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部落について
部落の人はそもそもなぜに差別されるようになったのでしょうか?
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起源は諸説あってよくわかっていません。ただはっきりしているのは江戸幕府になって「身分制度」が確立し、それまでは多少ぼんやりとしたものであった身分が固定化しました。 「士農工商」が有名ですが、身分はそれだけではなくて、その下に「穢多・非人」という階層がありました。ですから実際には身分は「士」「平民(農工商)」「穢多・非人」と3つに別れていました。むろん人種が違うわけでもなんでもなく、いわゆる村八分にされたような人たちが特定の地域にかたまって住むようになったのでしょう。食うためには何でもしていたと思われますが、誇りが持てない仕事が多かったようです。今で言う「3K」の江戸時代版でしょうか。例えば下記が参考になります: http://okwave.jp/qa/q4406605.html 明治になって「解放令」であらゆる身分制度は廃止されましたが、あろうことか、解放令反対一揆が続発しました。「平民」が「穢多・非人」を嫌ったわけです。米国の奴隷制度と同様、表向き制度が廃止されても精神的・社会的・経済的差別は長く続いたわけです。ごく最近まで部落出身と分かると就職や結婚に差し障りがありました。例えば「地名総鑑」などという本に部落の地名がリストアップされて大企業を含む人事担当部署に配られたりしていました。(今では進学や就職に際して応募者の出身地を聞いてはならないことになっています)インフラの整備でも差別があったと言われます。 ただ、現在では逆に差別解消を建前とする部落解放同盟が利権をあさり、差別解消を妨げているとの批判が起きるようになっています。
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- covanonki
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むかし、(江戸時代以前)、日本の神社やお寺の参道には、そこをすみかのようにして寝泊 りしている人たちがいました。彼等が何をしていたか、というと、皇族(天皇家の一族)が なくなったとき、亡くなった人の遺体を葬儀場まで運んでいくような役目をしていました。 当時は天皇家といえば、まさしく「尊い」存在。庶民たちが関わることなどとても出来ない ような存在です。彼等はこの「職業」にとても誇りを持っていました。 江戸時代に入ると、身分制度として、「士農工商」という身分制度が制定されます。農民を 上から2番目の身分として設定しているのですが(年貢を納めてもらわないと侍たちがご飯 を食べられませんからね)、実際は工人や商人たちよりも低い水準の生活を送っていたよう です。 そこで、当時の権力者は、農民たちに、自分たちよりも低い水準で生活を送っている人達が いるんだということをイメージ付けさせるため、士農工商よりも下に、「えた」「非人」という身分を作りました。この人達がどのような仕事をしていたかというと、処刑の執行人、 死体の処理、排泄物の処理、といった、客観的に見て一般人から軽蔑されるような職業を 行っていたのです。では、どのような人達にこの身分が与えられたのかというと、冒頭 に記したような、「誇りある職業」を生業としていた人達でした。 明治に入ってからこの身分制度は廃止されるのですが、民衆の心までは変えることは出来ま せん。民衆の身内を処刑したり、人々が普通は目を背けたくなるような物を取り扱っていた り・・・。簡単にそのことを民衆の心から取り去ることは出来ません。 彼等は、江戸時代より、ある決まった一定の区域に居住していました。この区域のことを、 明治以降は、「部落」と呼称するようになりました。 部落差別とは、現代に至っても尚、社会の裏側に残っている、この部落居住者たちに対する差別です。 って、実は私が過去に他サイトで行った回答のコピペだったりします^^;
- hekiyu
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江戸時代に創設された、と誤解する人もいますが これは誤りです。 平安時代まで遡ることができます。 そして、なぜ差別されるようになったのか、は 色々研究されていますが、未だに良く判って いません。 伝染病の隔離だ、職業だ、地域だ、と種々の説があります。 現代の部落は、明治になって整理されたもので、 昔の士農工商の外にいた人達、例えば サンカなども含まれています。 日本の差別構造は、中国の儒教思想に基づきます。 これに仏教や神道の影響が加わりました。 つまり、職業による差別が基本です。 儒教では、政治に携わるのが最も偉く、次に農業 工業と続き、商い・・芸人・・動物の死骸を扱う職業 となります。 このように、 部落は動物の死骸を扱うので、穢れがあるとして 差別された、という説が有力です。 ちなみに、朝鮮ではこういう研究は皆嫌がって まともな研究が進んでいません。 少数民族ではないか、という説があります。 インドの差別は、宗教に基づきますので、とても 厳しく、人間扱いされません。 そこへ行くと、儒教の差別は比較的穏やかです。 参考までに。
- kamobedanjoh
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被差別部落の始まりは、歴史上も不明瞭です。 日本書紀が撰上されたのが7世紀から8世紀の頃、この頃から律令制度による国家支配が準備されて行きます。書紀では、国の始まりの段階から既に『天つ神と国つ神』の記述で、尊卑の差を述べていますが、このことと被差別部落との関連は不明確です。 大化の改新以降、律と令が定められて行きますが、書紀の大化元年八月条に、良男・良女及び奴卑についての令の概略が述べられています。奴は男性、卑は女性で共に今日で言う市民権や公民権を否定された、隷属民(奴隷身分)と解されます。その多くは征服された先住民族や、時の権力に反抗的であった『土蜘蛛』・『蝦夷』など、大和朝廷に従順しなかった人達やその子孫と見られます。 身分制度を定めて差別を強めること、階層差を明確にして下層の人達の自由を束縛することは、支配を容易にする上で、権力者にとって有力な社会体制でした。 大和政権の頃から江戸時代にかけて、権力支配の強化と共に身分差別が明確化されて行きます。中でも、一向一揆に加わった人達に対しては、信長は多数の宗徒を『卑民』に貶め、諸々の差別を強化しました。差別を受けた人々は、特定の(環境条件の悪い)地域を指定され、其処でのみ居住が許され、一般民(良民)との接触も規制され、エタ(穢多)つまり穢れ多き人として、生業をも特定されました。 差別の詳細については、今日なお人権に拘わる部分が多すぎるため、ご自身で調べて下さい。 なお、『非民』は江戸時代に行われた刑罰の一種で、一時的に『エタ』に近い業務、行き倒れ(路上の人や動物の死体)処理とか、獄門など刑罰に拘わる準備や後片付け、その他の臨時の労役などに従事させられ、一定の贖罪が果たされたと認められた場合に、元の地位に戻された人達です。
穢多(えた)とは ttp://ja.wikipedia.org/wiki/穢多 穢多の原形は奈良時代にはすでに存在していたようで 非人 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/非人 非人という言葉は仏教に由来し、『法華経』「提婆品」にも見られる。日本では平安時代に橘逸勢が842年(承和9年)に反逆罪に問われ、姓・官位を剥奪されて「非人」の姓を天皇から与えられたのが文献上の初例とされる。
- bouyatetu0
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朝鮮人だから。 あの人達の文化と日本古来からの作法は全く逆で、例えば座るときに立て膝つかないのとつくの、道端でタンツバを吐かないのと吐くの、食器を持つのと持たないの、衛生観念のあるなし、生きたままの人の皮をはげないのとはげるの、…などの違いから、人権の概念の無い当時の日本人は差別していったのではないでしょうか。 穢多非人は元々朝鮮から来た人です。 今でも世界的に差別されてます。 西洋でもアジアでも、彼らの文化は理解されないようです。 海外経験の多い私は、ほぼ百パーセント、すべての国で、朝鮮族の嫌われ具合を聞いたことがあります。
- 8823mujin
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部落民発生の歴史はウィキペディア等にもかなり詳しく出ていますので、それを参考にされれば良く分かると思いますが、部落の問題はそうした社会的側面だけでなく、それ以上に血の問題が関わっています。 その昔、人々の移動手段は主に徒歩に頼っていました。おまけに当時の日本は今ほどの人口もなく、村落もそう多くは無い状況だった訳です。 で当時の婚姻はと言うと、そうした移動距離から考えても同村もしくは隣村と言った近隣からの嫁入りが多く、普通の村落でもかなり血の濃い血縁関係にあっと思われるのに、ヒニン部落となると更に人口も少なく又それぞれの部落の距離が遠かった。勿論当時の社会的側面から考えても、村落とヒニン部落との間で婚姻がなされたとは考えにくく、そうなるとどうしても同じ部落民同士の婚姻が主となり、従兄弟同士は当然として中には兄・妹の様な同血間の婚姻さえあったと記録されている位です。だから非常に純化した血の濃い子孫が生まれる。 で、血が濃いとどうなるかと言うと、生物学的には純化する事で非常に優秀な子孫が誕生する反面そうでない子孫も生まれる。だから漫画のカムイの様な子が生まれる事もあれば、狂気に満ちた子も生まれるで、近隣の村民にしてみれば近づくと何をされるか分からない、非常に危ない場所となっていた訳です。 そしてこれは、人々の通信・交通手段が発達する近年まで続き、戦前のオンボ(死体の火葬を生業とする)部落の記録に従兄弟同士の婚姻で狂人を出産と記されている位です。 で、最後になりますが、確かに今は血の交流もあり部落民と言ってなんら問題の無いレベルなのだろうと思うのですが、当時に生きた人々にとっては決して社会的側面、つまり部落だからと言う理由だけで差別していた訳ではなく、かなり高い確率で精神的な障害をもった子を産み育てている部落を迷惑の対象とし差別していたものと思われます。
部落の人を、エタとかヒニンと言いました。 今では変換しようにも言葉がありません。まあ、当然なんですが・・・ ヒニンを文字に無理やりすると非人なんです。 エタは変換出来ないでしょうね。 簡単に言うと、牛、豚、生き物を屠殺して、生業にする人たちを卑しんで、 その人たちを部落民と呼んだのです。 今では普通の仕事なんですがね・・・・。 島崎藤村の小説「破戒」を読むと良いかも知れません。 最近では、宮崎学さんの本が詳しいでしょう。(グリコ・森永事件で、 犯人に間違われた人です(笑)。)
- aokii
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16世紀末、豊臣秀吉は農民が田畑から離れることを禁じるために、武士と町民・農民とを分けた身分制度を作りました。この身分制度をさらに進めるため、徳川幕府は歴史的、社会的な経緯で差別されていた一部の人々を、著しく低い身分として固定し、職業や住むところを制限します。こうして被差別部落の形成が進んでいったといわれています。
お礼
みなさん回答ありがとうございました。 無知な私でも分かりやすかったです。 色々な説はあるようですが、「身分制度」の説が有力に感じました。 下記はwiki参照ですが、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88 ユニセフでは差別をカーストとして表記し、これが存在する国として、アジアの国々(インド・スリランカ・パキスタン・バングラデシュ・ネパール・日本)とアフリカを挙げており、この差別が世界の2億5千万人に影響を及ぼしていると推計している。 日本も以前ほどではないにしても、まだカースト国として位置付けられているのですね。