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城の内部構造と各部名称について知りたい
- お城の内部構造や各部の名称について知りたいです。特に、お城の廊下や縁側などの呼び名について興味があります。
- お城の内部には廊下や縁側などの構造がありますが、それぞれどのような名称で呼ばれていたのか知りたいです。
- お城の内部の各部には多くの名称がありますが、廊下や縁側など一般的な部分の呼び名について教えてください。
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お城には、天主、櫓などと共に御殿も含まれます。 御殿には廊下(渡り廊下)、縁側があります。 江戸時代にはそう呼ばれていました。 天主では廊下にあたるものを「武者走り」と呼びます。 櫓と天主などをつなぐものは「渡り櫓」と呼びます。 お城でもその中の御殿には中庭がありました。 縁側は古くは「切縁」「よしず縁」などと呼ばれました。 天主や櫓のある廓は、戦闘区域で空き地はあっても、 中庭と言うほどのものはありません。 ただ天主や「月見櫓」の最上階には、「高欄」と言う 飾り手摺の付いた「廻縁 まわりえん」と呼ぶ縁のある 城もありました。 月見の宴です。 お城の解説本は多数出版されています。 三浦正幸 監修 「お城のすべて」 学研 が判りやすいようです。 初心者向き。
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- Caroms
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本来は江戸城指図とかにリンクして差し上げればいいのでしょうが、原図では読みづらいですし、そこまで精巧でなくてもいいのではないか、と思います。下記ご参照ください。 江戸城 http://www.viva-edo.com/edojou.html 江戸城大奥 http://www.viva-edo.com/oo_oku.html それから、1の廊下については、忠臣蔵で有名な「松の廊下」のごとく江戸城には最初からあり、そう呼ばれていました。従って戦国末期の豪壮な城郭では常識的なものであったと思われます。渡殿も「廊」の一種ですが、「下」が付いたのは屋根の下の通路くらいのことでしょう。 2の中庭については、少なくとも江戸城には中奥と大奥の境界として、絶対に必要なものであったでしょう。また、庭があれば縁側があるのは、武家の美意識では当然といえるかもしれません。 書院造の指図に竹のエンと書いてあるものを見ましたので、縁という名はそのころにはもう使っていた名称でしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 分かりやすい図で、参考になりました。 戦国末期にはもう江戸城に近い形になっていたのですね……なるほど。 屋根の下かそうでないかで呼び方が変わるかもしれないというのはびっくりしました。 武家の美意識としての中庭+縁側、確かに武家の時代から主流になった書院造に縁、があるのだとしたら縁側というのは随分と古い言葉なんでしょうね、ありがとうございます。とても参考になりました。
- caesar-x
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「篤姫」の時代は江戸末期です。 戦国時代とはかなりかけはなれています。 ”お城”は、戦国時代は、居住用の場所ではありませんでした。 戦国時代のお城には、天守閣もありません。 主に土塁と木冊で縄張りがされたものがほとんどで、白壁もないです。 お城が優美な外観をもつようになったのは、戦闘用である必要がなくなった時代の産物です。これらは平和の時代の建造物であり、天守閣などは戦闘では邪魔になったので、熊本城などは守備側が事前に焼き払ったりしてます。 戦国時代の城は、ほとんどは戦時のみ利用する郭で、貯蔵庫を兼ねたものであり、平時は館で生活してます。 江戸時代の一国一城制になって、統治のシンボル的な役割が城にもとめられて住居を兼ねるようになったわけで、郭内部に邸宅が造られるようになったわけです。
お礼
回答ありがとうございます。 屋敷と城が別々なのは知っています、篤姫の時代と戦国時代でかなり様変わりしていることも。 誤解を招くような書き方をして申し訳ございません。 やはり戦国時代の戦闘用の城に中庭などという優美なものはなかったのですね……ありがとうございます。
お礼
回答ありがとうございます。 お城の御殿の中にはやっぱり廊下と縁側があるのですね。 武者走り、渡り櫓、切縁、よしず縁……調べてみますありがとうございます。 廓によって様子が全然違うのですか、 月見のための場所とは風流ですね。 お城のすべて、探してみますありがとうございます!