※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:昔夢会筆記について)
昔夢会筆記とは?徳川慶喜の後日談が記された歴史的資料について
このQ&Aのポイント
「昔夢会筆記」とは、歴史書や参考書、小説などで徳川慶喜の後日談が記されている資料の一つです。
この筆記には、鳥羽・伏見の戦いに関する記述が含まれており、討幕軍に「錦の御旗」が立てられたことにより、戦が断念されたという話もあります。
ただし、筆記の中には矛盾がある部分もあり、逃亡時の前後関係などについてもつじつまが合わないといわれています。
歴史書や、参考書、小説などを読んでいて、徳川慶喜の後日談が記されている「昔夢会筆記」というのがあることを知りました。
下記の二つの記述は、鳥羽・伏見の戦いに関する昔夢会筆記の記述だそうです。
(1) もし幕府と朝廷が衝突することがあれば、「我らはたとえ幕府にそむくとも、朝廷に向かいて弓引くことあるべからず」……討幕軍に「錦の御旗」がたてられたことにより、戦を断念せざるを得なかったということが言いたいのでしょうが、逃亡時の前後関係からもつじつまが合わないですよね。
(2) 「神保修理に逢いたり。その言うところは、事ここに至りては、もはやせんかたなし。速やかに御帰東ありて、おもむろに善後の計を運(めぐ)らさるべし、となり。永井玄蕃頭この議を然りとす」……「神保修理の進言によって、江戸に帰った。」ということを言っているようですが、神保修理は、その責任を一身に背負って拘禁され、自刃したそうです。28歳だったそうです。まさに、「死人に口なし」というところでしょうか。
「二心殿」、「豚一公」の他に「言い訳将軍」というあだ名もあげたいくらいですが、そんなことはさておき、私の「徳川慶喜」に対する評価はかたまっていますので、今更「昔夢会筆記」を入手して読もうという気持ちはありませんが、もし、読まれた方がおられれば、歴史的資料としての価値、あるいは読後の印象、記憶に残った言葉など、どんなことでもかまいません。「昔夢会筆記」について教えていただければありがたいです。
お礼
ご丁寧な回答、ありがとうございました。 「慶喜公は、水戸出身ですが、……言い聞かせておられたそうです。」というのは、私の記述の(1)のことだと思いますが、私は、そのことを否定できるほど歴史通ではありません。 しかし、水戸家の「尊皇思想」と、「固執せずあっさり大政奉還」や「鳥羽・伏見の戦い前後の慶喜の行動」とが、矛盾なく結び付くでしょうか?「情勢の読み違え」があったとしても、しっくりこないですよね。 「西郷、大久保が、散々に戦い潰した 徳川慶喜、会津の松平容保の……泉下の西郷、大久保はどう思ったのでしょうかね?苦笑い?」……西郷隆盛や大久保利通を勝者、徳川慶喜や松平容保を敗者とみると、このような表現になるのかも知れませんが、最近、私は「幕末・維新の本当の勝者は誰だろう」という疑問を抱くようになっています。 江藤新平は、大久保利通に斬首され、西郷隆盛は西南戦争で自刃しておりますし、ほどなく、大久保利通も暗殺されています。伊藤博文も多少事情は異なるにしても、暗殺されました。 それに比べて、徳川慶喜は、明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員となり、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、大正2年まで生きています。 松平容保も朝敵にされたとはいいながら、会津藩士と庶民の犠牲の下に、結局は、明治13年には日光東照宮の宮司となり、正三位まで叙任し、明治26年まで生きています。