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官軍の東征3ルート
鳥羽・伏見の戦いの後、官軍は東海、東山、北陸の三つのルートで 江戸の徳川慶喜を討ちに行きますが、なぜ三つに分かれたのでしょう? 特に北陸は道も険しく距離も長いのに、このルートでいく必要があったのでしょうか? またこの時の主な指揮官(軍監)にはどのような人物がいてどんな活躍をしたのでしょうか? また笛や太鼓を鳴らしながら進軍したそうですが、どうしてでしょうか?今で言う軍歌のはしりみたいなものなのでしょうか? またそんな官軍の進軍を、各地の一般の人々はどの様に見て、どう思っていたのでしょうか? その他東征軍に関してご存知のことを教えてください
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基本的な考え方として、ある程度以上の群の規模になりますと、進行ルートは分散させるものです。承久の乱でも分散していましたし、関が原に向かう徳川のルートも東海道と中山道に分散していました。 ではなぜ分散させるかというと、まず街道閉鎖にでられて、渓谷などの要所を封鎖されると、大軍であっても進攻の役には立ちにくいです。どこか一箇所を破り敵の拠点に迫れば、残りの街道守備隊は自然に撤退します。 また、鉄道や自動車による捕球ができるようになるまで、軍隊の食料は現地調達が基本です。あまりに軍が大きすぎると現地の食料を食べつくして、軍が維持できません。 さらには、逆襲ルートをおさえて置く、進攻ルート上の勢力を制圧し、また味方につけ自軍勢力の拡大を図るという意味もあります。 まあこういった諸事情を考えて、基本どおりに攻めたといえます。 笛や太鼓は、自軍の威勢を知らしめることにより、その後の食料調達や占領政策を優位に進めるためではないでしょうか?
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