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大政奉還をした理由

子供に聞かれたのですが、わかりやすく簡潔に説明したいのですが、どなたか教えて下さい。歴史は全くの無知のためこまっています。宜しくお願いします

みんなの回答

回答No.6

近代国家は強力な統一国家でなくてはなりません。 英国、フランス、米国などです。 ドイツ地域は当時多数の小国から成っていました。 この内の強国「プロシャ」が中心になり統一 国家ドイツ(ドイツ帝国)を形成しました。 1871年のことです。 日本の場合、大大名徳川家が実質支配していましたが 本質は大名という小国から成る国でした。 これを近代国家に替えるため天皇を中心とした一つの 国家、日本帝国を作りました。 これが大政、すなわち政治を徳川家から天皇に奉還した 大政奉還です。1867年のことです。 天皇が江戸(東京)に移ったのは1869年(明治2年) でした。 (この間、新勢力と旧勢力の間で内戦が展開されました。  戊辰戦争と言います。  京都の鳥羽伏見での戦闘(1868年1月)から函館での  戦闘(1869年5月)です。)

armybarbie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。歴史の流れよくわかりました。勉強になりました。感謝いたします

noname#224207
noname#224207
回答No.5

大政奉還というのは、現在の内閣総辞職や政権与野党の交替とは本質的に意味が違いますので誤解なきように願います。 江戸幕府というのは中央政府ではなかったという点をご理解下さい。 江戸時代の藩幕体制では、各大名(藩)は独立国家でした。 大名毎に独自の法や制度を持っていました。 イメージとしては現在のEUとよく似た体制でした。 アメリカの合衆国政府とは違う体制でした。 中央政府はあくまでも京都朝廷でした。 征夷大将軍というのは朝廷の家臣です。 その大名の中で最大の規模を持っていたのが徳川家でした。 最大の軍事力と経済力を背景として、各大名を統率する責務を朝廷から委託されていました。 この各大名を統率することを大政と呼び、この統率する責務を朝廷に変換します、というのが大政奉還です。 徳川に代わって島津でも毛利でもどこへでも統率の責務を御下命下さいというのが大政奉還の趣旨です。 徳川家が一大名家となることで徳川家を延命させる手段として取られました。 (やれるものならやってみろ、という思いもあったかと思います) 討幕運動を黙認していた島津、毛利、山内などの大名自身は、自分が徳川に代わって全国を統率できるようになると期待していたようです。 蓋を開けてみたら自分も大名という地位から追放されていたということです。 大政奉還後も戦闘が続いたのは、徳川家を朝敵に仕立てあげることで遂行されました。 全国を統率する責務が有るか無いかということではありませんでした。 蛇足 関東地方は大名領と旗本領、幕府領が入り乱れていました。 幕府の役人は大名領には踏み込めませんので、犯罪者は簡単に逃げ隠れできました。 これを取り締まるために、各大名了解の基で設けられたのが通称八州様とか八州廻りと呼ばれる関東取締役出役です。 この出役でも水戸徳川家の領内には踏み込めませんでした。 時代劇などで、ヤクザ者が事件を起こすと旅に出るのは大名領に治外法権があったためです。 事件を起こした大名領から隣の大名領へ逃げ込めば捕縛される心配がありませんでした。 この手段はヤクザ者だけではなく農民も利用しました。 一揆で無駄な武力衝突を起こすよりも、逃散といって一ヶ村全員が耕地を放棄して隣の大名領に逃げ込みました。 逃げ込まれた大名は労働力が増えますので歓迎して開墾に従事させました。 領民を返せ返さないで大名同士が交渉していました。

armybarbie
質問者

お礼

とてもご丁寧な詳細なご説明ありがとうございます。私の質問に長文を書いていただくほどのお時間を割いていただき感謝いたします。とても勉強になりました

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11082/34532)
回答No.4

表向きの理由は、150年以上前に作られた徳川体制では19世紀の世界ではついていけなくなった、というものになります。徳川幕府というのは戦国時代の政治スタイルですからね。 徳川家が、一旦政権の座から降りてじゃあみんなで話し合う体制にしようよ、となったのです。とはいえ、徳川家は直轄領で確か300万石以上あったはずですし、尾張徳川家や紀州徳川家のような一族衆、また井伊家や本多家といったような代々の家臣もいるわけですから派閥としては圧倒的な立場にいられる「はず」です。いずれ巻き返すことは可能であるという読みはあったと思います。 ここまでが表向きの理由。 ここから子供にゃ理解できない大人の事情を説明します。 薩長、と名目上はなりますが、実質的に裏側で陰謀を巡らしていたのは主に西郷隆盛と岩倉具視です。彼らが狙っていたのは武力による討幕でした。巻き返しをさせないために直接物理的に徳川政権を潰してしまおうとしたのです。その最大のメリットは「直轄領300万石余が手に入る」ことです。物理的に倒してしまえば全部こっちのものだ。金のない天皇家と薩摩藩としては、徳川家の経済力は喉から手が出るほど欲しかったでしょう。 その陰謀を徳川慶喜は察知し、その逆転の一手が「大政奉還」だったのです。だって、政権が天皇家に戻されたら「開戦の口実」がなくなるからです。大政奉還で一番頭を抱えたのは西郷と岩倉だったでしょう。インネンをつける口実がなくなってしまったのです。 しかし、ここで岩倉具視の策謀家としての才覚が発揮されます。なんと岩倉はそれでも討幕の勅命、つまり天皇の命令をゲットしちゃったのです。命令が出たらこっちのものです。こちらは錦の御旗の皇軍、徳川家は逆賊です。天皇の命令なのですから、逆賊を討たないといけません。かくして戊辰戦争となりました。 岩倉具視の策謀家としての顛末はまた書くと長くなりますので、もし質問者さんが食いついたら。岩倉具視には、天皇暗殺の容疑がかかっているのです。

armybarbie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。とても興味深く読ませていただきました。とても勉強になりました。感謝いたします

  • show1968
  • ベストアンサー率32% (532/1616)
回答No.3

お子さんに聞かれて、大政奉還をやっているという事でしたらば、 六年生ぐらいですよね。 以下、去年ウチのムスメにした説明です。 まず、薩摩と長州が徳川政権を倒そうとした。 理由は外国がどんどんやってきて危機感を覚え、 意見を言ったけど聞いてもらえなかったから。 病弱だったりして、長く将軍をやっていられなかった将軍が続いて 徳川政権も不安定になって、続けられる人に 将軍をという事になって徳川慶喜が15代目がいいだろうと 家来たちも、徳川家の人たちも考えて決めた。 でも徳川慶喜は、政権返す事で戦争しなくて済むなら 政権返すと決めたと言われている。 勝海舟が出した「海防意見書」も強く働いたとも言われている。 ウチに「徳川慶喜家の子ども部屋」というエッセイがありまして、 晩年の徳川慶喜の事が書かれてるんですが、 戦争やらなさそうな平和な性格かあらわれてて、 それを読んでいるのでこんな解説に・・・ 著者は、徳川慶喜のお孫さんに当たります。

armybarbie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。非常にわかりやすい説明ですね。活用させていただきます。感謝いたします

回答No.2

明治維新あたりの動きというのは、分かりにくいですよね。以下の説明は、あまり正しくないかもしれませんが、簡単な理解には役立つかもしれません。 まず、黒船に代表されるように、西洋諸国からの脅威がありました。 これに対応するために、幕府体制のまま国を強くしていこうという穏健派(幕府側)と、外国人などぶっ殺してしまえという過激派(攘夷派)が出てきたのです。これも幕府は西洋諸国の戦力を知っていて、今戦っても負けると分かっていたというのもあります。 ところが過激派は勝手に外国船を攻撃したり、さらには(弱腰な)幕府を倒して新しい体制を作ろうなどと言い出したのです。 それで幕府側は、今は国内で大規模な内戦をして国力を弱めるよりも、過激派の話にのって新しい体制にして、新しい体制でも自分たちの支配権が及ぶようにすればよい、と考えたのです。それで大政奉還です。 ところが新しい体制では徳川家はハブられて薩長側が権力をにぎり、徳川家の時代は幕を閉じることになりました。 その後、長州が薩摩なども蹴落として権力を握ります。今の安部(首相)なども、この後継ですねw

armybarbie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。非常にわかりやすいご説明勉強になりました。感謝いたします。

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5119)
回答No.1

>大政奉還をした理由 幕末の大政奉還ですかね? というのは、実は鎌倉・室町時代にも大政奉還未遂があったので・・・。 >わかりやすく簡潔に説明したい。宜しくお願いします。 先ず、討幕派(徳川に代わって、政治権力を狙った雄藩)は「一度も政治経験が無い」ですよね。 次に、朝廷も「平の清盛以降、一切政治経験が無い」のです。 徳川幕府側としては、討幕派・朝廷に「政権を渡しても、結局は徳川中心の政治」になると考えたのです。 平成の世でも、自民創価学会連立政権から旧民主党政権になった時に「政治的な大混乱」が起きました。 沖縄県政府の米軍基地問題、尖閣諸島問題、反米親中政治・・・。 今に残っている問題は、全て旧民主党政権の置き土産です。 日本ハンナラ党と揶揄される(旧民主党)では、鳩山政権・菅政権は「100%大成功の政権だった」と自画自賛していますがね。 このポ〇コツ政権を評価しているのは、国内外で日教組・自治労と中国・南北朝鮮だけです。 政治思想・政策が一致していないのに、統一候補!と意味が分からない「政治は力だ!」を真剣に考えているところが素人の素人たる所以です。 幕末も、同じなのです。 長州と薩摩・土佐藩は、同じ船に乗っても方向性が異なっていました。 朝廷も、孝明天皇派と三条実美派で方向性が異なっていました。 ※三条実美は、孝明天皇から「逆賊として、追討令」が出ていました。 ※孝明天皇から逆賊・朝敵とされた者は、明治天皇から忠臣と名誉回復。 つまり、どちらも「烏合の衆」なんです。 思想・政策が一致していない(烏合)集団に政権を渡しても、政治は出来ませんよね。 「政権を渡しても、最期には徳川に助けを求めてくる」 ※孝明天皇は、徳川慶喜・松平容保・松平春嶽らを評価・信頼していました。 この考えで「一度、大政奉還してみるか」となった次第です。 まぁ、鳥羽伏見の戦いで「三条実美派の偽天皇旗(錦の御旗)事件」で幕府軍は敗退しましたがね。 孝明天皇の命で逆賊を討伐していると思っていたら、相手軍に(偽の)天皇旗が掲げられたのです。 ※三条実美派=長州軍。 この偽旗で、幕府軍は「突然、朝敵に立場が変身」して敗走。徳川幕府は、崩壊します。 幕府崩壊後、明治天皇から「大政奉還を評価する」との言葉を貰った慶喜は喜んだとの事です。 公爵にも、なりましたしね。^^; 余談ですが・・・。 慶喜の子孫は、カメラマンとして写真屋を営んでいます。

armybarbie
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。感謝いたします

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