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戦国時代の境界
戦国時代に国の真ん中などで戦に埒がついた場合、どっちの領域になったかは一方の勘定方の役人がやってきて内に年貢納めろと言われて庄屋は内の村はこっちの殿様領になったのか~って分ってたのですか?微妙なところの村には両方から役人来たのでしょうか、それとも戦に埒ついたときに両方の殿様間で境界話がされてから村には出向くのですか。 必ずしも庄屋が土豪・豪族でなく純粋な庄屋と言うのもいたでしょうから、そう言う場合どうだったのでしょう。
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半手(あるいは半納)といって、毎年、例えば武田と徳川へ年貢を半分ずつ送る、という風習がありました。 戦国時代の村は、自衛のための武力を持った自治組織で、一般に「勝つ側へ味方する」という大原則を通していたようです。だから領主も境界の村に対し、離反を恐れて強い態度には出にくく、半手が可能だったのかもしれません。
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- tanuki4u
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百姓から見た戦国大名 (新書) 黒田 基樹 (著) これに詳しかった。 戦国時代の大名領域図なんかをみると、今の都道府県境のように、綺麗に線引きがありますが、あれが誤解の元。 実際は、途中にグレーゾーンだらけ。 濃尾国境沿いは木曽川が乱流しており、そこには蜂須賀ですとか、歴史上は野武士とか言われている、どこにも主取りをしていない、グレーな現地支配者と土地がありました。 小さな、現在で言えば「字」単位程度の惣村(これが、自治というか生産というか、農村の最小単位)レベルで、隣村との競合関係から、より上位の権力に保護を求める行為がありました。 保護の見返りとして、納税するというかたちになります。 中間地帯では、No1さんがご指摘のように半納もあれば、野武士の蜂須賀のように、両方に納めないということもありえました。 ちなみに、戦国時代に於いて、純粋な農民(非武装という意味)はおらず、純粋な庄屋(たぶん、質問者の意味は、完全なる文民)はおりませんでした。半農半武士が基本。
お礼
純粋な庄屋はいないですか。どうもありがとうございました。参考にします。
>必ずしも庄屋が土豪・豪族でなく純粋な庄屋と言うのもいたでしょうから、そう言う場合どうだったのでしょう。・・・ 戦国大名の領地は必ずしも国単位ではなく、一つの国の中で境界線を挟んで、二つの大名がそれぞれ領有しあうということはありました。 戦国時代の戦争は、勝った大名が相手を根こそぎ亡ぼして、相手の領地を総取りにしてしまうことが多かったように思います。 質問者さんがご心配の、一つの村が両方の大名の勢力圏の境目にあり、お互いににらみ合っていて、帰属がハッキリしないケースはあっただろうと思います。 あるときA大名の侍がその村へやってきて、お前達を守ってやるからといって年貢米を持っていきました。 ところが翌月B大名の家来がやってきて、同じことを言いました。 村長(むらおさ)はA大名のところへ走っていって、B大名の家来がこんなことを言ってきましたと注進します。 ここで境界紛争が起こり、ここから前面戦争に発展することもあったと思います。 戦いに勝ったほうが、村へやってきて「お前達の村は、これから○○守様がお守り下さる。」とハッキリ通告して一件落着ということになると思います。
お礼
ありがとうございました。参考にします。
お礼
半手と言うことをしていたこともあるのですか。参考にします。ありがとうございました。