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室町時代の軍制について

数年に渡る享徳の大乱や応仁文明の大乱では、農閑期も戦闘を継続していたのでしょうか。 もしそうなら兵農分離されていたことになりますが、後年の戦国時代は農民徴発の兵農一致軍が常識でした。 どの時点で軍制に変化が生じたのでしょうか。 もしかしたら、少数の純粋な武士階級による小競り合いにすぎなかったのでしょうか。 後年の戦国時代のような万単位の軍ではなく、数百~数千くらいの。

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  • tanuki4u
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回答No.2

徴兵制の概念から考えてみた。 要は生産人口からどれだけの人間を非生産状態にしても生産が保てるか? という問題に還元されると思う。 1 兵隊大好き フリードリッヒ大王 4%が限界だった < それ以上やると予算が持ちません。 2 秀吉の文禄の役とか 20万派兵で、20万が総予備 人口が1300万人 3% 3 明治の士族 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E6%97%8F 士族+卒族で 人口比 5.5%  40万戸数=40万の兵力 人口が3500万人くらいだから 1%強 とすると、農業社会では、平時で1% 戦時で4%くらいを戦場に抽出しても生産は継続できるってことじゃないかと。 とすると、室町時代は 1000万だから 平時としても 日本中で 10万人くらいの兵士がいてもおかしくない。

niftycom
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  • izuhara
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回答No.3

足軽に代表される戦闘従事者の動員も見受けられますが、基本的には西日本の広範囲にわたってかなり軍勢が動員されています。 もちろん、全ての軍勢が長期間にわたって駐留していたわけではありませんが、農閑期・農繁期に関わらず動員はなされていたようです。 軍勢の動員は基本的に、知行に応じて催促されるわけですから、守護など動員する側は家臣や村落が逼迫しないような軍役を命じたと考えられます。 戦国期の合戦の時期をざっと見る限り、農繁期だから合戦しないという意識はあまり感じられません。兵糧の現地調達手段である刈田行為が頻繁に行われていることはその最たるものでしょう。 ちなみに島原の乱においても軍勢には百姓が動員されております。 兵農分離はあくまでも身分上の区別であり、軍制ではないのでしょう。

niftycom
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  • tanuki4u
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回答No.1

直接の回答になりませんが、関連情報として 戦国合戦の舞台裏 ~兵士たちの出陣から退陣まで~ これによると、兵農一致なので農閑期に戦闘が行われる・・・のではなく、渡河作戦ができるときに軍事行動が行われるとの解釈です。 渇水期でないと、渡河作戦ができない。 主要な分析は、北条家中心で、それに対抗する上杉謙信やら里見家・佐竹家などの書状を元に説明しています。

niftycom
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