- ベストアンサー
元亀元年の出来事ですが
先日は回答ありがとうございます 今回は元亀元年の事についてです 合っているでしょうか? 戦国の世を打ち砕こうと立ち上がった男がいた…将軍を擁して機内を制圧した織田信長である 信長が天下に一番近いと思われいた 元亀元年 妹婿の浅井長政が朝倉義景と結んで離反 武田信玄 上杉謙信 毛利元就 本願寺光教らもこれに呼応した この反信長連合を成立させるべく 裏で糸を引いていたのは 信長が庇護しているはずの将軍 足利義昭であった… という動きですが 合っているでしょうか? 検索して調べても細かすぎて逆にわからずでしたので…
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
大体、あっていますね。といっても、これが事実であるのかどうかは、わかりません。歴史家、小説家、などにより、説は様々なのですから。 サイトで検索することもいいですが、「信長公記」の読破もお勧めします。これは、信長・秀吉に仕えた太田牛一という人が、信長のことを事細かに書き記したものです。最初のほうは、信長が尾張を統一していく過程ですので、飛ばしても構わない。 ただ一つ、「機内」は「畿内」です。
その他の回答 (4)
- izuhara
- ベストアンサー率31% (97/310)
補足です。 >機内は近畿地方全土ではなく 当時は近江から大和 摂津付近まででした どこで学んだのか分かりませんが、畿内とは五畿内のことで、山城・大和・摂津・河内・和泉をさします。 >光教は証如? 光佐は顕如? そうです。
お礼
了解です こちらの見解違いでした
- izuhara
- ベストアンサー率31% (97/310)
まず、当時の信長は畿内を制圧していません。摂津・河内・和泉は本願寺や三好三人衆、阿波三好氏との間で抗争が続いていました。 足利義昭が信長包囲網に参加するのは元亀3年になってからです。元亀元年時点では兄を殺害した三好氏を敵対視していました。 それから、元亀元年の時点で、武田信玄・上杉謙信・毛利元就は信長包囲網に参加していません。 武田信玄が信長と対立したのは、元亀3年冬になってからと研究成果が近年出されています。(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』など) 上杉謙信は、天正4年以降です。 毛利元就は、信長と敵対していません。むしろ反阿波三好という点で利害が共通していました。輝元が信長と敵対するのは天正4年からです。 元亀1~2・・・信長・義昭VS浅井・朝倉・三好・本願寺・比叡山 元亀3後半・・・信長VS義昭・浅井・朝倉・三好・本願寺・武田 という流れでしょうか。 誤記でしょうが、本願寺光教ではなく光佐ですね。
お礼
機内は近畿地方全土ではなく 当時は近江から大和 摂津付近まででした 光教は証如? 光佐は顕如?
1つ付け加えさせて頂きます。 上杉謙信は「義」を重んじる人物だと伝えられています。 そのような人物が足利義昭が陰でコソコソして信長を討つ事には 賛同しないと想像されます。 事実越後より西に挙兵していません。
お礼
謙信は動いていないんですね 了解です
おはようございます。 浅井長政が裏切り『金ヶ崎の退き口』と呼ばれる退却戦と その1ヶ月後に行われた姉川の戦い、 10年に及ぶ野田城・福島城の戦いは元亀元年の出来事で、 この信長包囲網を指示していたのは15代将軍足利義昭です。 誤りはありません。
お礼
ありがとうございます★
お礼
機内 でも 畿内でも どっちでもいいです あ 機内だと 飛行機の中ですね 笑 ごめんなさい