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戦国時代の戦功について

戦国時代では討ち取った武将の首を殿様に見せて褒美をもらったと思うのですが、 生首はどうやって運んだのでしょうか? 生首なら2-3日もすれば蛆が湧いてくると思うんですが?

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  • Saturn5
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回答No.1

君主が遠隔地にいる場合ですが、相手のクラスにより変わります。 ・君主、重臣→塩漬けにする ・雑兵→近くの部隊指揮者に見せる、鼻を持ち帰る 戦国時代では重要な合戦の場合は多くは君主が帯同します。 その方が恩賞が即決し、指揮が上がるからです。 織田信長系の武将は戦場に大判、小判を持っていき、その場で恩賞を 与えました。豊臣秀吉はそのための大判を作らせました。 君主が帯同しない場合も、多くは君主の一門の重臣が指揮官と なっているため、雑兵の恩賞はその重臣の口添えでほぼ決定できた と思われます。重要な武将のみ、塩漬けなどで君主に送りました。

その他の回答 (3)

  • 1paku
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回答No.4

合戦は、1日単位で戦功を確認しますから、腐ることはありません。 たいていは、夕方になると自軍の陣地に帰って、そこで確認していたようです。 大将首は、槍で突き刺し高く掲げてすぐにアピールします。 軍監という記録係のような人がいて、敵の陣地に一番乗りなどの功を記録していました。 信長の桶狭間の戦いのごろから、自己申告と軍監のチェック重視で、首実験は大将首だけに。 戦地が遠方で、本拠地まで持って帰る時は、塩漬けでした。 敵の身元確認が出来ればよいということで、敵の所持品や遺髪でOKだったこともあったようです。

回答No.3

首実検はたいていその場でやりましたよ? どうしても運ばないといけないときは塩漬け 源義経の首は奥州から鎌倉に運ばれましたが 腐っていて判別は不可能だったらしい 明智光秀の首も腐っていたが秀吉は光秀の首として処理した 関ヶ原で17の首を取った可児長吉は目印に討ち取った首に笹を付けた 彼は笹の才蔵と呼ばれた

  • ssssan
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回答No.2

どうやってー塩漬けじゃないんですか、で夏なら貴重な氷を回りに詰めて塩漬けの箱にして。 大合戦有る時は敵.味方の軍艦ー兵の働き記録係がいましたねーで戦後の軍功褒賞決定時に自己申告と相違無いかで軍艦記録と相違無いかとチェックしましたーでで武将.足軽等は戦場で手柄目立つ様にアピールしてました、目に留まる様に 大東亜戦でも米に軍艦役の戦闘機乗りが居た様ですね、坂井三郎の戦記によると、有る程度の空戦想定される時は空戦域の空戦が 2.4千メートル高度位で有る時は一段上空域をグルグル回りながら監視してた様です、敵.味方の戦術データーから欠点.利点から敵機を誰が撃墜したとかのデーター記録集め役の戦闘機乗り、で坂井は一通り空戦終わるとソイツに攻撃しに行ってたと書いてます、アレは何だったのかーは戦後生き延びて冷静に考えて理解出来たと書いてました。日本戦国時代の軍艦制度が米戦闘機隊で。

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