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精神分析療法の「治療」のメカニズム
まず、精神分析療法では、本人を抑圧している「無意識」を「意識化させる」ことが治療方法であると理解しました。(私のこの理解そのものが間違っているのかもしれません。だとしたらご教示下さい) しかし、何故これが心の病の「治癒」に結びつくのかが判らないのです。 原因が判って「よし、じゃあこの問題を解決しよう!」(例:私のテストの成績が悪いのは何故だろう→原因は勉強していないからだ→よし!勉強しよう=解決)となるのであれば「原因を探すことが治癒につながる」ことが判らなくはないのですが、精神分析療法では、心の病の原因を、主に幼児期の親子関係に求めます。これは、「今となっては」どうしようもないことなのではないでしょうか。原因が判ってもそれが「どうしようもないこと」であれば意味はないのではないでしょうか。 そもそも、精神分析の治療の根幹は「問題の解決」ではなく「問題の原因の自覚」にあるのでしょう。繰り返しになりますが、これが何故「治療」につながるのかが判らないのです。 なお、精神分析療法はエセ科学として批判が厳しく、現在の日本の臨床では殆ど行われていないことは存じています。しかし、それはそれとして、「精神分析の立場からは」無意識の意識化が治療に結びつくメカニズムをどう仮定しているのか、ということを知りたいのです
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一素人ですが精神分析に興味を持っている者です。 まず、基本的には、『>本人を抑圧している「無意識」を「意識化させる」ことが治療方法』と捉えて良いのではないかと私も思っています。 ご質問は、「>問題の原因の自覚」がなぜ治療につながるのか、ということですね。 端的に言うと、「>今となってはどうしようもないこと」であっても、「納得する」ということが心の安定をもたらすからではないか、という気がします。 認知行動療法やゲシュタルト療法、あるいは森田療法など、過去は不問にして現在の問題に焦点を当て、そこを集中的に改善しようとする療法もあります。 どちらかというと今はこれらの方が主流と言えるのかもしれません。 また、それだけの価値は大いにありますし、私も共感するところは大です。 これらはすべて神経症の治療法なわけですが、神経症というのは、無意識に抑圧された記憶が歪んだ形で心身に影響を及ぼすことだと思います。 無意識に抑圧されるからには抑圧されるだけの(本人にとっては深刻な)理由があります。 抑圧というのは自我の防衛機制の典型ですが、たとえば、幼時に母親からの愛情を十分に受けられなかった男児が、成長した後も母親の愛情を求めたいという心理になるのは自然ですが、これは現実的には奨励されないことなのでその感情は抑圧されます。 抑圧された感情は、たとえば彼の恋人に対して向けられることも多いでしょう。 多かれ少なかれこういうことはありますが、過剰になり、母親役を要求されすぎた彼女が耐えられなくなるほどだとやはり困ります。 彼女に甘えすぎないでもっと大事にしなければいけない、という現実的思考によって脱することも可能でしょうが、彼女に母親を投影してるのだ、ということが納得できれば、甘えすぎないようするということは、母親と彼女の区別をはっきりつけることだ、ということに気づきます。 はっきり区別できないことが錯綜で、錯綜はコンプレックスとも訳されることがあり、ここからマザコンなる言葉も俗語として出てきたりします。 特に信奉者ではありませんが、フロイトの最大の功績は無意識の概念だと思います。 ある女性のヒステリー研究が発端となって精神分析は誕生したわけですが、この女性は父親の看病中にヒステリー症状を呈しました。 彼女の無意識には父親に対する愛情が抑圧されていることがわかったわけです。 この場合の抑圧された感情が性的なものであったため、フロイトはその後も不必要な局面でも性的抑圧に固執するようになり、顰蹙をかう原因になっていることは確かでしょう。 しかし、私に言わせればそれは些細なことです。 性的欲望と生的欲望を完全に区別することは難しいのであって、昨今のフロイト批判に対しては、険しい山を切り開いて作った先達の曲がりくねった道を見て、舗装道路のほうが歩きやすいと言っているかのような印象を受けます。 ただ、精神分析はフロイトの専売特許ではなく、様々に枝分かれしながら幅の広い解釈がなされるようになっています。 日本で似非と解釈されているすれば、それを使いこなせる専門家が育っていない、ということなのかもしれません。 精神分析療法が似非かどうかは素人なのでわかりませんが、その本質は、 (無意識に)隠れているからといって無いものとせず、それを白日の下にさらけだすことによって、自らの意志によって制御できる対象としてまな板に乗せることなのかな、というように捉えています。 精神分析によってこうした本質的原因を了解しつつ、認知行動療法などの現実的対症療法を組み合わせていくことが効果的なのではないか、などということは考えます。
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- hipotama
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素人で間違った解釈と笑われるかもしれませんが、経験則で書いてみたいと思います。夜中に原因不明の腹痛に襲われました。夜中に病院に行き、診てもらいました。病院を出出てピタッと腹痛が治ってしまいました。そんなことを繰り返していたときに、掛かり付けの医者に「精神的なことではないか。」と言われました。 思い返すと腹痛が起きるときは忙しいときやストレスがかかった時でした。それを精神科医から聞いた話を元に、脳生理学的に解釈すれば間脳か中脳に有るストレスを感じる部分と臓器を司る中枢は近くに有るそうです。ですから、ストレスがあるとそれが内臓に影響するそうです。「精神的では?」という一言で、理性的判断をする大脳皮質が働き痛くなりそうなときは、「無理をしない」「ビフィズス菌配合の整腸剤を飲む」という合理的判断をすると思います。 精神分析的に解釈すれば、ストレスが溜まっていることは無意識下にあり、ただの体の変調として「腹痛」という事態が起こっていると思います。そこに、「精神的では?」という言葉によってそれが意識化されると思います。その意識化されたことに対して対応するために超自我が大脳皮質と同じように働くと思います。 質問の中に意識化されても過去に遡れないと有りましたが、意識化しているのとそうでないでは大差が有ると思います。私自身にはトラウマが有ります。それは幼少時期の母子関係のトラウマで、ロールプレイングという心理療法の研修の中で気付きました。根本的問題である母との関係は心理的には改善されていません。しかし、そこから派生する問題に対しては意識化することにより合理的な解決方法は見つけることができます。 また、メランコリー状態の時に、自分の心の中を言語化しています。今自分が思っていることをありのまま言語化していくと、最後に「なあ~んだ、自分はこんなことで悩んでいるんだ。」と思いすっきりします。言語化も意識化の一つだと思います。 メランコリーの時は、鳴門海峡の渦の中の小舟のように堂々巡りをしています。その中で言語化することによって、整理され灯台のような目標物を見つけて脱出できるのだと思います。 独断と偏見で書いたのでおかしな所がたくさんあると思い、恥ずかしい気持ちでいっぱいです。ただ、何かのヒントになれば幸いです。
お礼
回答ありがとうございます。 実を言うと、精神分析学にはかなり批判的な考えをもっていました。しかし、そんな私でも脳生理学など、他の学問からのアプローチも加えて話していただくと「そういうことなんだ!」と理解できました。 No,3さんへのお礼にも書きましたが、実際に救われている人がいるのなら「科学的」であろうがそうでなかろうが構わないと思っています。精神分析的考えや、精神分析療法に救われている人も多いと知って、精神分析に対する私の考えがよい方に少し変わりました。
- harrywithers
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> 精神分析療法では、本人を抑圧している「無意識」を 「意識化させる」ことが治療方法であると理解しました。 心理療法では、主流の療法だと思います。 たとえばどのような機械でも、故障箇所を見つけることで、故障の原因と 修理の方法が顕かに成ります。人間の場合も、心の傷が単純で浅い場合には、 傷を(潜在意識から)顕在化させることで、自動的に治癒力が働くようです。 ※ある友人は、高所恐怖症だったのが、催眠療法で産婆さんが(赤ちゃんの)自分を 取り上げるときに過って、手を滑らせ床に落とされたのを思い出して、以来 高所に対する恐怖がなくなったそうです。 > 心の病の原因を、主に幼児期の親子関係に求めます。 > これは、「今となっては」どうしようもないことなのではないでしょうか。 これは違います、親子関係の中で幼児期(とは限らないが)に、 (親の言葉、態度、行動を)子どもなりに解釈した(大げさに言えば)世界観を問題にしているので、 同じ事実でも見方が変われば、感じ方が180度も違って来ます。 子どもの頃、私は交通量の多い大通りの向こう側に渡りたくて、何も考えずに道を渡りだしました。 反対側に着く寸前、走ってきた車に、危うく轢かれそうになり、道を渡ったところで、 親父に見つかり、走ってきた親父に、死ぬほどぶん殴られました、このことで、長い間 無意識の中で親父を恨んでいた自分が居ました、しかし、あるセッションでこのことを思い出し、 (その頃、あの時の親父と同じような年代でした)親父の側から、親父の気持ちを考えた時、 心配の余りに殴ったことに、気がつきました・・・こういったことを重ねて、 少年、青年時代に、疎ましく、嫌いだった今は亡い親父に、感謝が出来るのは 臨床心理を勉強したお陰だと、思っています。 > 精神分析療法はエセ科学として批判が厳しく、 どこで、エセ科学と批判されているのでしょう、その根拠(論文、URL)などを教えてください。 我が国の臨床で心理学が用いられないのは、主に以下の3点に原因があります。 1)医者に成るのに、心の勉強をしないので、医者が心の仕組みを知らないこと、 2)医療点数制度の為に薬を使わない療法は儲けに成らない・・・医者(病院経営)にとってウマミが無いこと、 3)身体に害があっても、自助努力無しに楽で即効性を求める患者と、薬以外の療法を知らない精神科医 まあ、厚生労働省が○○だから、製薬会社を太らせ、薬中患者を量産しているんです。
お礼
回答ありがとうございます。 実際に体験された方のお話ということで、とても参考になりました。 さて、精神分析学への批判についてですが、個人攻撃にはしたくないので、特定の方の主張を取り上げることは遠慮させてください。ただ、普通に「精神分析学」のキーワードで検索をかけても、感覚的に5件に1件ぐらいは批判的内容のような気がします。 よく言われているのは 1、反証可能性をもたないので科学ではない 2、「幼児期の経験」の過度の重視(人格を形成するのは幼児体験だけが原因ではない) 3、「記憶」は再現される際には必ず「再構築」が含まれるものである(思い出した「記憶」は必ずしも正確なものではない -認知心理学による研究) といったところでしょうか。 個人的には、少なくとも1については「実際に治療に効けば、別に「科学」じゃなくたっていいじゃん」と思います。
- hatenasate
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治療法は、疾病の状況に応じて取捨選択されるものですが、この疾病の状況という中には、病態そのものと患者の諸般の事情が含まれます。例えば体力のない人には実行しない方が安全という場合もあります。外科的なことでもすぐには手術をせず患者の体力が十分に回復してから行うのと同様です。 また、治療は誰でもができるのではありません。十分な環境施設が整い、医師やスタッフがその治療に熟達していないとできないことも多いです。 九大心療内科では、専門的な精神分析を用いた治療は行わず、認知行動療法・システムズアプローチ・作業療法などが行われることが多いそうで、精神分析の治療を当初より希望されて来院される方には、他の専門施設を紹介しているそうです。 患者が自己の思考・反応・行動の傾向についての理解を知的及び情緒的に深めることで、対人関係や事象に対して極端な傾向をもつ患者の自動反応機構を修正することを、患者一人でなくて、精神分析者や治療者と協力して実現しようとしているものが精神分析療法です。 患者が困っていることの原因を突き詰め理解することを求める療法です。忘れたり無視していた不安や嫌な思い出、失敗や恐怖の記憶に向かい合うとき、患者が激発し衝動的行動に走る危険や一時的に落ち込んでしまう(退行)危険を内包しています。 また、患者が治療者依存や、苦しさの嘆き場所・嘆き場所のようなことになってしまう場合も考えられます。 この患者の状態をしっかり把握しながらコントロールして進める療法なので、患者にも治療者にも多くの時間が係ります。治療者の知性・人間性・治療経験などはとても重要な要素になります。 きちんと治療できると、それまで患者を悩ませていた無意識の防衛反応・気分の変化・激情傾向などが減り、治まってきます。 これらの条件が整わないと、形だけ精神分析しても治療のよい効果は出ないでしょう。 社会保険診療でせいぜい20分~30分が患者の在室時間ではとても難しそうな気がします。
お礼
回答ありがとうございます。 なんでも本式の精神分析療法では週4~5回、一回につき40~50分のセッションだとか。勿論保険請求は無理ですし、専門でやっている民間のカウンセラーの所に通うとして、かなり安い料金を設定しても1回5000円、一ヶ月約8万円~10万円。…ちょっと現実的ではないですね。アメリカで精神分析療法が崩壊したのもこの辺が理由だとか。
お礼
回答ありがとうございます。 精神分析療法を肯定的に解説していただける方は貴重なのでありがたいです。さて「抑圧された欲求」というものは、多くは本人にとって耐え難い(無意識に忘れてしまうほどに)ものです。それを白日のもとにさらすのは、果たして本人にとってストレスの軽減になるのか…むしろ、より大きなストレスとなるのでは?という疑問があったのです。例えば事例の場合「そっか! 私は父に性的欲求をもっていたんだ! なぁんだ!」となるのでしょうか。むしろ「自分が父に性的欲求をもっていたなんて…」とショックをうけることの方が多いのではないでしょうか。 と、思っていたのですが、確かにこの自分の本質的な問題と向き合い、対決することは、本人にとって大きなストレスであると同時に、大きな成長のチャンスなのかもしれません。そしてまた、同じく事例のように、問題を正しく把握することで、自分の周りの現実的な問題に対処することもできるのでしょう。(母親にむけるべき感情を恋人に向けていることに気づけば、恋人への接し方をコントロールできる) 非常に参考になりました。