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戦国時代の城の部屋の名称について

大河ドラマなどでよく出てくる殿様や家臣が集うあの部屋はなんという名前なのでしょうか。

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  • Pinhole-09
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回答No.3

赤穂城明け渡しの評定が300人の家臣を集め、大広間で行われたそうですが、そのような大きい部屋は普通城にはありませんでした。 数個の部屋の仕切り(襖など)を取り外し大きい部屋を作り、大広間と呼びました。 私の見た城内部の図面で大広間と呼ぶ、大きい部屋が本丸にあったのは川越城だけでした。 城主が家臣を謁見する場合は、身分の高い者から順次に入れ替えて行い、広い部屋は必要ありません。    多くの家臣を一堂に集めることは稀で、そのため広い部屋を用意しておくのは無駄でした。 川越城は寵臣柳沢吉保が、将軍綱吉により大名に任ぜられて、将軍を招待することを考えて用意したものでしょう。

回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>戦国時代の城の部屋の名称について 大河ドラマなどでよく出てくる殿様や家臣が集うあの部屋はなんという名前なのでしょうか。 まず、織田信長などの時代までは、「役職者」は、全員が集まり協議することが常で「大広間」などで合議されました。 江戸幕府になると、戦もなくなり、全国の大名、小名たちも「こぞって」徳川家に従うようになりましたので、政務の実権は、ごくごく限られた「大老」とか「老中」「お側用人」などで、「若年寄」なども多少は参画しましたが、極端に言えば、10人前後で幕府(と、言うよりも国全体)を動かしました。 地方の大名などは、家中の多くに、何かを告げる時は、やはり、「大広間」で、重臣たちとだけ話すのは「書院」で話し合いをしました。 一方、千代田城内(江戸城)の公方さま(将軍)は、もう、政局も安定し始めていましたので、全大名を集めて「訓示」などをする必要がなく、各大名に用がある時は、「黒書院」に呼び出して話をしました。また、「御三家」や「前田家」「越前家」などの「重要家臣」と面会するのも「黒書院」と言う部屋でした。 そして、「白書院」と言う部屋もありますが、これは、上記以外の大名たちが「謁見」する部屋でしたが、公式行事などに使われ、例えば、庭で「剣術大会」や「槍術大会」「柔術大会」などが開催され、公方さまは広い板縁で観覧し、その周りを譜代大名で守りました。 さらに、勅使などを迎え入れたりした時や公式行事は大広間(約400畳)で行われました。また、大広間の正面に「能舞台」があり「能会」が開催されたりして、大名たちは、この大広間に集まり観覧に供しました。 通常、大名が登城すると、用があってもなくても、自分に決められた「詰所(部屋)」で「待機」していました。 各大名の「詰席」は、次のサイトを参考にしてください。 http://iyo.sunnyday.jp/index.denseki.html (よもやま話) (1)江戸時代は、「将軍」のことを「将軍さま」とは呼ばず「公方(くぼう)さま」または「大樹(たいじゅ)さま」「ご公儀さま」と呼ばれていました。良くTVで「将軍さまのお成り~」などと叫びますが、これは、単なる視聴率を上げるための所業。 そして、同じく「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」またの名を「舞鶴城(ぶかくじょう)」と呼び、庶民はただ単に「御城」と呼んでいました。 (2)大名の登城にも「月並登城(つきなみとじょう)」と言われる月例の登城日には、江戸在府中の全大名が登城しました。しかし、「大広間詰」や「帝鑑間(ていかんのま)詰」「柳間(やなぎのま)詰」の大名たちは、以下の「礼式日」にしか登城しませんでした。 (3)御三家は「礼式日」と、自分が用のある時、または、公方さまから意見を求められた時だけ登城しました。 各大名の「詰間」は、以下を参照ください。 http://iyo.sunnyday.jp/index.denseki.html (4)礼式日とは、 「元旦」 元旦・・・これは、もちろん正月1日。 「五節句」 人日(じんじつ)・・・正月7日。 上巳(じょうし)・・・3月3日。 端午(たんご)・・・・5月5日。 七夕(たなばた)・・・7月7日。 重陽(ちょうよう)・・9月9日。 「八朔」 八朔(はっさく)・・・8月1日。 この日は、家康が初めて江戸へ入府した日で、元旦とならぶ重要な日とされました。 (3)3代将軍家光の時代に「武家諸法度」が完成し、その第2条に「参勤交代」が定められ、大名たちは隔年に江戸へ入府するようになりました。しかし、全国の大名が全て一同に江戸へ来るわけではく、例えば、「豊前」と「豊後」の藩主たちを見てみると、 中津、杵築、府内が譜代大名。 日出(ひじ)、臼杵、佐伯、岡、森が外様大名。 そして、参勤交代では、 子、寅、辰、午、申、戌の年に 中津奥平氏、杵築能見(のみ)松平氏、臼杵稲葉氏、佐伯毛利氏。 丑、卯、巳、未、酉、亥の年に 府内大給(おぎゅう)松平氏、日出木下氏、岡中川氏、森久留島氏 と、言うように、それぞれの近隣の藩が「話し合い」で交互に参勤交代をしています。これを「御在所交替」と呼びました。 (4)大名は登城して何をしていたの? 「老中」や「若年寄」などの役職者になると参勤交代は免除され江戸に常駐し、日々、これ忙しい毎日でしたが、それ以外の大名たちは、ただただ「ボケッ」として、詰所の決められた席に座っているだけでした。 (5)世間話でも・・・ とんでもありません。大名同士が結束されては、幕府転覆の企てをするかもしれませんでしたので、「私語」は厳禁でした。 (6)でも、親戚や親しい大名もいたでしょう・・・ そうした大名たちが集まる場所は、必ず、上屋敷で行い、「別に、騒動を招くような話ではない」と言う証拠に「旗本」を呼んで「立会人」になってもらいました。 (7)お茶の接待などは? 全くありませんでした。まあ、大名でも「茶坊主」に賄賂を贈ったりしている者には、登城した時、一回は「こっそり」と出してくれましたが、賄賂などを贈らない大名などは無視され、今で言う「シカト」されて、知らん振りをされ冷遇されました。 その後は、弁当を食べた後などにお茶が飲みたければ、自分で湯茶場へ行き自分で出して飲みました。まあ、大名とはいっても、御城の中では公方さまの「家来」でしかありませんので仕方がありませんでした。 (8)座布団は? 夏はともかくとして、冬には火鉢もなく、座布団なども、全くありませんでした。 あなたの「お役」に立てたでしょうか。

回答No.1

評定を行うことろなら普通に「大広間」じゃないですか?