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会津と官軍
今だ会津地方には長州に対する敵対心があると聞きますが、薩摩や土佐に対してはどうでしょう? 薩摩には西南戦争があり、土佐は藩閥政府で主流になりえなかったので、長州に比べ、反感は小さいような話を聞きました。 また、旧官軍であった県全体に対しても、やはり今の若い世代の間では、そういう感情は薄くなって来ているでしょうか? ちなみに当方は土佐人です。
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戊辰戦争の時会津に侵攻したのは長州軍を主体とした官軍です。 これは蛤御門の変で長州勢を撃破したのが会津と薩摩の連合軍であったのでその仇討ちの意味もあり会津に対する敵意は並々でなかったからです。 この為会津にとっては長州は仇敵という敵対心がうまれてそれと敗戦後長州藩が主流を占めた明治新政府から過酷な取り扱いを続けて受けた事が重なり益々敵意が燃え上がりその残映が今に続いているのだと思います。 薩摩に対しても恨みがありますが、西南戦争の時、薩摩軍に対抗するため警視庁から抜刀隊として編成された巡査達の中に会津出身者が多くいて、この人達は戊申の仇をうつのだと、特に勇敢に戦ったので多少恨みを晴らしたのでしょう。 土佐は藩主山内容堂が幕府よりの行動をとっていたのと明治新政府では冷や飯組だったのが原因でしょう。 このような感情は時と共に薄れていくのは当然です。
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- fukudon
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あなたの問い掛けとずれた記載ですが一言。既述されている通り薩摩に対しては西南戦争で相当部分、意趣ははらされていると思います。戊辰の東北への侵攻に際しても薩摩には手加減する部分がありましたが、長州人は基本的に情が薄いのか高圧的・苛虐的でありすぎました。会津人が策を弄さぬ一途さで京都守護を果たしていただけに両藩の姿勢は際立ったと思います。 事は会津が落ちてからも続いており、斗南藩に移籍されてからの会津の人々の辛苦は凄まじく、時がたてば薄れるなどという度合いではありません。綴られた苦労の数々を目にすると涙が出ます。革命にけじめをつけるにしては酷いことをしたもので、人間の持つ冷酷さに暗澹としてしまいます。
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回答ありがとうございます。 会津の方が、今も維新の時代の遺恨の記憶を 持ち続けているのは、共感します。 日本中がどこも均質化し、地域色が薄れていく中で、 それは生きた史料のように思います。
- chi-sama
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こんばんは。 数年前、会津で上演された演劇で、子供が結婚したいと連れてきた相手が長州の人だったということで大騒動勃発・・・というものが話題になりました。 この演劇のように、今の若い人には怨恨等の感情は少なくなってきている反面、彼らの親の世代までは、未だに根強い思いがあるように思います。 若い人のなかにも、お父さんやおじいちゃんから「お父さんのひいじいさんは長州に殺された」などと聞いて育った人もいます。 まあそれでも結局は人によりけりなのでしょうが、自分的には会津武家屋敷に行ったりすると、考えちゃいますね。 答えになってなくてスイマセン。
お礼
回答ありがとうございます。 実は土佐でも長州人に対してはあまり いいイメージはないようです。 やはり土佐派が明治政府での中枢になれなかった ことや、自由民権運動が藩閥政府に弾圧された 記憶などあるからでしょうか。 一方、薩摩に対して親近感があるのは、 同じ南国というのもあるのかも。
お礼
回答ありがとうございます。 私は土佐人なので、土佐の側から幕末を 見ることが多かったのですが、いつか会津に 足を運んで、現地の人と話をしてみたいと 思います。 近々早乙女貢さんの「会津士魂」を 読んでみようと思います。