大政委任論という理論があります。寛政の改革を主導した松平定信が唱えた理論で、幕府が行使している統治権は朝廷から委任されたものなのだとして正当化したものです。
また徳川家康は以下の遺言を残しています。
わが命旦夕に迫るといへども、将軍斯くおはしませば、天下のこと心安し、されども将軍の政道その理にかなわず億兆の民、艱難することあらんには、たれにても其の任に代らるべし、天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし
元和2年(1616)
要約すれば、徳川は政治を私物化するものではなく、朝廷から預かっているだけだということです。よく読めば、いずれ徳川は統治権を朝廷に返還する日が来るだろうと家康は覚悟していたとも解釈できるわけです。
徳川慶喜は第二次長州征伐の失敗で、幕府の限界を悟っていました。いよいよ幕府が預かっていた統治権を朝廷に返上する時期が迫っていると察していたのです。徳川慶喜は将軍就任を当初固辞し続けていたように好きで将軍になったわけでもない。その頃の幕府は開国・開港を迫る欧米列強と、攘夷を迫る朝廷の板ばさみでにっちもさっちもいかなくなっていた。開国と攘夷は二律背反です。両方を実現する手段などない。
徳川慶喜は現代政治家と違って権力欲に取り付かれていたのではない。どういった手続きで徳川幕府300年の歴史に幕を降ろせば徳川家康に合わせる顔ができるだろうかと腐心していただけです。
そこに土佐藩から大政奉還の建白書が提出された。よし機は熟した。そう慶喜は判断したわけです。