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パウロ様を淫乱者のように言うのは許せません
こんにちは。 質問と回答を読ませていただいていましたら、パウロ様を淫乱者 のように書いている回答がありました。 聖パウロ様をそのように言うのはどのような根拠があってのこと でしょうか。聖パウロ様は私たちキリスト教をよく知る者たちに とって恩人でありこの肉による世界から霊による世界へと導いて くださる尊い使徒です。その方を淫乱者のように言うのは絶対に 許せません。 どのような根拠によってそのような冒涜をパウロ様に加えようと するのか教えていただければさいわいです。 どうぞ偽物の生き方ではなく本物の生き方へと戻っていきます ように。そしてみなさまが神の赦しによって成長しますよう平安 が訪れ尊い忍耐に満ち溢れますますように。
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> どうぞ偽物の生き方ではなく本物の生き方へと戻っていきます ように。そしてみなさまが神の赦しによって成長しますよう平安 が訪れ尊い忍耐に満ち溢れますますように。< 本物の生き方 成長 平安 忍耐、、、、 愚か者に成ることのすばらしさを見事に掌握しているじゃないか。 他者の言動をきょろきょろ見回して難癖つけたり祈ってみせたりせずに、 自らの内省の声と対話できれば、いうことなしだ。
- katyan1234
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何を信じ何に目を向けているのかな? あなたが一番よく知っているのでしょう。 怒る必要もない、なぜ理解しながら まったく関係ない人の話を鵜呑みしているの? アダムとエバと同じだよ あの蛇が言いました・・・ まったく同じです。 ちょっときつめですが・・・ 怒りは神に任せればいい。
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
回答者同士の論争は控えるようにと言われてますがね、 No.11の「人のことを愚かだという人へ」というのは私のことですかね。 もしそうであれば、そうですね、取り下げます。 もとはと言えば、No.2の補足に「愚か者の哲学」という指摘をされたことに対する返しのようなものだったんですがね。 質問者が私に対して言う「愚か」と私が質問者に対して言う「愚か」は全く質を異にするものであることに気づきましたので、返しとしてこの表現を用いることは不適当だと感じました。 もちろん、私が使った「愚か」という表現に侮蔑の意味はありません。何も考えていないという愚かさとは違って、実際はわかっていないかもしれないのにもかかわらず「自分はわかっている」と思うような自惚れ(慢心)のことを指して「愚か」と用いたのですが、表現に誤解があると思うので取り下げることにします。 どうも皆様私に「平和主義」だの「平和の神を信じている」などと思われているように感じられて、心外に思っています。 平和のためにゆるせとは私は一言も言っていませんからね。 まるで私が「平和教信者」であるかのようにレッテル貼りをされているけれども、私は全然そんなものではありません。 それどころか、神に「平和の」というレッテルを貼るのは間違っていると思うくらいです。 神は平和の神であると同じくらいに不和の神であるでしょうから。 実際のところ、私はカトリックとは思われないほどリベラルな思想の持ち主です。 なお、もし私のことを指しているわけではなく、単に私の自意識過剰であればすみません。 私も「愚か者の哲学でなぜいけない」と返すべきところでした。
- siyahqalam
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おせっかいかも知れませんが、 ここはもう締め切ってはいかがですか。 件の回答ですが、 どうやらパウロではなくアウグスティヌスを 淫乱者と言いたかったようですね。 パウロとアウグスティヌスの区別すらつかず、 クリスチャンに喧嘩を売るのを趣味として人を 平気で傷つけるような荒らし屋さんとは、今後 は一切関わらないようにするのが賢明ですよ。 パウロもアウグスティヌスも人間ですから、 人から非難される所がないとは言えません。 彼らが立派なのは、その欠点を自覚していた からです。私達は皆、神の前では出来損ない です。欠点を愛で補われて初めて、完成品に なるのです。2人はその事実を知って喜んで 神に自身を捧げました。だから尊いのです。 ですから、 「許せない」というのはもうやめましょう。 お怒りはごもっともですが、あなたが怒るのは正しいことですか。 イエス様は十字架にかけられる際、 「彼らは自分が何をしているか分からないのです」と言って、 とりなしの祈りを捧げました。 冒涜する人は、まだ愛を知らない、哀れな人です。 あなたはもうそれをご存知のはず。 怒りが抑えられない時は、祈りましょう。 賛美歌を歌うのもいいと思います。心が落ち着きます。 最後に、人のことを愚かだという人へ。 どうしてそんな言い方をするんですか。 平和の神に恥じることはありませんか。
No.3&8です。 それくらい 惚れ込む時期があっても いいのではないですか。 われわれは 欠陥を憎み人を愛するのであって 欠陥ゆえに人を憎んではならず 人ゆえに欠陥を愛してはならないと言います。 性に溺れたアウグスティヌスは それでも 《閨の信実をつくした》と 自己申告ですが 語っています。裏切らなかったという意味です。 では 相手を裏切ったことがあると もうその人は更生できないかというと そうではないでしょう。過去が 人生全体を左右すると言うのは よほど悪いことをしたか もしくは そのように言う人のほうが よほど心根の悪い人だということでしょう。 そういう問題がありますので 要は 何ごとも 話し合いが 一番に来ます。応じないという人は また 放っておくしかありません。 女を男より劣った性質として見ているのは 人間として絶対的な男女平等のもとに 属性のごときものとして 女は 時間的なものごとについて 特に(つまり男より)よく管理する理性をすぐれて持っているという意味に解します。 わるい事例としては 上のように 裏切ったことに対して その時間・その現在としての時間に密着して 事に当たり考えをめぐらすという場合も入るでしょう。一生を見て判断するという別の見方も 大事でしょう。 権力には従えと言うとき たしかに従順をおしえていますが これによって その権力が腐敗したときには むしろさらに従順であるがゆえに 改革をおこなっていくことが出来るという一面もあります。 ヤコブを殺そうとしたという事件は 残念ながら 知りません。出典を明らかにして おしえてください。 祈りとは 預言を解釈することですよ。哲学に耐える言論を心がけましょう。
No.3です。 宗教は 教義による制約があるので それとの兼ね合いを このQ&Aで図るのは むつかしいかも知れません。 個人の信仰にかんしては どのような《信じる》の類型もしくは構造になっているかなどを明らかにしていくのは 哲学です。哲学の経験思考によっては 信仰について分かり得ない部分があるというのは 哲学の成果でもあります。 さて モーセの律法と信仰のかんけいです。 けれども 貪るなかれという律法は 信仰があれば その力によって むさぼることはないであろうという意味です。常識ですね。 このように モーセの律法を守るというときには じつは アブラハムの信仰が 大前提です。後者を具体的に表現したのが 前者です。 ちょっと長いですが パウロは書いています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者(* 《異邦人》をも含む の意味があります)も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。 「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」(創世記17:5)と書いてあるとおりです。 (パウロ:ローマ書4:13-17) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ユダヤ人たちは イエスに尋ねます。 ――・・・わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。 彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自 分を何者だと思っているのか。 (ヨハネ福音8:53) 途中からですが このイエスとの対話がつづきます。 ――あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにして いた。そして、それを見て、喜んだのである。 ――あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか。 ――はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、《わたしはある》。 (ヨハネ福音8:53-56) アブラハムの信仰とモーセの信仰とパウロの信仰とは イエス・キリストの神のもとに 一致して 歴史をつらぬいていると思います。集団の宗教は 別です。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
あのぉ・・・ ここって哲学カテですよね。 宗教も思想という観点で捉え、それでよく宗教のこともここで質問されているので、「カテ違いです」とならないわけですよね。 まず、 異邦人とは誰のことか。 イエスはユダヤ教徒でしたよね。 そのユダヤ教徒にとって異邦人とは誰のことか。 イエスは「私につながれていなさい」と言いましたよね。 それはどういう意味か。 律法により裁き、律法より赦される とは どういう意味か。 思い煩わされるな とイエスがいくら言ったところで不信仰な信者は、どうして思い煩わされる。 そして、怒りっぽくなり、本性を暴かれる。 イエスに従う羊ではなく、パウロ様に従う羊さまであらせられるぞ 頭が高い ひかえおろーー ときたもんだ。 私思うんですね、キリスト教という名自体が曖昧すぎると思うんです。 イエスに従うものと、それ以外を主人として従うものとかいるので、ご主人様の名前を自分の信仰する宗教の名前としないと、誰もがキリスト教徒教は、てっきりイエスに従うものだと勘違いすると思うんです。 そしてイエスの言った言葉と逆のことを何度も信者がやり、「はて? 彼らは誰に従うものなのだろうか? 口で言うことと実際にやることが逆って、こりゃ 信仰していないってことじゃん」と思われちゃうと思うんですよね。 で、パウロはイエスの教えをゆがめるもの とか言われた文章で残っています。 自分の教えをイエスの教えだと嘘言って、布教活動していたってことですよね。 例のパウロ文書など、もうイエスの思想を自分の思想に塗り変えたという証拠。 そして信者は福音書を読まず、パウロ文章のみを読む。 で、あなたは怒りっぽくて、結局イエスの教えを否定したパウロをご主人様と支持したわけですから、パウロ教の信者ってことですよね。 お願いがあるんです、これから「私はイエスの思想をつぶして自分の思想を宗教にしたパウロ教の信者です」と言っていただけませんか? 私達キリスト教 というのは やめていただきたい。 誤解をまねき、イエスに従うもの名を汚すから。 パウロ教の布教活動のためにイエスが必要ですか? 必要ないですよね? はっきりと 「パウロのようにトップになり人を支配したかったら、是非私達パウロ教にいらっしゃい。パウロ様はそんなあなたを天国にいざなってくださいます。」と布教したらどうでしょう? 文章を見ていてある人を思い出しました。 テレビでとても印象的な行動を取っているある宗教の信者さん。 名前を石井久子といいます。 http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1733/aum-2/ishii.html 彼女の場合、やっと目からうろこが落ちて現実が見えるようになったようですが、あなたの場合、まだ うろこは落ちておらず、「パウロ パウロ パウロ~ あさはらパウロ~ パウロ様の子供はらんで、子供は私の体内ですくすくとパウロ様2世が育っています。 ああ なんて幸せ ごらーー 足をふむなーー うりゃーーー 暴力反対~ とりゃーーーー」ってやっているパウロ教信者を見て、私は 哀れみを感じずにはいられません。 ヘブル人への手紙って、それパウロであってイエスじゃないじゃん なぜイエスの言葉に従わず、パウロの思想に従うのか。 もう一度誰を主人としているか考え、私達パウロ教は と言いなおしていただくと、あなたの思想がとてわかりやすいんですが。
素晴らしいですね!? でも自分は↓の人の意見に全く同意ですけどね。 >残念ながらあなたはもっと愚かなようだ。 これは喧嘩をふっかけたいというわけではありません。 そもそもこのサイトの趣旨は質問と回答のためのものであり、それを逸脱して掲示板のように書き込みをされている時点で、 ネチケットを守れない愚か者です。 自分の主義主張のためにこのサイトを利用するのはやめて頂きたいです どういう考えは知らないけど、自身は母(母体)の子、父と母の子。いつなんどきもこれは不変だろ? イスラエルにでも行かれたらどうですか?
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
補足を拝見しました。 残念ながらあなたはもっと愚かなようだ。 これは喧嘩をふっかけたいというわけではありません。 そもそもこのサイトの趣旨は質問と回答のためのものであり、それを逸脱して掲示板のように書き込みをされている時点で、ネチケットを守れない愚か者です。 自分の主義主張のためにこのサイトを利用するのはやめて頂きたいです。 異邦人のように扱え? それのどこが厳しいのですか。異邦人=敵であり、それは排除すべきだという古い考え方をされておいでですか? 「どうしようもない」ものに対しては寛容になるしかないのです。 イエスの時代、異邦人はどのように扱われていたでしょうかね。 コミュニティに入れず、村八分(村十分)状態だったのではないですか。 ならばこの「異邦人のように扱え」とは、攻撃せよ、徹底的に戦え、ということではなく、無視せよ、放置せよ、その存在を諦めろ、とする私の解釈もありなのではないですか。 さらにそんな異邦人をも隣人の範疇に引っ括めてしまうイエス、敵をも愛せよと説くイエスの教えの凄さはあなたにはまったく響かないのですか。いや、ここまで言うのはお節介かもしれませんが。 あなたは「絶対に許さない」としてももしパウロ本人がかの回答者を許したとしたら、どうしますか? ひとりだけ断固として許さないでいるあなたが非常に愚かに見えます。 何が正しくて何が正しくないのかは、あなたが決めることではないのではありませんか。それは神が決めるというのがキリスト教の趣旨ではないですか? あなたは平然と人を裁いておられますが、毒麦と間違えてよい麦を引き抜く可能性については全く無頓着なようです。 あなたのしていることは、キリスト教が過去に行った異端迫害や宗教裁判などの愚行を思わせます。 他人のおがくずを取る前に自分の丸太を省みる方が先ではないでしょうか。 もしあなたが自分こそが本物の生き方をしていると考え、他人はみな偽物の生き方をしているとお考えなら、その正義はうすら寒く、何より盲目であり、愚かなものです。 なお、聖書には「無条件的ゆるし」と「条件つきゆるし」のダブルスタンダードがあることは認めますが、自分の都合に合わせて「これは許す/これは許さない」ではなく、一切を神に委ねて自分は<許すも許さないもない>という状態におくことはできませんか。 聖人崇拝のあまり目がくらんで盲目にならないことをおすすめします。
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