」に渡され「非人」とさせられました。
{3}心中で両方が生き残った場合は、男女とも「非人」へ。
{4}男が生き残った場合は「無罪放免」。
{5}主人と下女の心中で、主人が生き残った場合は、主人は「非人」へ。女は、逆に「無罪」。
{6}三笠附句拾(みかさふくじゅう)と呼ばれる「博打(ばくち)」の一種をした者。
{7}「取退無尽(とりのきむじん)札」を販売した者。
{8}15歳以下の無宿で盗みをした者。
(6)こうして「非人」とされた者は、例えば、江戸では、荒川土手を一手に仕切っていた「車善七」という「非人頭」に引き渡されました。
(7)その他の地方などでは、「悲田院年寄」とか「祇園社」「興福寺」「南宮大社」などが「非人頭」を兼任し、管理にあたりました。
(8)非人小屋から「脱走」して捕まった場合は、元の「非人小屋」に連れ戻されますが、3度脱走をして捕まった場合は「死罪」となりました。
(9)心中などで生き残った場合、「非人」とされましたが、「非人頭」に10両位を渡せば「平民」に戻ることができました。従って、身内に銭を出してくれる者がいれば、「自宅」に戻ることができました。
(10)非人同士が結婚して子どもができても、その子どもも「非人」でしかなかった。
(11)例えば、東海道などは、江戸の日本橋から京都の三条大橋まで123里26町とされていますが、途中に「非人部落」があると、距離の計算には入れなかった。従って、実際には、もっと距離があった。
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