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戦国時代、兵農一致の大名でも農繁期や長期の軍事行動が可能だった理由
一般に兵農分離の織田家以外は、農閑期しか行軍できないとされていますが、全国所々で農繁期や一年丸々の対陣が行われています。 (武田や毛利、上杉など) 農民主体の軍では物理的に農繁期は田畑を離れられないのに、何故そんな事が可能だったのでしょうか?
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謙信(当時は長尾景虎)の場合、永禄3年から10年まで8回、 秋の収穫期に関東に侵攻し、そこで越冬し、春の終わりごろから 夏の初めに帰国しています。 関東管領の立場上、外部からの要請という名目は奇麗ごとで、 他国領で略奪し、自国の食糧、燃料は温存して長期戦に備えています。 藤木久志著『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』 http://www.4gamer.net/weekly/biblo/002/biblo_002.shtml
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- komes
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回答No.2
兵農分離は織田信長の専売のように見られていますが、実際には他の国でも事実上それに近い体制が存在していました。 国内での戦闘を避けた上杉、武田などはその典型です。 国外での戦闘では現地調達が自由であり、必要とあれば収穫前の青田狩りも行いました。 城攻めでは兵士の分割帰郷も可能なれば認められたといわれます。 また郷里での耕作継続は義務として厳重に守らせていました。 人手不足を口実にすることは禁じられていました。 このような制度があってこそ戦闘は持続できたのです。